第4章:8 『救炎』
「なかなかしつこいですね、このトカゲは……!」
そう言って後ろを振り向けば、発達した前脚を使って雪の上を走って追いかけてくる白い竜の姿がある。前脚に対して後脚は発達していない所為か、その走りは後脚をほとんど引きずる歪なものだ。進化の方向を間違ったのか、それともまだ進化の途中なのか。
「でも、それでこれだけ速いんだから、困るな……!」
『激情』の力で、およそ常人には出せない速度で雪原を疾駆するシンゴだったが、白い竜はそんなシンゴの後ろにぴったりと付いてくる。このままカズ達と合流する訳にはいかないだろう。
そこまで考えたシンゴは、眼球の無かった『白猿』に対し、この竜にはちゃんと眼球がある点に目を付ける。
まず、シンゴは軽く前に跳ねた。溝を飛び越えるような跳躍だ。そして直後に炎翼を振るい、空中で身体を後ろに向けると、白い竜の目を見据えて――、
――ぎろり、と。
紫紺の瞳で睨み付けた。すると、白い竜が怯えたようにビクリと震え、硬直により肉体の制御を失って派手に転倒した。
「よし、効いた!」
足が着く寸前、再度炎翼を羽ばたかせて身体の向きを元に戻したシンゴは、速度を殺さずに疾走を再開させた。
『激情』を司るイブリースは龍だった。その点から、『激情』に起因するこの威圧の力が同族に通じるか疑問だったのだが、杞憂で済んでシンゴはホッとする。
転がる白い竜を置き去りにして、やがてシンゴは森の入り口に差し掛かった。そしてふと、そびえ立つ木々に目を向ける。
「上からの方がいいですか――ね!」
カズの行方を追うのに、木の上から探す方が効率的だと判断したシンゴは、近くにあった木の幹に向かって跳躍。そしてそのまま幹を蹴り付けると、隣の木の幹に跳び移る。その動きを繰り返し、やがて横に飛び出した太い枝の上に着地して、
「……ほんと、人間の動きじゃないな」
己の超人的な動きに自嘲の笑みをこぼすが、すぐに切り替えると、ちらりと後ろを振り向く。するとちょうど、肉体の硬直が解けた竜が起き上がったところだった。
「早いとこ、カズ達と合流しないと」
呟いてから、シンゴは木の太枝を足場にして、森の奥へと進み始めた。
こうして木の枝の上を走っていると、『オール・イン・ワン』の『特異種』と戦った時の事を思い出す。あの時はたった一度の飛び移りも難儀したものだが、今はどうだ。こんなにも軽々と、まるでスキップを踏むように木々の上を渡っている。その対比に、やはり自分は人から逸脱した存在になったのだと、複雑な感情が胸の内に過った。
「う……っ」
『オール・イン・ワン』について考えたからだろうか、あの忌々しい記憶までもが蘇りかけ、シンゴは思わず口元を手で押さえた。
意識せず、口を押さえるのと逆の手で、疼く腹の上に触れる。
「大丈夫……今の僕は強い。死なないんだから、何も問題はない。そう、大丈夫だ。大丈夫……大丈夫……大丈夫」
吐き気を呑み込みながら、己に言い聞かせるようにぶつぶつ呟く。そんな独り言は、集中力を欠いて足を踏み外しかけた事で中断された。
ひやりとしながら一旦立ち止まったシンゴは、浅い呼吸を繰り返す。しかし、すぐに立ち止まっている暇はないと動こうとしたところで、ふと真下に動くものを見つけた。
紫紺の瞳を向けると、それはアリスとイレナを担ぎ、ちょうど後ろを振り返って立ち止まったカズの姿で――。
「――カズ!」
「――!? シンゴ……か?」
運よくカズを見つけられたシンゴは、そのまま木の上から飛び降りた。そして危なげなくカズの隣に着地すると、跳ね上げるように顔を上げて――、
「ここから急いで離れるんだ!」
「……は?」
シンゴの言葉にカズが驚いたように目を丸くする。突然すぎた為か、はたまた簡略的すぎたのが原因か。しかし、今はすぐに動いて貰わなければ困る。
シンゴは竜がすぐそこに迫っている事を説明しようとするが、ふと微細な振動音と共に悪意を察知して振り返った。
「来た……!」
そのシンゴの呟きに、カズも何か異変が起きていると理解したのか、焦りと困惑を浮かべた顔を向けてきて、
「なんだ……一体何が起こってやがんだ? シンゴ、『白猿』の群れはどうした!?」
そんなカズの質問に、シンゴは焦燥感を滲ませながら振り向いて、
「それどころじゃない! 早くしないと、アイツが来て――」
――直後、シンゴの言葉を掻き消す咆哮が背後から轟いた。
「……おい、おいおいおいっ!?」
そんなカズの驚愕の声を聞きながら、シンゴは思わず舌打ちしそうになった。
この森に乱立する木々の間隔は、そこまで狭い訳ではない。しかしそれは、シンゴ達人間の観点から見た話だ。あの竜の巨体では邪魔になって通れない、そう考えていたのだが――。
「まさか、薙ぎ倒して追って来るなんて……!」
白い竜は、目の前を遮る木々をその発達した前脚で薙ぎ倒し、強引に道を確保しながら再びその姿をシンゴの前に現した。
隣で「ドラゴン……だと?」と呟き固まるカズに駆け寄ると、シンゴは自分の側に担がれていたアリスを奪い取るようにして肩に担ぎ上げ、
「走るんだ、カズ!」
「ぁ……ああっ!」
シンゴの声でようやく再起動したカズが、狼狽えながらも頷いて走り出す。
シンゴもペースを合わせて並走し始めると、ようやく現実を呑み込めたらしいカズが、ちらちらと後ろを気にしながら声を掛けてきた。
「おい、後ろから追いかけて来んのはなんだ!?」
「カズが言った通り、ドラゴンだと思う!」
シンゴの返答に、カズは「マジかよ……!」と表情を戦慄に歪め、
「お前の力でどうにかならんのか!?」
「もう試した! でも、僕の攻撃はあの鱗に阻まれて全く通らないんだ!」
「クソッ……逃げるしかねぇってのか……っ」
背後から迫る竜のプレッシャーに、冷や汗を浮かべたカズが悔しげな声を吐き出す。
そんなカズに、シンゴは担ぐアリスの位置を調整しながら、
「大丈夫、僕に考えがある!」
「考えだと!? ……つか、やっぱその喋り方慣れねぇな!」
「意味の分からない事を言ってないで聞いて! 僕達はこのまま走り続けて、吸血鬼に助けを求める!」
「――! そうか、その手があったか……!」
カズが光明を見たかのように笑みをこぼすが、すぐに後ろを振り向くと、その顔を焦り一色に染め上げた。
「おい……さっきよりずっと近ぇぞ!?」
カズの叫びを聞かなくとも、シンゴは悪意がすぐ真後ろにまで迫っている事に気付いている。そして、その悪意が先ほどより上手く感知出来なくなってきている事も。
竜に追いつかれるのが先か、『激情』のタイムリミットに追いつかれるのが先か――。
「――だったら!」
「シンゴ!?」
急に立ち止まったシンゴを見て、カズがぎょっとして振り返りかける。が、それを制するように「先に行けぇ――ッ!」と怒鳴るように吠え、シンゴは目前に迫る竜と視線を合わせると――、
「そのまま俺の目を見てろよ、このクソトカゲぇ――ッ!!」
元に戻った口調で吠えながら、シンゴは再び紫紺の瞳の力を行使した。途端、白い竜がビクンと身体を震わせ、バランスを崩して転倒。そのまま巨体が滑って来る。
「ぉ、おおおお……ッ!!」
シンゴは残った『激情』の力と、こちらもほとんど消えかかっている炎翼を駆使し、全力で距離を取った。
「がっ――!?」
権威を限界まで絞り尽くし、必死に距離を取るシンゴの背に竜の鼻先が衝突した。
そのまま突き飛ばされてバランスを崩すシンゴだったが、抱えているアリスだけは傷付けまいと、咄嗟に自分の身体を下敷きにする。
「ぐっ……おあぁぁ……!」
腹の上にアリスを抱え、シンゴは雪の上を背中で滑る。そして、ようやくそれが止まると、顔を苦悶に歪めながら身体を起こした。
「痛っつぅ……!」
苦鳴を漏らすシンゴの背中は、雪の上だった事もあり無傷だ。
しかしここで、ぜえぜえと荒い息を吐くシンゴの目から紫紺の色が消え、同時に炎翼も霧散するように消滅する。
「――シンゴ!」
「カズ……逃げろって、言って……!」
逃げるように言ったにも拘わらず、こちらに向かって走ってきたカズが声を掛けてくる。その声にシンゴが苦言を返すが、カズはシンゴの上に重なるように倒れているアリスを担ぎ上げると、シンゴの前に手を差し出してきて、
「立てるか!」
「……ああ」
疲労を滲ませつつも、ニヤリと笑ってシンゴがその手を取るのと、カズの目が限界まで押し開かれたのは同時だった。
カズの視線が向けられる先と、後ろから吹いた生温かい異臭交じりの風に、自分の背後で何が起こっているのかシンゴは察した。
同一対象に連続で使用すると、紫紺の瞳の力は弱まるのだろうか。真偽は定かではないが、明らかに先ほどより復活が早い。
そう、シンゴの後ろには、早々に硬直を振り解いた竜が、シンゴを食い殺さんと大口を開けて――。
「――『フレイム・ヂ・バレット』!」
突如、聞き覚えのない第三者の詠唱が森に響いた。その直後、どこからともなく飛来した炎弾がシンゴの頭上すれすれの位置を通過する。
耳をつんざく絶叫が背後から上がり、慌てて振り向くと、そこでは口から黒い煙を上げて苦しむ竜の姿があった。どうやら先ほどの炎弾は、竜の口内に着弾したらしい。
「何ぼさっとしてんだ、アンタら!」
苦しむ竜を呆然と見上げていると、乱暴な口調で女の声が叩き付けられた。その声に振り向くと、そこには見知らぬ少女が立っていた。
くすんだショートの金髪を冷風に揺らし、意志の強そうな碧眼が真っ直ぐこちらを見据えている。しかしその装いは、この極寒を無視して動きやすさ重視の半袖短パンである。
そんな真冬に山へ遊びに来た少年のような出で立ちの少女は、シンゴ達が一向に動かないのを見てむっと眉を寄せると、くいっと親指で後方を指し示し、
「アタシが魔法で足止めすっから、その間にあっちに向かって走れって!」
どこか苛立ちを孕んだ少女の声に、シンゴとカズは慌てて走り出す。そして二人が横を通り過ぎるのを確認すると、少女は竜に向けて再び炎弾を放った。
炎弾は真っ直ぐ、雪を咀嚼して口内を冷やしていた竜の顔面に着弾。堪らず竜が暴れ出し、狂ったように近くの木へ体当たりする。
「……効いて、る?」
『激情』による攻撃を物ともしなかった竜が、人の顔ほどの大きさの炎弾にもがき苦しんでいる様を見て、シンゴは驚きに目を見開いた。
「まさか、魔法が弱点か!?」
とは、少女二人を担いでいるにも拘わらず、シンゴより僅かに先行するカズの言葉だ。しかしカズの推察は、他ならぬ魔法を放った少女当人に否定された。
「違う! この辺りの魔物は火に弱いんだ! ――てか、喋ってないでもっと速く走れねえのかよ、アンタら!」
「オレはもうちょい上げられる! シンゴは……」
「無理!」
「だらしねえな、茶髪!?」
いっそ清々しさすら感じられるシンゴの即答に、一瞬でシンゴの横に並んだ少女が目を剥く。が、『激情』を発動していない素のシンゴなどこの程度だ。しかもその『激情』の所為で、かなり体力を削っている始末。今は凡人以下だ。
そんなシンゴの様子から嘘は吐いてないと理解したのか、少女はちっと舌を打ち、
「ここでアンタらを見捨てる事は出来っけど……」
「な――!?」
少女の不穏な言葉に、シンゴとカズは揃って目を剥く。この少女以外、火の魔法を使える者など一人もいないのだ。ここで見捨てられれば、確実に終わる。
慌てて自分達を助けた場合のメリットを提示しようと、必死に思考を巡らせるシンゴだったが、続けられた少女の言葉は予想外にも――、
「――でも、その選択は筋が通ってねえ!」
前言を否定する、頼もしいセリフだった。