第4章:4 『白猿』
「――は?」
黒い顔面の上部、本来その眼窩に収まっているはずの眼球はなく、そこにはただの暗闇が広がっていた。――にも拘わらず、その空虚な眼窩は確実に、シンゴの事を見ていた。
突然の事に頭の中が空白に埋め尽くされ、シンゴはその空洞を見ている事しかできない。
しかし、生温かくて臭い呼気が顔に吹き付けられた事で、意識が一気に現実へと引き戻された。
「――ひっ」
思わず喉からこぼれたその悲鳴に、目の前の化け物がピクリと反応する。
眼前で一気に膨れ上がった濃密な殺気は、もはや視認する事すら可能なのではないか、とシンゴに錯覚させた。同時に、明確な『死』のイメージが脳裏に過る。
そしてそのイメージは、数瞬後には現実のものとなった。
「ア゛――」
ざらついた声と共に、唾液の糸を引いて開かれた口腔がシンゴの視界を覆った。
開口と同時に、死を凝縮した生臭い呼気が、シンゴの顔面をまんべんなく撫でる。
すぐそこには、肉を抉り、削り取るのに最適な形状の牙がズラリと並んでおり、次の瞬間には、それが一気に近――
「――シンゴッ!!」
「ア゛ア゛ッ!?」
死の牙がシンゴに届く寸前、突如に視界が晴れ、死が遠ざかった。
すぐ隣で起きていた異常事態に気付いたアリスが、咄嗟に化け物を蹴り飛ばしたのだ。
「ぁ……っと、え?」
「なにボーっとしてやがんだシンゴぉッ!!」
理解が現実に追いつかず、シンゴが呆けていると、鬼のような形相を浮かべたカズが怒鳴り声をぶつけてきた。
その声に対し何かリアクションを取る前に、今しがた化け物を蹴り飛ばしたアリスがシンゴの上に覆い被さってきた。
「おわ――っ」
視界が後ろに回り、背中に冷たい雪の感触と、身体の前面にはアリスの柔らかな温もりが広がる。
しかしその両方に意識が向く前に、背後へと傾くシンゴの目の前を何かが横切った。
直後にはらりと舞うのは、切り裂かれたアリスの白髪とシンゴの前髪の一部だ。
「『エンチャント・デ・ウィンド』!!」
咄嗟にアリスが風を身に纏い、そのまま押し倒していたシンゴを抱えると、その場から全力で退いた。
渦巻く風で雪を巻き上げながら、シンゴを抱えたアリスはカズの近くに着地する。
「バカ野郎! 何をボサっとしてやがったんだ!?」
「わ、悪い……」
カズの叱責に、尻もちを着きながらシンゴは咄嗟の謝罪を返すが、その視線はカズではなく、前方――先ほどまでいた場所に注がれていた。
そこには、全身を白い毛で覆われたゴリラのような生物が、腕を振り抜いた体勢で佇んでいた。
その白い生物の体勢から、先ほど目の前を横切ったのは、あの生物の指先にある鋭利な爪だった事が察せられた。
「……何なんだい、あれは?」
シンゴを窮地から救い出してくれたアリスが、緊張を孕んだ声音で問いを発した。
その質問に対し、『ゼロ・シフト』で体力の全てを使い切り、気を失ったイレナを腕に抱くカズが、眼前の化け物を睨みながら口を開いた。
「ありゃたぶん……白猿だ」
「白猿……?」
「ああ、オレもあんまり詳しくはねぇが……魔物の一種で、とにかく厄介なヤツだ」
顎に緊張の汗を伝わせつつ、カズが眼前の魔物――『白猿』について述べる。
そのカズの様子から察するに、相当に危険な魔物だろう事が窺えた。
「厄介って……強いのかい?」
『白猿』の厄介さについて触れるアリスの質問に、カズは「それもあるが……」と苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、
「コイツらは……群れやがるんだ」
――そうカズが述べた次の瞬間、そこら中の雪が隆起し、下から幾体もの『白猿』が這い出てきた。
「うそ、だろ……?」
這い出てきた『白猿』の数は優に十体を超え、その数はまだまだ増え続ける。
「ふざけろ、何体潜んでやがったんだ……っ」
「お、おい……これ、相当まずいんじゃ……!」
「んなこたぁ分かってる……ッ!」
ようやく現状に理解が追い付き、シンゴは青い顔で声を震わせるが、返答するカズの声も震えていた。
先ほどのアリスとの攻防でも分かるが、あの『白猿』という魔物は、実際カズの言葉通りかなり強いのだろう。
証拠に、吸血鬼であるアリスの蹴りを喰らったにも拘わらず、最初の一体は全くもって応えている様子は窺えない。
そして、アリスの攻撃に耐え切るその強靭な肉体から放たれる攻撃が、決して生易しいものでない事も確実だろう。
そんな『白猿』が数十体。対してこちらは、『ゼロ・シフト』の反動で気を失ったイレナを抱えた状態だ。加えてシンゴは、まったく戦力にならない。
絶体絶命――そんな言葉が脳裏を掠めた。
――そして、悪い状況はさらに重なる。
「あ、れ……?」
「アリス!?」
不意にアリスの纏っていた風が霧散し、彼女はそのままふらり片膝を着いた。
一体何が起こったのかと視線を向けると、膝を着くアリスの横顔は青白く、肌には玉のような汗が浮かび、ぜえぜえと息が荒い。明らかに体調に異変を来たしている様子だ。
そして、そんな隙を見逃してもらえる訳もなく――。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァァ――ッッ!!」
まるでリベンジと言わんばかりに、最初に遭遇してアリスと一戦を交えた個体が、耳障りな咆哮と共に突っ込んできた。
丸太のような太腕を地に着けて四足走行するその姿は、まさしくシンゴの知るゴリラと同じ移動法である。しかし、その速度は桁外れだ。
雪を撒き散らして向かってくるその様は、眼球の存在しない不気味な顔と相まって、根源的な恐怖を掻き立ててくる。
そして恐怖は思考を、動きを縛る鎖となる。結果、シンゴは竦んでその場から動けずに固まってしまった。
「『ガイア・ド・ランス』――ッ!!」
そんなシンゴを余所に、カズが動いた。カズは片手を地にかざし、新たに習得した土系統の魔法を行使する。
詠唱に従い、雪を突き破って出現した岩の槍が、突進してくる『白猿』を真下から突き上げた。
だが――、
「な……っ!?」
貫いたかに思われた岩槍は、しかし途中で『白猿』の腕に掴み止められ、その白い身体を穿つには至らなかった。
『白猿』はそのまま握力だけで岩槍を粉々に粉砕すると、しきり直しと言わんばかりに咆哮を上げた。
すると、その咆哮に呼応するように――、
「「「「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァァァ――ッッ!!!!」」」」
「……ッ!?」
そこかしこの『白猿』が吠え始め、歪で不快極まる合唱が始まった。
そのあまりの不快な騒音に、シンゴは思わず耳を塞いでぎゅっと片目を瞑る。
辛うじて両目を閉じる事だけは拒んだシンゴは、残った片方の目でそれを見た。いや、厳密には見えなかった。
――最初に咆哮を上げた『白猿』が、突如として目の前から掻き消えた。
「――ッ!? 『エンチャ――がぁっ!?」
「カズ――!?」
背後にて、カズの硬化魔法の詠唱が途中で途切れ、直後に苦鳴が上がった。
慌てて振り向くとそこには、いつの間にか肉薄した『白猿』が振り下ろした凶爪を、咄嗟に構えた錆びた大剣で受け止めるカズの姿があった。
さすがに吸血鬼であるアリスには及ばないものの、脳筋と言うだけあって、カズの膂力は相当なものだ。
しかしシンゴの視線の先では、カズは片膝を着き、顔を苦悶に歪め、押し潰されないように耐えるだけで精いっぱいな状況だ。
その攻防に対し、周りの『白猿』がまるで囃し立てるように耳障りな声を上げる。
そんな魔物達の様子と、目の前にいたシンゴとアリスを無視し、わざわざ背後のカズに攻撃を仕掛けた事から、完全に遊ばれている事が分かる。
「ぐっ……『エン、チャント……ド、グランド』……ッ!」
砕けんばかりに噛み締められた歯の隙間から、カズが辛うじて詠唱を吐き出し、自身に硬化魔法をかけた。
だがあの魔法は、あくまで肉体の耐久度を向上させるだけであり、ただの延命措置にしかなり得ない。
「アリ――」
「ぅ……はっ、はぁっ……はぁ……っ」
シンゴはアリスに頼ろうと声を上げかけ、地に両手を着いて苦しげに喘いでいるその姿を見て、半分ほど出かかっていた助けを求める声を引っ込めた。
自覚はしている。キサラギ・シンゴがこの場で最も役立たずな事は。しかしそれは、諦めて仲間に丸投げしていい理由にはならない。
きっと何かあるはずだ。シンゴに出来る――否、シンゴにしか出来ない事が。
「ア゛ァ――!」
そのタイミングで、あたかも自分も混ぜろと言わんばかりに、今まで周りで吠えるだけだった『白猿』の内の一体が、ゆっくりと前へ進み出てきた。
やがてその『白猿』が立ち止まったのは、もはや身体を支える事すら辛いのか、横に倒れて荒い呼吸を繰り返すアリスの前だった。
それを見たシンゴは――、
「――はは」
――笑った。
『激情』の使えないシンゴが今出来る事。それは、もう一つの権威――『怠惰』の不死の力で仲間の盾となる事だ。
何も変わらない。この世界に来る時に立てた決意は、変わらない。己が肉体を、護る為の肉の盾にするのだ。
キサラギ・シンゴの存在価値は、今この時が最高潮だ。
ニタリ――と、アリスを空虚な眼窩で見下ろす『白猿』の口端が残虐に吊り上がり、まるで見せ付けるように、緩慢な動作でその鋭い爪を振り上げた。
高まる同族からの囃しを受け、『白猿』の鋭利な爪が、不可解な体調不良で朦朧とするアリスに向けて斜めに薙がれた。
「――ぉあッ!」
――寸前、アリスを庇うように、己を奮いたせる声を上げたシンゴが身を躍らせた。
迫る魔物の凶爪に、迎え撃つのは一人の男の狂笑。
両者の激突の結果は、火を見るよりも明らかだ。数瞬後には、シンゴの脆い肉体は斜めに両断され、その命を散らす事だろう。もしかしたら、吸血鬼の再生能力で一命は取り留めるかもしれない。それならそれで構わない。肉の盾の使用回数が、一回から二回に増えてくれるのだから。
――しかし残念ながら、肉の盾がその本領を発揮する事はなかった。
「――っ!?」
急に身体が後ろから引っ張られ、シンゴはそのまま後ろに倒れ込む。
「づっ……!」
倒れた直後にシンゴを襲ったのは、爪で表面を裂かれた胸部が発する激しい熱と痛みだ。
しかしその爪痕も、すぐに吸血鬼の力が癒しにかかる。再生には二秒もかからなかった。
「し……ん、ご……!」
「――!」
背中から聞こえた声に、シンゴはようやく己がアリスの上に倒れている事に気が付く。
どうやらアリスが、シンゴの制服の裾を引っ張り、『白猿』の攻撃から助けてくれたらしい。
しかし、未だこの劣勢は何も変わらない。
証拠に、攻撃を回避された目の前の『白猿』は、怒り狂ったように唾を飛ばしながら歪んだ声を迸らせ、両拳を自分の胸部に激しく打ち付けている。
「――――」
シンゴは無言で、何か言おうとしながら服を掴んでくるアリスを振り払い、真紅に染まった右目を血走らせながら立ち上がった。
そして、両手を広げ、怒り狂う『白猿』の前に立ち塞がる。
「だめ……だ、しん……」
「――こいよ。クソゴリラ」
嘲弄の笑みを浮かべ、侮蔑を込めたシンゴの言葉に、それを理解したかは定かではないが、『白猿』が今度こそ容赦のない一撃をシンゴに向けて放った。
「――ごぁッ!?」
「しっ……ご……っ!」
「ア゛ア゛ッ! ア゛ア゛ッ! ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛――ッッ!!」
振り抜かれた爪はシンゴの胸を抉り、一気に引き抜かれ、吹き出す鮮血を押し退けて更に爪が胸を抉る。
何度かそれが繰り返され、『白猿』の腕がシンゴの胸を完全に貫通した。その爪先には、何やら脈打つドス黒い塊が引っかかっている。
――『白猿』の攻撃はなおも続く。
それが、仲間の前で恥をかかされた事に対する怒りなのか、はたまた、こけにされた事に対する怒りなのか、詳細は判然としない。
ただ分かるのは、『白猿』はその純粋な怒りで、吸血鬼の再生能力が追い付かずに胴体がぐちゃぐちゃになるまで、キサラギ・シンゴを抉り続けたという事だけででででで――。
――――。
あわよければ、ぼくの……俺の? うん、俺の貯金した時計がいっぱいある間に、みなさんには大変よくガンバッテほしいなと肉はオモいま死たぁぁァ――……。