第4章:12 『とある少女の救い』
先週更新できずに申し訳ありません!
それと、重ねてすみません、今回ちょっと短いです。
――一人の女児が泣いていた。
壁に背を預け、蹲りながら、顔を覆ってすすり泣く。
そんな女児の周りには、同年代の子ども達が何人も倒れていた。
この光景を作り出したのは、当然ながら女児ではない。
発端となったのは、女児が大切にしていたぬいぐるみを、一人の男児が面白半分に取り上げた事だった。
必死に、男児からぬいぐるみを取り返そうとする女児。
そこへ、男児の友人らしき者らが数人集まってきて、女児を取り囲んだ。
行われたのは、女児の周りでの、ぬいぐるみの投げ渡し合いだった。
届かぬ高さを行き来するぬいぐるみに、とうとう女児はその場に蹲り、泣き出した。
そこへ駆け付けたのが、女児の兄だった。
兄は女児を取り囲む男児の一人に殴り掛かり、殴り返され、起き上がると、吠えた。吠え狂った。
獣のように理性を飛ばし、加減を忘れ、男児を殴り、殴り、殴り続けた。
やがて、その男児がぐったりして動かなくなると、標的は次の男児へ。
一人、また一人と、女児を苛めた者らが倒れていく。
そして、最後の一人が倒れて動かなくなると、兄は――それでも止まらなかった。
次に標的にされたのは、先の虐めを傍観していた他の子ども達だった。
逃げ惑い、許しを請う子ども達を追い回し、一人捕まえるごとに過剰な暴力を振るう。
女児は駆け出し、悪鬼の如く暴れる兄の腰に縋り付いた。
そして、やめて、と願うように声を上げる。
――返答は、殴打だった。
頬を殴られた女児は吹き飛び、壁に叩き付けられる。
それを最後まで見届けず、兄は怯える子ども達へと向き直った。
すると、誰かが呼んできたのか、数人の大人が駆け付けてきた。
取り押さえられ、動きを封じられて、しかし兄は、尚も足掻くように暴れ続けた。
――否、もう自分でも止められないのだ。
その意識は、際限なく湧き上がり続ける激情でドス黒く染まり、肉体は暴走する心の操り人形と化す。
誰の声も届かない。たとえそれが、家族の声であっても。
やがて兄は、自身を押さえ付ける大人、その一人の手に噛み付いた。
悲鳴が上がり、動揺が生まれ、拘束が一瞬だけ緩む。
兄はその隙に拘束から抜け出すと、そのまま手から血を流す大人に襲い掛かる。
「もう、やめてぇ……っ」
眼前に展開される阿鼻叫喚を前に、女児は嗚咽に震える悲痛な声を上げた。
しかし、女児の懇願は遠く、激情の虜となった兄には決して届かない。
――やがて女児は耳を塞ぐと、兄が暴れ疲れて気を失うまで、ひたすら泣き続けた。
――――――――――――――――――――
「……ぅ」
最初に感じたのは、圧し掛かるような重圧だった。
腹の上、そこに何かが乗っていると認識するのに、そんなに時間は掛からなかった。
シンゴは瞼を持ち上げる前に、視界以外の五感で得られる情報を先に精査する事にした。
まず、今の自分の体勢。仰向けの状態で、横になっている。
横たえられているのは、おそらくベッドの上だろう。首下から足先にまでかけて、掛布団の温もりを感じる。
そして次に、瞼を通して得られる光。これは部屋が暗いのか、あまり明るさを感じない。いや、違う。顔の上を、何かが覆い隠しているのだ。
その何かの正体は、うっすらとだがもう分かっている。意識が覚醒してからずっと、顔に吐息のようなものを感じるのだ。
――何者かが、キサラギ・シンゴを間近で見下ろしていた。
先ほどから感じる腹の上の重みは、シンゴを至近距離で凝視するこの何者かのもので間違いないだろう。
問題は、誰が、何の為に、そんな事をしているかだ。
目覚める前の記憶が曖昧だ。少し記憶を探れば簡単に思い出せるだろうが、この状況で記憶漁りに割く余裕など当然ない。
かといって、上に乗る人物が何かをしてくる気配もない。意外と小柄なのか、重さで苦しいという事もさほどない。
「…………」
このまま停滞していても仕方がない。そう考え、シンゴは意を決し、瞼をゆっくりと持ち上げた。
最初に飛び込んで来たのは、白い何か。それが髪なのだと理解すると同時に、血のように真っ赤な瞳と目が合った。
近すぎて顔全体は把握できないが、それでも白髪に真紅の瞳を持つ人物など、シンゴは一人しか心当たりがない。
「……アリス?」
その名を口にして、シンゴが瞬きをすると、真紅の瞳も同じように瞬いた。
「――我、アリス、違う」
「――!?」
その声は、その口調は、シンゴの知るアリスのものではなかった。
完全に目を開け、驚愕に息を詰めるシンゴだったが、上に乗る謎の人物は「?」と小首を傾げるだけだ。
首を傾げたいのはむしろこちらの方なのだが、それを口にする勇気もなく、シンゴはただただ謎の人物と至近距離で見つめ合う。
「――ぁ」
不意に呟くようにして、誰かの小さな声が漏れた。
その声に、聞き違えるはずのないその声に、シンゴは目を大きく見開く。そして、謎の人物に向けていた視線を、ゆっくりとその声の主へと向けた。
「――――」
ベッドのすぐ脇にある椅子に腰掛けながら、少女は呆然と目を丸くしていた。
身に纏うのは白いドレスで、いつもは後ろで纏めている黒髪を下ろしてはいるが、キサラギ・シンゴが見間違えるなど決してありえない。
一体、どれほどの年月を共に過ごしてきたと思っている。この世のどこを探しても、シンゴよりこの少女と長く時を共有した者など、一人としていないだろう。
「ぉ……にぃ、ちゃん」
掠れる声で、途切れる言葉で、少女はシンゴの事をそう呼んだ。
その呼称は、目には見えない絆の証。シンゴと少女の関係性を示す、ずっと聞きたかった言葉。
「ぃ、ち……ご?」
込み上げる熱い衝動で喉が塞がれ、たった三文字を絞り出すのに多大な労力を要した。
身体が熱く、脈打つ心臓が痛い。肺は呼吸を忘れ、脳は思考を完全に放棄する。
不意に腹の奥底から湧き上がってきたのは、温かくて、優しくて、狂おしいほどに愛しい何かで。
その魂を焦がすような感情は、キサラギ・シンゴという器を瞬く間に満たしていき――、
「イチゴぉ――ッ!!」
「お兄ちゃん――ッ!!」
上に乗っていた謎の人物をはねのけ、シンゴはベッドから勢いよく飛び降りると、こちらに手を伸ばす最愛の妹を思い切り抱きしめた。
背中に強く腕を回し、強く回し返され、腕の中にある温もりが夢幻などではないと実感した瞬間、込み上げてきた熱い涙が頬を伝った。
「ふっ……あぁ……っ」
涙が次から次へと溢れてきて、喉が痙攣して上手く言葉を紡ぐ事が出来ない。
でもきっと、今は言葉なんてものは必要ないのだろう。言葉で伝えなくても、こうして互いの存在を感じ合うだけで、たったそれだけでいいのだ。
「――っ」
強く、強く、もう決して二度と放すまいと、抱きしめる腕に力を込めた。
シンゴの胸に顔を埋め、くぐもった嗚咽を漏らすイチゴ。シンゴはその頭を優しく、愛おしげに撫でると、泣き声が一際大きくなった。
「……ああ」
――一体、この瞬間をどれほど待ち焦がれた事か。
振り返ればもう、途方もない距離を走ってきた気がする。
見知らぬ世界に降り立ち、早々に命を散らし、死という平等を不平等にする力を一人の少女に貰い、その後も死を積み続け、仲間に助けられながら、ここまで来た。
険しい道のりだった。もしも、最愛の妹を探すという目的がなければ、きっと最初の死で挫けていただろう。
それでも諦めず、投げ出さず、逃げ出さなかったのは、全てこの瞬間の為だ。
もう一度その声を、もう一度その笑顔を、もう一度その温もりを。ただそれだけを夢想し、望み、折れそうになる心の支えにして、歯を食い縛って頑張ってきた。
――その全てが、今この瞬間に報われた。
「ずっと……ずっと、会いたかったぁ……!」
「ああ……俺もだ。ずっと探してた。嘘じゃない。この世界に来てから、お前の事を思わなかった日なんて、一度もない」
「私も……毎日、お兄ちゃんを……おにいちゃぁん……っ」
「いいって、喋んな。……今は、黙って泣いてろ」
「う、ん……っ」
こくりと頷く気配の後、再び上がり始める泣き声を聞きながら、シンゴの胸は懐かしい感慨に満たされていた。
昔はよく泣きじゃくるイチゴをこうして抱きしめ、泣きやむまでずっと頭を撫でて慰めたものだ。
転んでは泣き、犬に吠えられては泣き、どうして泣いているのか分からない時もあり、とにかくイチゴはよく泣いた。
今でこそあまり泣く事はなくなったが、それでもやっぱり――、
「全然、変わんねえな……」
「もう、子どもじゃ……ないもん」
ふとこぼしたシンゴの呟きをどう捉えたのか、イチゴがそんな風に反論してきた。
その反論にシンゴは目を丸くし、やがて苦笑すると、イチゴの肩にそっと手を置いて身体を離した。
「ぁ……」
どこか不安げな声を漏らすイチゴに、またしても苦笑が漏れる。
するとイチゴは、恥ずかしそうに染めた頬を膨らませ、無言の抗議。
リンゴのようなふくれっ面――その額に、シンゴは自分の額をこつんと押し当て、
「バカ、そういう意味じゃねえよ。お前はいつまで経っても手のかかる、本当に手のかかる……世界一可愛い俺の妹だって意味だよ」
そう言って、シンゴはからかうように笑いかけた。
それを受け、イチゴは目をまん丸に見開くと、やがて唇を尖らせて小声で「ばか」と呟いた。そして次には、「でも、うん」と、涙を袖で拭いながらシンゴと同じ笑みを浮かべ返してきて、
「キサラギ・イチゴは、キサラギ・シンゴの妹で、本当に良かったって思う」
「――っ」
まさかの仕返しに面食らい、シンゴは思わず息を詰まらせる。
そんなシンゴの反応に、イチゴはしたり顔になり、
「お兄ちゃん……もしかして、照れてる?」
「……うっせ、バカ」
そっぽを向き、図星を突かれた動揺を誤魔化したシンゴに、イチゴは「む」と眉を寄せ、
「バカのお兄ちゃんにバカって言われた! 私、お兄ちゃんより賢いもん!」
至近距離にて大声で怒鳴られ、シンゴは思わず耳を手で塞ぐ。そして、「あー」と声を出して聞こえないフリ。
するとイチゴは、泣き腫らして赤くなっている目元を吊り上げて、
「お兄ちゃんのバカ! アホ! あと、えっと……バカ!」
「そこまでバカ連呼すんじゃねえよ!?」
イチゴのその雑な罵倒を受け、シンゴは思わず目を剥いて声を荒げる。しかし、イチゴは腕を組んで「へー」と半眼になり、
「最後に受けたテスト……最高点数は?」
「……科学、十五点」
「私、九十八点」
ふふん、とドヤ顔で勝ち誇るイチゴに対し、ぐぬぬ、と悔しげに奥歯を噛み締めるシンゴだったが、ふと思い付いたように眉を上げた。
「……なあ、なんでテストの点数の話になってんだ?」
「え? ……あれ?」
シンゴの素朴な疑問を受け、イチゴはきょとんとした顔になり、そして一瞬の間を置いてから不思議そうに首を傾げた。
互いに話の脱線を自覚した二人は、顔を見合わせてしばし沈黙。ほどなくして、どちらからともなく吹き出した。
「もう……なんか、色々台無しだよ」
ひとしきり笑い合い、やがてその衝動が収まると、イチゴは笑い過ぎて目元に浮かんだ涙を指先で拭い、嘆息と共に苦笑した。
対し、こちらもようやく笑いが収まったシンゴは、イチゴの言葉に肩を竦めると、
「そりゃこっちのセリフだって。感動のワンシーンのはずが、なんでテストの点数を競い合う展開になってんだよ」
「あー……さあ?」
「おいこら、目を逸らすな、目を!」
泳がせた目を最終的に逸らしたイチゴに、シンゴのツッコミが入った――その直後だった。
突如、ノックも無しに部屋の扉が勢いよく開け放たれた。ぎょっとして振り向くと、そこには見覚えのある二人の少女が立っていた。
その瓜二つの顔ぶれに目を見開いていると、二人もシンゴの存在に気付いたらしく、こちらに無邪気な笑みと無表情を向けてきて、
「よかった、起きたんだ! てっきり、本当に死んじゃったかと思ったよー」
「まさか、イチゴさんのお兄さんだったとは、本当に驚きました」
「お前、らは……!」
突然の来訪者の正体は、双子の吸血鬼――ラミアとレミアだった。
そしてこの二人との再会により、シンゴは気を失っていた理由を鮮明に思い出し、同時に込み上げてきた怒りに顔を歪ませた。
すると、そんなシンゴに対し、姉であるラミアは悪戯を咎められた子供のように唇を尖らせて、
「そんな怖い顔しなくてもいいじゃーん。もとはと言えば、ちゃんと自己紹介もしなかったそっちが悪いんだしー」
「そうです。ラミアお姉さまは何も悪くありません。全ては、お兄さんが説明の義務を怠った事が悪いんです」
「そんな暇もなく襲ってきたのは、そっちだろうが……!」
鋭く睨み返しながら反論するシンゴだったが、ラミアはわざとらしく肩を竦め、
「えー、そうだっけ? ラミア、あんま覚えてなーい」
「大丈夫です、ラミアお姉さま。レミアはしっかり覚えています。お姉さまとレミアの取った行動は最善でした。レミア達には何の非もありませんよ」
「あ、だよね!」
「――ッ」
全く悪びれる様子のない二人に、噴き上がる怒りで視界が真っ赤に染まった。
同時に胸の奥で、ドス黒い何かが熱く脈打ち始める。この感覚は、『激情』発動の前触れだ。
この二人には、『激情』を発動させた状態で完敗している。しかし素の状態でいるよりかは、ある程度の気休めにはなるはずだ。
そう考え、シンゴはその脈動に意識を集中し、『激情』発動の準備を始める。
すると、その気配でも感じ取ったのか、ラミアとレミアが同時に目を細め――、
「――どうやらお兄さんは、ラミア達と遊び足りないみたいだねー」
「とても愚かな選択です。無謀の一言ですね」
「え、お兄ちゃん……? ラミア、レミア、何する気!?」
シンゴと双子の吸血鬼の間に険悪なムードが漂い始めたのを察知したらしく、イチゴがシンゴの袖を心配そうな顔で引っ張り、眼前の二人にも声を向ける。
しかしその言葉に返答はなく、シンゴは眼前の二人から視線を外さないまま、イチゴを己の後ろに下がらせようとして――、
「――何事ですか?」
一触即発――その空気を打ち砕いたのは、不意にラミアとレミアの後ろから発せられた男の声だった。
驚いて振り返るラミアとレミアに続き、シンゴも見開いた目を二人の背後に向けた。そこにいたのは、柔和そうな顔立ちをした、頭髪と顎鬚に白髪が混じる初老の執事だった。
「ガルベルトさん……!」
イチゴがどこか安堵した声で、その執事――ガルベルトの名を呼んだ。
それを受け、ガルベルトは部屋にいる四人を見渡し、「なるほど」と納得の声と共に深々と嘆息。そして、その優しげな顔に困ったように皺を増やしつつ、ラミアとレミアを見た。
「ラミア、レミア……またですか?」
「「…………」」
「――?」
ガルベルトを見る二人の雰囲気が先刻とは違っており、シンゴは静かに眉を寄せた。
ラミアは完全に表情を消し、レミアはその無表情を嫌悪に歪めており、二人の身体からは思わず身震いしてしまいそうなほどの濃密な鬼気が漏れ出している。
そんな二人の態度に、ガルベルトは思わしげに目を――真紅の瞳を細めて、
「退出しなさい。この場では、それが最優先事項です」
「……だってさ、レミア」
「はい、お姉さま。……行きましょう」
そう言うと、ラミアとレミアはこちらに一瞥もくれる事無く、部屋から出て行った。
その二つの背中を見送りながら、しかしシンゴの警戒はまだ解けない。次にその警戒が向けられているのは、眼前で静かに瞑目する吸血鬼の執事だ。
何やら仲が悪いみたいだが、あの双子がこうもあっさり引き下がるのを見た後では、むしろ警戒の度合いは引き上げられる。
「――そんなに警戒しなくとも、何も致しませんよ」
後ろで手を組み、柔和な笑みを向けてくるガルベルト。しかし警戒を緩めないシンゴに、ガルベルトは困ったように眉尻を下げる。
すると再び、イチゴがシンゴの袖を引っ張ってきた。
「お兄ちゃん、大丈夫だよ。ガルベルトさんは、優しくて真面目な人だから」
「イチゴ……」
イチゴの言葉と、その顔に警戒の色が一切ないのを受け、シンゴはゆっくりと肩から力を抜いた。
「……仲が、よろしいのですね」
どこか羨望を孕んだその声に振り向くと、ガルベルトは眩しそうに細めた目をこちらに向けていた。
その含みのある言葉と表情にシンゴが眉を寄せると、ガルベルトは「失礼しました」と拳を口元に当てて咳払い。そして改めて顔を上げると、
「またしてもあの二人がご迷惑をお掛けしたようで、誠に申し、わけ……」
ガルベルトは謝罪の文句を口にしようとしたみたいだが、その言葉は何故か途中で尻すぼみになり、やがて彼は不審げに眉を寄せた。
彼が見ているのは、シンゴ達ではない。その真紅の双眸は、ベッド近くの床へと注がれている。
シンゴとイチゴも、首を傾げながらその視線を追い――同時に「あ」と声を漏らした。
そこにいたのは――、
「一体、何をしておられるのですか? ――リノア様」
「――――」
一人の少年が、まるで死人にように固まったまま、仰向けで床に転がっていた。
ようやく再会できました!