第4章:5 『柔と剛の選択』
「――へ?」
シンゴが目を覚ますと、目の前には僅かな光すら無い深い闇が広がっていた。
思わず呆けた声を漏らすが、ちゃんと喉から声が出て、それが自身の鼓膜を震わせた事実に、肉体の存在を確認できて安堵する。
そしてその安堵を足掛かりに、身体に己の意志がしっかりと巡っている事を把握。するとほどなくして、仰向けに倒れているらしい事が分かった。
次に首を巡らせて、シンゴは自分が校舎の屋上に転がっているのだと気付く。
そうして自分が一体どこにいるのか自覚すれば、自ずと先の深い闇が一体何なのかも判明する。
「空、か……」
夜空――そう称するには些か闇が濃すぎる気もするが、この世界にシンゴの常識は通用しない。もう幾度と訪れ、シンゴはそれを理解していた。理解、していたのだが――。
「なんで、教室じゃないんだ……?」
事ここに至れば、自分が命を落とし、あの奇妙な校舎に招かれたのだという事は分かっている。しかしいつもなら、シンゴが最初に目を覚ますのは教室のはずだ。それがどうして、今回に限って屋上で目を覚ましたのだろうか。
『――それは、私の所為だ』
「――!?」
心の声に返答が返され、シンゴは慌てて上体を跳ね起こす。するとそのタイミングで、目の前に圧倒的な光量が生まれた。
光源は炎だ。キサラギ・シンゴの目の前に、半身のみの炎鳥――『怠惰』を司る『大罪の獣』、ベルフがその姿を現した。
地を這うような熱に思わず顔を庇うシンゴを見下ろしながら、ベルフが先ほどの言葉の意味を口にする。
『以前より深まった私とのリンクから、その繋がりを手繰り、お前がここで目覚められるようにした。……迷惑だったか?』
どこか不安そうに声の調子を落とすベルフに、シンゴは「いや」と首を振り、
「教室だと、あんまし顔を合わせたくねえ奴がスタンバってるからな。正直これはありがたいよ」
『――そうか』
頷くベルフに笑みを返してから、シンゴはふと自分の胸に手を当てて頬を強張らせた。
その様子から、シンゴが一体何を懸念しているのか見抜いたらしいベルフが、
『大丈夫だ、安心しろ。この屋上は私の領域だ。ここにいる限り、イブリースの干渉を受ける事はない』
「……そっか」
ベルフの言葉に、シンゴは安心したように頬の強張りを解いた。
死の間際に、怒りの感情を抱いていたかは正直怪しいところだった。つまり、シンゴは『資格』を持ってきていない可能性がある。となれば、またあの感情の蓄積現象が起こるのでは、と危惧していたのだが、どうやら杞憂だったらしい。
「――さて」
そう言って、シンゴは膝に手を着いて立ち上がった。
感情の蓄積現象が起きないのなら、シンゴの行動を強制的に制限する懸念事項は他にない。それが知れた今、別段ここに長居する理由もないだろう。
だから――、
「俺を殺してくれ、ベルフ」
『…………』
まるで友人に雑談を振るような気楽さで、シンゴは自分を殺せとベルフに申し出た。
そんなシンゴの言葉に、一瞬だけベルフの身体を形作る炎が不規則に揺れる。しかし、シンゴはそれに気付いた様子はなく、無言で固まるベルフを不思議そうな顔で見上げた。
「どうしたんだよ、早く殺してくれって。この世界から出るには死ぬしかないんだろ?」
『そう、だが……』
「この世界と外の時間の流れに違いがあるかは知らねえけどさ、早くしねえとアリス達がピンチなんだよ。お前も分かってるだろ? ――あ、そうだ! ベルフ、『ウォー』の時みたいに俺の身体を使って」
「――その役目、僕が担っても構いませんよ?」
「『――!?』」
『白猿』の群れに対抗する為に、ベルフの力を貸してほしいと頼もうとしたところで、前触れなく第三者の声が割り込んできた。
聞き覚えのあるその声は、先ほどシンゴが顔を合わせたくないと述べた人物のもので――。
「なんで、お前がここにいんだよ……カワード!」
「僕はどこにでもいますよ。だって僕は、君自身でもあるんですから」
シンゴの言葉にそう返し、金髪を掻き上げて微笑するのは、この校舎に居座る亡霊――カワード・レッジ・ノウだ。
教室以外の場所でなら会わないだろうと思っていたのだが、よく考えてみれば、以前カワードは教室の外に出てシンゴをイブリースの元まで案内している。
故に、カワードがこの場に現れても不思議ではない、シンゴがそう納得しそうになった時だった。
『どうして……ここにいる? アイツ側であるお前が、私の領域に踏み入る事など……』
ベルフが、驚愕を孕んだ声音でカワードを見やりながら言った。
察するに、どうやら先ほどのシンゴの考えは間違っていたらしい。そしてベルフの言う通りなら、本来カワードはこの場に存在してはいけないのだ。
「そんなに睨まなくても、これは単なるベルフさんの落ち度ですよ」
『私の落ち度……?』
シンゴが警戒の眼差しを向けていると、肩を竦めたカワードがそんな事を述べた。
しかし当のベルフは、カワードの言葉に心当たりがないらしい。
「先ほど言っていたリンク……まだ完全ではないですよね?」
『……まさか』
カワードの言葉に、何かに勘付いたらしいベルフが目を細めた。
そんなベルフに対しカワードは、「ええ、そのまさかです」と肯定し、未だ理解に達していないシンゴにその視線を向けると――、
「たしかに、君とベルフさんの間に結ばれた繋がりは、以前よりも強固なものとなりました。――でも、まだ不完全だ」
「……不完全」
「そう、不完全です。たとえ『大罪の獣』とのリンクであっても、少しでも隙間がある限り、僕は君の傍に在れる。何故なら僕は、君だから」
つまり、ベルフとシンゴの繋がり――リンクが不完全であるが故に、カワードはこの場に現れたのだ。
ならばそれは、この校舎にいる限り、眼前の男から逃れられる安全な場所など存在しないのと同義なのではないだろうか。
「――それでは、改めて確認です」
戦慄するシンゴを余所に、カワードが口を開いた。
「やる事は単純です。君は選べばいい。ベルフさんか……それとも僕か」
「……選ぶ」
カワードの言葉を復唱し、シンゴの視線がベルフとカワードを行き来する。
しかしそこで、まるで迷う暇すら与えないと言わんばかりに――、
「早くしないと、アリス・リーベさん以外、すぐに死にますよ?」
「――っ」
微笑みと共に告げられたカワードの言葉に、シンゴの心臓が大きく跳ねる。
確認するようにベルフへと顔を向けると、ベルフは黙ったまま特に否定はしない。それは言外に、時間がほとんど残されていない事を告げていた。
『――シンゴ、私を選べ』
「ベルフ……」
『魔物を全て薙ぎ払う事は難しいが、仲間を窮地から必ず救い出すと約束する。だから、その男の力には頼るな』
自らを推すベルフと視線が絡む。その視線からは、彼が決して嘘を吐いておらず、シンゴの力になろうとする真摯な気概が窺えた。
一方――、
「ぬるいですね、それに弱いです。ベルフさんの技は確かに強力ですが、戦術の基盤となる『残陽』とやらは、相手の視覚に訴えかける技術ですよね? しかしあの『白猿』は、そもそもその視覚が存在しない。それに対し僕なら、あんな剥き出しの悪意に後れを取る事なんて、まずありえません」
『……ッ! 私は――』
ベルフが何か言い返そうとした瞬間、カワードが両目を紫紺に染め、ベルフを睨み上げた。
『――っ!?』
途端に息を詰まらせ、まるで何か圧倒的な存在に睨まれたかのように、ベルフの動きが静止した。
そんなベルフを、カワードは冷たく細められた紫紺の瞳で見上げながら、首の横に片手を添えてコキリと骨を鳴らして、
「認めろよ、そして理解しろ。キサラギ・シンゴが欲しているのは、仲間を確実に救う力だ」
『……っ』
カワードの容赦のない言葉に、炎の身体を小刻みに震わせながら悔しげな様子のベルフ。そんな二人の前で、シンゴは静かに吐息した。
そして、二つの視線を浴びながら、前へと歩を進め――、
「――ごめん、ベルフ」
『シ、ン……ゴ……っ!』
キサラギ・シンゴは、カワード・レッジ・ノウの前に立っていた。
この男に頼るのは非常に嫌である。しかし、先ほどカワードが言った通り、今必要なのは確実に危機を切り抜けられる力だ。
ベルフの持つ技は、多様かつ有用だ。しかし、『残陽』が意味を成さないのはかなり痛い。それに比べ、カワードの悪意を読む力は『白猿』に対して綺麗に刺さる。悪意を隠そうともしない魔物相手には、まさに打って付けのスキルだ。
『激情』を発動できれば、シンゴでも悪意を読み取る事は可能ではある。しかし、元々そのスキルはこの男の物。そして現状、『激情』を己の意志で確実に行使できる自信のないシンゴにとって、この男の協力は権威の確実な発動も意味する。
「翻弄するだけじゃダメだ。圧倒的な力で、『白猿』の注意を全部俺に向けねえと」
柔と剛で分けるなら、ベルフが柔、カワードが剛だ。これはあくまでベルフとカワードを比べた場合の評価であり、二者を比べず区別するなら、また事情は変わってくるだろう。
しかし、現状の評価ではこれが妥当だ。
目下の危機に際し、どう動くか。『白猿』の殲滅が理想的だが、それはあまり現実的ではない。何故なら、数が尋常ではないからだ。
シンゴが命を散らした時にも、未だ『白猿』の数は増え続けていた。
となれば、シンゴが取るべき選択は、他の三人を安全に逃がす事だ。
そうして、いかにシンゴ以外の三人を『白猿』の包囲網から逃がすかに重点を置けば、まず真っ先に思い付くのは、シンゴが囮になる事である。
その案を通すには、『白猿』の注意をシンゴに向けなければならない。その点、『激情』の権威が使えれば、『白猿』は確実にシンゴを警戒対象として認識するだろう。
故に、この場ではこの男の手を取る事こそが最善のはず。
そんな言い訳がましい理屈を頭の中でつらつらと考え、選ばなかったベルフに対しての罪悪感を誤魔化していると、不意に目の前にカワードの手が伸びてきた。
その手はシンゴの顔面を鷲掴みにし、同時に口も塞いだ。
「……っ!?」
「決まりですね。なら、さっさと済ませましょうか」
驚きに目を白黒させるシンゴの眼前で、カワードは紫紺の瞳を仄暗い笑みに歪めた。
「お望み通り、殺してあげますよ」
「ぁ……い、ぎぃっ!?」
側頭部にかかる圧が強まり、耐えがたい程の激痛が脳を圧殺しにかかる。
堪らず口から苦鳴が漏れ、視界がぐにゃりとぼやけるように歪んだ、次の瞬間――、
「ぅぶっ――」
キサラギ・シンゴの意識は、真っ赤に破裂して、現実へと帰還した――。