番外編 『シャルナ・バレンシールの休日』
拙作『虚飾のアリス』を投稿し始めて一年が経ちました!
本当なら四章を開始したかったのですが、忙しくてプロットが完成してません、ごめんなさい!
しかし何もしないのは寂しいなと思い、以前より書いてみたいなーと思っていた話を番外編として投稿したいと思います。この話は二章が終わってしばらく後のものです。どうぞ、ごゆっくりしていってください!
「――辞める」
王都『トランセル』――その王城内にある一室で、シャルナ・バレンシールはそんな第一声と共に辞表を勢いよく机に叩き付けた。
すると、机を挟んだ反対側から呆れを孕んだため息が落とされた。
「はぁ……今度は何だ? いったい何が不満だっつーんだ、あ?」
椅子の背もたれに深くもたれ掛かりながら、着流しをまとった覇気のない中年の男――ベッシュ・ウゥユ・ヴジトが、机の上の辞表をトントンと指で叩いて問いかけてくる。
その質問に、シャルナは勢いよく机を叩くと、
「不満!? 全てが不満だってーの!」
「だから、何がだ?」
「まず、給料安すぎ!」
「お前は副団長だろうが。これ以上はそう簡単に上がらねぇよ、バカ。なんなら、俺と団長変わるか? ま、一週間も経たねぇ内に過労で胃が死ぬけどな、ふふ」
乾いた笑みを漏らして自虐を吐くベッシュに、シャルナは一瞬「うっ」と喉を詰まらせるが、それも本当に一瞬の事。もう一度、机を勢いよく叩いて身を乗り出すと、
「休み少なすぎ!」
「それこそ副団長なんだからしょうがねぇだろうが。ジャイルさんを見習え。年寄りのくせして、ほぼ無休で働いてらぁよ、あの人」
「――っ」
ベッシュの言っている事は正論なのだが、いかんせんその態度が相手を嘲弄するようなもので、シャルナは悔しげに奥歯を軋らせる。
だが、たった今シャルナが訴えたものはジャブに過ぎない。本題は次だ。
シャルナは両手を振り上げると、勢いよく机に叩き付けた。
「おいバカ!? なんべんも机ぶっ叩くんじゃねぇ! 書類が落ちたじゃねぇか!」
書類の山が崩れて床に落ち、舌を打つベッシュ。しかしシャルナはそれを無視して、書類を拾う為に嫌々立ち上がろうとしたベッシュの胸ぐらを、身を乗り出して引っ掴んだ。
突然の事に目を丸くするベッシュの目の前で、シャルナは肩を怒りに震わせながら絞り出すように言った。
「何より許せないのは、どうしてこのアタシがあんな気色わりぃ貴族の豚どもの相手をしなくちゃなんないのかって事! それも毎日、毎日……アイツらの下心にまみれた下卑た視線に全身を舐め回され続ける日々……もう限界なんだっつーの!!」
「お、おう……そうか」
シャルナの剣幕に、ベッシュは頬を引き攣らせながら相槌を打つ。しかしシャルナは火がついたらしく、その口は閉じる事無く不満を吐き出し続ける。
「だいたいアタシの仕事じゃねーんだっつの! アタシの専門はどっちかってーと、戦闘方面なの! そりゃアタシだって、騎士団入った頃はそれなりに頑張るぞー、とか思ってたけど! けど!! フタ開けてみりゃこのザマじゃん! やってらんねーっての!!」
「お、落ちつけって……な? シャルナさ、ん――ッッ!?」
思わず「さん」付けになるベッシュだったが、シャルナに思いっきり引っ張られ、その拍子に股間を机と自分の身体で挟んで悶絶。
しかしシャルナはお構いなしに――、
「アタシはもっと尊敬されたい! ちやほやされたい!! 楽したい!!!」
「この……クズ娘、が……ッ」
拳を握り締め、至近距離で願望を吐き出すシャルナに、ベッシュは股間を押さえて脂汗を垂らしながら恨めしそうな顔。
やがてシャルナはベッシュの服から乱暴に手を放すと、「ふん!」と鼻を鳴らして腕を組み、後ろを向いて黙り込む。
「…………はぁ」
股間の痛みが和らいだベッシュが、深いため息を吐いた。
そして、後ろを向いたまま一向に部屋から出て行こうとしないシャルナの背中と、机の上の辞表に視線を往復させ、もう一度深いため息。
「……辞表は受け取らん。だが、代わりに――」
「――代わりに?」
ベッシュの言葉に、シャルナがちらりと振り向く。気にしてない風を装っているが、その瞳は期待でキラキラと輝いている。
そう、シャルナが初めに叩き付けた要求はブラフだ。本当の狙いは、同情を誘って譲歩を引き出す事。
無論、ベッシュもそれは既に見抜いていた。おそらく目の前の辞表の中は白紙だろう。
しかし、思うところがない訳ではない。確かに最近、貴族の護衛任務ばかり回していた気もする。それに、シャルナが今でも修道院に給料の大半を送っている事もベッシュは知っていた。修道院には既に国からの援助が出ているにも拘わらず、シャルナは変わらず送金を続けている。
それらを踏まえた上で吟味し、ベッシュはこう提案した――。
「シャル。お前に明日、休暇をやる。羽でも伸ばしてこい」
「よっしゃ――とと。ま、まあ? 騎士団も人手不足だし? アタシが抜けると大変だろうし? 休暇はありがたく貰っておくとして、辞表は別に破り捨て――」
「分かったからさっさと消えろ! 俺は仕事が残ってんだよ!」
「へーい!」
――こうして、シャルナは巧みな交渉術を駆使し、見事休暇を勝ち取ったのだった。
――――――――――――――――――――
――翌日、シャルナは繁華街を訪れていた。
基本的に休日は家でごろごろして過ごす彼女だが、たまには――と思い至り、外出する事にしたのだ。
しかし、これでも一応シャルナは有名人だ。表の顔しか知らない人々からしたら、彼女はアイドルのような存在。元々は上に媚を売る為の仮面だったのだが、いつの間にか尾ひれが付いて民衆に広がり、現在の彼女の表の人物像が出来上がった。
つまり何が言いたいかと言うと、素顔を晒していてはせっかくの休暇が台無しになる。
そこでシャルナは考え、思い付いた。変装をしよう、と。
「――さすがアタシ。変装してても、ちょー可愛いじゃん!」
とある飲食店のガラスの前で、シャルナは満足げに頷いた。そこに映っているのは、あの金ピカの鎧にも劣らぬ派手な私服を着たシャルナの姿だ。
そして件の変装はというと、顔だけ。更に詳細を述べれば、遮光レンズの入った黒いメガネをかけ、帽子を被っただけの雑なものである。
「これ以上はアタシの美貌が損なわれる」
という持論で、これだけの変装に留めたのだ。彼女らしいと言えば聞こえは良いが、実際はただの考えなしである。
そして本人が言う通り、シャルナは黙っていれば確かに美少女だった。こんな雑な変装で隠し切る事が不可能なくらいには――。
後ろを通りかかる人々の内、何人かが彼女を見て何かに気付いたような顔をして固まる。しかしその全員が、ガラスの前でポーズを取るシャルナに微笑みを浮かべて頷くと、そっとその場を後にした。
――優しさとは、本人の気付かない所にあるものだ。
「――さて、行きますか」
ガラスに映る自分の姿に満足したのか、シャルナはそう言うと、今まで姿見代わりにしていたガラス――それが張られている店のドアを開けた。
ベルの音が鳴り、扉が閉まる。その店の看板には、こう書かれていた。
『酔いどれ亭』――と。
――――――――――――――――――――
昼間にも拘わらず、店内の席は既に多くの客で埋まっていた。
客の比率は男が多くてむさ苦しいが、そこに華を添えているのが忙しなく動き回っている給仕の少女達だ。
そしてよく見てみれば、彼女達が普通の人間でない事が分かる。
店主の勘違いから正装となったメイド服――そこから覗く動物の耳や尻尾が、彼女達が『半獣人』である事を証明していた。
そんな彼女らの働く姿を横目に、シャルナは酔っ払い達の間を涼しげな顔で縫うように抜け、奥のカウンター席に腰を下ろす。
そして帽子を目深に被り直し、目の前にいるフライパンを持った巨女に注文を述べた。
「マスター、ミルクを」
「おやぁ! シャルナじゃないかい!」
「…………」
――一瞬でバレた。
「ひ、人違いではないでしょうか。自分、つい先ほどこの国に来たばかりの旅娘で――」
「あ、ルナルナにゃ!」
「――っ!?」
咄嗟にシラを切りながら顔を背けた瞬間、特徴的な語尾をした陽気な声と共に、少女の顔がずいっと真横から割り込んできた。
驚いて身をのけ反らせるシャルナの事を『ルナルナ』なる愛称で呼んだのは、頭頂部でネコ耳をぴょこぴょこ揺らす猫の半獣人――従業員の一人である少女だった。
「あ、ほんとだ! ルナルナだぁ!」
「――っ!?」
続いて、シャルナが驚愕から立ち直る前に、今度は反対側から別の少女の声が割り込んできた。
驚いて振り返ると、そこにはリス耳の少女が頭頂部の耳を嬉しそうに揺らして、シャルナの顔をキラキラした瞳で覗き込んでいた。
左右から挟み込むような形で、二人の少女が嬉しそうに顔を寄せてくる。その言い知れぬ圧に、シャルナは冷や汗をだらだらと流して固まる。
咄嗟に上手い言い訳も思い付かず、左右から迫る顔にシャルナの焦燥は加速する一方だ。
絶体絶命――そんな言葉が脳裏に過った、次の瞬間だった。
「「サボるな!」」
「ぎにゃっ!?」「うぎゅっ!?」
不意に背後から発せられた二人分の重なる声と同時に、シャルナに迫っていた二人の少女の脳天にそれぞれお盆が振り下ろされた。
悶絶してしゃがみ込む二人を余所に振り返ると、そこには――、
「なに二人してお客さんに迷惑を……あれ?」
「……シャルナ?」
振り向いた先には、それぞれ片手にお盆を手に持った二人の少女が立っていた。
一人はキツネで、もう一人はイヌの半獣人だ。
そしてさも当然のように、二人ともあっさりとシャルナの正体を看破してきた。
「…………」
――結果、シャルナは四人の半獣人少女達に包囲される形となった。
「か、かしこまりました! 今すぐお持ちしま――……え?」
客からの注文を受けて小走りで駆けてきた最後の従業員――メガネをかけたウサギ耳の少女が、足を止めて戸惑いの声を漏らした。
固まる二人と、そのすぐ近くで蹲って悶絶する二人――合わせて四人の同僚達が、一人の客を囲んでいる。そんな珍妙な光景を目にすれば、誰でも似たような反応をするだろう。
理解し難い状況にしばらく固まっていたウサギ耳の少女だったが、やがて四人に囲まれているシャルナに目を留めると、「あ」と何かに気付いたような声を漏らし――、
「シャルナちゃんだ……!」
「…………」
――呆気なく、『酔いどれ亭』で働く全員に、シャルナの変装は看破されたのだった。
――――――――――――――――――――
「なぜ、バレたし……!」
注文した砂糖たっぷりのホットミルクに口を付けつつ、シャルナは納得がいかないといった顔で呻いた。
すると、そんなシャルナの言葉に、隣の席から笑いを堪えるような声で返答が返ってきた。
「そりゃ当然でしょ。まさか、そんな雑な変装で顔見知りの私達を騙せると思った?」
「……うっさい」
「――ひげ、出来てるよ?」
「――!?」
口周りに付着したミルクで出来た白いひげを指摘され、シャルナは慌てて袖でそれを拭うと、隣で口を手で押さえて笑いを堪えるキツネ耳の少女――キアを睨み付けた。
「あはは。そんな怖い顔してると、美人が台無しだよ?」
「……ふん」
キアのそんなからかい文句に、シャルナは渋面を作ってそっぽを向く。
先ほどの身バレ騒動は、店主――シモアの一喝で鎮静化された。そして現在、ちょうど客が減ってきたという理由で休憩に入ったキアがシャルナの隣に座っている。
「それにしても、ほんとに久しぶりだよね。急に来るからびっくりしたけど、一目でシャルナって分かった」
「うぐ……っ」
言外に変装が下手だと言うキアの指摘は先ほどのものを合わせて二回目で、シャルナは悔しげに顔を歪めるも何も言い返せない。
そんなシャルナをにこにこしながら見つつ、キアは過去に思いを馳せるように虚空へ視線をさまよわせると、
「昔はよくイレナと一緒に来てたのに、最近はまったく来てくれてなかったからね。これでもけっこう心配……は、そんなにしてなかったか。よく噂とか聞いてたし。ただ、私の知ってるシャルナとはかけ離れた人物像で、だけど」
「……こっちにも色々と事情があんだって」
「なるほどなるほどぉ」
ミルクに口を付け、今度は舌で綺麗に口周りのミルクを拭い取ったシャルナがぶっきらぼうに返すが、キアは楽しそうに相槌を打つだけだ。
そんな彼女の態度にシャルナはやり難さを感じつつも、同時に懐かしさにも似た不思議な安心感を得ている自分がいる事に気が付いた。
先ほどキアが言った通り、昔はよくイレナと共に修道院を抜け出してはここに遊びに来ていた。そして、そんな二人の隣にはいつも、もう一人の少女の姿もあって――。
「ところで、ほんとにどうしたの? 何年も顔を出さなかったのに、急に来るなんて。前もって一言でも言ってくれてれば、それなりの歓迎もできたのにさ」
「いや、アタシは……」
「あ、もしかして久しぶりに私達に会うのが恥ずかしかったとか? それで変装を――」
「ち、違うっつーの! 変装は立場上必要ってだけで、別に恥ずかしいからとかそんな事じゃ――っ」
「そりゃそうか。なにせ、今のシャルナは人気者だからねぇ」
「キア……てめぇなぁ……ッ」
拳をカウンターに叩き付けて睨みを利かすシャルナだが、キアは涼しい顔でけらけらと笑うだけだ。
それを受けて、シャルナは肘をカウンターに預けて手の平に顎を乗せると、嘲弄するような笑みを浮かべて呟いた。
「はぁ……能天気のバカにゃなに言っても無駄かー」
「シャルナ? 聞こえてる聞こえてる」
「聞こえるように言ってんだっつの、バーカ」
「ぐっ……ほんと、そのイイ性格は相変わらずだね……」
「そりゃどーも」
ようやくそれらしい反応を引き出せて、シャルナは満足げな表情で残りのミルクを一気に飲み干した。
熱が喉を通り、胃の中心で広がる。ただ、広がる熱はミルクのものだけではない。
胸に手を当て、シャルナがむっと顔を顰めていると――、
「それで、ほんとに何しに来たの? 私達とゆっくり話をしに来たってのは、この忙しい時間帯に来るのは変だし……別に私達の顔を見たかったからって理由なら嬉しいけど、本当の目的は別にあるんでしょ?」
「あ? あーっと、それはほら……暇だったからで……」
キアの踏み込んだ質問に、シャルナは視線を泳がせながら頬を掻く。
そんなシャルナの見え見えな反応にキアは苦笑すると、組んだ手の上に顎を乗せ、首を傾けながら口の端をニヤリとつり上げた。
「もしかして……イレナ?」
「はぁっ!? なんでそこでイレナが……っ」
「お、その反応は図星かな? さては、イレナがここに顔を出してないかなー、とか思ってこっそり来てみた口でしょ?」
「だから違うつって――」
「でも、それなら残念。イレナはついこの前、キサラギ・シンゴ達と一緒に北に向かったって、そうアネラスさんが言ってたよ?」
「――は?」
今、キアは何と言った。イレナがあの男達と一緒に北へ向かったと、そう言ったのだろうか。
しかし、たしかシャルナが聞いた話だと、イレナはここに残るという話だったはずだ。
動揺のあまり固まるシャルナを見て、キアは「ありゃー」といった顔で苦笑すると、
「その様子だと、やっぱり事情は聞かされてない感じかー」
「そりゃ、こっちは忙しかったし……」
「急な話だったらしいよ。だから、私達もアネラスさんから聞いた時はびっくりしたよ。でも、アルネさんを見付けたら戻ってくるらしいから、そう遠くない内に帰ってくるんじゃない?」
「アルネ……?」
不意打ちの情報による衝撃で序盤はキアの話が入ってきていなかったが、ふと知らぬ名が出てきてシャルナは眉を寄せる。
そんなシャルナの反応に、キアは「ああ」とシャルナがアルネの存在を知らないのだと気付き、説明してくれた。
「私も実際に会った事はないんだけど、最近バレンシール修道院に新しい修道女として入った女の人の事。でも、この前カワード・レッジ・ノウの邸宅であった事件……あ、修道院が全焼した事件って言った方が分かるか。どうやらそのアルネって人が、事件以降行方不明になってるんだって」
「……イレナは、そのアルネって奴を探しに?」
「らしいよ。ただ私に言わせれば、それはあくまで口実というか……いや、アルネって人を探すのが第一の目的だとは思うけど、彼らと一緒に行きたかったってのが裏の本心じゃないのかな、と私は思ってるんだよねー」
「…………」
自分の憶測を自慢げに語るキアだったが、シャルナの耳には一言も入ってこなかった。
顎に手を当てて考え込むシャルナが引っかかっているのは、そのアルネという新人修道女の存在だ。
シャルナはあの事件の後、キサラギ・シンゴ達に贈呈された家を見に行って、アネラスに連行されてからは特に件の事件については触れていない。そうと言うのも、団長であるベッシュが自ら処理すると申し出て、シャルナには別の任務を与えてきたからだ。
次期国王候補の一人が絡んだ事件。何やら面倒そうな匂いがぷんぷんしていたので、事後処理から外されるというのはむしろ好都合だと当初は考えていたのだが――。
「――ああっ!?」
「ど、どしたの?」
いきなりカウンターに両手を叩き付けて立ち上がったシャルナに、隣のキアが目を丸くして驚きの表情を向けてくる。
そんなキアにシャルナはぐっと顔を寄せると――、
「アタシ! あの野郎から護衛金まだ貰ってない――ッ!!」
「は、はあ?」
「ちっくしょぉぉ……っ!」
頭を抱え、カウンターに額を押し付けて悔しがるシャルナ。
シャルナが言っている護衛金とは、カワード・レッジ・ノウが本来シャルナに支払うはずだった報酬の事だ。忙しさの所為ですっかり忘れてしまっていた。
しかし、困った事に相手は既に故人。他ならぬシャルナ自身が、カワード・レッジ・ノウが首を落とされて絶命する瞬間を目撃している。
そのどうしようもない事実に、シャルナは「ぐぬぬ」と歯をギリギリ軋らせていたが、やがて悔いても死人は生き返らないと見切りを付けると、小さく嘆息して顔を上げた。
「ま、あとでおっさんに請求すりゃいっか」
「詳しくは分からないけど、ほどほどにね……」
苦笑いを浮かべるキアを無視して、シャルナは「さて……」と腕を組む。
先ほどキアが言った通り、シャルナがここに来たのはイレナがいるかもしれないと思っていたからだ。もちろん、旧知の顔をこっそり見に来たという理由もあるが、当然それは口にしない。
ただ、本命が空振りに終わった今、ここにこれ以上長居する必要も――いや、シモアならもしかすると――。
「あ、あの! お客様、そちらは……!」
「なぁ、やっぱそうだよな?」「ああ、ぜってぇそうだって!」
「――あん?」
不意に背後から聞こえてきた声に思考を乱され、シャルナは不機嫌そうに振り返った。
そこにいたのは、軽装を身に纏った二人の男で、その赤い顔を見るにかなり酔っぱらっている事が窺える。
酔っぱらい二人組は振り返ったシャルナの顔を見ると、見るからに下卑た笑みを浮かべ、制止の声をかけるウサギ耳の少女――ユネラには取り合わず、こちらに近付いてくる。
そしてシャルナの目の前までやってくると、酒臭い呼気をまき散らしながら話しかけてきた。
「なぁアンタ、シャルナ・バレンシールだよな?」「そうだよなぁ?」
「…………」
まさかこんな酔っぱらいにすら変装を見抜かれるとは思っておらず、シャルナは悔しげに顔を顰めた。
実のところ、シャルナ本人は『酔いどれ亭』メンバーにしかバレていないと思っていたが、本当は既にほとんどの客にバレていた。先ほどの騒ぎとその雑な変装では当然だろう。
しかし、シャルナの私服姿と下手な変装からお忍びで来ているのだろうと察した客達は、見て見ぬフリをして遠くから眺めるだけにしてくれていた。
だが、この二人のように空気の読めない連中は往々にしている。
酔いの所為もあるのだろうが、この二人は気分の高揚に任せてシャルナをナンパするつもりらしい。
――ただ、この二人は二重の意味で運が悪かった。
「あの、お客様。彼女にはあまり……」
「ああ? 別にいいじゃねぇかよ。今はお休みなんだろぉ?」「それとも、嬢ちゃんが俺達の相手してくれんのぉ?」
「いえ、その……今は色々と人選がまずいといいますか……」
咄嗟に割り込んだキアが、酔っ払い二人の意識を自分に誘導しようとする。
しかし、キアの視線は目の前の二人には向いていなかった。
「あ、あの……えっと……っ」
キアの視線は、二人の酔っ払いの後ろであわあわと狼狽えているユネラにこそ向けられていた。後ろのシャルナにではなく、ユネラにだ。
キアは必死に二人の客の注意を自分に引きつつ、目でユネラに向こうへ行くよう懸命に訴える。
――が、遅かった。
「――勘定」
「おや、もう帰るのかい?」
ミルク代――にしてはかなり多すぎる額をカウンターに置き、シャルナはシモアに手を振ってからゆっくりと席を立った。そして、酔っぱらい二人組の横を通り過ぎる瞬間、囁くように告げる。
「――おっけ、遊んでやるよ」
「ま、待って――!?」
なりふり構っていられないと察したキアが血相を変えてシャルナに手を伸ばすが、シャルナは最小限の動きでそれを避けると、そのまま真っ直ぐ出口に向かう。
酔っぱらい二人はしばらく突っ立っていたが、ナンパが成功したと勘違いしたらしく、ニヤニヤしながらシャルナに付いて行く。
「――ほい」
「おおっ!?」「……んだぁ、それ?」
扉を開けたシャルナが、付いてくる男二人に向けて何かを投げた。
咄嗟にそれをお手玉してキャッチした男が、突然の事に驚きの声を上げる。そして、もう一人の男が相方の手に握られた物を眉間に皺を寄せながら覗き込んだ。
――男の手に握られていたのは、メガネだった。
その直後、訳が分からず困惑する二人の肩に、ポンと優しく手が乗せられた。
二人が振り返ると、そこには――、
「――遊んでやんよ♪」
それはそれは可愛いウサギさんが、悪魔のような笑みを浮かべて立っていた。
――――――――――――――――――――
「――ったく、人気者はつらいわー」
悲鳴と物が壊される破壊音を背後に、シャルナはうんうんと感慨深げに頷いた。
すると、入店前に鏡代わりにしていたガラスを突き破って、先ほどシャルナをナンパしてきた男の一人が吹っ飛ばされて飛び出て来た。
男の顔は何があったのか、元がどんな顔をしていたのか分からないほどに腫れ上がっている。
そして、男はふとシャルナの存在に気付くと、這うようにしてこちらに手を伸ばしてきて――、
「た、たじゅげて……!」
「あいよ」
「え、ぢが、やめっ――!?」
シャルナは男の手を掴むと、その華奢な矮躯からは信じられない膂力で男をスイング。男が突き破って出てきたガラスの穴から店内へと無情にも放り込んだ。
パンパンと手を打ち払い、再び店内から阿鼻叫喚が上がるのを聞きながら、シャルナはその場を悠々とした足取りであとにしたのだった――。
――――――――――――――――――――
「う〜ん、どうすっかなー……」
繁華街を歩きながら、シャルナは眉間に皺を寄せてきょろきょろと辺りを見渡していた。
人々の賑わいを横目に、洋服店、食糧店、武器屋、雑貨屋など、様々な店を冷やかして回るが、どの店もシャルナの琴線にはいまいち触れない。
「はぁ……正直これじゃ、アイツがいても大差なかったか」
ため息を吐きつつ、シャルナは果物屋で買った赤い果実を齧りながら頭を掻く。
既に日は傾き、辺りは刻一刻と朱色に染まりつつある。しかし、シャルナの心は焦燥感に焼かれる一方だ。
「だいいち、なんでこんな事やってんだか……らしくねーっての」
だんだん腹が立ってきて、シャルナは一人ぶつぶつと悪態をこぼす。
そして果実に口を付けようとして、ふと芯しか残っていない事に気が付いた。
むっと眉を寄せると、シャルナはそのまま路上に捨てようとして――、
「……さすがに、ね」
人目もあるので思い留まり、大人しく設置されたゴミ箱に芯を捨てる事にする。
「んっと……ゴミ箱、ゴミ箱……あった」
首を巡らせ、路上の脇に設置されているゴミ箱を見付けると、シャルナは歩いて行きフタを持ち上げた。
「うげっ……くっさ!」
フタを持ち上げると同時に異臭が鼻の奥を突き刺してきて、顔を顰めて鼻を摘まむ。そして少し身を引きながらゴミ箱に芯を捨てようとして、ふと気付いた。
「これ……」
分別されずに突っ込まれているゴミの山――その一番上に割れた陶磁器のような物を見付け、人差し指と親指で摘まむようにして持ち上げる。
半分以上が欠けていて使い物にならなくなったそれは、しかし壊れていてもなおその意匠は美しく、シャルナはしばし無言で見入ってしまう。
「そういえば、全焼……」
シャルナはポツリとそう呟くと、その壊れた陶磁器をゴミ箱に戻してフタをし、インプレグナブル・ラインの縁に沈んで行こうとしている真っ赤な夕日を見上げた。
まだ時間はある。今から探せば、きっと間に合うはずだ。
「――よし」
小さく気合を入れると、シャルナは急いで元来た道を戻り始めた。
――――――――――――――――――――
日が完全に沈み、夜の帳が下りた頃。複雑な迷路のような路地を抜けた先にひっそりと佇む建造物――かつて一度全焼し、先日ようやく建て直されたばかりの修道院内では、現在ちょっとした催しが行われていた。
その催しの内容とは――、
「「「おたんじょうび、おめでとー!!」」」
そんな楽しげな子供達の声と共に、加工した『爆石』が下部に詰め込まれた小さな筒状の物体――その先端が一斉に開かれ、破裂音にも似た音が連続した。
そして、開いた筒の中から飛び出したカラフルな紙ふぶきを浴びながら、この催しの主役である女性は照れ臭そうに笑うと、
「あんがとね、あんた達」
そう礼を述べるのは、黒い修道服を身に纏い、笑みで頬に皺を幾重も刻む老齢の女性――アネラス・バレンシールその人だ。
今日はアネラスの誕生日。そしてこれは、そんなアネラスを祝う誕生日会という訳だ。
目の前の長方形の長机には、豪華な料理が乗せられた皿が所狭しと並んでおり、紙ふぶきが入らないよう被せられた透明なフードカバーの隙間からは、食欲を刺激する美味しそうな香りが漂ってくる。
ひと昔前ならば、こんな豪華な料理を用意する事は絶対に不可能だっただろう。しかし現在、バレンシール修道院には国からの援助が出ている。これは、新しく女王となった少女の計らいによるところが大きい。
「まあ、どこぞのバカ娘が送り続けてくる金のおかでもあるかねぇ」
この場にはいない奔放娘の顔を思い浮かべ、アネラスは苦笑をこぼした。
すると必然、つい先日旅立って行ったばかりである、もう一人の奔放娘の顔も脳裏に浮かんでくる。
胸の内に去来する哀愁に似た感情を振り払うように、アネラスがかぶりを振った時だった。
一人の少年――リドルが不意に立ち上がり、アネラスのすぐ傍までやって来ると、「はい!」と言って後ろに隠していた一枚の画用紙を差し出してきた。
「……あたしにかい?」
満面の笑みを浮かべて頷くリドル。そんな彼から手渡された画用紙に視線を落としたアネラスは、目を押し開いて息を呑んだ。
「これは……」
そこには、アネラスを中心にバレンシール修道院の面々が描かれていた。
目頭が熱くなり、鼻の奥にツンとした感覚が広がる。しかし、なんとか大人の意地でぐっと我慢する。が、ふと描かれている面子の中にこの場にいない四人の姿を見つけ、とうとう堪えきれずに熱い涙が頬を伝った。
描かれていたのは、イレナ、シャルナ、ユピア、アルネの四人だった。
四人とも手のかかるバカばかりだが、アネラスにとってはかけがいのない娘達だ。
アネラスは袖で涙を拭うと、顔を上げてリドルを、そしてにこにこしながらこちらを見ている子供達を眺めて――、
「あたしゃ、あんた達に出会えて、本当に良かったよ」
心の底から思っている事を、言葉として紡ぎ出した。
すると子供達から、「ぼくも!」「あたしも!」「オレだって!」と我先に手が挙がる。
込み上げてくる熱い衝動に喉を震わせ、幸せを噛み締めるように、この光景を決して忘れまいと網膜に焼き付ける。
そして同時に思う。もっと長生きしなければいけないな、と。
「――あの、マザーアネラス」
「ん? どうしたんだい、コネリア?」
そろそろ子供達も待ちきれないだろうと思い、合掌に移ろうとアネラスが考えていた時だ。小太りで、メガネをかけた柔和そうな修道老女――コネリアが不意に声をかけてきた。
何事だと振り返ると、「これが……」と困惑顔で何かを手渡された。
「湯呑み……かい?」
コネリアが渡してきたのは、美しい模様と造形をした、味わいのある深い緑色の湯呑みだった。
普段からよく茶を飲むアネラスは、湯呑みを愛用している。その所為もあり、この湯呑みがかなりの名器である事が一目で分かってしまった。
もちろんこれは、アネラスの物でない。かつて愛用していた湯呑みは、あの日の炎の中に置いてきたのだから。
となれば、考えられる可能性は一つだ。
「コネリア……まさか、これはあんたが買ってきたのかい?」
「い、いえ……実は、表に置いてあって……」
「表に?」
首を横に振って否定するコネリアの言葉に、アネラスは不審げに眉を寄せた。
するとコネリアは、「そういえば!」と何か思い出したような声を上げ、手に持っていた一枚の小さな紙をアネラスに差し出した。
「――?」
受け取った紙には短く文字が書かれており、顔を近付けて読んでみると、そこにはこう書かれていた。
『老けましておめでとう』
「……はは、なんて汚い字だい」
「マ、マザーアネラス……?」
俯き、目元を拭うアネラスに、コネリアが心配そうな声をかけてくる。
子供達も顔を見合わせ、全員がアネラスに心配そうな目を向ける。
そんな中アネラスは、鼻をぐすっと鳴らしながらも、下っ腹に力を込めて顔を上げると、勢いよく手を打ち鳴らした。
「さぁさ、食事にするよ! 早くしないと、せっかくの料理が冷めちまうからね!」
上げられたアネラスの顔に陰りは一切なく、目尻に涙が滲んでいるものの、特に問題は見受けられない。
それを見て取った子供達は安心したように微笑み合うと、それぞれ手を合わせて待機状態に。
「――ほら、コネリアもさっさと席に着きな」
困惑の表情で立ち竦むコネリアに向け、アネラスがそう声をかけた。するとコネリアは、湯呑みと一言だけが書かれた紙に視線を往復させ、静かに問いを口にした。
「いったい、それは……?」
その問いに、アネラスは口元に淡い笑みを浮かべると――、
「贈り物さね。――小憎たらしい、バカ娘からの」
本当に嬉しそうに、そう答えたのだった。
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「ふぃー、さっぱりしたー」
タオルで濡れた髪を拭きながら、シャルナはどっかりとソファに腰を下ろした。
風呂上がりでほんのり上気した身体を包むのは、赤と黄が混じり合ったシャルナお気に入りのパジャマだ。
「あーあ、明日からまた任務か……めんどー」
ソファに体重を預けながら、天井を仰ぐシャルナの口からこぼれ出るのは明日への不満だ。
本当なら貴族の護衛任務の予定だったのだが、昨日の抗議の結果、別の任務が与えられるらしい。
その任務内容については明日になってみない限り分からない。
出来ることなら、何か魔物の討伐に出てみたいところだ。
「うまくいけば、サボれっしー!」
ニシシ、と笑うと、シャルナはそのままベッドにダイブ。
枕元の灯りを消し、布団を首元まで掛けると、暗くなった天井をしばらく見上げる。
そして、ぐっと握った拳を真上に突き出すと、不敵な笑みを浮かべて――、
「明日もいっちょ、頑張りますかー!」
そう己を鼓舞してから目を閉じると、閉じた瞼の裏には、シャルナが買った湯呑みを手に嬉しそうに涙を流すアネラスの姿が浮かび上がってきた。
その光景を心に焼き付け、決して忘れないように、何度も思い返しながら、徐々に睡魔の足音が近付いてくるのを感じつつ、ふと思い立つ。
口を小さく開け、僅かな逡巡のあと、ふっと笑って――、
「――おめっとさん、お母さん」
シャルナの意識は心地いい微睡の中へと沈んでいく。どんな夢を見ているのか、彼女の寝顔は幸せに満ちており、少なくとも決して悪夢などではない事が窺える。
こうして、シャルナ・バレンシールの休日は、彼女の穏やかな寝息と共に、その幕を静かに下ろしたのだった――。
当初の設定では、シャルナは表の凛とした人格のみでした。そこにお金が大好きという設定を追加したばかりに、このような形となりました。ですが、後悔はしておりません。上位に食い込むほどお気に入りのキャラになりましたので!