第4章:7 『白い乱入者』
「はぁ……はぁ……ッ」
息を荒げながら、カルド・フレイズは懸命に雪の上を走っていた。
その両肩には、『ゼロ・シフト』で気を失ったイレナと、先ほどまでは意識はあったが、とうとう気絶してしまったアリスが担がれている。
比較的軽い少女とはいえ、人間を二人も担いで走るのはかなりの労力を必要とする。加え、カズは『白猿』との戦闘で消耗している。その身に受けた負傷はシンゴの治癒の力で治っているとは言え、体力までは回復していない。
しかし、それを言い訳にはしたくない。ここでカズが膝を折れば、たった一人残って囮になったシンゴの決意が報われない。
無論、シンゴがやられるなどとは思っていない。先ほどのシンゴは、『ウォー』にて女の『罪人』と互角に渡り合った時と同じ口調、そして「僕」という一人称になっており、さらにその両目は、『激情』が発動した証拠である紫紺に染まっていた。
『激情』の力と『怠惰』の不死、そしてそこに吸血鬼の再生能力が加われば、たとえあの数の『白猿』相手でも遅れを取る事はないだろう。
そう理解していながら、カズの胸中は複雑だった。その気持ち悪い感覚の正体を探れば、それは己の無力さ故の歯痒さが原因だと気付く。
イレナは『ゼロ・シフト』で不可視の壁を越える為に尽力し、シンゴは今も魔物と戦っている。アリスは仕方ないとは言え、万全だったカズは何もする事が出来なかった。
こうして逃げる事しか出来ない自分が、逃げる事しか選択肢のない自分の弱さが、今は無性に恥ずかしくて悔しかった。
「オレは……っ」
歯軋りし、俯きかけたカズだったが、ふと景色に緑が混じっている事に気が付いた。
どれだけ思考に没頭していたのか、いつの間にかカズは森の中へと足を踏み入れていたらしい。
「ここは……」
記憶が確かならここは、不可視の壁で立ち往生している際に遠方に見えた森で間違いないだろう。
この森が一体どういった名称なのかは定かではない。何故ならここは、誰も踏み入った事のない侵入不可領域の先なのだから。
「し……ご」
「――!」
不意に耳元で、アリスが弱々しい声を漏らした。上手く聞き取れなかった部分を補うと、おそらくアリスは「シンゴ」と口にしたのだろう。
そんなアリスの苦しげな横顔を見ながら、カズは先ほどのアリスのシンゴに対する態度を思い出した。
「キレてた……よな?」
先ほどのアリスは、シンゴに対して明確な怒りを向けていた。その怒りが何を発端にしているのかは定かではないが、この体調不良が原因ではなければよいのだが。
そしてその体調不良に関しても、一体何が原因なのかさっぱり分からない。見た感じでは、ただの風邪だとは思えない。
「――?」
アリスの体調不良について考察していたカズは、ふと何か違和感を感じ取り、その場に立ち止まって振り返った。そしてジッと耳を澄ませて息を殺していると、その違和感の正体が微細な振動だと気付く。
その振動は徐々に大きく、こちらに近づいて来ているようにも感じられて――。
「――カズ!」
「――!? シンゴ……か?」
頭上から声が聞こえ、カズは慌てて顔を上げた。するとそこには、息を切らしたシンゴが木の上に立っており、そのまま飛び降りてくると――、
「ここから急いで離れるんだ!」
「……は?」
切羽詰まった顔でシンゴが怒鳴るように言ってきた。思わず目を丸くするカズだったが、シンゴがハッと後ろを振り向き、「来た……!」と呟くのを見て、同じ方向を向く。
ちょうそそのタイミングで、遠方の木が倒され、地響きのような振動が地を伝ってカズの足元まで届いた。
「なんだ……一体何が起こってやがんだ? シンゴ、『白猿』の群れはどうした!?」
困惑と不安を孕んだカズの声に、シンゴは焦燥感を滲ませた顔で振り向くと、
「それどころじゃない! 早くしないと、アイツが来て――」
シンゴの言葉は、途中で巨大な咆哮によって掻き消された。
紫紺の瞳を見開いたシンゴが、ぎょっとして後方に目を向ける。カズもつられて視線を後方に向けると、そこには――。
「……おい、おいおいおいっ!?」
「――――――――ッッッッ!!!!」
白い鱗で覆われた巨躯を揺らして、地を這うように木々を薙ぎ倒しながら、何かが咆哮を轟かせて迫っていた。
それの姿を視界に収めたカズは、驚愕に目を見開いて、記憶にあるその名を震えながら口にした。
「ドラゴン……だと?」
――――――――――――――――――――
――遡ること、数分前。
全方位から津波のように押し寄せる『白猿』。その白い波の中心に立ちながら、しかしシンゴは一度も攻撃を寄せ付けないでいた。
死角から襲い来る攻撃も、悪意を読み取る力のおかげで目視せず回避。逆にシンゴが拳を振るえば、雪原に一つ、また一つと『白猿』の死骸が積まれていく。
中には口から白光を放つ『白猿』もいたが、シンゴには当たらず、代わりに仲間の『白猿』を巻き込むだけだ。
――完全に、キサラギ・シンゴの独壇場だった。
無双を続けるシンゴだったが、しかし先ほどから違和感のようなものを感じていた。
その違和感は、『白猿』を一体、また一体と屠るごとに強まっていく。
と、いうのも――、
「……弱すぎる」
それは別に、手応えがないという意味ではない。逆に手応えがありすぎるのが、シンゴが今感じている違和感の原因だ。
現在の段階で、シンゴの身体能力は一体どれ程のものなのか。その詳細は定かでないが、シンゴは元々ただの凡人である。この世界の基準で見れば、今の状態のシンゴは決して図抜けている訳ではないはずだ。それこそ、上には上がいるに違いない。
そう思えば、そんなシンゴの攻撃がこうも容易く通るにも拘わらず、吸血鬼であるアリスの攻撃が全く通らなかったのは妙だ。
今の『激情』の強化具合がアリスのそれを超えていたとしても、『白猿』に傷一つ負わせられないというのは明らかにおかしいだろう。
考えられる可能性として、真っ先に思い浮かぶのは――、
「弱体化、かな……」
もしもあの原因不明の体調不良が原因で、アリスの吸血鬼としての力が大幅に弱体化していたとすれば、『白猿』に攻撃が通らなかったのも頷ける。
しかしその仮説が正しければ、再生能力の方も同様に落ちているのではないだろうか。だとしたら、今のアリスは非常に“死にやすい”状態になっている可能性がある。
「ただでさえ無防備な状態なのに、もしも重傷を負えば、アリスは……」
再生が間に合わず、そのまま絶命するだろう。
「……いや」
脳裏に過った悪いイメージを、シンゴは即座に首を振って否定した。
それを言ってしまえば、気を失って無防備なイレナに関してもリスクは同等――いや、下手をすればアリス以上だ。アリスに限定して心配するのは間違っているだろう。
それに、二人にはカズが付いている。加えて、ここでシンゴが『白猿』を引き止めている限り、三人に危険が及ぶ事はまずないはずだ。
――そんなシンゴの楽観的な考えは、直後に否定された。
「――!?」
不意に巨大な悪意に覆われたのを感じて、シンゴは思わず息を詰まらせた。慌ててその悪意の所在を探ると、悪意の大本は真上にあると気付く。
咄嗟にシンゴが頭上を仰ぎ見るのと、それが空から落ちてくるのは同時だった。
それは『白猿』の群れの一部を押し潰すように着地し、巻き上げられた雪煙がシンゴの視界を塞ぐ。
雪煙の奥にうっすらと見えるシルエットから、それが『白猿』とは比べ物にならないほどの巨体を有している事は把握できた。そして、その身が竦み上がるような濃密なプレッシャーに関しても、『白猿』のそれとは一線を画している。
シンゴはおろか、周りの『白猿』までもが突然の乱入者に固まっていると――、
「――――――――ッッッッ!!!!」
「うっ……!?」
大音量の咆哮が轟き、その強烈な音圧が辺りに漂っていた雪煙を全て吹き飛ばした。
巻き上げられる雪の突風に、シンゴは咄嗟に顔を腕で庇う。そして咆哮が止み、掲げていた腕を下げると、雪煙の晴れたそこには――、
「竜……!?」
全身を白い鱗で覆った、異様に前脚の発達した巨大な竜がそこにいた。
シンゴは一度、あの校舎で銀色の龍に会っている。しかし、まさか現実の方でも竜に遭遇する事になるとは思ってもみなかった。
そんな驚愕冷めやらぬシンゴの目の前で、白い竜は発達した前脚を屈めると、シンゴ目がけて一気に跳躍してきた。
その攻撃に際して、事前に悪意の微動は感じ取る事は出来ていたが、竜という神話上の存在の乱入に呆気に取られていたシンゴは、僅かに反応が遅れる。
慌てて回避行動を取ろうとするも、白い竜の動きはシンゴの予想を遥かに上回るもので、薙がれた鋭い爪が飛び退こうとしたシンゴを襲う。
「……!」
回避が間に合わないと悟ったシンゴは、咄嗟に先ほど『白猿』の白光を耐え切った右肩の炎翼を盾にした。
「ぐっ……!?」
炎翼は爪の横薙ぎに耐えるが、その衝撃までは殺せない。周りの『白猿』をも巻き込み、シンゴは雪と一緒に吹き飛ばされる。
しかしシンゴも、ただ吹き飛ばされるだけでは終わらない。吹き飛ばされながらも、炎翼を羽ばたかせて空中で姿勢を制御。そのまま雪の上へ無事に着地すると、反撃の為に一気に前へと駆けた。
「ああ――ッ!」
気合の声を迸らせ、巻き上げられた雪のカーテンを突き破り、更に途中で炎翼を羽ばたかせて加速する。
そして、攻撃直後で隙を晒す白い竜の顎先を、『激情』で強化された足で思い切り蹴り上げた。
――が、
「効いてない……っ」
蹴りを受けてのけ反った白い竜だったが、すぐに体勢を立て直すと、シンゴに向けて再び咆哮を浴びせてきた。そしてそのままシンゴを食い殺さんと、咆哮後に口を閉じる事無く首を突き出してくる。
動揺はあったものの、今度はちゃんと動けたシンゴは無難にそれを回避。そしてそのままカウンターで、真横を通り過ぎる竜の横顔を殴り付けた。
顔を殴られて体勢を崩した竜が雪の上に転がる。しかしすぐに起き上がると、その場から跳び上がり、空中で前回転――その尾を叩き付けるようにして振り下ろしてきた。
無論その悪意を読み取っていたシンゴは、前もって横へ飛び退こうと試みる。が、急遽ハッとして回避行動をキャンセル。横へ流れていた運動エネルギーを強引に後ろへ転じさせ、体勢を崩しながらもバク転を敢行した。
上下が逆さになったタイミングで、白い光が背中を僅かに掠める。『白猿』がシンゴに向けて魔法を放ってきたのだ。
どうにかその悪意を拾えた事でギリギリ回避は成功したが、このワンアクションの所為で竜の尾を回避する余裕は失われた。
だが、問題はない。わざわざバク転という回避行動を選択したのには、ちゃんと理由があるのだ。
バク転に際し、限界まで下半身を遅らせた事によって生まれたしなりを利用する。
上下逆さのエビ反り状態から、腹筋を使い一気に下半身を引き戻す。ただ引き戻すだけではない。先に左足を振り抜き加速を加え、生じた力の全てを乗せた右足で落ちてくる尾を蹴り上げた。
「……ッ!」
全力のサマーソルトが尾に接触した瞬間、途方もない衝撃がシンゴの足を襲う。はっきり言って、感覚すら消し飛ぶほどに。
そしてその認識は正しく、一回転して上下を元に戻したシンゴは、着地に失敗して尻もちを着いた。
「づ……ぁっ!?」
尻もちを着いたシンゴを一拍遅れて激痛が襲う。右足の膝より下が衝撃で千切れ飛んだ事が原因だ。
しかし、シンゴ自身がその欠損を目視する前に、無くなった足は復活している。相乗効果でも生まれるのか、炎翼が出ている状態だと治癒が異常に早い。再生はほとんど瞬きの間だった。
そして足の再生を理解出来ているという事は、足以外は潰されていないという事で、尾を弾き返す事には成功したという意味だ。
神経を侵す痛覚の残滓に歯を食い縛りながら、シンゴは苦悶に歪んだ顔を上げて状況を確認する。
目の前には、弾かれた尾に引っ張られ、竜が仰向けにひっくり返って雪の上でもがいていた。
その周りには、遅まきながら竜の巻き添えを恐れたのか、雪の下へと潜るように避難を始める『白猿』の姿がある。その『白猿』らから悪意はほぼ感じられず、もうほとんど下火と言っていいレベルだ。『白猿』に関しては、もう無視していいだろう。
それよりも問題なのは、この白い竜の方だ。この数回ほどの攻防で、眼前の竜との戦闘は避けた方がいいのでは、とシンゴは感じていた。
何故なら――、
「僕の攻撃じゃ倒せない……!」
先ほどから『激情』で強化された力を躊躇なくぶつけているにも拘わらず、竜はほとんど無傷なのだ。
おそらく、あの全身を覆う硬すぎる鱗が原因だ。今の『激情』の力では、あの鱗を突破してダメージを与える事は難しい。
「――――ッッ!!」
「……っ」
シンゴが逡巡している間に起き上がった竜が咆哮を浴びせてきた。いい加減この咆哮にもうんざりする。
耳を塞ぎながら、シンゴはちらりと視線を横に向けた。遠くに、アリスとイレナを担いだカズが森の中へ入って行く姿が見える。
『白猿』が相手ならば、これくらいの時間稼ぎで十分だっただろう。しかしこの竜が相手となると、まだ稼ぎ足りない。本来ならもう少し粘り、カズの逃走距離を稼ぎたいところなのだが――、
「『激情』が、もう……っ」
先ほどから『激情』の脈動が徐々に弱まってきているのを感じる。権威の持続時間にバラつきがあるのは『ウォー』で実感している。どうやら、そろそろ限界が近いらしい。
ここで感情が高ぶれば、権威は力を増し、持続時間も延長されるかもしれない。しかし確証がある訳ではなく、そんな不確かな可能性に賭けるのもどうかと思う。加えて、この状況で感情を高ぶらせろと言われても、はい分かりました、とはならない。
ならば考えるべきは、残った時間をどう有効に使うかだ。そして、その使い道は――、
「『金色の神域』にいる吸血鬼に助けを求める……!」
今からシンゴが全力で走れば、カズに追いつく事は可能だ。合流後は『金色の神域』を目指して走ればいい。そこで吸血鬼の助力を仰ぐのだ。
吸血鬼が複数人いれば、この竜でも撃退くらいは確実に出来るはずだ。
問題は協力を得られるかだが、シンゴが逃げればこの竜は追いかけてくるだろう。そしてそのまま吸血鬼の前に連れて行けば、彼らは対処せざるを得ない。
「巻き込むみたいで気は引けるけど……」
今は緊急事態だと割り切るべきだ。それに吸血鬼なら、少々の負傷でも再生が可能で、腕っぷしの方に関しても問題はない。
そこまで方針を固めると、シンゴは竜に背を向け、全力で森を目指して駆け出した。
「まずは、カズと合流しないと……!」
後ろから悪意が付いてくるのを感じながら、シンゴは残り少ない『激情』をフルに使い、『金色の神域』に向けて雪原の上を疾走した――。