第3章:41 『最終警告』
「――――」
――肉体に魂の帰還を祝福されながら、キサラギ・シンゴはゆっくりと目を覚ました。
瞼の裏側が遠ざかるにつれ、青空が視界いっぱいに広がっていく。
雲一つない快晴を見上げながら指先を微かに動かす事で、全身の末端に至るまで意識を巡らせる。そうする事で、己の肉体がちゃんと支配下にあるか否かを確認できる。
「…………」
身体が思い通りに動かせる事を確認すると、シンゴは無言で上体を起こした。
ふとすぐ近くに、常人より大きめの足が見えてシンゴは顔を上げた。その足に添わせるように目線を持ち上げていくと、そこには目を見開いてシンゴの事を凝視する巨漢――賀茂龍我の姿があった。
「お前は――」
絞り出すように発せられた驚愕を孕む龍我の言葉は、しかし最後まで言い切られる事無く、不意に割り込んできた不真面目な声によって断ち切られる。
「やっほー、おかえり! あーいぼうっ!」
シンゴはその親しげな声の方へと視線を向けると、深紅に染まった右目を細めた。
シンゴの視線の先には、左肩から黒い炎で出来た翼を揺らめかせて佇む、黒い少年――捏迷歪の姿があった。
「んー、やっぱり死ななかったかぁ。――うん、さすがはぼくの“番”だ」
腕を組んで満足げに頷く歪を視界の中央に収めながら、シンゴは素早く自分の置かれた状況を確認する。
思い出せる直近の記憶は、目の前に迫る凶悪な咢だ。
軽くトラウマが蘇りかけるが、かぶりを振って脳内から追い出し、己の手の平に視線を落とすと、ぎゅっと握り込んで記憶の整理を終える。
――どうやら、二度目の復活はなかったようだ。
そもそも、あの世界での復活自体がイレギュラーなものだったのだ。ベルフを救出できた時点で、シンゴがあの世界に留まり続ける理由もなかったのだから、この帰還は正しいものであり、必然だ。
「…………」
シンゴは無言で立ち上がると、こちらに手を振る捏迷歪を睨み付ける。
結局、あの男を打ち負かす為の力も、知恵も持ち帰る事は出来なかった。だが、シンゴのすべき事は変わらない。
たとえ何度死ぬことになろうとも、あの罪人を打ち倒し、然るべき罰を受けさせる。当然、モプラへの謝罪――いや、元を辿ればこの都市にいる者は全員、奴の被害者だ。こうなったら、何が何でも全員の前で土下座させなければならない。
そのためにはまず、シンゴが歪に勝つ必要がある。
「――いい顔だぜ、相棒。手は出さないでくれよ、龍我さん。これは“番”同士の戯れ……友情を深め合う為の崇高な殺し合いだからさ。部外者は傍観までだぜ」
いっそ辛辣とも取れる歪の言い分だが、不本意ながらシンゴも同じ意見だ。
シンゴは歪に視線を固定したまま、隣の龍我へ静かな声音で言う。
「龍我さん。俺からも、頼みます」
確かにこの場面、龍我の手を借りるのが正しい選択なのだろう。しかし、ただ歪を倒せばいいという訳ではない。奴の心を屈服させなければ、シンゴの望んだ終幕には至らない。
歪の意見に賛同するシンゴの申し出に、龍我は瞑目して沈黙を落とす。やがて目を開くと、腕を組んで重々しく首肯した。
「分かった。男と男の喧嘩に手を出すつもりはねぇ。――ただ、一つだけいいか?」
龍我はその鋭い視線を歪に向けると、まるであの男の奥底を見透かそうとでもするかのように、更に目を細くした。
そしておよそ数秒後、その眉を不審げに寄せた。
「日向……お前、『烏』はどうした?」
龍我の何らかの存在を示唆する質問に対し、歪は苦笑して肩を竦めると、
「ああ、あれはペオルが呑み込んだ。今はぼくの中にはいない」
「……そうか、分かった」
シンゴには理解できない会話を交わした龍我は、その目線で「もういい」とシンゴに告げると、そのまま一歩、後ろに引いた。
正直、気になる単語が無かった訳ではないが、今は余計な思考に意識を割いている場合ではない。これから始まる戦いは、生半可な覚悟では挑めないのだから。
そうしてシンゴが闘気を高めていると、不意に手と手が打ち合わされる乾いた音が響いた。
シンゴは今しがた手を鳴らした人物――眼前の歪へと視線を送る。
歪はシンゴの視線を朗らかな笑みで受け止めると、
「さて、相棒。友情を深め合う前に、少しだけお話をしようか」
「……お前と話す事なんて、もう何もねえよ」
この期に及んで一体何を話そうというのだろうか。あれだけの事をしておいて、まだシンゴの事を親しげに見てくるあの男が、今は本当に不気味でしょうがない。
そんなシンゴの冷たい対応に、歪は「はは、嫌われたなぁ」と、どこか悲しげに眉尻を下げるが、すぐにからかうような微笑を浮かべ直す。
「本当にいいのかなぁ。相棒は知りたいはずだぜ? ぼくの権威と、相棒の権威について」
「――!」
歪の告げた内容に、シンゴは細めていた目を大きく押し開いた。そしてまじまじと歪を見やると、ゆっくりと口を開ける。
「お前は、知ってるって言うのか……?」
「うん。知ってる」
「…………」
間を置かずに返された肯定の言葉に、シンゴは眉根を寄せて視線を伏せる。
歪の言葉が本当だとしたら、確かにこれはまたとないチャンスだ。元の世界に帰るには、正直この身体に宿る二つの権威は邪魔になる。こんな過剰な身体能力も不死力も、普通に生活する分では不要の一言だ。
むしろ、誰かにバレでもすれば、大事になるのは必至である。
この先、知る者の少ない『罪人』について知れる機会は、今を除いてそう訪れないだろう。別に向こうも、特に仕掛けてくる様子は窺えない。
ならば、ここは――。
「――分かった。話せよ」
「物分かりのいい相棒は、いい相棒だぜ」
歪の意味の分からない賛辞を聞き流し、鋭い視線を返す事で先を促す。
そんなシンゴの素気無い対応を受け、歪はやれやれと肩を竦めると、
「相棒ももう分かってると思うけど、ぼくは『罪人』だ。それも、相棒の持ってる『怠惰』と対をなす罪――『堕落』のね」
「……『堕落』」
驚愕に目を見開くシンゴの前で、歪は今までポケットに突っ込んでいた右手を抜き、その甲をシンゴに向けて掲げた。
そこに刻まれた痣を見て、シンゴは思わず喉を詰まらせる。
「一見、アルファベットの『W』に見えるかもしれないけど、『罪人』の痣にアルファベットは存在しない」
捏迷歪の右手の甲に刻まれた痣――『W』という文字を見て、シンゴは咄嗟に右手の黒い手袋を外すと、その甲に刻まれた痣を見た。
今でこそ痣は『ⅧⅤ』に変わってしまったが、かつてここに刻まれていた痣は、アルファベットの『M』だった。
だが歪は、『罪人』の痣にアルファベットは存在しないと言う。だとしたら、他にどういう解釈が――
「――まさか」
「およ? 分かっちゃった?」
答えに辿り着いて目を見開いたシンゴに、歪が首を傾げながら嬉しそうな顔をする。
シンゴは喉の渇きを感じながら、己の痣から歪の痣へと視線を移す。
もしも、シンゴの推測が正しいのなら――。
「もしかして……『Ⅲ』、か?」
シンゴの答えを受けた歪は一瞬だけ表情を消すと、不安を過らせるシンゴに向かってぐっとサムズアップを向けて、
「相棒、大正解! よっ、名探偵!」
大げさに拍手を送ってくる歪にシンゴは渋い顔をしながら、この世界にも探偵などといった職があるんだな、というどうでもいい方向へ逃げようとする己の思考を意識して引き戻し、改めて己の痣へと視線を落とす。
かつてそこに刻まれていた痣の形を脳裏に思い描き、そして歪の痣をそこに付け加える。
――やはり、『Ⅲ』だ。
元々アルファベットの『M』にしては、何か形に違和感があった。だが、それが『Ⅲ』というローマ数字を真ん中で真っ二つにしたものだと言われれば、すんなりと納得できる。
問題は、なぜ割れるような事態になったかだが――。
「相棒とぼくの権威は、元々一つだったのさ。理由は分からないけど、ある日それが二つに裂けた。片方は相棒に、そしてもう片方は――ぼくに」
シンゴの考えを肯定するような歪の言葉。
元々『怠惰』と『堕落』は、二つで一つの権威だった。それがなぜか、二つに割れた。
モプラの持つ権威――『色欲』と『肉欲』の事を考えれば、むしろ二つ揃って初めて『大罪の権威』は成り立つのだろう。
「――なら」
シンゴは一つの可能性に思い至り、深紅に染まった右目ではなく、何色にも染まっていない左目を手で押さえた。
思い至ってしまった可能性に戦慄するシンゴには構わず、歪が更に続けてくる。
「ここまでくれば、もう分かるよね? ぼくがどうやって生き返ったのか。ほら、ぼくの服も相棒と同じように再生してるだろ?」
そう言って歪は、シンゴが譲った物である黒い制服――炎弾を喰らったはずなのに、焦げ目すら見当たらないその服をつまむようにして示す。
それを受け、シンゴも己の服に視線を落とした。
シアによって肉体ごと細かく切り刻まれたはずの制服は、シンゴの復活に伴い再生した。その理屈は正直さっぱりだ。だが、同じように服まで含めて再生した歪を見るに、どうやらシンゴの推測は正しかったらしい。
「やっぱり、お前も不死……!」
「またまた大正解! さすが相棒だぜ! ――だけど」
まるで自分の事のように嬉しそうな笑みを咲かせた歪だったが、次には残念そうに肩を落とすと、
「権威は均等に割れた訳じゃなかったのさ」
「……どういう意味だよ?」
「そのまんまの意味さ。確かにぼくは蘇れる。けど、その大本の力は……相棒、きみの方にあるのさ。ぼくのはいわば、劣化版ってやつだ」
「大本が……俺に?」
新たに提示された情報に、シンゴは振り返って炎の翼を見る。
そして視線を前に戻すと、そのタイミングで歪は指を四本立てて、シンゴに向かって突き出した。
「――四回。あ、厳密には二回か」
指を二本折って本数を減らす歪に、シンゴは眉間のしわを深める。
「何の数字だよ?」
「ぼくに残された残機数さ」
どこか残念そうな微苦笑で、歪が衝撃の事実を口にした。
残機――つまりそれは、歪はあと二回しか生き返る事が出来ない、と言う意味で受け取っていいのだろうか。
それが本当なら、今から行われる戦いにも、考えようによっては勝機は見えてくる。しかしそれは逆に、シンゴは歪を極力殺さないように、その心を屈服させなければならないという事を意味する。
はたしてこの情報は、シンゴに取って朗報だったのだろうか。
――ただしそれは、本当の話であれば、だ。
「なんでわざわざ、そんな情報を俺に話すんだよ?」
何か裏があるのではないか。そんなシンゴの思惑とは裏腹に、歪はなぜ分からない、とでも言いたげな顔で苦笑すると、
「だって相棒、ぼくより弱いじゃん」
「――ッ」
「ま、待った相棒! ぼくは事実を言っただけだぜ? それでわざわざハンデとしてぼくの残機数を教えたのに、そんな怖い顔しなくてもいいんじゃないかなぁ……って」
シンゴの怒りの表情に焦りを浮かべる歪だったが、彼の言っている事は正論だ。確かにシンゴは、歪より弱い。たとえ歪が無尽蔵に蘇れる訳ではないと分かっても、果たしてシンゴは一度でも捏迷歪を殺す事など出来るのだろうか。
そもそも、シンゴの目的は歪の殺害ではない。その心をへし折り、然るべき報いを受けさせる事だ。もっとも近道なのは、やはり歪を幾度も殺す事で肉体的苦痛を与え、その心を折るのが手っ取り早いだろう。しかしそれはもう出来なくなった。
歪の蘇生制限の開示は、シンゴにとって目的成就のハードルを上げる結果になった。
本人にはそんな意図など微塵もない様子なのがまた、余計にシンゴを苛立たせる。
「つまり相棒は、ぼくをあと二回殺せば勝ち。対してぼくは、相棒を殺しまくって、その心をへし折れば勝ち。――凄く単純だろ?」
「……ああ」
そんな事はない。シンゴにとって本当の勝ちを奴からもぎ取るには、もう正攻法では難しい。
さらに、歪の提示した彼自身の勝利条件は、シンゴと被るものだ。何度も殺して、シンゴの心をへし折る。つまり歪は、手加減など一切せず、全力でシンゴを殺しに来る。
シンゴの心が積み重なる死に折れるか、はたまた歪がシンゴの何かによって、心を折られるか。
シンゴはその『何か』を戦いの中で見付けだし、実行しなければならない。
「――っ」
覚悟はしていた。イブリースに啖呵を切り、ベルフを選んだ時点でこうなる事は。だがこれは、シンゴの想像以上に厄介な問題だ。
一体どうすれば――。
「――ッ!?」
「――ん? どうしたのさ相棒、そんな驚いた顔して。何か飛んでた?」
突然、驚愕の表情を浮かべて息を詰まらせたシンゴを見て、歪は目の上に手で日傘を作って空を見渡す。
そんな歪の様子など全く意に反さず、シンゴはゆっくりと動揺を深呼吸で落ちつけ、静かに顔を伏せた。
「……分かった」
「んん?」
シンゴの不可解な態度に首をひねる歪だったが、やがてシンゴはゆっくり顔を上げると、
「――一つ、言っておく」
「何さ?」
シンゴはその縦に裂けた右目の瞳を収縮させながら、歪を鋭く見据えて言う。
「モプラに謝れ。あと、大人しく捕まって裁かれろ」
「…………」
シンゴの要求に、歪はぽかんとした顔で固まっていたが、やがて小さく噴き出した。
「あははは! 相棒、もしかしてそれ、ぼくを脅してる? こわこわでわらわらだぜ」
「違う。脅しなんかじゃねえよ」
「……へぇ。なら、何?」
満面の笑みを引っ込めて薄ら笑いを纏う歪を、シンゴは冷めた瞳で見据えながら、ふっ――と相好を崩した。
「――最終警告」
シンゴの告げた一言に対し、歪は呆けたような表情を覗かせるが、やがてバカにするように鼻で笑った。
「それ、同じ意味だぜ。やっぱり相棒、笑いの才能が――わ、ちょ、ちょっと待った! 謝る! 誠心誠意謝らせて頂きますとも!!」
シンゴの目に殺意が宿ったのを見て取り、歪は必死に両手を顔の前で振る。そして拳を口元に当てて咳払いをこぼすと、頭の後ろに片手を回し、もう片方で手刀を作ると、茶目っ気に舌を出してウィンクした。
「――めんご」
「――――」
「あ、あれ? 相棒? 怒った? 怒っちゃった?」
無言で顔を伏せたシンゴを見て、歪は屈んでその表情を覗き見ようとする。
そんな歪を無視しながら、シンゴはゆっくりと伏せていた顔を持ち上げた。
上げられたシンゴの顔を見た歪が、驚きを瞳に孕ませながら瞠目する。そして次にはニヤリと感嘆するような笑みを浮かべると、
「かっけぇじゃん、相棒。その赤と紫、最高に決まってるぜ」
「――――」
深紅と紫紺の二色それぞれを左右の瞳に浮かべたシンゴを見て、歪が嬉しそうに舌なめずりをする。
そして指を一つ目の前に立てると、その指をくねくねと揺らしながら、
「――相棒、一つだけ聞きたいんだよね。きみの中の『怠惰』の獣……一体どんな奴なのか」
「主の力になれる事に至上の喜びを感じる。――そんなどうしようもない獣さ、私は」
「――!?」
どこか嬉しげな笑みを浮かべたシンゴが、歪の知らない口調で喋った。
次の瞬間、歪の目の前でシンゴの姿が急に揺らぎ、やがて大気に溶けるようにして消えた。まるで陽炎のような不自然な消え方だ。
「――『残陽』、『目隠』」
「な――」
すぐ真下から聞こえた声に、歪はハッとして視線を下に向ける。
そこには体勢低く踏み込んだシンゴの姿があり、その片手がいつの間にか歪の腹の中心――水月にそっと添えられていた。
「ま――」
「『透爆』」
「ごぶ――っ!?」
ズンッ――と、静かな振動に大気が鳴動し、直後に歪の口から大量の鮮血が塊となって吐き出された。その後を追うように、目から、鼻から、耳から、股下からも血が滝のように溢れ出す。
「ぉ……」
体中の穴という穴から血を垂れ流し、捏迷歪がゆっくりと地に倒れ伏す。
手を突き出したままの姿勢で、キサラギ・シンゴは、ほぅ――と吐息すると、血の海に沈んで痙攣する歪へと視線だけを送り――、
「――まず、一回目」
――落ち着き払った声で、死のカウントを刻んだ。
スマホでご覧になっている方は、ローマ数字の三が『川』のような形になっているかもしれませんが、この話で言う三は上下が繋がっている方です。