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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第1章 リジオンの村
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第1章:9 『鬼ごっこ』

 坂を駆け上がり、滑るように下る。

 足を絡め取ろうとするツタや木の根を飛び越え、進路を塞ぐ木の枝を屈んで避ける。


 息を切らしながら、背後を見やる。

 木々が乱立し、その隙間から覗く暗闇は見ているだけで吸い込まれそうになる。


 しかし、紅く輝く右目の力がその闇の先を見通し、周囲の情報を脳へと問題なく伝えてくれる。

 その情報を酸素の不足する脳で処理し、慎重に判断を下す。


「来てねえ、な……ッ」


 息を切らしながら視線を前に戻すと、走る足に力を込める。

 先ほどまで顔を出していた月は雲に覆われ、今は薄暗い闇に包まれていた。


 キサラギ・シンゴは、そんな森の中を疾駆していた――。


 今しがた背後を確認し、誰もいないと判断した。しかし、足は止めない。何故なら、“彼ら”は必ず追い付いて来るからだ。


 故に、シンゴは暗闇に包まれた森の中をただひたすら走り続ける。

 己は一体どこに向かって走っているのか。そもそも、一体ここはどこなのか――。


 そんな答えの得られない疑問が頭の中をぐるぐると回る。

 しかし今はただ、ひたすら走り続けるしかない。


「――――ッ!?」


 不意に辺りが明るくなった。

 咄嗟に空を仰ぎ見ると、先ほどまで雲に覆われていた月が顔を出しており、暗闇に覆われた森に温かな月光が降り注いでいた。


 そしてその光は、“追跡者”にシンゴの居場所を露見させる――。


「いたぞ! あそこだッ!!」


「くそ……ッ!」


 背後から怒声が飛んできて、シンゴはその声のした方へと視線を向ける。

 見れば、二人の男が遠くから走って追って来ているのが確認できた。


 ――ヒィースとミィートだ。


 巻いたと思っても、すぐさま見付かる。先ほどからこの繰り返しだった。

 なんとかこの膠着状態を打破しようと懸命に足を動かすが、状況は一向に変化しない。

 どころか、スタミナ的にそろそろ限界に近い。彼らの方がシンゴより体力があるのは、ほとんど息を切らしていないその様子から窺える。


 つまり、このままこの鬼ごっこを続けていても、シンゴが捕まるのは時間の問題だった。


「(どうする……ッ)」


 足りない酸素を脳にぶち込み、足らない頭で必死に考える。

 威勢よく飛び出してきたのはいいものの、その先のことなどこれぽっちも考えていない。


「辺りはこんな……明るいのに、お先……真っ暗、じゃねえかよ……ッ!」


 やけくそ気味に呟くシンゴは現在、両目を開いて走っている。

 さすがに片目のみで走るという行為はまだ難しい。だが、左右で見え方に相違のある視界は、正直言って気持ち悪かった。


「これも……慣れるしか、ねえか……ッ!」


 こみ上げてこようとする嘔吐感を無理やり飲み込み、シンゴはジグザグに進路を変えて走り続ける。

 木の幹を軸にするようにして掴み、速度を殺さず急転換。手の皮がずる剥けになるが、大量に分泌されるアドレナリンの手助けもあり、強引に意識から叩き出す。

 それにこのくらいの怪我など、どうということはない。何故なら、今のシンゴの体は――、


「――よし」


 ちらりと手の平に視線を落とすと、既に手の平の傷は治癒し、元通りになっていた。

 手の再生を確認すると、シンゴは走る速度をさらに上げる。

 地を蹴り、凹凸を飛び越え、木の枝を踏み砕き疾走する。


 ――不意に、背後からヒィースの何かを促すような怒声が響いた。


「構わねぇミィート……“撃て”!!」


「――――?」


 不穏な気配を感じ、シンゴは視線をちらりと背後へ向ける。

 そこには、走りながらシンゴに向かって片手を突き出すミィートの姿がある。

 あの構えは確か、『リジオン』の村で初めて会った際に一瞬だけ見せた構えだ。


 何か、来る――。


 シンゴがそう直感した次の瞬間――“それ”は放たれた。


「『スプラッシュ・ド・ストーン』」


 辛うじて聞き取れるほどの声量で、ミィートが呟いた。

 その瞬間、ミィートの手の平に何らかの力が収束して行き、それはシンゴに向かって放たれた。


 こぶし大のつぶてが、シンゴに向かって襲い来る――。


「おわッ!?」


 咄嗟に身を低くしたシンゴの横を、無数の礫がうなりを上げて掠めて行く。

 近くの木の幹が爆ぜ、地面に無数の小さなクレーターができる。

 唖然として抉れた地面を眺めるが、はっとして再び走り出す。


 そして、シンゴは今しがた起こった超常的な現象に対し、ふと脳裏に浮かんだ単語を呻くようにして吐き出した。


「やっぱあんのかよ……魔法ッ!!」


 この世界に来て、ふと、もしかしたら――と考えたことは確かにあった。

 もしや自分にも轟々と燃え盛る炎や、鋭利な切れ味を誇る風の刃が使えるかもと、淡い期待を抱いたこともあった。


 ――魔法。


 誰もが一度は憧れる、この世の常識を覆す力。

 前田から借りた小説にも描かれていた。ファンタジー世界に存在するその力は、主人公の最大の武器として物語のここぞという場面で使用され、いくつもの窮地を打破する一助を担っていた。

 そしてその存在は、今をもって証明された訳だ。


 自分に向かって放たれるという、最悪の形で――。


「『スプラッシュ――」


 背後から再び詠唱。

 シンゴは歯を食いしばり――、


「ど、ちくしょぉぉおおッ!!」


 喉から声を張り上げ、シンゴは脇目も振らず真横に飛ぶ。

 後ろで礫が通過していく音が聞こえたが、シンゴには辛うじて被弾していない。

 そのことに安堵するが、ふと気付く。いつまで経っても浮遊が終わらない。


「ま、さか……」


 恐る恐る下を窺い見る。

 下には――足場がなかった。


 まるで認識した瞬間を見計らったかのように、シンゴの体が重力に引かれ始める。


「ぉ――あああああああああああああああああッ!?」


 絶叫しながら落下するシンゴだったが、彼が落ちた場所は斜めに切り立った崖だった。故に、垂直に落下するシンゴの足裏がうまい具合に壁面を捉えた。

 これは別にシンゴのバランス感覚が優れていたからではなく、ただ真っ直ぐ落下したからそのまま着地できたというだけだ。


 それに加えて壁面が斜めだったということも幸いし、着地の衝撃はある程度は分散し、足が衝撃でおかしな方向を向くということにはならなかった。


 本当ならこのまま滑るように下まで行ければよかったのだが、先ほども述べたように、シンゴは特段バランス感覚が優れている訳ではない。――かと言って、別に悪いわけでもない。つまり、凡人レベルである。


 だが、そんな凡人のバランス感覚で、斜めの壁面を滑り下りるなどといったアクロバティックな動きは当然無理である。

 となれば、当然――、


「おが――ッ!?」


 体が反転し、そのまま斜面を転がり始める。

 体中をしこたま打ち付け、やがて地面に叩き付けられるように到着する。


「ぎ……あ……ッ」


 三半規管を激しく揺さぶられた挙句、全身をくまなく打撲。シンゴはぐるぐる回る気持ち悪い視界の中、体を抱くようにしてのたうち回る。

 体中の骨が折れているのか、突き刺すようなずきずきとした痛みが全身を駆け巡る。


「――――あ?」


 ふと、右腕の感覚がおかしいことに気付く。

 徐々に明瞭になる意識を、恐る恐る右腕に向けてみる。


 右腕は――、


「あ……ああぁ……ッ!?」


 肘の辺りで逆さに折れ曲がり、五指は余すことなくあらぬ方向を向いていた。

 ふと見れば、折れた肘からは青い紐のようなものを伴いながら白い何かが突き出ていた。


「ぐぅぅぅう……ッ!!」


 必死に目を逸らす。必死に現実から目を逸らし、痛みからも目を背ける。

 こんな生々しい傷は、キサラギ・シンゴの脆い精神では直視などできなかった。

 だが、こんなことをしている場合ではない。シンゴは痛みを堪えながら、脂汗の浮かんだ青い顔を崖の上に向けた。そこには――、


「いたぞ、下だ!!」


 ヒィースが崖下に転がるシンゴ発見し、声を上げた。そしてそのまま躊躇いなく崖の下に向かって足を踏み出すと、斜面を滑るようにして滑降し始めた。

 崖は、転がり落ちたシンゴからしたら幸いなことにそれほど高くはなかった。だが、いざ追われる立場になれば、あまりにも低すぎた。


「くそ……ッ!」


 シンゴは目を背けたいという衝動を必死に抑え込み、右手に目を向ける。すると、既に右手は再生されており、シンゴの意志に従い動いてくれた。

 それを確認しほっとするのも束の間、シンゴは両手を着いて立ち上がると、再び逃走を開始する。


 ――まさに、その瞬間だった。


 シンゴが今まで横たわっていた場所に、無数の礫が突き刺さり、集中された火力で大きなクレーターを生み出した。

 ふと背後に目をやれば、斜面を滑り下りるヒィースに対し、もう一人――ミィートが崖の上で片手を突き出していた。


 魔法の礫が回避されたミィートは、再び走るシンゴに向かって魔法を放つ。

 飛来する礫に、シンゴは咄嗟に近くの茂みに身を投げ出す。しかし、うち一発がシンゴの左足に直撃し、くるぶしから先の感覚が消失した。


「ぐ……ぎぃ……ッ!!」


 制服の裾を噛み、痛みに耐える。

 ものの数秒で痛みは消え、足先の感覚が何ごともなかったかのように復活した。


「がぁ――ッ!!」


 吠えると、シンゴは再び走り出す。

 背後からは怒声と、魔法が飛んでくる。


「しつ、けえ……なッ!!」


 憔悴した顔で毒づくシンゴは、目の前の分かれ道を左に――さらに上へと続く道を駆け上がる。

 どうやら命がけの鬼ごっこは、まだまだ終わりそうにない――。



――――――――――――――――――――



 薄暗い森へと続く道を疾走する二つの人影があった。

 一人は白い髪に、黒一色の服を身に纏った少女。もう一人はオレンジの毛を短く逆立てた青年で、その背には巨大な大剣が背負われている。


 走る二人のうち、青年が少女に眉を寄せつつ、怒鳴るように問いかけた。


「おいアリス! 本当にこっちで合ってるんだろうなぁ!?」


 そんな青年の問いかけに、真剣な表情に彩られた顔を向け、少女も大きな声で頷きながら答えた。


「大丈夫! ボクの勘がこっちだっていってる!!」


「勘かよ!?」


 少女の不確かな根拠に、青年――カルド・フレイズは先行きが不安になってきた。

 しかしやがて、がしがしと頭を掻くと開き直るように告げる。


「――で、その勘ってのは信用に値するのか?」


「うん、最近のボクの勘は、自分でも怖いレベルで当たるんだ」


 ――即答だった。


 カルド・フレイズはため息を吐くと、小さく舌打ちし、


「ちっ、今はその勘に頼るしかねぇか……!」


「……ねえ、今舌打ちしなかったかい?」


「気のせいだ! 急ぐぞ!!」


「…………」


 隣から突き刺さるような抗議の視線を感じるが、敢えて無視して走る速度を上げた。

 二人が何故こんな所を走っているのか。それは、少しだけ時間を遡る――。



――――――――――――――――――――



 シンゴとユリカの二人が、日が暮れても帰って来ず、村は大騒ぎになっていた。

 ただでさえ小さな村だ。その村長の孫娘が行方不明なのに加え、客人も一緒に行方不明ときた。大騒ぎになるのは当然の結果だった。


 村人たちは、最後に二人が目撃されたという近くの川を中心に辺りを捜索した。当然その捜索にはアリスとカズも加わった。

 このときの二人の鬼気迫る様子は、周りの者が話しかけるのを躊躇してしまうほどだった。


 ――それも当然だろう。


 彼は、うち一人と川で遭遇し、もう一人は入れ違いになった。

 彼女は、うち一人に水浴びの同行を拒否されて引き下がり、もう一人はそのまま見送った。


 ――結果、二人とも行方不明。


 この事件を最も未然に防げた可能性があったのが、この二人だったのだ。

 それも、行方不明の二人はこの二人にとって近しい者たちだ。必死になるのも当然だろう。


 だが、手がかりは川辺に残されたタオルと血痕のみで、それ以外に二人の手がかりとなるものは一つもなかった。

 村人たちは周辺をくまなく探した。だが、日が暮れても二人の姿は発見できなかった――。


「……クソッ!!」


 川辺にある石の中でも一際大きいものを蹴飛ばして毒づくのは、カルド・フレイズ――通称カズだ。

 結局一日捜索しても、二人の行方は知れずじまい。しかもそのうちの一人は、彼の妹だ。

 腹の底から湧き上がってくるやるせなさと無力感に、カズは再び当り散らすように石を蹴り飛ばす。


 そんなときだった――。


「……焦る気持ちも分かるけど、少し落ち着きなよ」


「……なにぃ?」


 カズが振り向くと、そこには白い髪に黒い服を身に纏った少女が、闇夜に怪しく輝く真紅の瞳でこちらを見据えていた。

 思わず目を奪われ、呆然と立ちすくんでいたカズだったが、ぎりっと奥歯を噛み締めると、


「オレの妹が……家族が! 行方知れずだってのに、落ち着けってか!? 冗談じゃねぇ!」


「でも――」

「ああ、分かってる……!」


 アリスが口を開きかけたのを先んじて、カズが顔を伏せながら零す。再び顔を上げたカズの表情は、冷静のそれだった。

 そんな彼の強引な気の静め方に、アリスは目を見開いて驚きを顕にする。

 驚くアリスを、荒れ狂う感情を奥底に感じさせる瞳で見返したカズは――、


「焦って、ただ闇雲に動き回ってても埒が明かねぇってことくらい分かってる。……でもな、家族が危険な目に合っているかもしれぇ。その仮定があるだけで、オレは怒るし、心配もするし、どうにかしなきゃなんねぇって焦るんだよ」


「…………」


 黙って己の話に耳を傾けるアリスに、カズは少しばかりの苦笑を覗かせて続ける。


「だが、感情の赴くままに行動する奴はただの馬鹿だ。その感情は、ちゃんと役立てねぇとならねぇ。自分に何ができるのか。その答えを実行する為の原動力として、取っておかなきゃなんねぇんだ」


 語り終えたカズは、「ま、オレにはこの状況を打破できるような案は考えつかねぇけどな……」と頭を掻きながら、嘆息する。しかし、「だから……」と続けると、


「他人任せなのは重々承知だ。……アリス、何かいい案、ねぇか?」


「……ボクは」


 真っ直ぐ、カズはアリスへと真摯な視線を送ってくる。

 正直な話、アリスにもそんな案などない。そもそも、そんな案があるならとっくに実行している。だが、カズも今言った通り、そのことは十分理解したうえでの相談なのだろう。


 いや、そうではないのかもしれない。彼は――カルド・フレイズは、自分に共に考えようと言っているのかもしれない。だったら、まず自分にできることは――、


「――――ッ!?」


「――? どうした?」


 突然目を見開き、視線をとある方向へと固定させるアリス。

 そんな彼女の様子を不審げに思いながら、カズはアリスの目の前まで歩を進める。

 すると、不意にアリスが呟くようにぽつりと言葉を零した。


「……あっちだ」


「なに?」


 眉を寄せるカズに振り向いたアリスが、心なしか表情を明るくして告げる。


「あっちにいる!」


「な――!? おい待て!」


 突然駆け出したアリスに追い縋り、カズはその手を掴んで引き留める。

 一方アリスは余裕のない顔でカズへと振り返り、


「カズ、君は待ってて。ボク一人で向かう!」


「な――」


 アリスは己が今しがた発した言葉を受けて固まるカズに、さらに畳み掛けるように続けた。


「何か良くないものを感じた。今はもう消えたけど、安全は保障できない。だから――」


「ふざけんじゃねぇぞ?」


 怒りを孕んだ低い声に、アリスは驚いて振り返る。

 そこには、怒りに近い激情を瞳に揺らすカズが、アリスを睨み付けるように見ていた。

 やがてカズは息を吐いて気を落ち着けると、


「アリス、お前が言う危険ってのは、この際オレにとっちゃどうでもいいことだ」


「でも――」


「ああ、善意で言ってくれてるってのは分かってる。だけどな、オレは妹が……家族が危ねぇって時に、呑気に指くわえて傍観決め込むほどできちゃいねぇんだよ……ッ!」


「…………」


 アリスは目を見開いてカズを――暗にオレも連れて行けと訴えかけてくる男を見やる。

 そのままお互い視線を逸らさず、十秒近い時間が経過する。そんな中、先に折れたのは――、


「はぁ……シンゴといい君といい、男の子は何でみんなそうなんだい?」


 苦笑して問いかけるアリスに、カズも不敵に笑って答えた。


「そんなの決まってんだろ。オレもあいつもたぶん――馬鹿だからだよ」



――――――――――――――――――――



「――で、そのあとわざわざその剣を取りに行って、大分時間を食っちゃった訳だけど――」


「その剣呼ばわりはやめてくれや。これでも我が家に代々伝わる家宝なんだからよ」


 アリスはそんなカズの返しに半眼を向けることで答えるが、カズはアリスの冷ややかな視線をニヤリと笑って受け流す。

 そんなカズの反応に、アリスはちらりとその背中に背負われている家宝とやらへ視線を移す。


「……家宝なんか持ち出して良かったのかい? それにその剣、錆びだらけじゃないか。そんなので役に立つのかい?」


 今しがたアリスが指摘した通り、カズが背負う大剣は錆びで覆われており、刀身が何の素材で出来ているのかさえ判然としないほどだった。


 そんな大剣を持ち出してきたカズだが、アリスの指摘に対し、背中の大剣の柄に手を触れさせながら、


「家宝を持ち出してって話に関しちゃ、こんな場面で役に立たねぇで何が家宝だって話だ。それと、この錆びなんだが……」


「――――?」


 何やらカズはその表情を困ったようなものに変える。

 やがてカズは、隣で不思議そうに首を傾げるアリスに頬を掻きながら、どこか諦めたような声音で答えた。


「これ、ぜんっぜん落ちねぇんだよ……」


「落ちない?」


 アリスの返しに、カズも頷き返しながら、


「ああ、擦ろうとも磨こうとも、ちょっと荒っぽい方法を試しても、全然落ちてくれねぇんだよ……」


「…………」


 アリスの疑わしげな視線が大剣へと向けられる。

 生憎アリスは錆びに対して有効な知識など持ち合わせてはいないが、擦ればどうにかなりそうなものだとは思う。だが、カズはアリスが思い付くようなことは一通り試したのだろう。そのうえで錆びは落ちないという。なんとも不思議な剣――というより、頑固な錆びなのだろうか。


 アリスがじっと大剣を見詰めていると、何を勘違いしたのか、カズはアリスの視線から大剣を隠すように身をよじると、


「なんだよ……そんなに見詰めてもやんねぇぞ?」


「いらないよ、そんなの」


「そんなのって……だから、これでも家宝――ん?」


 並走していたアリスが急に立ち止まり、カズも咄嗟に足を止める。

 不審げにアリスに視線を向けると、彼女は目を見開いて前方を直視していた。

 カズも釣られるように視線を前へと向ける。果たしてそこには――、


「――ユ、ユリカ!?」


 カズは咄嗟に駆け出すと、ふらふらとよろめきながら歩いてきた妹を抱き止めた。

 考えるよりも前に体が動いてしまったが、自分の腕の中で主張してくる熱いくらいの温もりを実感し、カズは妹を思い切り抱き締めた。


「馬鹿野郎が……ッ! 心配かけさせやがって……一体どこで何を――」


 次の瞬間、カズは咄嗟に体を離すと、ユリカの額に手を当てる。

 手にはしっとりとした汗と共に、熱い体温が伝わってくる。

 同時にユリカの状態へと素早く視線を走らせる。


 赤く上気した肌。玉のように浮かぶ汗。苦しそうな浅い呼吸。意識が朦朧としているのか、半開きで焦点の合っていない目。これは――、


「お前……風邪ひいてんじゃねぇか!? 待ってろ! 今すぐ家まで――」


「カル、にぃ……」


 不意にかけられたユリカの消え入りそうな声に、カズは咄嗟に首を振って「しゃべんなッ」と言いかけ、その言葉の途中でユリカが告げた言葉に目を見開いた。


「しん、ご……を、たすけて……!」



――――――――――――――――――――



「――観念しろ、ガキ」


「…………ッ」


 あのあと逃げに逃げたシンゴだったが、行き着いた先は逃げ場のない崖だった。


 シンゴはジリジリと後ずさりながら、ちらりと視線を背後の崖へと向ける。

 そこから見える崖下は、先ほど転げ落ちた崖とは比べ物にならないほどの高さだ。

 もしここから転落すれば、シンゴが授かった『吸血鬼』の再生能力で助かるかどうかは、正直怪しい所である。


 いや、即死した場合はおそらく――。


 いくらどんな傷を負おうとも、この『吸血鬼』の力はシンゴを死の淵から強引にすくい上げてくれた。だが、今までは傷を負うだけで、“死んで”はいない。つまり何が言いたいかというと、死ぬまでは『吸血鬼』の再生能力は機能するだろうが、死んでしまったらそこで終わりなのではないだろうか――ということである。


 確信はない。だが、この推測はあながち間違いではないだろう。

 故に、ここから決死のダイブは、選択肢としては最終手段にしたい。であれば、ここは何かいい作戦が思い付く、もしくは相手が油断を見せてくれるまで時間を稼ぐのが最善手のはずだ。


 そう判断したシンゴは、意識してにやりと口の端を持ち上げ、なるべく余裕を持った演技でヒィースたちに話しかけた。


「はっ、いいのかよ? もしこのまま俺を殺したら、“仲間”がお前らを絶対に許しはしねえぜ? もう分かってんだろ……俺の正体」


 シンゴはわざと見せ付けるようにして左目を閉じ、真紅に輝く右目の存在を主張させる。

 だが、眼前のヒィースたちに動揺するような気配は微塵も見受けられない。


 ――まずい。


 心の中でそう呟きながら、シンゴは顎を伝う冷や汗を意識する。

 だが、こんなところで諦めることはできない。シンゴは小さく深呼吸し、再び口を開こうとした。だが――、


「ミィート、もういい……やれ」


「…………ッ」


 話す気は微塵もないらしいヒィースが、死刑宣告に近い催促を隣のミィートに向けて発した。

 咄嗟に片足を後退させ、すぐにでも飛び降りられるよう準備する。勢いに任せてしまえば、今ならなんとか飛べる。


 もしかしたら、先ほどの憶測を裏切って『吸血鬼』の再生能力が発動してくれるかも――という、ほとんどゼロに近い可能性が、ここから飛び降りるための後押しを少なからずしてくれていた。


 たとえそれが、ただ現実から目を背けるためだけの、浅はかな願望だとしても――。


「『スプラ――」


「――――ッ!!」


 ミィートが詠唱を始め、飛び降りるため足へ力を込めようとした瞬間だった――。


「ぶぎ――ッ」


 ミィートの体が突如その場に沈み込み、その顔面が地にめり込んだ。

 突然の出来事に唖然とするシンゴとヒィースの視線を浴びながら、その少女は倒れ伏したミィートの上に、まるで重力を感じさせない佇まいでふわりと降り立った。


 柔らかく舞う白い髪を手で撫でつけながら、少女はその真紅に輝く瞳を呆然とするシンゴへと向けた。――次の瞬間、少女の相貌が崩れ、安堵するような優しい笑みに変わる。


「無事でなによりだよ――シンゴ」


「アリス!!」


 まさにぎりぎり、間一髪の登場。いっそ清々しいほどのタイミングだった。

 しばらくほっとした優しい目でシンゴを見詰めていたアリスだが、やがてその表情を引き締めると、呆然と固まっているヒィースへ真紅の瞳を向ける。

 そして、鋭くも妖艶な微笑を浮かべると、首を傾げ、一言だけ告げた。


「まだ、続けるかい?」


「……ちっ」


 ヒィースは舌打ちと共にその場に膝を着くと、手に持っていた剣を地面に着き刺し、両手を頭の裏で組んだ。つまりそれは、戦う気はないという意思表示だった。

 その様子を見届け、シンゴは長い吐息をし、その場に座り込む。


 同じように安堵の息を吐いているアリスに、シンゴは左目を閉じて右目の紅い瞳だけを主張させるように向け、サムズアップすると、


「サンキュな、アリス。この体……色々と助かった」


「…………」


 今までシンゴに伝えられなかったことに負い目でも感じているのか、アリスの表情は困ったような笑みで、少々複雑な様子だ。

 そんなアリスに「大丈夫だって」と苦笑しつつ、シンゴは己の体を襲う疲労感に意識を向ける。


 『吸血鬼』の再生能力は、どうやら疲労に対しては効果がないらしい。負傷にはいち早く反応し、瞬く間に治癒させてしまうが、疲労に関しては専門外らしい。

 “やられてから”を前提にしたこの力に、シンゴは何とも言えない気持ちになる。

 確かにこの力は凄まじい。弱者であるシンゴにとって、これほど力強い力はそうそうないだろう。


 しかし、やはり事が起こってからでは遅い。正直な気持ちを言えば、未然に防げる力が欲しかった。

 だが、贅沢は言っていられない。こんな無茶苦茶な再生能力を使えるようになっただけ、シンゴにしては珍しく幸運なことではないか。


 それにおそらくだが、これから先もこの力に頼る場面は山のように出てくるだろう。

 この世界に来てから、何度も経験した理不尽。己の想定する最悪の一歩先をいく現実。

 これからもそれらの不条理は、シンゴの行く先を塞いでくるだろう。だが、この『吸血鬼』の力があれば、その逆風にある程度耐えることだってできるはずだ。そう、この決して優しくはない世界を駆け抜けるために、この力はシンゴを支えてくれるだろう。


「…………」


 ――これで、本当に終わりなのだろうか。


 ふと、そんな疑問が浮かんだ。

 その疑問は消えることなく、胸の内でへばり付くように存在感を大きくしていく。


 何か、重大な見落としをしているのではないか。

 なにせ自分のことだ。こんな簡単にハッピーエンドを迎えられるほど、この世界はシンゴに優しかっただろうか。


「――――」


 シンゴはこの言い知れぬ不安の答えを探すように、視線を辺りにさまよわせる。

 地面にめり込んだまま沈黙するミィート。その横に立ち、きょとんと首を傾げながらシンゴを見ているアリス。その横で、小さく何かを呟くヒィースの――


「『エンチャント――」


「――――ッ!!」


 考えるよりも先に、体は動いていた。

 疲労による気怠さを訴えてくる体を無視し、全力で体を動かす。


 そして――、


「――デ・ウィンド』!!」


 ヒィースを中心に、突風が巻き起こった。

 突風にあおられ、アリスは思わず目を腕で庇う。

 その一瞬の隙を見逃さず、ヒィースの体は神速で動いた。


 ――魔法。


 窮地を打破し得る可能性を秘めた、物理法則を捻じ曲げる超常の力。

 膝を着いた姿勢から、そのまま低い体勢で駆け出したヒィースの手が、突き立てられた剣を引き抜く。

 ようやくヒィースが迫っていることに気付いたアリスだったが、最早どう動いても間に合わない。


 ――たった一人を除いて。


「死ねッ!!」


 アリスの首を狙い、剣が真横に振り抜かれる。

 その寸前、アリスは目の前に割り込んだ影に後ろへと突き飛ばされた。


「あぅ――ッ」


 そのまま尻餅を着いたアリスは、慌てて視線を前に向ける。そして視界に飛び込んできた光景に、愕然と目を見開いた。

 彼女を庇ったキサラギ・シンゴ。彼の首は、赤い血の放物線を月夜に描きながら、宙を舞っていた――。


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