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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第3章 誘蛾灯に魅入られし少女
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第3章:45 『元凶との相対』

「――こぽ」


 血の塊を吐き出した、その淡い桜色の唇の端に艶めかしく一筋の血が伝った。

 しかし、胸に開いた穴から流れ出る血の量はその比ではない。

 アリス・リーベは胸を貫く激痛に顔を苦悶に歪めながら、己の胸元に突き出ている赤い布で覆い尽くされた腕を掴もうと手を持ち上げ――。


「――まるで、お母さんを包丁で刺しちゃったみたいな、ひどい罪悪感です」


「あぅ……あっ!?」


 布越しに発声したようなくぐもった声が背後から響くと同時に、アリスの胸部を貫いていた腕が一気に引き抜かれた。

 胸から鮮血を噴き出させながら膝を着き、ゆっくりと前のめりに倒れていくアリスとまるで入れ替わるように、それはアリスの背後からその全容を顕にした。


 細く赤い布のようなもので頭の上から足先までを隙間なく覆い尽くした、まさしく異様と称するに相応しいモノがそこに立っていた。

 その腰付きや胸部に見える二つのふくらみから、辛うじてそれが女性だとは判別できる。しかしそれ以上は分からない。真実は全て、あの赤い布の下だ。


「――イレナぁ!!」


 喉が張り裂けんばかりのカズの咆哮。名を呼ばれたイレナは既に、倒れ伏す前にアリスの身体を支えており、その横を疾風のようにカズが駆け抜けた。

 そして背から錆びた大剣を引き抜き、そのまま一気に振り下ろす。


「きゃ」


 振り下ろされた大剣が地を穿ち、小さなクレーターを刻む。それは相手を斬る為のものではなく、牽制を目的とした一撃だ。

 短い悲鳴を上げて軽やかにその場から飛び退いた赤布の女は、唯一露出しているその眼球を驚いたように目の前のカズに向ける。


「シンゴぉ! イレナと変われぇ――ッ!!」


「――ッ!」


 カズの緊迫した怒声にも近い指示を受け、シンゴはようやく我に返って動く。そしてイレナと入れ替わるようにしてアリスの身体を支えた。

 イレナは刹那だけアリスを見る目に痛みを堪えるような色を過らせるが、すぐさま振り払うように駆け出し、大剣を構えるカズの隣に並んで詠唱した。


「『アイス・ズ・メイク』!!」


 手元に生成された二振りの氷剣を素早く構え、イレナの鋭く細められた瞳が眼前の女を射抜く。


「――――」


 カズとイレナは無言でアイコンタクトを交わすと、瞬時に駆けた。

 二人の突貫を受け、赤布の女――その全身を覆う赤い布の内の一本が、まるで意志を持った生物のように蠢き、先に踏み込んで来たイレナに向かって叩き付けるようにして振るわれた。


 振り下ろされる赤い布に対しイレナは、片方の氷剣で赤い布を払い除けた後に、更に深く踏み込んでもう片方の氷剣を叩き込む――そう算段を立てた。

 しかしその対応はまずかった。まず、前提条件である赤い布を弾く事が出来なかったからだ。


「え――っ!?」


 頭上に振ってくる赤い布に氷剣が接触した瞬間、まるで紙を引き裂くように、なんの抵抗もなく氷剣が赤い布に両断された。

 魔法で生成された氷は、普通の氷とは比にならないほどの強度を誇る。布切れ一枚如きに遅れを取るなど、普通では考えられない。となれば、考えられるのはこの赤い布が普通ではないという事だ。


 氷剣を容易く突破した赤い布が影を作りながら、イレナの顔面に向かって真っ直ぐ振ってくる。この次に自分に起こる参事を悟り、イレナは握られた氷剣よりもなお冷たい戦慄が背筋に駆け抜けるのを感じた。


「ぉ――あぁッ!!」


 すぐ目前にまで迫っていた赤い布からイレナを守るように、錆びた大剣が真横から差し込まれた。

 追い打ちの準備をしていたカズが、咄嗟の判断で攻撃からイレナを守る為に防御へと転じたのだ。


「ぐぉ――ッ!?」「あぐ――っ!?」


 質量的にも勝るはずの大剣だったが、衝突は、赤い布と大剣が双方共に吹き飛ばれるというまたもや首を傾げる結果を生んだ。

 布一枚に大剣が押し負けるなど、一体誰が予測できただろうか。目視で得た情報から予測される結果と現実の食い違いにより、赤い布を押し返そうとしたカズは衝撃を受け流し損ない、腕に必要以上の痺れを受けて顔を顰める。


 そして弾かれた大剣の側面がイレナの顔に直撃し、その身体を後方へと傾がせた。

 だが、どうにかあの不可思議な赤い布は退ける事には成功した。


 ――ただしそれは、“一本”だけだ。


「――ッ!」


 弾かれた大剣によって腕を引っ張られて体勢を崩したカズに向かって、“二本目”の赤い布が眉間を貫こうとでもするかのように真っ直ぐ迫っていた。

 目前に迫る『死』を予感し、カズはその双眸を限界まで押し開き――。


「あれ?」


「ぉ……あ?」


 疑問を孕んだくぐもった声を聞いて、カズは己の額に穴が開いてもなければ、頭蓋がスイカのように弾け飛んでもいない事に気付いた。

 そしてもう一つ気付いた事がある。それは自分のいる位置が、眼前で顎に人差し指を当てて首を傾げる赤布の女から遠ざかっている事だ。


「――!」


 間近に感じた『死』の圧迫感で遅れて汗を顎に伝わせながら、カズは己の服――腰の辺りに引っ張られるような感覚を覚え、背後を振り返った。

 そこには尻もちを着きながら荒い息を吐き、疲労困憊な様子のイレナがおり、彼女の伸びた手がカズの服を捕まえていた。


「ギリギリ……っ」


「す、すまねぇイレナ! 助かった!」


「もう……二人分は、無理よ……!」


 肩で息をするイレナを見て、カズはイレナが『ゼロ・シフト』を使ってあの危険域から瞬時に脱出させてくれたのだと悟る。

 しかしその代償は大きかったようだ。二人分は無理、という事は、あと一人――それもおそらく、無理をして二回が『ゼロ・シフト』の使用限界のようだ。


 そして二回目の『ゼロ・シフト』使用代償は、体力を使い果たしたイレナの気絶であり、それはイレナの実質的な戦線離脱を意味する。

 同じようなヘマは、二度は犯せないという事だ。


「それが本物の『ゼロ・シフト』なんですね。――それと」


 赤布の女が何やら関心を示すような言葉を呟いてイレナを見たかと思えば、次には小首を傾げながらカズを――いや、厳密にはカズの持つ錆びた大剣に目を向けた。


「『ラハブの赤い紐』を弾くなんて……不思議な剣を持っていますね?」


「抜かしやがれ。そっちの赤い布の方が、うちの家宝よりよっぽど不思議だぜ……!」


 カズの苦し紛れの悪態を受け、口元を押さえてくすくすと笑う謎の女。

 思わず身震いしてしまいそうな不気味な含み笑いを見て冷や汗を垂らすカズの隣に、呼吸を整えたイレナが氷で出来た一本の直剣を手に並んだ。

 女の一挙手一投足に至るまで見落とさないように最大限に注意を払いながら、カズは隣に立つイレナに静かに告げる。


「オレの見立てだと、勝算は薄いように感じる。逃げ一択だと考えるが……どうだ?」


 弱気とも取れるカズの提案だが、イレナも内心では同じ事を考えていた。

 先ほどの衝突で分かったのだ。あの赤布の女と本気でやり合えば、確実にこちらが殺されると。


 しかも既に奥の手である『ゼロ・シフト』は使ってしまった。緊急脱出が出来るのは、イレナとカズのどちらか一人で、さらにカズを飛ばすには“触れる”というワンアクションが必要となる。はっきり言って、立ち向かうのではなく、イレナの体力全てを引き換えにしてでも『ゼロ・シフト』で全員脱出、が正解だった。


 だが、もう遅い。賽は投げられた。

 戦うのは愚策。残る道は逃げる事だけ。そして逃げるには、負傷したアリスをどうにかする必要がある。


「――ふぅ」


 イレナはそこまで考えると、精神を侵そうとしてくる緊張感を和らげる為に静かに吐息し、


「逃げに賛成よ。――でも、アレから逃げ切るには」


「ああ。ちっとばかしオレら二人で削らねぇと、シンゴとアリスは逃げ切れねぇな。――やるぞ」


「分かったわ。あと、あの赤い布には絶対触らない方がいいわね」


「――全部避けるぞ」


 最後に視線を交換し、頷き合ってそれぞれ武器を構え直す。そんなカズとイレナを見て、赤布の女は後ろ手に腕を組んで首を傾げると、


「――ご相談は終わりましたか? 私はお二人に用はなかったんですけど、少し興味が湧いたので、遊んでくれると嬉しいです」


 女が朗らかな笑みを浮かべたのが、布に覆われて見えなくとも分かった。

 その様子を油断なく見据えながら、カズは空気を吸い込んで肺を満たすと――、


「行くぞぉ――ッ!!」


 己を鼓舞するように咆哮し、それを合図にイレナと二人で二度目の突貫を敢行した。



――――――――――――――――――――



「はぁ……はぁ……ッ」


「アリスっ!」


 玉のような汗を顔中に浮き上がらせながら、シンゴの腕の中のアリスは苦悶の声を漏らして浅い呼吸を繰り返している。

 その苦しげな表情を見ていると、心臓が跳ね上がるように暴れて、頭の中が白を通り越して様々な色が混ざり合い、思考が上手くまとまらない。


「だい……じょうぶ、さ。これくらい、なら……治る、よ」


「――っ」


 青い顔で気丈に笑って見せるアリスに、シンゴは胸の奥に激しい疼きを覚えて顔を苦渋に歪めた。

 確かにアリスの胸の傷は既に再生を終えており、白い肌と乳房の膨らみが浅い呼吸に合わせて忙しなく上下しているのが、服に開いた穴から見て取れる。


 しかし、アリスの様子を見る限り大丈夫だとは思えない。そもそもアリスは、こんな重症を負う事自体が稀だ。その苦痛と衝撃が、吸血鬼の再生能力の対象外である事もシンゴはよく知っている。むしろ、死に至るほどの重傷を負う機会が多いシンゴの方が、“これ”に関してはアリスより耐性があるくらいだ。


 無論シンゴも、痛みに慣れてきているなどとは口が裂けても言えない。痛いものは痛いし、怪我をするのは怖い。そして死は、それを凌ぐほど恐ろしい。

 しかし、アリスとシンゴでは経験の差が段違いだ。

 初めて死を迎えた時、シンゴは魂を引き裂かれるほどの衝撃に意識を飛ばした。それに対してアリスは、こうして意識を保ち続けている。


 ――強い。


 アリス・リーベは、強くて、優しくて、ちょっと抜けているところもある、そんな弱い女の子だ。

 それを強がって、隠し切れていないのに隠そうとする。真っ青な顔で必死にシンゴへと笑いかけ、自分は大丈夫だと態度で告げてくる。その健気な姿を見て、シンゴは強く噛み締めた己の奥歯が割れる音を聞いた。


「――――」


 歯が欠ける音と同時に、胸の奥底で破裂しそうなほどに脈打つドス黒い脈動音を聞いた。

 頭の中にも、胸の内にも、腹の底にも、色と定義する事すら不可能なほど複雑怪奇に混ざり合った『色』が渦巻き、汚濁を深めていく。その全てに対し、ドス黒い脈動が同調していく気持ち悪い感覚。


「しん……ご?」


「…………」


 アリスは瞼を持ち上げ続ける力もないのか、薄く細められた瞼の隙間から覗く真紅の輝きで、シンゴを案ずるように見上げてくる。

 こんな状況でも、自分ではなくてシンゴの心配。その深紅の瞳に映る自分の姿に己の弱さを見て、混濁する『色』に屈辱的なほど熱い自責の色が加えられる。


 シンゴが全てにおいて強ければ、こんな事態にはならなかった。

 しかし現実では、シンゴは全てにおいて弱く、一つも自信を持てるものなど持ち合わせていない。

 自分を守るだけの力では、守りたいものは救えない。シンゴが欲するのは、降りかかる火の粉を払う――障害を薙ぎ払えるだけの圧倒的な力だ。


 脈動は留まる事を知らず、激しく、強く、大きく、速く――。

 その『色』は更に混濁し、淀み、歪んで、純粋な黒へ――。


「ごぁッ!?」「きゃあ!?」


 丁度シンゴとアリスを挟む位置に、カズとイレナが吹き飛ばされてきた。

 二人は荒い息を吐き、滝のような汗を流して苦悶の表情を浮かべている。目立った外傷はないが、劣勢なのは火を見るより明らかだ。


「手が空きましたので、やっとお話ができますね。――お兄さん」


「――――」


 背後から聞こえたくぐもった声に、シンゴの肩がぴくりと反応する。

 その声に含まれる粘ついた感情に、記憶の中の何かが刺激された。

 視線をアリスから外し、声の主へと向ける。


 赤い布のようなもので全身を覆ったその女は、シンゴの視線を受けて身体を左右に揺らしながら何かを待っている。しかし直後に何やら疑問を感じたらしく、頭の上に疑問符を浮かべて小首を傾げた。そして「ああ、そうでした!」と声を上げ、納得に手をぽんと打つ。


「紐が邪魔で私が誰か分かりませんよね。今、外しますから」


 そう言うと、女の顔を覆っていた赤い布のようなものが蠢き、徐々に顔から離れていく。

 最初に長い深緑の髪が肩に下り、次にその黒瞳が、整った鼻が、小ぶりな唇が顕になり、優しげな微笑みを浮かべた柔らかな印象を受ける相貌が顕となった。


「――ッ!?」


 その顔を見て、シンゴの時は一瞬だが確実に止まった。

 限界まで押し開かれた目が女の顔を見詰め、直後に戦慄と激しい憎悪――そして何より、真っ赤な憤激がキサラギ・シンゴという器を満たした。


「髪の色がこんなのになっちゃっいましたけど、どうやら気付いて貰えたみたいで安心しました」


 素顔を晒した女は己の深緑の髪を撫で付けると、無表情のまま目を押し開いて固まるシンゴにその黒瞳を向け――、


「お久しぶりです。あの神社の夜以来ですね。……私の名前、分かります?」


 少女は胸の前で手を合わせると、小首を傾げてその名を口にした。


「優子です。――沢谷優子ですよ」


 ――全ての元凶が、あの夜と同じようにニコリと微笑んだ。



全部この女の所為

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