第3章:47 『愛狂い』
「――――」
廃墟と化した民家の倒壊によってまき散らされた砂埃が地を這い、足元を蛇のようにすり抜けて行く。
シンゴがその様子に視線を落としていると、不意に背後から強張った声がかけられた。
「シンゴ……お前、その力は……?」
「…………」
ちらりと背後に首だけを向けると、そこには驚愕に目を丸くするカズの姿があり、彼はシンゴが振り向いたのを受けて頬を微かに強張らせた。
そしてその隣に視線を向ければ、イレナが唇を引き結んでシンゴを――いや、厳密にはシンゴの紫紺に染まった両目を見て、視線を鋭くしながら沈黙している。
カズはシンゴの力を見るのは初めての事で驚くのも無理はない。イレナに関しても、実際にシンゴのこの力を見た事があるのは、偽のイレナ――沢谷優子であり、彼女の反応も仕方ない事だろう。ただ、イレナから微々たるものだが悪意を感じる。これは不信感だろうか。
仲間から受ける悪意ほど気が沈むものはない。早急にこの力の事を説明したいところだが、残念ながら今は出来ない。
なぜなら、説明している暇がないからだ。
「話はあとで。――まだ、終わってないから」
シンゴがそう言って視線を元に戻すのと、崩れ落ちた瓦礫の下からそれが姿を現したのは同時だった。
瓦礫を押し退けるようにして這い出てきたそれは、全くの無傷で――。
「――すごい。すごいすごいすごい……すごすぎます! お兄さん!!」
漂う砂埃の奥から幽鬼めいた足取りで歩み出てきた赤布の女――沢谷優子は、一時的に晒していた顔を再び赤い布で覆い隠しており、歓喜に打ち震えるかのように興奮した声色でシンゴを称賛してきた。
シンゴの事を一心不乱に見詰めるその視線は何やら熱っぽく、はっきり言って不快な事この上ない。
しかしここで、シンゴは不可解な事実に気が付いた。沢谷優子から感じるシンゴに対しての悪意のみが、急激に薄まり始めている事に。
原因は判然としないが、あまり喜ばしい理由でないのは確かだろう。
「ありえねぇ……化け物か?」
「なんで無傷なのよ……」
そんな二人の驚愕の声を背中に聞きながら、頬に手を当ててうっとりとするような視線で見詰めてくる沢谷優子に対し、シンゴは一つの質問をする事にした。
その質問というのは、たった今思い出した事に対する疑問だ。
「僕がシアからあんたを助けていなかったら、一体何をするつもりだったんですか?」
「何を……ですか?」
シンゴに声を掛けられ、なぜか嬉しそうに身震いしてから、沢谷優子は顎に人差し指を当てて思案げに首を傾げる。そしてすぐに当時の記憶を掘り当てたらしく、「あ!」と声を上げると、胸の前で両手を合わせ嬉々として答えた。
「あの時は私、木更木さんの情報が手に入る見込みはこれ以上ないだろうなーと思いまして、全員殺してさっさと北に向かおうかと考えていました!」
全く悪びれる様子もなく、平然と言い切る沢谷優子。
その出来事を知らないはずのカズとイレナが息を呑む気配が背後から伝わってきて、シンゴは心の中で二人に同情した。
あの時、急に近くで噴出した猛烈な悪意。その負荷に耐え切れず、意識が混濁して記憶が曖昧になっていたが、同じ悪意を感じ続ける事で思い出す事ができた。
今は、シンゴに向けられる悪意が現在進行形で下がり続けているのも含め、なぜかその悪意に耐えていられる。まるで己という受け皿が広がり、膨大な悪意を許容できるようになったような不思議な感覚だ。
「いや、今は……」
シンゴは首を振って思考の脱線を防ぐと、改めて視線を沢谷優子に向ける。
相変わらずシンゴに対する悪意は下がり続けており、更に粘ついた不可解な熱視線を感じるが、これからシンゴがする事に変更はない。
「沢谷優子」
「――っ! なんですか!?」
名前を呼ばれて前のめりになる沢谷優子に、シンゴは一つの提案を持ちかけた。
「大人しく捕まってください。そして、牢獄で自分の異常性を自覚してください。……できれば、そのまま一生出てこないで欲しい」
冷ややかな視線で告げられたその提案を受け、沢谷優子は驚いたように硬直。しかしそれも一瞬のことで、やがてクスリと笑みを漏らすと、
「やっぱり、優しいんですね」
どこか嬉しそうに己の胸に手を当て、感慨深げにそう呟いた。
そして、その生理的嫌悪を抱かせる熱視線を強めて続ける。
「死ななければならない、という理由があるのは確かですけど、それでも私はお兄さんの妹を殺すと言っている女ですよ? それに、お兄さんの事もです。そんな私に“生きろ”って言うんですか?」
苦笑を滲ませながら問い返してくる沢谷優子に、シンゴは静かに瞑目して一瞬の沈黙。やがて瞼を持ち上げて紫紺を覗かせると、自分の考えを静かに告げる。
「この世に死んでいい人なんていない。たとえそれが悪であっても、僕は人殺しなんてしたくない。――死は、重いんです」
「――ぁ」
シンゴの言葉を受けた沢谷優子は小さく声を漏らすと、次には両手を頬に当てて身体をくねらせ始めた。その様子はまるで、胸の奥底から湧き上がる衝動に身悶えているようでもあり――。
「やっぱり、お兄さんがそうだったんですね!」
「……何の話ですか?」
「とぼけないでください。もう分かって言っているんですよね?」
「だから、何を――」
「もう! それを女の子の口から言わせるなんて、どうかしてますよ、お兄さん!」
「…………」
脈絡の無さすぎるこの一方的な会話には、さすがにシンゴも押し黙るしか出来ない。
沈黙して無理解に眉を寄せるシンゴに業を煮やしたのか、沢谷優子は「もう!」と赤布で覆われた頬を膨らませ、
「時読みですよ! もう忘れちゃったんですか?」
「――っ」
――時読み。
それは、時読みの魔女ウルトが行う一種の占いのようなもので、漠然とした未来を啓示するものだ。
そしてその時読みを、イレナに化けていた沢谷優子も確かに受けていた。
その内容は――。
「私の王子様……見付けちゃいました」
「――――」
先ほどからその視線に含まれていた熱っぽい色の正体を悟り、シンゴはぞっとした寒気を覚え、思わず口を噤んで瞠目する。
そんなシンゴに、沢谷優子は恥ずかしそうに足をすり合わせながら、ちらちらと視線を向けてくる。
「木更木さんの記憶からお兄さんの事を知って、実際にその為人に触れて……」
記憶とは、一体どういう意味だ。その言い分だと、まるでイチゴの記憶を有しているようにも聞こえる。
言葉の裏に隠された真意を読み取ろうと目を細めるシンゴを余所に、沢谷優子は更に一人でヒートアップする。
「どこにどうとは自分でもよく分からないんですけど、その……好きになるのに、理由なんて必要ないですよね?」
不安そうに上目遣いで見てくる沢谷優子に対し、シンゴは喉の渇きを覚えながらも、どうにか声を絞り出し、尋ねる。
「一ノ瀬は……」
一ノ瀬和人。
沢谷優子が好きなのはあの男のはずだ。告白を断ったイチゴを妬みで殺害しようとするほどに。
しかし沢谷優子の答えは――。
「今はあなたの事しか考えられません。真っ直ぐで、頑張り屋さんで、優しくて、そしてとても強いお兄さんが、一番大好きになったんです」
「――っ」
真っ直ぐ見詰めて愛を囁いてくる沢谷優子に対し、シンゴは全身に悪寒が駆け抜けるのを感じて息を詰まらせた。
愛に理由はない。その言葉を否定はしないし、人が人を好きになるのは自由だ。しかし、これはどうなのだろうか。
「……僕を殺すのは?」
「やめました」
あっさりと殺害宣言を撤回する沢谷優子の言葉。間を置かずに告げられたそれにシンゴは戸惑いを深め、ならばと次の質問を投げかける。
「イチゴは――」
「殺します。――だって、お兄さんを取られるの、嫌だもん」
「…………」
「あと、遅くなりましたけど、私は捕まる気もないです。捕まっちゃったら、その……お兄さんとも、お付き合いできないですし……」
「――あぁ、そういう」
ここでシンゴは、ようやく己の間違いに気が付いた。
シンゴは無意識に、沢谷優子の言動を――その人間性を理解しようとしていたらしい。それはお人好しと称するにはかなり無理があり、どうかしていたとしか言いようがない。
今までにシンゴは、狂人と称するに相応しい男を二人ほど見てきた。そのどちらも独自の価値観を持っていて、到底理解できない人間性を有していた。
一人は激しい被害妄想に支配され、もう一人は思想そのものが歪んでいた。
――そして沢谷優子は、愛に狂っている。
殺人未遂をしでかすほどに愛した男から、よりによって殺し損ねた女の兄にあっさり鞍替えしているのがその確たる証拠だ。
その愛に本気はなく、中身に関してもスカスカだ。あれはただ単に、恋している自分に酔っているだけなのだ。そんな女の戯言を真に受ける事自体が、最大の過ちにして愚行。己の浅慮さにはほとほと呆れてしまう。
「…………」
捕まる気はない、という返答は得た。ならばシンゴは、当初の考え通りに動くのみだ。
「しん……ご」
「――!」
その小さな声は、しかしはっきりとシンゴの耳に届いた。
背後に振り返ると、イレナに支えられたアリスがゆっくりと上体を起こしながら、その真紅に染まった瞳を不安そうに揺らしてシンゴを見詰めていた。
その深紅を紫紺で見詰め返し、シンゴは口元を微笑ませると――、
「ごめん、もう大丈夫。ちゃんと、終わらせるから」
「――うん」
未だに少し顔の青いアリスがこくりと頷くのを見届け、シンゴは顔を前に戻した。そしてその紫紺の双眸を細め、眼前で噴き上がった莫大な悪意を鋭く見据える。
「だめ……だめだめ、ダメダメダメダメダメぇぇぇ――ッ!!」
抱えた頭を振り乱し、ざっと数えただけでも数十本以上はある赤い布を空へ向けて伸ばしながら、沢谷優子が狂乱したように喚き散らす。
「お兄さんは私の……私の王子様なんです! それをあの女! 色目を使って……ッ!」
激しい嫉妬と憎悪に燃える瞳でアリスを睨み付ける沢谷優子。その視線を遮るように立ち位置を変え、シンゴは冷めた瞳で沢谷優子を見やり――、
「僕はあんたのものには決してならないよ。――僕の命は、アリスのものだ」
「――え?」
「――ッ!?」
アリスに拾って貰ったこの命だ。所有権があるとすれば、やはり彼女以外にはいないだろう。
そういう意図で発したシンゴの言葉に、背後からアリスの素っ頓狂な声と、前方から沢谷優子の喉を詰まらせる音が重なった。
その直後。沢谷優子は肩を戦慄かせ、ギリッと歯軋りを響かせると――。
――爆発した。
「殺します――ッ!!」
「――こいよ」
先ほどの前言撤回をあっさり撤回する沢谷優子の宣言に、シンゴは酷薄な笑みで応じる。
次の瞬間、空中で待機していた数十本の赤い布が一斉にシンゴに向けて射出された。
「逃げろシンゴ!!」
「絶対に触れちゃダメ!!」
カズとイレナの忠告を背後に、シンゴはその場から横に向かって駆けた。
その背中を途中で軌道を変えた赤い布の軍勢が追う。シンゴはちらりと背後の赤い猛威を一瞥。すぐに視線を切ると、崩れかけた廃墟に向かって跳躍した。
赤い布も真上に向かって直角に折れ、シンゴの後を追いかけてくる。
このまま行けば空中で身動きの取れないシンゴは串刺しにされるだろう。イレナの氷剣を容易く切り裂いた威力から察するに、シンゴの柔い肉体など一瞬で細切れだ。
しかし当然、シンゴもただやられる為に跳躍したのではない。
「すごい――ッ!?」
シンゴは窓ガラスのない窓縁に足をかけ、そのまま更に真横に跳躍した。
そして隣の廃墟にある出っ張りを足掛かりに、更に跳躍。驚愕の声を上げて目を見開く沢谷優子を紫紺の瞳で見据えながら、シンゴは立ち並ぶ廃墟の壁を走る。
背後から赤い布が襲ってくるが、シンゴは壁の出っ張りに足をかけ、手をかけ、空中で強引に身をひねって、それら全てを躱していく。
あの赤い布はやはり、沢谷優子自身が操作しているらしく、一本一本に彼女の意志が宿っている。それはつまり――。
「――悪意が読める僕には当たらない」
背後から迫る線のような悪意が鮮明に把握でき、後ろを見ずともシンゴは次々と赤い布を回避していく。
やがてシンゴは、沢谷優子の真上まで壁を走り切り――。
「――どうも」
「どうも――ですッ!!」
シンゴが投げかけた挨拶に律儀に返答しながら、沢谷優子から追従してきている赤い布と同等量の赤い布が射出され、落下するシンゴに襲い掛かった。
シンゴは途中で廃墟の壁を蹴り付けて射線から脱出。安全に着地するのと、合流した赤い布が量を倍にして向かってくるのは同時だった。
「多いな……」
再び走り出しながら、シンゴは赤い布の量に目を細めた。
沢谷優子を見た感じでは、その身体を覆う赤い布の量が減っているようには見えない。つまりあの女は、強力な殺傷能力を秘めた赤い布を自由自在に操れるだけでなく、新たに生成する事も可能らしい。
「しかも、射程が長い……」
空気を引き裂いて飛来する赤い布を上体を後ろに逸らして躱し、左右から挟み込む形で角度を変え、脇腹を抉るように迫る二本の布をバク宙で躱す。足を振り子のように振り、着地までにかかる時間を短縮。着地と同時に束になって迫っていた赤い布を横っ飛びで躱す。
「あぁ……かっこいい、かっこいいです! お兄さん!!」
「それはどうも」
陶然とした声を上げてシンゴを見てくる沢谷優子に、シンゴは鋭い睨みを返しながら戦術を組み立てる。
まず、この赤い布の量が厄介だ。どうにか赤い猛撃を掻い潜っても、更に増やされては意味がない。そしてシンゴに飛び道具はなく、必然的に沢谷優子に近付く必要があるのだが、赤い布が飛んでくるのはその沢谷優子からだ。
近付けば近付くほど、赤い布の脅威は大きく増す。
そして更に問題となってくるのが、沢谷優子にシンゴの攻撃が効かない可能性があるという、こちらの勝利の前提条件が揺らぐような事実だ。
最初にシンゴが浴びせた脚打が全く効いていない様子から見るに、おそらくあの赤い布が衝撃を全て吸収した可能性がある。
しかしイレナの氷剣のようにシンゴの足が潰れなかった事から推測するに、布には攻撃用と防御用の二種類存在しているか、攻撃と防御のどちらの機能も兼ね備えているが、一度に両方の機能は使えない、という二通りの可能性が考えられる。
「だとしても……」
どちらにしろ、沢谷優子にダメージは入らないと考えた方がいい。
苦労して赤い布を掻い潜ってもダメージが通らなければ、最悪カウンターを貰ってしまう可能性もある。
それでもシンゴは死なないが、生まれた隙に沢谷優子の意識がアリス達に向かわないとも限らない。ここはやはりシンゴが注意を引き続け、有効な手を考えなければならない。
全身を最硬かつ軽量の鎧で守り、最強かつ軽量の武器で攻撃してくる。そんな相手に対して有効な手、もしくは隙は――。
「――目か」
唯一露出している部分――眼球に狙いを定めると、シンゴは逃げ回るのを止めて沢谷優子に向かって方向転換した。
背後から腹を穿とうとしてくる赤い布を側転で躱し、逆立ちの状態で手首をひねり、身体を真横にして面積を減らす事で、前後から迫っていた二本の赤い布をギリギリでやり過ごす。
その後に反動を利用してバネのように跳ねる事で身体の上下を元に戻し、再び壁に向かって走ると、その崩れかけた壁面を蹴り付けて回るようにして真後ろへ跳躍。
赤い布が石壁に突き刺さり、容易く崩壊させる様子を縦に回る視界の端で捉えながら、シンゴは試しにそのまま赤い布の上に着地してみた。
「――乗れた」
着地したシンゴの足が両断される事はなく、これで攻撃用と防御用の布が二種類存在するという可能性は消えた。
そしてどうやら明確な攻撃の意志がなければ、布は基本的に防御用で固定される様子。
瞬時にそこまで考えながら、シンゴはそのまま赤い布の上を走り出した。
しかしすぐに悪意の変化を感じ、赤い布から飛び降りる。着地と同時に靴を見ると、端が少し切れている。どうやら沢谷優子の意志で攻撃用に切り替わる、は正解のようだ。
「どうして分かるんですか! まるであの狂人みたい! でも、お兄さんはお兄さんだから、かっこよくて凄いのでそれでもいい! ううん、それがいいんです――!!」
「…………」
理解し難い称賛を吐き出しつつも、一向に攻撃の手を緩めない沢谷優子との距離をじりじり詰めながら、シンゴは赤い布の猛威を躱し続ける。
身体が羽のように軽く、煮え滾るような憤怒と憎悪、そして新たに加わった嫌悪が燃料として投下され、心が激しく燃え上がる。
身体が更に軽くなり、自分が考えた通りのパフォーマンスが出来る。
こんな超人的な動きを可能にするほど強化された己の身体能力に心の中で感嘆しつつ、シンゴは“アレ”をどこで使うか慎重に測る。
使い時を見誤れば次はない。それに成功したとしても、読みが外れれば結局は無意味に終わる。
これは賭けだ。そしてシンゴは――。
「――今!」
ありとあらゆる角度から攻撃してくる赤い布の隙間を見極め、そこへ強引に身体を捻じ込んだ。
「ぐっ――!」
何本かが身体を掠めるが、致命傷は避けた。そしてその傷も吸血鬼の再生能力で瞬く間に癒える。
強引な方法で距離を更に縮めたシンゴに、沢谷優子が黄色い声を上げながら更に赤い布を伸ばしてくる。
これを乗り切れば、『激情』で強化されたシンゴの足なら沢谷優子に届く。
しかしこれを躱し切るには、前に進む以外の進路を取らねば避けられない。だが、それではダメだ。
だから、使いどころは――。
「ここ――ッ!」
「――ッ!?」
シンゴの事を瞬きもせずに凝視していた沢谷優子の黒瞳を、シンゴはその紫紺の瞳で鋭く射抜いた。
直後、沢谷優子の肩がびくんと跳ね、喉から喘ぐような声を漏らして硬直した。そしてその身体が恐怖に竦むように小刻みに震え始める。
――紫紺の瞳に宿る、視線の合った相手を威圧する力だ。
これも『激情』の権威の力の一部なのかは分からないが、有用なものは怪しいモノでも使う。そうでもしなければ、無力なシンゴでは届かないのだから。
ただ――。
「止まらない……っ」
沢谷優子本人の動きは止まったが、赤い布は未だシンゴを引き裂かんと向かって来ている。やはり動きを止めたとしても、その意志までは縛り切る事が出来ないのか。
いや、違う。よく観察してみれば、赤い布のキレが格段と落ちている。その速度も遅くなっており、シンゴの急な方向転換にも付いてこれていない。
意志を完全にへし折る事は出来なかったみたいだが、少なくない動揺は与えられた様子。そしてその動揺はダイレクトに赤い布にも伝わり、動きは目に見えて精彩さを欠いていく。この程度なら、今のシンゴの身体能力を以てすれば――、
「抜ける――っ!」
踏み込んだ足裏に集めた力を爆発させ、シンゴは地面を爆ぜさせながら一気に前へ。
赤い攻撃を置き去りに低い姿勢で駆け抜け、一瞬で沢谷優子の眼前に到達した。そして唯一露出している眼球を目がけ、シンゴの立てられた二本の指が空気を穿ちながら放たれる。
一切の躊躇をせずに行使されたその攻撃は、驚愕に見開かれた二つの眼球に吸い込まれるように向かい――、
「ぁがっ――!?」
瞬時に眼球を覆い隠した赤い布によって阻まれた。
二本の指が布の上から眼球を押し潰す事もなく、人差し指は逆さに折れ上がり、中指に至っては折れずにそのまま潰れる。
「こんな簡単に誘いに乗ってくれるなんて、やっぱりお兄さんはおバカさんなんですね。でも、そんな所も可愛くて素敵ですよ?」
沢谷優子はシンゴに向かって優しく笑いかけると、直後にその口元を覆っていた赤い布を解き、顕になった唇を大きく開いた。
口を閉じていた為、先ほどは気付く事が出来なかったが、沢谷優子の犬歯はまるで吸血鬼のように鋭く尖っており――。
「――ッ!?」
硬直が解けたのか、沢谷優子がそのままシンゴの首筋に噛み付こうと顔を前に突き出した。
その悪意を事前に読み取っていたシンゴは咄嗟に足を前に突き出し、沢谷優子の腹を蹴り付けながら全力で首を逸らす。
カチン――という歯が打ち鳴らされる音が耳元で聞こえ、シンゴは全力でその場から飛び退く。
同時に沢谷優子から新たな赤い布が殺到し、さらにキレの戻った他の布までもがシンゴの肉体を蹂躙せんと襲い来る。
それらを『激情』で強化された身体能力で強引な挙動で以て回避するシンゴに対し、沢谷優子は目元を再び露出させると残念そうに吐息した。
「吸血鬼は毒に弱いと聞いて試してみましたが、当たらなければ意味がないですね……残念です。お兄さんは速いので、動きを止めて……きゃっ、私ったらはしたない!」
「毒……っ」
自分の発言に身悶えする沢谷優子を見据えながら、その言葉の中にあった『毒』というワードにシンゴは反応する。
確かに吸血鬼は毒に弱い、とどこかで聞いた覚えはあるが、しかしシンゴが驚いたのはそこではない。行動と話しぶりから察するに、沢谷優子はあの牙に毒を有しているという事実に、だ。
今もシンゴをしつこく付け狙ってくるこの膨大の量の赤い布だけでなく、沢谷優子は毒という異能まで手にしている。一体『羨望』と『嫉妬』の権威とは何なのか。
権威の詳細を見極める事も重要だが、問題は打つ手が無くなったという事にこそある。紫紺の瞳の持つ威圧の力は有用だが、意識してさえいれば対処が不可能なものではない。事実、沢谷優子は対処してみせた。
おそらくこれは、『バベルの塔』であの女の前で瞳の力を使った事が原因だろう。
この力は秘匿性が高く、事情を知らぬ者が見れば睨まれて怯んだ、と受け取るのが普通だ。しかし、どうやら沢谷優子は、あのふざけた愛狂いの性格に反して警戒心が強いらしい。
この賭けの敗因は、その点を見誤ったシンゴの落ち度が原因だ。
しかし後悔していても仕方ない。今はこの状況を打破する為の次なる策を練らねばならない。
「くそ……っ」
なるべく沢谷優子の視界にアリス達が入らないように立ち位置に気を配りつつ、シンゴは苦渋に顔を歪める。
一つだけ案は浮かんだ。最初に沢谷優子を蹴り飛ばす事が出来たという事と、先ほど布の上に一瞬だが立てた、という二つの事実から、不意打ちに近い攻撃ならこちらに赤い布の被害は及ばない可能性が成り立つ。
そこに一瞬でも沢谷優子の攻撃の意志が乗れば、おそらく真正面から殴り付けば場合、シンゴの拳は先ほどの目突きに失敗した指のように潰れるだろう。
重要なのは布に攻撃の意志を反映させない事。その上で、関節技に持ち込む。これが、シンゴが辛うじて絞り出した最後の案だ。これ以外に攻撃を届かせる方法は、もう浮かばない。
「あとは……」
いかに不意を突き、布に攻撃の意志を反映させず関節技に持ち込むかだが――。
「――あの、お兄さん!」
「――!」
意を決したような呼びかけと同時に、赤い布の動きがぴたりと止まった。
シンゴはその場に立ち止まり、油断なく沢谷優子の挙動を観察する。
そんなシンゴの態度を話しを聞く姿勢だと捉えたのか、沢谷優子は胸の前で指を絡ませながら、何やらもじもじとし始める。
その不審な挙動にシンゴが眉を寄せるのと、沢谷優子が口を開いたのは同時だった。
「えっと……しんちゃん、って呼んでもいいですか?」
「――は?」
上目遣いで、沢谷優子の口から飛び出たのはそんな意味不明なものだった。
目を見開いて固まるシンゴを余所に、沢谷優子の妄言は続く。
「だって、いつまでもお兄さんって呼び方だと、私達らしくないって言うか……まずは呼び方から入るのもいいかなって。――あ、しんちゃんも私の事、好きに呼んでいいですから!」
「…………」
どうやら本気で言っているらしい。
シンゴは不快感に頬を強張らせるが、考えようによっては、これは好機なのではないだろか。
あの女の妄想に付き合うのは反吐が出るほどに癪だが、流れに乗じて上手く会話を誘導出来れば、隙を作る事も可能かもしれない。
――しかし、その考えが実行される機会は奪われた。
「――え? そ、そんなの嫌です!!」
「――?」
急に否定の言葉を叫んだ沢谷優子に、シンゴは眉を寄せる。
いまさら突発的な発言に驚きはしないが、今回の沢谷優子の様子は今までと違っていた。
今までは愛に酔ったような態度、そして発言だったのだが、目の前の沢谷優子は激しく狼狽するような、もっと言えば駄々をこねる子供のようなもので――。
「だってラハブ! 私はまだしんちゃんと話したい事が沢山……そんなの勝手です! どうしてこのタイミングなんですか!? それじゃ話が……でもっ!」
何やら誰かと会話をしている様子だが、シンゴの目には第三者の存在は確認できない。
攻めるなら今か、とシンゴが逡巡していると、やがて怪奇な口論を終えたらしい沢谷優子が肩を落とし、空中で静止していた赤い布を自分の元へと引き戻し始めた。
そして顔を覆っていた布を解くと、目元にいっぱいの涙を湛えてシンゴを見てきて――、
「しんちゃん……ごめんなさい。私、呼び出しがあって……これ以上は一緒にいられないみたいなんです」
「…………」
何があったか詳しくは分からないが、今しがたのセリフの中にあった『呼び出し』という不可解な単語。それは言外に、背後にいる何者かの存在を示唆している。
そしてその『呼び出し』とやらは急を要するのか、どうやら沢谷優子はこれ以上シンゴ達と事を構えるようなまねはせず、そのまま立ち去る雰囲気だ。
ここで逃がすという事は、イチゴの命を脅かす存在を見逃すという意味だ。そんな事を許容できるはずもない。ないのだが、今のシンゴでは勝ち目がないというのが、どうしようも出来ない現実だ。
しかし、そんな事は些細な問題でしかない。勝ち目がないのなら、勝ち目を得るまで挑み続ければいい。たとえその道程で、幾度『死』を迎え、あの校舎に招かれようとも――。
――シンゴは気が付かない。その考え方は、先ほど自分で沢谷優子に言った『死は重い』という発言と矛盾している事実に。
「――――」
シンゴは無言で全身から鬼気を発するが――やがて、小さな吐息と共に脱力した。
本当ならここで沢谷優子という最悪の障害は取り除いておきたいのだが、ここで強硬手段に出るのは愚策だ。なぜなら、今は――。
「…………」
シンゴはちらりと背後を振り向き、不安そうな顔でシンゴの事を見ている三人の仲間の姿を視界に収めた。
シンゴの勝手で三人を巻き込む事は出来ない。今となっては、あの三人はシンゴにとってかけがいの存在だ。ここは三人の安全を第一に考え、大人しく見逃すのが正しい選択。そう、正しい選択なのだが――。
「――沢谷優子」
「なに? しんちゃん」
本人の承諾も得ず、そして疑問も抱かず、図々しく勝手な愛称を用いて哀しそうに小首を傾げる沢谷優子を、シンゴは真っ直ぐ紫紺の瞳で睨み付け――、
「今はただ別れを惜しみましょう。ですが、これだけは覚えておいてください。僕は、あなたより先にイチゴを見付け出してみせます。――絶対に、僕の妹には手を出させない」
言い切り、シンゴは悔しげに奥歯を軋ませる。こんな負け惜しみの文句、本当は言うつもりなどなかった。最悪、せっかく見逃してくれそうな雰囲気だった沢谷優子を無駄に刺激してしまいかねないと分かっていながら。
そんな小さな自分に憤りを感じつつ、シンゴは瞳の奥に爆発しそうなほどの激情を宿しながら、必死に自分を押し殺すように、途方もないやるせなさを胸に眼前の女をただただ睨み付ける。
「私も、しんちゃんと離れ離れになるのは悲しいです。それに、あなたの傍に他の女を置いておく事も凄くイヤ。今すぐ殺したい。でも、それもしちゃダメなんです……ごめんなさい」
悲哀の涙に瞳を濡らし、その奥に淀んだ何かを渦巻かせながら、沢谷優子の視線はアリスとイレナに向けられている。
シンゴに対しての悪意はもうほとんど感じられないが、あの二人に対しての悪意は逆に増している。これほどまでに深い悪意をたった一人の少女が発しているなど、未だに信じられない。
シンゴは己の身体でその剣呑な視線を遮るように動いた。すると視界に割り込んだシンゴに対し、沢谷優子は唇をぎゅっと引き結び、やがて泣き笑いのような表情で微笑むと、
「木更木さんの処分を諦めなければ、きっとあなたとまた会える。それが分かっただけで、私は強く在れます。だから――」
赤い布が真上に伸び上がり、崩れて尖った廃墟の一部分に絡み付く。その布に引っ張られて廃墟の屋根の上に危なげなく着地した沢谷優子は、名残惜しそうにシンゴに振り向き、
「……またね、しんちゃん」
僅かな逡巡の後に遠慮がちに手を振り、再会を匂わせる不穏な言葉を残して、沢谷優子の姿が屋根の向こうに消えた。
徐々に遠ざかって行く悪意に、シンゴは沢谷優子が本当に撤退した事を悟ると、深く息を吐き出して脱力した。
「あー、えっと……だな、シンゴ」
「――!」
おずおずとした躊躇を孕んだ声に、シンゴはゆっくりと振り返った。
そこには短く刈り込んだオレンジの頭髪に指を差し込んで掻き回し、何やらこちらに視線をちらちらと向けてくるカズの姿があり、シンゴは思わず苦笑すると、
「カズ。そんな態度されても、男の君だとただ気持ち悪いだ、け――?」
直後、視界がぐらつき、意識が強引に引き剥がされそうになるような不快感がシンゴを襲った。
なんとかその浸食に抗おうとするが、気が付けば地面がすぐ目の前にあり、ひび割れた石畳が倒れてくるシンゴを歓迎した。
カズとイレナの驚いた声が上がり、直後に二人分の慌ただしい足音が地面を通じて直接伝わってくる。
「……ぁ」
せめてもの抵抗として言葉にならない小さな喘ぎをこぼすが、それを最後に意識が一気に闇へと引きずられる。
「――ご」
――意識が闇に落ちる寸前、苦しげながらも必死にシンゴの名を呼ぶ少女の声が聞こえた気がした。