第4章:6 『通せんぼ』
「あ……ああぁ……っ」
真上から圧し掛かる『白猿』の凶爪を、家宝である錆び付いた大剣で凌いでいたカズは、アリスの悲痛に震える声を聞いて顔を上げた。
見れば、突然の体調不良を起こしたアリスを庇い、『白猿』の連撃によって胴体をめちゃくちゃにされたシンゴが、ちょうど地に伏せるところだった。
カズのいる場所からではあまりよく見えないが、倒れ伏したシンゴの身体が悲惨な有様になっている事は、雪の上にまき散らされたおびただしい量の血から容易に察せられた。
目の前でその惨状を見せ付けられたアリスの心情を思えば、先ほどのような悲痛な声も頷ける。しかし、そちらに注意を向けていられるほど、カズの方も余裕がある訳ではない。
「ぐぅ……づっ……お、おぉぉ……ッ!」
現在のカズの体勢は、『白猿』の腕力に力負けし、雪の上に片膝を着いている状態だ。
そんなカズの足元には、『ゼロ・シフト』の使用で体力を使い果たし、気を失ったイレナが倒れている。加えて周りには、数えるのも億劫になるほど、その数を現在進行形で増やし続ける『白猿』の包囲網が広がりつつある。控えめに言って、最悪の状況だった。
そんな中にありながら、カズは食い縛った歯を持ち上げ、何とかして口を開くと、
「バカ……野郎、がぁ……っ!」
地に伏した少年に対し、怒りに震える罵倒を絞り出した。
『怠惰』の権威で蘇れる事はもう本人から聞いている。しかし、そうと理解していながらも、目の前での仲間の死はカズの心に大きな波を生んだ。
そしてその波は、カズの精神の真芯――その根底を激しく揺さぶった。
「ぬ、ぐぅぅ……っ!?」
その揺らぎは致命的な瓦解を生み、拮抗と呼べないまでも、どうにか保っていた『白猿』との攻防の均衡が崩れ去った。
押し込まれる大剣を懸命に支え、奥歯を割れんばかりに食い縛って、雪にほとんど埋もれた足に鞭を打ち、カズは血管の浮かんだ真っ赤な顔を苦渋に歪ませて懸命に抗う。
そんなカズの全霊の抵抗も、眼前の魔物は呆気なく置き去りに、次の段階へと移行した。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァ――ッッ!!」
耳障りな咆哮がすぐ真上で響くと同時に、ふっと重みが遠ざかり、カズの身体を浮遊感にも似た解放感が満たす。
しかしそれも一瞬の事で、次の瞬間には、構えたままだった大剣に新たな――それも、先ほどより重い一撃が降ってきた。
「――ッッ!?」
なかなか折れないカズに業を煮やしたのか、『白猿』が一度手を放し、逆の腕を振り下ろしてきたのだ。
硬化魔法をかけているにも拘わらず、カズの全身からミシミシと異音が鳴った。すると直後、再び重圧が遠ざかり、再度カズを襲う途方もない衝撃。どうやら、先ほどシンゴを沈めたのと同様に、カズに対しても爪の連撃が開始されたらしい。
「お゛ッ……がっ!? あ゛っ、ぬ゛ッッ……!」
この状況で幸いと言っていいのか怪しいところだが、『白猿』はそこまで知能が高い訳ではないらしく、先ほどからカズの大剣のみを攻撃をして押し切ろうとしている。がら空きの胴体に攻撃の矛先を向ければ、すぐに決着するというのに、だ。
しかしこのままでは、そう遠くない内に押し切られる事実は変わらない。それは十秒後か、はたまた一秒もないのか――。
「――っづあッッッ!?」
とうとう、『白猿』の連撃に耐え兼ねたカズの身体が絶叫を上げた。
大剣を支える右腕の関節部から骨の砕ける音が響き、支えきれなくなった大剣が衝撃で弾かれると、カズの無防備な身体が『白猿』の前に晒される。
絶望に目を見開いたカズに、その頭蓋を容易く割り砕く剛爪が落とされ、真っ赤な鮮血と脳漿がぶちまけられる――はずだった。
「――は?」
カズの脳天をかち割る軌道で振り下ろされたはずの爪は、しかし真横の雪を大きく抉って、大量の雪煙を巻き上げた。
横顔にかかる雪をそのままに、カズは自分の立ち位置が少しだけ横にズレている事実に気付く。
「……!」
突然の事に一瞬だけ固まるカズだったが、ハッとして、この不可思議な現象に覚えがある事に気付くと、倒れているイレナに振り向いた。
仰向けに倒れている彼女は、先ほどと変わらず気を失ったままだ。しかしその片手は、『白猿』との攻防でカズが開けた大きな穴の近くに伸びていた。辛うじて意識を取り戻した彼女が残った力の全てを振り絞り、『ゼロ・シフト』で少しだけ横に飛ばしてくれたのだとカズは悟る。
が、その延命措置も、すぐに意味を失くす。何故ならば、腕を負傷したカズは大剣を満足に扱えず、ただでさえ万全の状態でも劣勢だった事から、状況をひっくり返すのはほぼ不可能に近いからだ。
証拠に、空ぶった攻撃に首を傾げ、スンスンと鼻をひくつかせた『白猿』が、隣にいるカズの存在をすぐに見つけ、その空虚な眼窩を向けてきた。
先延ばしにされた終焉が再び歩み寄ってくる足音を聞きながら、カズは食い縛り過ぎて欠けた歯の一部を血の混じった唾と共に吐き捨て、動かせる片手で大剣を持ち上げると、眼前の『白猿』へと構えた。
その胸の内を満たすのは、この状況を変える事の出来ない無力な己自身に対する失望であり、虚しさだ。
しかし、それら負の感情を呑み込み、カズは瞳に戦意の炎を宿して抗う姿勢を取る。
自分だけなら折れていただろう。しかしカズの周りには、大切な仲間がいて、まだ生きている。絶命したシンゴにしても、その不死の権威により、死者とは断定しない。
己の弱さを嘆く暇があるのなら、この状況を覆す為に知恵を絞り、動かせる限り肉体を動かせ。諦めるにはまだ、何も終わっていないのだから。
「ア゛ア゛ァ――!」
「『ガイア・ド・ランス』――ッ!!」
シンゴを絶命に追い込んだ抜け駆けの『白猿』が、倒れ伏す無防備なアリスに襲い掛かろうとしたのを察知し、カズは大剣を雪に突き刺して地に『フィラ』を流す。
すると、アリスを攻撃しようとしていた『白猿』の腕を、地から伸び出た岩槍が穿った。
不意を突かれた『白猿』は、腕から鮮血を飛び散らしながら耳障りな絶叫を振りまく。
そしてカズは、生まれたその猶予で、まず眼前の個体をどうにか処理しようと――。
「い゛っ――ッ!?」
したところで、不意に右膝を何か白い光線のようなものに撃ち抜かれた。
酷使していた身体が崩れ落ち、カズは膝から血を流してその場に蹲る。一体何が起きたのかと顔を上げると――。
「ふざ、けんな……ッ」
眼前の『白猿』が口を開き、その口腔に白い光が収束していくのを見て、カズは苦悶に顔を歪ませながら吐き捨てた。
先ほど自分でアリスに言ったように、カズは『白猿』の生態にそこまで詳しい訳ではない。しかし一つだけ分かる事はある。それは、魔物という存在が、魔法に似た異能を使うという事だ。
つまり今しがた、カズの膝を穿ったものの正体は、『白猿』の持つ固有魔法だ。
そして追い打ちをかけるように、今まで続いていた幸運が終わりを告げた。
周囲――今まで静観を保っていた『白猿』らまでもが、カズに向けて口を開け、魔法を行使する体勢に入った。
「クソ、がぁ……ッ!」
毒づき、咄嗟に雪の上を這いずって進み、倒れているイレナを無事な方の手で抱き寄せた。そして顔を上げたカズは――、
「ちく、しょう……っ!」
『白猿』の口元に収束する白い光が一際眩く輝き、発射準備が整った事をカズは絶望と共に悟った。
無駄だと理解していながら、カズは咄嗟にイレナの上に覆いかぶさり、己の身体を盾にする。
そんなカズに向け、全方位から白光が瞬いた。
「――させない」
「――!?」
静かな声と共に、不意に誰かがカズの近くに着地した。その声に顔を跳ね上げたカズがまず見たのは、己を取り囲む炎の壁だった。
その炎の発生元へ視線を向ければ、そこにあったのは、右肩に生じた炎の片翼を周囲に展開する少年の背中で――。
「シンゴ……!」
――復活を遂げたキサラギ・シンゴが、アリス・リーベを腕に抱いて、そこに凛然と立っていた。
――――――――――――――――――――
「ア゛ー……?」
抜け駆けし、シンゴを絶命させ、アリスに手を掛けんとしたところを岩槍によって腕を貫かれた『白猿』は、目の前で起きた不思議な事象を前にして、腕の痛みも忘れて呆然とした。
仮に目があれば、すぐに反応できただろう。しかしその『白猿』は、目の前の想定外に対して、ただただ困惑し、首をひねるだけだった。
何故ならそこには、先ほど自らの手で絶命させたはずの少年が、確かな命の脈動を伴って立ち上がっていたからだ。
直後、『白猿』は自らの死を悟った。それは魔物故に予感できたのか、はたまた生物故の本能だったのか。今となっては、誰も知る由もない。なぜなら――、
「僕らを散々いじめてくれたんだ。当然やり返されるのも、覚悟の上ですよね?」
そんなセリフと共に首の骨を鳴らし、振り向いたシンゴは、目の前の『白猿』の顎を真下から躊躇なく蹴り上げた。
『白猿』の頭部が爆発するように破裂し、辺りに温かな鮮血を飛び散らす。
湯気の上がる赤く染まった雪原。ゆっくりと倒れる頭部を失った『白猿』の胴体。それを見届けず、シンゴは周囲に渦巻く悪意――その大半が注がれている場所へと紫紺の目を向けた。
そこでは、何やら口腔に白い光を収束させ、イレナを庇う手負いのカズに照準を合わせる『白猿』達の姿があった。
「しん……ぁ」
何か言いかけたアリスを咄嗟に抱え上げ、シンゴはその場から跳躍した。『激情』で強化された脚力はシンゴを『白猿』の群れの上へと導き、その中心にいるカズの元へと着地する。
着地と同時に、『白猿』達が一斉に白い光を口から放った。瞬間、シンゴは右肩で揺らめく炎翼を一気に広げる。
炎翼はシンゴを中心に、カズとイレナの周りを全て覆うように展開された。直後に衝撃が炎の壁を揺らす。しかし衝撃は中に届く事なく、全て炎の壁によって防がれた。
その事実を確認し、シンゴは炎翼の展開を解き、自身の右肩へと帰還させる。咄嗟の賭けだったが、この炎翼が相当の物理的強度を誇っていたらしいのは、嬉しい誤算だった。
ただ、シンゴの知る限りでは、引火する事はなく、物理的な接触が可能な炎の存在など聞いた事もない。
「……今更、か」
常識が通用しない事は今更だと疑問を切り捨て、シンゴは後ろに振り返った。そこには、シンゴの事を驚いた表情で、しかしどこか希望に笑んだ顔で見上げるカズの姿がある。
彼の全身にさっと視線を走らせたシンゴは、その痛ましげな姿に眉を寄せた。
カズの状態は、はっきり言って満身創痍と言っても過言ではなく、そんな状態でありながらイレナを守ろうとするその姿勢に、シンゴは思わず笑みをこぼした。
「すぐに治すよ、カズ」
そう言って、シンゴはカズの全身を覆うように炎翼を広げた。負傷した部位から発火し、「ぐ……っ」とカズが痛ましげに顔を歪める。しかしその顔の強張りも、すぐに安らぐように緩んでいった。
やがて全快したカズは、どこか申し訳なさそうな目でシンゴの事を見上げてきて、
「……すまん、シンゴ」
そのカズの言葉に何か返そうと口を開きかけたところで、攻撃を防がれた驚愕で停滞していた『白猿』の悪意が再燃するのを感じ取り、シンゴは咄嗟に口を噤んでその場に屈みこむと、
「カズ、話はあとで。今から僕が囮になるから、その間にアリスとイレナを連れて先に進んで」
「……正気か?」
眉を上げて驚きの表情を浮かべるカズに、シンゴは紫紺に染まった両目を細めるように笑って頷いてから、腕の中のアリスをカズに預けた。
そして立ち上がり、グッと親指を立てると、
「大丈夫、すぐに追いつくから」
「…………分かった」
どこか悔しげな表情で沈黙するカズだったが、最後には頷いてくれた。
そんなやり取りの間にも、周囲の『白猿』は吠え狂い、悪意の奔流を高めていく。しかし、すぐに襲ってこないのは何故だろうか。この期に及んで、まだこちらを舐めて遊んでいるつもりなのか。
「…………」
「――?」
視線を感じ、シンゴが視線を下げると、肩で荒い息をするアリスの真紅の瞳と視線がぶつかった。その苦しげな様子を見て、咄嗟に笑いかけて安心させようとしたところで、シンゴはふと眉を上げた。理由は、アリスからシンゴに対して激しい悪意を感じたからだ。
いや、それは普通の悪意とは少し毛色が違っていた。アリスのシンゴに対する悪意の正体は、複雑な感情をない交ぜにした激しい怒りだ。
しかし今は、その怒りの根拠を尋ねている時間はない。シンゴは開きかけた口を閉じ、弱々しく睨んでくるアリスから視線を上げてカズを見た。
「今から僕がこの包囲網の一部に穴を開ける。カズはそこを一気に走り抜けて、『金色の神域』へ」
「……分かった」
シンゴの言葉に、カズが神妙な顔で頷く。それにシンゴも首肯で返し、周囲の『白猿』の一部――『金色の神域』の方角へとその紫紺の瞳を向けた。
『白猿』達は牙を剥きながら、威嚇するようにシンゴへ向けて咆哮を飛ばしているが、一向に襲っては来ない。
「……さっきから、全然仕掛けては来ないな」
不審げに目を細めたシンゴの呟きに、カズがアリスとイレナをそれぞれ肩に担ぎ上げながら、
「たぶん、お前を警戒してんじゃねぇか……?」
そんなカズの推察に、シンゴは「なるほど」と頷き、
「ただの低能な野蛮猿じゃないみたいですね。けど、こっちとしては、自分達のタイミングで行ける分ありがたいかな。――カズ」
「いつでもいいぜ……!」
シンゴの声にカズが準備万端の意を告げる。その声を聞き、シンゴは腰を下げて足に力を込めた。ちらりと視線を横に向けると、そこには気を失ったイレナ、かなり苦しそうに浅い呼吸を繰り返すアリス、そして傷は治ったが、消耗の激しいカズの姿がある。
三人の姿を視界に収めたシンゴは、静かに俯き――、
「……殺す」
「――っ!?」
ぼそりと呟かれた底冷えするようなシンゴの声に、隣のカズが一瞬ぎょっとする。
そんなカズを余所に、シンゴは、胸の内を満たしていく『白猿』に対する憎しみが、怒りが、『激情』の力を更に一段上へと押し上げるのを感じた。
――次の瞬間、雪が爆ぜた。
一瞬で『白猿』の前まで肉薄したシンゴは、眼前にいる数体の『白猿』を、大きく広げた炎翼で一気に薙ぎ払った。
弾き飛ばすだけで、その息の根を止める事はおろか、軽傷すら負わす事は出来なかった。しかし問題はない。何故なら今は、道をこじ開けるのが目的だからだ。
「――今!」
「お、おおぉ――ッ!!」
シンゴの声を合図に、カズが咆哮を上げて開けた包囲網の穴に突貫する。
すると、そんなカズに向けて、何体かの『白猿』が口を開いた。
収束する白い光が、走るカズを狙う。
「――こっち向けよ」
その攻撃の悪意を先読みしたシンゴが、一体の『白猿』の横まで移動していた。声に反応して、瞬時に照準をシンゴに変えた『白猿』だが、もう遅い。
シンゴは振り向いた『白猿』の横っ面を、『激情』で底上げされた異常な力で思い切りぶん殴った。
ごりゅりゅ――と首の骨が上げる怪音と共に、殴られた『白猿』の首が正常な可動域を越えて百八十度近く捻じれた。その捻じれる途中、発射準備が完了していた魔法はキャンセルされる事無く照射。同様に魔法を放つ準備をしていた他の数体の首を、放たれた白光が綺麗に分断した。
無論その間、シンゴは黙ってその光景を眺めている訳ではない。『白猿』を殴った直後にはその場から駆け出し、今しがた殴りつけた『白猿』の、薙ぎ払い照射の真下を低い姿勢で走り抜ける。
走るシンゴに『白猿』が襲い掛かってくるが、既にその悪意は把握済み。横向きに薙がれる爪を跳躍で躱し、そのまま『白猿』の頭上で上下逆さになる。そして片手を『白猿』の頭の上に置き、即席の土台にして飛び越えを完了させる。
「ァ゛……」
シンゴの手元で、『白猿』の小さな声が――否、吹けば消えるような断末魔がこぼれた。
シンゴの手には、脊椎の一部を露出させた『白猿』の頭部が、白い毛を掴むようにして握られていた。
先ほど支えにした『白猿』の頭部を、シンゴはそのまま掴んで捩じ切っていたのだ。
「……よし」
『白猿』の頭部を雪の上に投げ捨て、頬に付着した返り血を拭ったところで、シンゴはカズが安全に包囲網を抜けられた事実を確認する。
しかし、この『白猿』達が全力で追いかければ、すぐに追い付ける距離だ。だから、まだシンゴの仕事は残っている。
シンゴは噛み付いてくる『白猿』の肩を踏みつけ、そのまま勢いよく跳躍。『白猿』の群れの頭上を飛び越えて、カズと『白猿』の群れ――ちょうどその中間に着地した。
そして、全ての『白猿』の注目を背中に集めながら、こめかみに手を添えて首の骨をこきりと鳴らすと、ニヤリと口端を裂いて振り向き――、
「ここを通りたければ、僕を殺してみろよ?」
そんな常套句を、ギラついた笑みと共に宣言した。