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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第1章 リジオンの村
12/214

第1章:10 『校舎の不死鳥』

 回る視界、回る世界――。


「…………ぇ?」


 赤い放物線を描きながら“それ”は崖下に向かって落ちていく。

 頭の中は空白で埋め尽くされており、視界はまるで時間が止まってしまったかのように遅く感じる。


 されど、砂時計の砂は落ちるのを待ってはくれない。ゆっくりと、着実に残る砂の量を減らしていく。

 そんな泥のように粘着いた時間感覚の中で、視界にこの世界の月が映り込む。


 そもそもあれが月という呼称なのかも分からないが、その模様を除けば己もよく知っているあの月と大差ない。


 ――場違いながら、綺麗だなと思ってしまった。


 やがて回る視界は、一人の少女の姿を映し出す。

 少女は白い髪と黒い服を風に揺らし、目を見開いたまま呆然と立ち竦んでいる。彼女の名はアリス・リーベ。儚くも妖艶な美貌を有してはいるが、どこか幼さを内包するその相貌。笑えば花が綻ぶかのように可憐だが、今は信じられない現実を見せ付けられたかのように固まってしまっている。


 やがてその顔がくしゃりと歪み、その目には涙が浮かんだ。

 幼い子供が嫌々をするように首を振るごとに、月明かりを浴びて輝く美しい白髪が左右に揺れた。


 ――嫌だな、と思った。


 何故かは分からないが、あんな彼女の顔を見ていると、胸が締め付けられるように苦しかった。

 締め付けられる胸の感覚など、どこにも見当たらないのに――。


 ――視界が反転する。


 真横に傾いだ世界。右目が映すのは、まるで世界を二つに隔てるような彼方の地平線。対して左目が映すのは、崖下に広がる底の見えない暗闇。

 壮大な景色に畏敬と感動を抱くと同時に、眼下に広がる暗闇に恐怖と絶望を感じた。


 ――今度こそ終わると、そう確信した。


 そう確信した瞬間、キサラギ・シンゴの意識は、灰となって崩れ落ちるようにして――消えた。



――――――――――――――――――――



「――――?」


 目を刺す人工的な光に顔をしかめ、シンゴはうっすらと瞼を開いた。

 目をこすりながら上体を起こすと、目の前には学校の机がある。昨日の夜ふかしがたたって、授業中に眠ってしまっていたようだ。


 どうやら長い間眠っていたらしく、頭の中は嫌にすっきりしている。

 シンゴはわしわしと頭を掻きながら欠伸を一つ零すと、どうして起こしてくれなかったのかと苦言を申し立てようと後ろに振り返った。


「前田さ……別に起こしてくれても――」


 しかし、振り向いた先にあの憎たらしい顔はなかった。ふと周りを見渡してみれば、生徒は己以外は一人もいない。

 誰もいない教室に一人寂しく、キサラギ・シンゴだけが取り残されている。しかしその理由は、窓の外を見ることで合点がいった。


 外はすでに闇の帳に閉ざされ、真っ暗だ。おそらく全員既に帰ってしまったのだろう。

 しかし皆も薄情である。起こしてくれてもいいのに――と、シンゴはため息を吐いてから、このイタズラの主犯に目星をつける。


「前田だな……ッ!」


 シンゴは明日の朝一番で、憎き男の顔面に『おはようラリアット』をぶちかましてやることを心に決め、現在の時刻を確認しようと時計へ視線を向けた。


「――ん?」


 シンゴは目をこすり、改めて黒板の上に備え付けられた時計を見やる。

 しかし何度見ても、時計の指し示す時刻は意味不明――というより、何やら時計自体がおかしかった。


「なんだ……この時計?」


 シンゴは眉を寄せながら、奇妙なものを見る目を時計の“数字”に向ける。

 時計に記された数字はひっくり返したように位置と文字が全て“反転”している。まるで鏡に映った時計を見ているようだ。


 その反転した時計を苦労して読み取ると、現在の時刻は――、


「午後八時か……そりゃ暗いわけ――八時!?」


 予想以上に遅い時刻で、シンゴは思わずのけ反って目を剥く。

 イチゴの小言が今から憂鬱だと深々とため息を吐いてから、ふとあることに気付き、改めて教室を見渡す。


 反転した時計。一か所だけ切れかけている電灯。己以外誰も座っていない空席の机。不自然なほど綺麗に黒板消しをかけられた黒光りする黒板。閉まったままの扉。暗い外と教室を隔てる窓――。


「……あの時計は明らかにイタズラですり替えられてるし、教室の電気はつけっぱ。生徒がこんな時間まで校舎にいるってのに、先生のお咎めもなし……」


 もしかしてシンゴが残っていることに気付かなかったのだろうかとも考えたが、それも不自然だ。なにせ、この教室は明かりが点いているのだ。これだけ暗いうえに、こんな時間だ。シンゴでも不審に思って教室を覗いてみる。その中で居眠りをしている生徒がいたなら、教師なら必ず声をかけるだろう。


「…………」


 シンゴは腕を組んでこの不可解な状況に唸る。ただのイタズラにしては手が込み過ぎている。

 しかし考えたところで状況は何も変わらない。なのでシンゴは今日は大人しく帰り、明日になったら前田をシメればいいかと結論を出す。


 シンゴはため息を吐いて立ち上がるが、ふと鞄がないことに気付く。


「あいつ……ッ!」


 拳を固く握り締めて肩を震わせるが、やがて脱力すると、さすがに家に持って帰ってはくれているだろうと考え、教室の扉へと歩み寄る。

 電気を消してから扉を開き、廊下に出たところで軽く鬱になる。


 教室の電気を消したことに加えて、窓から差し込む光もゼロ。結果、辺りは完全な闇に閉ざされてしまった。廊下に点々と備え付けられた非常灯の明かりが辛うじて闇を散らしているが、逆にそれが返って薄気味悪さを増大させている。


 シンゴはしばらくその場で硬直していたが、やがてため息を吐くと、暗闇に目が慣れるまでは壁を伝いながら下へと続く階段を目指すことにした。


 押しつぶされるような暗闇に自然と喉がごくりと鳴る。シンゴはかぶりを振って嫌な想像を頭の中から追い出すと、足を一歩踏み出した。

 廊下に、とん――という自分の足音が響き、やがて反響して自分の元へと返ってくる。


 ――夜の学校とは、こんなにも静かだったのだろうか。


「……なんか、おかしい」


 何か違和感を感じてそう呟くが、小さな呟きは廊下の奥に広がる闇に飲み込まれるようにして、やがて消えてしまう。

 意を決し、シンゴは二歩目、三歩目と歩を進めていく。廊下にはシンゴが立てる足音のみが不気味に響き、立ち止まればしんとした静寂を返してくる。


「…………ッ」


 シンゴは壁に手を添えながら、歩みを駆け足に変えた。

 一定間隔である非常灯を目指し、意識して頭の中を空っぽにして廊下を駆け抜ける。


 すると――、


「あった……!」


 目の前に現れた階段に安堵するように笑みを零し、シンゴは手すりに手を伸ばそうとして――、


「――は?」


 シンゴの伸ばした手は空を切り、慌てて両手で手すりを探すが、一向に手すりが見つからない。


「なんだよ、これ――!?」


 廊下を駆け足で進んできたせいで息が上がり、ばくばくと鳴る心音が耳朶を打った。

 言い知れぬ恐怖と焦燥感に急かされ、シンゴは目をすがめながら捜索する範囲を広げるが、本来そこにあるはずの手すりは見つからなかった。


「…………」


 ふと気になり、非常灯の明かりの死角になっている反対側に手を伸ばしてみる。

 こちらも最初は何度か手が空を切るが、三度目で何か硬く長いものに手が触れた。


「う、そ……だろ」


 見開いた目を手に触れた物へと近付けると、己の手は探し求めた手すりへと触れていた。

 だが、シンゴの記憶が確かなら手すりはこちら側ではなく、最初にシンゴが手を伸ばした方にのみ備え付けられていたはずだ。いや、そもそも――、


「階段って、こっち側に……あったか?」


 心音が一気に跳ね上がる。

 よくよく考えてみれば、階段があるのは確かここではなくて後ろ――つまり、“反対側”ではなかっただろうか。


「――――ッ」


 そう認識した瞬間、背筋を何か冷たいものが駆け抜けた。

 冷や汗が大量に吹き出し、手の平がじっとりと汗ばむ。呼吸は走ってきたせいというのもあるが、別の要因でさらに速くなる。


「はぁ……はぁ……」


 己の激しい動悸の音が耳に聞こえる中、シンゴはちらりと階段の下へと目を向けた。

 最初の数段は辛うじて視認することができたが、その下は暗闇に覆われて見ることは叶わなかった。


 ただ――、


「はぁ、はっ……ッ、はぁ――」


 ――階段の下には、絶対に下りてはいけない気がした。


 頭の中ではうるさいほどの危険を知らせる警鐘が鳴り響き、呼吸のリズムが速く、そして不規則に乱れていく。

 この下に下りれば終わりだ。絶対に戻ってはこれない。――いや、それよりも恐ろしい何かが待ち受けていると、本能が告げていた。


「誰、か……」


 シンゴは己の体を掻き抱くようにして両腕を回し、恐怖に顔を歪めながら後ずさる。

 知らぬ間に体は小刻みに震え、歯は根が合わずにかちかちと音を鳴らし始める。

 それに加え、心を蝕んでくるような恐怖は薄れることなく、徐々にその存在感が大きくなっていく。


「おい……誰か……本当に、誰も……前田? 先生ぇ? 誰かぁ――!?」


 叫ぶが、返ってくるのは廊下に反響した自分の声のみ。反響が終われば、今度はしんとした静けさが返ってくる。

 シンゴは顔を青くしながら、やっとのことで確信する。やはり何かおかしい――と。


 遅すぎるのは理解している。だが、突然こんなことになって、“日常”を疑い“非日常”を信じろという方が無理な話だ。

 シンゴはその青い顔を廊下の奥に揺らめく闇へと向ける。廊下の先は闇を湛えながら、まるで果てが存在していないかのような錯覚をシンゴに与えてくる。


 シンゴは恐怖に揺れるその視線を再び階段の下へと向けた、そのときだった――。


「ひぃ――ッ!?」


 ――何かが、動いた気がした。


 それが事実なのか、それとも恐怖が生んだ幻覚なのか。それは判然としないが、一つだけ言えることがある。今ので、キサラギ・シンゴの中で辛うじて繋ぎ止められていた理性の糸が完全に――弾けた。


「う……ああああああああああああああああああああああああッ!!??」


 喉が張り裂けんばかりの絶叫を迸らせ、シンゴは元来た方へと廊下を駆け戻り始めた。

 しかし走れど走れど、先ほどまで自分がいた教室は見えてこず、ただ暗闇を追いかける作業が延々と続く。


「なんなんだよ、ここ……どうなってんだよぉ――ッ!?」


 ここに来て、シンゴは先ほどの確信が完全なものに変わったのを悟った。

 ここは何かおかしいと確信はしたが、心のどこかで否定していた。そんなはずはない、これは何かの間違いだ――と。


 だが、本来なら廊下の端に到達しているはずの距離を経ても、未だに廊下は続いている。どころか、先ほどまでいた教室はおろか、その他の教室さえ一つも見当たらない。

 恐怖で歪んだ顔がその事実を受け、さらにくしゃりと歪んだ。目尻には涙がうっすら浮かび、全身の筋肉が痙攣するようにだるい。


 ――どれくらい走っただろうか。


 数十秒ほどしか走っていないようにも感じるし、はたまた一時間以上も走り続けているようにも感じられる。

 完全に時間感覚は恐怖と焦りで狂わされていた。


 疲労が溜まって動きが鈍くなった足がもつれ、シンゴは顔から廊下に倒れ込んだ。

 鼻から出血し、顔の下半分を赤く染める。だが、シンゴは血を拭き取ることはせず、背後から迫ってくるように思えてならない暗闇から逃れようと、がむしゃらに這って進みだした。


「はぁ……あ、あぁ……ひっ……はぁ、ああぁ――ッ」


 息は上がり、口からはひゅうひゅうと掠れた音が漏れ、顔は鼻水と涙でぐちゃぐちゃになり、その上から鼻血が赤い色を添えていた。

 そんなシンゴを嘲笑うかのように、終わりの見えない廊下はシンゴの荒い呼吸を無数に反響させ、律儀にシンゴの耳へと送り返してくる。


「ああああッ――!? やめろやめろやめろ! やめろってぇ――!?」


 そんな音さえ今のシンゴの敏感な精神には突き刺さり、耳を塞いで大声で掻き消そうと喚き散らす。

 視界は均衡を失った精神を反映したようにぐるぐると回り、胃はきりきりと締め付けるような鈍い痛みに襲われる。


「も、もぅ……いや、だ……こわ……こわい、こわ……あいっ……はあぁ」


 やがて叫び疲れたシンゴは動くのを止める。そしてその場で耳を押さえ付けて体を丸めて小さくなると、外界との接触を拒もうとする。


「嫌だ……こ、こわ――ムリ、これっ……無理……死にたくない……いやだッ」


 得体の知れない何かに怯えながら否定の言葉を吐き出し、必死に自分を守ろうとするその姿は、まるで小さく弱い幼児のようだ。

 おかしい、なんだこれ、なんで自分がこんな目に――という言葉が頭の中をぐるぐる回るが、その問いに答えてくれる者はここにはいない。そう、キサラギ・シンゴ以外、誰も――いない。


 ―――――

 ―――――――――――――――

 ―――――――――――――――――――――――――


 ――どのくらい丸くなって震えていただろうか。


 不意に強く押さえ付けて塞いでいたはずの耳に、がちゃり――と、何かドアが開くような音が滑り込んだ。

 びくり肩を跳ねさせ、頭を抱え込むようにしより小さくなると、がたがたと震えながらひたすら懺悔の言葉を呟いて許しを請う。


 しかしいくら待てど、それ以上の変化は一向に訪れなかった。

 シンゴは恐る恐る目を開け、音のした方へと充血した目を向けた。そこにはいつの間にか、上に向かって伸びる階段が存在していた。


「ひっ……ふぃ……っ」


 ここにきて初めての目に見える有り得ない現象に、シンゴは引き攣った声を漏らす。

 いつの間にか階段が現れるなど、やはりここはシンゴの知っているあの通い慣れた校舎ではない。もっと歪で、禍々しく、常識の外側にある世界であり、その中に佇む異様な校舎――それがこの場所だ。


 歯をかちかちと鳴らしながら呆然とその階段を眺め、やがて震える四肢に力を込めてゆっくり起き上がった。

 怖い。少しでも己以外が立てる物音が聞こえれば、思わず発狂してしまいそうなほど怖い。だが、そんな恐怖心とは裏腹に、シンゴの体は己の意思に反して動き、足は吸い寄せられるように階段へと向かっていく。


「え!? え……ええっ!?」


 まるで、知らない誰かに無理やり足を動かされているようだ。

 やがて階段に辿り着いたシンゴの体は、一歩、二歩と、ゆっくりと階段を上り始めた。

 そうして辿り着いた階段の終わりには、半分だけ開いたドアが存在した。おそらく先ほどの音はこれだろう。


「いやだ……こわい、行きたくない……行きたく――」


 本当は開きたくない。だが、そんなシンゴの懇願を無視し、小刻みに震える手がゆっくりとドアを押し開き、足が勝手にドアの外へと動く。


 ――シンゴが出たのは、暗い屋上だった。


「――あぎっ!?」


 呆然と固まっていると、不意に右目を焼かれるような痛みが生じ、思わず目を押さえてその場に膝を着く。

 荒い息を吐いてしばらくうずくまっていると、やがて痛みは引いたが、右目には何か違和感が残ったままだ。


 シンゴはゆっくり手を離し、右目を開いた。すると――、


「なん……?」


 掠れた疑問の声を上げたシンゴの右目に飛び込んできたのは、この世のものとは思えないほどに“物理法則が崩壊した”町だった。

 ぐにゃりと不規則に捩れた家から電柱が数本真横に飛び出し、その電柱から細いコンクリートが無数に伸び、それらはやがて重なり合い、徐々に太くなりながらビルを形成している。


 他にも似たような形の建造物が立ち並んでいる。

 シンゴが今いるのは確かに屋上である。だが、シンゴは二年生で、二年の教室があるのは先ほどまでいた終わりのない廊下がある二階だ。その二階から階段を上った先は、本来なら三年生の教室がある階だ。


 ――だから、この屋上は本来ここにあってはならないのだ。


 完全に思考が停止し、呆然と奇妙な町並みを熱くなった右目で眺めていたときだった。

 不意に背後で真夏の太陽のような、圧倒的な光と熱が生まれた。

 シンゴは咄嗟に顔を腕で庇いながら、振り返る。


 そこには――、


「――と、り……?」


 紅蓮に燃え盛る炎で形作られた巨大な“鳥”がいた。だが、その炎の鳥は体が“半分”しかなかった。炎が体の左半分を形作れておらず、“形”を与えられていない炎は外側に向かって漏れ出すようにのたくっていた。


 そんな不完全な形の炎の鳥だったが、その姿はさながら何度でも蘇るという不死鳥のようでもあり、その身からは神々しさを、そして禍々しさを放っていた。

 そんな常識では推し量ることのできない半身のみの炎の鳥は、塔屋の上に片方しか存在しない足で器用に留まっている。


 紅蓮に燃え盛る炎の体ををゆらゆらと揺らめかせ、その炎の鳥はじっとシンゴを見詰めている。

 まるで神に――いや、悪魔に相対したかのような底知れぬ圧迫感が津波のように押し寄せ、シンゴの体をその場に縫い付けた。


 ――永遠にも感じられたその一瞬の邂逅は、すぐに終わりを告げた。


 不意に炎の鳥はその半身のみの体をたわめると、片翼を羽ばたかせて飛んだ。

 滑空するように飛び、飛んで、飛翔し、飛――


「――――ッ!?」


 視界いっぱいに巨大な炎が広がり、呆然と立ち尽くしていたシンゴは遅まきながら身の危険に気付いた。だが、それは本当に遅すぎる気付きで――。

 猛炎はシンゴの全身をくまなく包み込み、肌を高温で撫で付けた。


「が――――――――ッッッッ!!!!」


 盛大に絶叫を迸らせるが、途中で喉が焼かれて塞がれてしまう。

 吸い込んだ高温の空気が臓腑を焼き、衣服と頭髪が全て焼け落ちる。

 眼球からは水分が飛び、視界が白く染まる。やがて四肢が炭化して崩れ落ち始め、それを追うように全身がボロボロと原型を保てずに崩壊を始める。


 そして、そして、そして――――――



――――――――――――――――――――



「――――は?」


 キサラギ・シンゴが最初に上げたのは、そんな拍子抜けた声だった。

 ぶつ切りにされたような意識が最初に認識したのは、風を纏って剣を振り抜いた姿勢のまま固まり、シンゴを驚愕に見開いた目で凝視する巨漢――ヒィースの姿だった。


「――しん、ご?」


 背後から驚愕を孕んだ涙声が聞こえ、シンゴは左肩越しに振り向いた。

 そこにはヒィース同様に驚愕に染まった顔で固まっているアリスの姿があった。しかし彼女の目にはうっすらと涙が浮かび、喉からはしゃくり上げるような嗚咽が零れていた。


 どうしてアリスは泣いているのだろう。どうして二人はそんな驚いた顔で自分を見ているのだろう。どうして自分は――、


「あれ……俺、確か……」


 脳裏に浮かぶのは、風を纏った銀閃が真横に薙がれる瞬間。そして回る視界、世界。その後は――記憶がごっそり抜け落ちていた。

 シンゴは一体何が起きたのかを正常に判断できずに、頭の中は空白で埋め尽くされていた。


 そんなときだった――。


「ありえ、ねぇ……」


 この奇妙な沈黙を破ったのは、呆然と剣を下ろし、信じられないものを見る目でシンゴを凝視するヒィースの掠れ声だった。

 ヒィースはその顔を未知なるものへの不理解で引き攣らせ、突き付けられた現実を否定するように首を横に振ってシンゴを震える指で指し示すと、


「そんな“もの”が……『吸血鬼』の再生能力だと? そんな“モノ”が『吸血鬼』だと!?」


 ヒィースは震えながらシンゴに向かって――いや、違う。彼が指差しているのは“シンゴ”ではない。

 シンゴはヒィースの指の先を追い、己の背後に視線を向けた。


 今度は“右肩越し”に――。


「なん、だ……“これ”?」


 ――右肩から“何か”が生えていた。


 あまりにも現実離れした“それ”は、強いて言うなら――炎で形作られた“翼”だった。

 得体の知れないものが自分の体から生えている。その事実に、すぅ――と体から魂が抜けていくような感覚に囚われ、呆然と脱力する。


 気が付けば、シンゴはその場に尻餅を着いていた。紅蓮の炎で形作られた片翼は、さも当然と言わんばかりにシンゴのそんな動きに追従してくる。

 視線はこの翼に固定させていたが、シンゴが動いてもこの翼はその場に取り残されることなく、シンゴの右肩でゆらゆらと火の粉を散らしながら悠然と揺らめいている。


 ――やはりそうなのだ。この翼は、キサラギ・シンゴから生じているのだ。


 それに先ほどから体に火の粉が舞い落ちているが、何故か熱は感じなかった。

 不意に、この翼に既視感を覚えた。つい最近この翼に近しい何かを見た気がするが、まるで遠くに記憶の大部分を置いてきてしまったように、思い出せない。


 ――そのときだった。


「ぐおぉ――ッ!?」


「――――!?」


 不意に呻き声が上がり、シンゴは咄嗟に翼に向けていた視線を前方に向ける。しかしそこにいたはずのヒィースの姿はない。

 代わりにそこにいたのは、空中で足を振り抜いた姿勢でふわりと白髪をなびかせているアリスの姿だった。


 そんなアリスの近くに、地面を抉るような二本の線が崖に向かって伸びている。

 その線を追って素早く視線を崖に向けると、そこには――、


「ひぃ、す……!」


 ヒィースは剣を両手で持ち、剣の腹を前に向けて防御するように構えていた。

 しかしその顔は苦痛に歪んでおり、彼の体は途中で地面から浮き上がり、今まさに崖の外に飛び出さんとしていた。


 シンゴはこの一瞬で悟る。アリスだ。アリスがヒィースに攻撃をしかけたのだ。

 先ほど見たアリスは、目尻に涙を湛えながらその真紅の瞳を細め、唇をむっと引き結ばしていた。


 彼女は――怒っていた。


「くそっ――たれぇッ!!」


 ヒィースが咆哮と同時に取った行動に、アリスの瞳が驚きを孕んで見開かれる。

 ヒィースは剣を地面に突き立てると、そのまま崖の外に体が飛び出さないように体を支えようと試みていた。


 突き立てられた剣が、がりがりと耳障りな音を立てて主の体をその場に留めようと奮闘するが、しかし――、


「ぐ――ッ!」


 減衰しきれず、ヒィースの体が崖の外に投げ出される。そしてそのまま崖の下へと落下した。

 シンゴはアリスと共に慌てて駆け出し、崖の下を覗き込んだ。そこで、二人の双眸が大きく見開かれる。


「『エンチャント・デ・ウィンド』」


 再び強い風を纏い直したヒィースが、その巨体を信じられない速度で捻った。

 巨体が斜めに一回転し、その勢いのままヒィースは壁面に風の力を纏った剣を突き立てた。

 ぎゃりぎゃりと音を立てながら、ヒィースは徐々に落下の速度を減速させていく。


 あと少しで完全に制止する――その寸前だった。


 力技で強引に落下を防ぐヒィースの姿を確認したアリスが、シンゴの横で、すっ――と音もなく立ち上がった。

 アリスは呆然と己を見上げるシンゴを真紅の瞳でちらりと見やると――、


「本当に――無事でよかった」


「――――」


 心の底から安堵したような柔らかな微笑みを向けられ、シンゴはこの状況も忘れてその横顔に見入ってしまう。

 しかしその感慨も、次にアリスが取った行動に対する驚愕で上書きされた。


 アリスはシンゴから視線を切ると、あと少しで落下する力を完全に殺し切ろうとしていたヒィースに向けた。


 そしてそのまま体を前傾させ、前傾し、前傾――


「――!? アリ――」


 シンゴが咄嗟に手を伸ばすよりも、アリスの体が真横になって崖から落下するのが速かった。

 慌てて崖下に顔を突き出したシンゴが見たのは、信じられない光景だった。


「な――!?」


 どうやらヒィースも己に近付く気配に気付いたのだろう。頭上を見上げ、そこに展開された驚くべき光景に目を見張った。

 アリスは――、


 アリス・リーベは、壁面を駆け下りるように走っていた。


 白い髪をなびかせながら切り立った壁を疾走するその姿は、言い知れぬ感動と、その状況も相まって、危うさを孕んだ危険な『美しさ』を見る者に与えた。

 驚愕に目を見開いたヒィースの体がようやく停止する。だが、彼はせっかく止まった落下を再開しなければならなかった。


 一息に駆け下りてきたアリスが、途中で壁面を蹴り付けて真下に飛んだ。

 そのまま体を空中でくるりと前転させると、ヒィース目がけてかかとを思い切り振り下ろした。


 一瞬だけ垣間見えた少女の真紅の瞳。その目尻にはうっすらと涙が浮かんでいた。

 その涙が悲しみで流されたものなのか、それとも安堵で流れたものなのかはヒィースには分からない。だが、その真紅の瞳に敵意の炎が揺らめいているのを見て取ったヒィースは、躊躇わなかった。


「ちぃ――ッ!?」


 ヒィースは壁面から剣を引き抜くと、剣の腹の下に空いた方の腕を支えるように添え、少女のかかとを受け止めた。


「ぐっ……ぉお……ッ!?」


 防いだヒィースの腕がめきめきと異音を立て、やがて彼の体は真下に向かって吹き飛んだ。

 もし足が地面に接しており、支えを伴った状態でこの攻撃を受け止めていれば、間違いなく彼の腕は拮抗する間もなくへし折れていただろう。だがここは、幸いと言っていいのか分からないが、空中だ。威力はほとんど流れてしまい、真下に落ちる力へと変換された。


 代わりに再度落下が始まるが、腕がへし折れるよりはマシだった。

 腕が痺れを訴えてくるが、そんなことに意識を割く余裕はない。

 ヒィースは痛みに顔を歪めながら頭上を仰ぐ。


 アリスは足を振り抜いた勢いを殺さず、そのまま両足を壁面に着地させる。そしてそのまま足をバネのようにたわませた。次の瞬間、足裏の壁面が陥没し、アリス・リーベの体は砲弾のように真下に射出された。


「舐めん、なぁああ――ッ!!」


 ヒィースは己に向かって落下してくるアリスに唾を飛ばしながら吠えると、体を隣の壁面へと向ける。

 体を包む魔法の風が流動し、手に持つ剣へと流れ込む。


 ヒィースの腕の筋繊維が膨れ上がる。その様子から、腕に尋常ではない力を込めているのが窺える。

 ふっ――と息を吐き出すと、ヒィースの手が風の手助けを受け神速で閃いた。

 一瞬の間を置き、壁面が無数の瓦礫へと姿を変える。ヒィースはその瓦礫と共に落下しながら、己に向かって降ってくる少女をぎろりと睨み付け――、


「喰らえ――吸血鬼ッ!!」


 手の中で剣を回転させて持つ角度を変えると、ヒィースの腕が再び神速で動いた。

 剣の腹が宙に浮かぶ瓦礫を打ち付け、重力に逆らいながらアリスへと撃ち出された。


「――――!!」


 無数に飛来する瓦礫の第一波を、アリスは空中で強引に体を捻って回避する。そしてそのまま壁面に着地すると、左右に壁を蹴り付けながら華麗なステップを踏むように次々瓦礫を回避していく。


「バケモノが……ッ!」


 瓦礫を全て回避され、ヒィースが吐き捨てるように呟いた。

 アリスはそんなヒィースの罵倒に無言で睨み付けることで応じる。

 再び壁面を蹴り付け、アリスの体がさらに加速して射出される。この跳躍で、アリスはヒィースの真横に並んだ。


「――――」


「ぐ……ッ」


 真紅の瞳に射抜かれ、ヒィースの体が一瞬だけ強張る。だが、意思の力で強引に動揺をねじ伏せると、そのまま咆哮し、風を纏った刃をアリスの胴体目がけて一閃させる。

 アリスはその場で体を後転させると、迫る凶刃をサマーソルトの要領で下から蹴り上げて軌道をずらし、難なく回避する。


 アリスは回転の勢いそのままに再び壁面を蹴り付け、ヒィースに向かって突貫した。

 ヒィースは慌てて刺突を繰り出すが、剣の腹を横から蹴られて軌道をずらされる。

 アリスは剣を横に蹴り付けた際の勢いを殺さず、そのまま横にくるりと体を一周させ、後ろ回し蹴りでヒィースの胸元を蹴り付けた。


「が――ッ!?」


 ヒィースの口から苦悶の声が漏れ、双眸が見開かれる。だが、またしても空中ということで威力が分散し、ヒィースにはさほどダメージを与えられない。

 しかし今のアリスの一撃でヒィースの体は壁面から離れてしまっている。このままでは地面に叩き付けられ、彼は己の鮮血と臓物で紅い華を咲かせることになるだろう。


 しかし――、


「え――?」


 突然体ががくんと傾ぎ、アリスは思わず驚きの声を上げる。

 見開いた目を己の足に向けると、そこには鉄線が絡み付いていた。

 咄嗟に鉄線の先に視線を辿らせる。鉄線は苦痛に顔を歪めながらも、口の端を吊り上げて笑っているヒィースの手に続いていた。


 慌てて解こうと鉄線に手を伸ばすが、体がぐん――とヒィースの方へと引っ張られる。


「怪力つっても、それを生み出す体は軽いなぁ――ッ!!」


「――――ッ」


 二人の体が交差する瞬間、アリスは咄嗟に体を捻ると、死角――ヒィースの背中をつま先で抉るような蹴りを放つ。しかしその攻撃は、選択肢としては間違いだった――。


 まるでその攻撃を予期していたかのようにヒィースの体が反転し、アリスの繰り出した足裏に自分の足裏を合わせてきた。


「助かるぜ――」


「――――ッ!?」


 口の端を吊り上げてそう囁くと、ヒィースはアリスの足裏を蹴り付け、壁面の方へと跳躍した。

 確かに純粋な力比べではアリスに軍配が上がるが、戦闘技術では長年傭兵稼業に身を置いていたヒィースに軍配が上がった結果だった。


「おぉ――」


 ヒィースはそのまま剣を壁面に突き立て、再び落下に制動をかける。

 さすがにアリスも何もない空中を自由に移動することはできない。故に、徐々に落下速度を落としていくヒィースに対し、アリスは先に下へ下へと落ちて行く。


 ちらりと下を見れば、地面はもうすぐそこだ。このままでは地面に叩き付けられてしまう。

 しかし、アリスは空中で姿勢を制御して体勢を地面に対して直角になるように調整するだけで、他のアクションは一切行わなかった。


 ――やがて、アリスの体が地面にぶち当たり、轟音と共に大量の土埃が舞った。


 アリスに続き、何とかぎりぎりのところまで落下速度を削ったヒィースが難なく着地を成功させる。

 蹴り付けられた胸を押さえながら、ヒィースは土埃の奥へと鋭く細めた目を向ける。そして――、


「――ちっ、このバケモノが……」


 舌打ちし、再び「バケモノ」と土埃の奥に罵倒を飛ばす。

 すると、そんなヒィースの言葉に答えるように、徐々に薄れてきた土埃の奥から――、


「そんなにバケモノ、バケモノって連呼しないで欲しいな。ボクだって女の子なんだ。そんなこと言われたら傷付くよ――」


「……抜かしやがれ」


 土埃の奥から、少しむっとした表情のアリスが怪我一つなく姿を現す。

 信じられないことに、アリスはあの高さから落ちたにも関わらず普通に着地した様子。彼女の背後には大きな穴が空いており、その衝撃の凄まじさを物語っていた。


「――――」


 二人の視線が交錯する――。

 視線の交換は一瞬。まるで示し合わせたかのように、両者は同時に動いた。


「しッ――」


 鋭い呼気を吐き出しながら、ヒィースは魔法の力で底上げされた素早さを活かして連撃を繰り出す。アリスを防戦一方に追い込み、攻勢に転じさせない作戦だ。

 一方のアリスだが、本来なら彼女がここまで防戦一方になることはない。だが今は風の魔法による手数の多さに苦戦し、回避するだけで精一杯なのだ。


「――――ッ!」


 ヒィースの繰り出す剣戟に、あの鉄線による攻撃が織り交ぜられ始める。

 執拗に足を狙った鉄線の薙ぎ払いに対し、アリスの意識が逸れた瞬間を見計らって風を纏った剣が振るわれる。


「く――っ!」


 アリスはこのままではマズイと判断。背後に大きく飛び退ってヒィースから距離を取る。

 そして再び攻撃を仕掛けるタイミングを窺おうとヒィースに目を向けた。しかしここで、アリスは眉を寄せる。


 理由は、訝しげに眉を寄せ、何やら探るような視線を向けてきているヒィースの態度だ。

 ヒィースはアリスが眉を寄せるのを油断なく見据えながら、ぽつりと疑問を零した。


「手加減してやがんのかッ?」


「……何のことだい?」


 突然の質問に、アリスは素直な感想を返す。

 別にアリスは手を抜いているつもりはないが、どうやらヒィースにはアリスが手を抜いているように見えたらしい。


 ヒィースはアリスのそんな返答に、より眉間のしわを増やしながら、


「お前らには、あの魔法が――いや、使わなねぇんならそれに越したことねぇ」


「――――?」


 ヒィースの言葉の意味がいまいち理解できずに訝しむアリスだったが、突然突っ込んできたヒィースに思わず目を見開く。

 振り下ろされる剣戟を咄嗟に回避する。躱した瞬間に足元を薙ぐように振るわれる鉄線を回避しようと飛び上がったときだった――。


「――――!?」


 ヒィースが剣を投げつけて来た。

 自ら得物を手放すなど予想していなかったアリスは、少しばかり反応が遅れる。しかも空中で身動きが取れない状態だ。だが――、


「ふっ――」


 アリスは鋭く息を吐くと同時に、空中で上体を後ろに倒した。

 すぐ目の前を凶刃が通過し、僅かばかり掠めた白髪がはらりと舞った。

 しかし、ここで終わりではなかった――。


 目の前を通過する刀身がやがて柄に変わり、気付く。柄には鉄線の端が結び付けられており、アリスの額付近を通過した辺りで剣が空中でぴたりと動きを止めた。

 本来ならここから鉄線を使って剣を振り下ろすなりしようとしたのだろうが、アリスの手が動く方が速かった。


 アリスは咄嗟に刀身へ手を伸ばすと、そのまま掴み取った。

 手の平から血が流れ、刀身を伝う。このまま無理やり抑え込もうとすれば指が切断されるだろうが、アリスの場合それは許容できる範囲内だった。


 しかし、ヒィースは鉄線で剣の軌道を変えることはしなかった。

 アリスは掴んだ刀身の先を見て目を見開いた。自分に向かって降り降ろされる大きな足を――。


 咄嗟に刀身から手を離して両腕をクロスさせるのが精一杯だった。

 猛烈な衝撃を伴って、ヒィースの足がアリスの腕に突き刺さる。


「ぁ、ぐ――ッ!?」


 振り下ろされたかかとが腕にめり込み、アリスは背中から地面に叩き付けられた。


「かは――ッ!?」


 肺の中の空気が押し出される。

 視界が白くフラッシュバックし、意識が一瞬だけ遠のく。

 当然この隙を、ヒィース・ラウドは見逃さない。


 ヒィースはにやりと口角を吊り上げ、鉄線を引いて掴み取った剣を真下に向けて両手で構えると――、


「死ね――」


 そう一言だけつげ、アリスの首を狙って一息に振り下ろ――


「――――ッ」


 これは、常に死と隣り合わせである傭兵としての経験が生じさせた嗅覚だ。そして嗅ぎ取ったのは、ほんの微かな『死』の香り――。

 ヒィースはアリスの首に向かって降り下ろそうとしていた剣の軌道を強引に曲げると、全身の筋力を全力で伸縮。上体を無茶苦茶な挙動で捻り、無理やり軌道を曲げた剣を背後に振り抜いた。


 がぎん――と金属がぶつかる音が響き、弾かれた剣が地面に突き刺さった。

 その剣は、ヒィースが手にしているものと同様のもので――。


「うぉぁぁああああああああああああああああああああッ!!??」


「――――ッ!」


 咄嗟に頭上を仰ぎ見ると、右肩から炎の翼を生やしたあの茶髪の少年が、顔をめちゃくちゃに歪ませて絶叫しながら、猛烈な勢いで落下してきた。

 あのままいけば、地面に衝突した衝撃で少年は潰れるだろう。


 ――しかし、そうはならなかった。


 地面にぶつかる寸前、今まで落下の風力でゆらゆらなびいていただけだった炎の翼がぴくりと動き、地面にむかって力強く羽ばたいた。

 結果、落下の速度がある程度軽減され、そのまま地面に叩き付けられた。


「あ、がぁぁ……ッ!?」


 見れば、少年の両腕はあらぬ方向を向いていた。しかしそれも一瞬だ。ヒィースが少年の腕が捻れていると認識すると同時に、気が付けば少年の腕は元通りになっていた。

 ヒィースはそれを見て目を驚愕に見開く。明らかにヒィースが見た少年の再生より、今の再生は速かった。そう、言うなれば、格が違った。


「ぅ……アリス……今のうちに――」


「――――ッ!!」


 少年の言葉に、ヒィースは呆然として次の行動が遅れた己を恥じた。

 慌てて振り返るが、そこには――、


「ぅ……」


 ――アリス・リーベは、未だにその場で横たわっていた。


 どうやらヒィースが叩き付けた衝撃で気を失っていたらしく、この絶好の機会に対応できていない。

 あの少年の決死の一撃は、この少女の死を数秒だけ先延ばしにしただけのようだ。


「あ……り、す……ッ」


「――――」


 こちらに懸命に這ってこようとする少年を一瞥し、ヒィースは口元を笑みに歪めた。

 そして、この残酷な現実を突き付けるように一言だけ発した。


「残念だったなぁ」


 そう零すと、ヒィースは剣を振りかぶり、ようやくうっすらと瞼を開けたアリスの首に剣を振り下ろした。

 切っ先がアリスの首に触れた、その瞬間――、


 がぎん――と、先ほどとは少し違った金属の衝突するような音が響いた。


 ヒィースが振り下ろした剣は、刃先数ミリがアリスの首に当たっており、そこから一筋の赤い液体が少女の肌を艶めかしく滑り落ちて行った。しかしその流血は蒸発し、すぐさま消えてしまう。


 ――ヒィースの剣は、そこで止まっていた。


 理由は単純。新たに差し込まれた“錆びた大剣”が邪魔していたからだ。


「ぐ――ッ!?」


 錆び付いた大剣が払われ、ヒィースは咄嗟にその場から飛び退く。

 その錆びた大剣の持ち主は、ゆっくりと上体を起こし始めたアリスを背に庇うように立ち、にやりと口の端を吊り上げた。


 瞠目するヒィースの背後で、少年の希望に満ちた声が上がった。


「カズ!!」


 その呼びかけに答えるように、青年は錆びた大剣を肩に担ぎ直すと、申し訳なさそうに頭を掻いて告げた。


「わりぃ……待たせた」


 カルド・フレイズ――カズの参戦だった。


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