第3章:40 『激情の獣vsキサラギ・シンゴ』
――迸る咆哮を浴びなら、キサラギ・シンゴはひたすら前へと駆ける。
「――ッ!」
振り下ろされる尾をぎりぎりで掻い潜り、崩れた体勢を瞬時に立て直して更に前へ。
薙がれる尾を飛び越え、振るわれる爪をのけ反って躱し、降りかかる咢を全力の横っ飛びで回避する。
――分かる。
悪意――それが、まるで手に取るように分かる。
自分に向けられる悪意の大きさ、強さ、そしてその向きまでもが鮮明に。
この感覚は、イレナを助ける為にシアに向けて石を投擲した直後に感じたものと同じだ。
あの時は、その精神負荷に耐え切れず意識を飛ばした。だが今は、怖いのは確かだが、なんとか意識を正常に保っていられる。
まるで己と言う受け皿が広がり、許容量が増したような不思議な感覚だ。
「ぉ、ああ――ッ!!」
身体が羽のように軽い。全身に力が漲り、心臓の脈動に合わせて血液が巡る。
その熱い感覚を意識しながら、シンゴの脳裏に過るのは十五年間すぐ近くで見てきた、あの屈託ない笑顔だ。
その笑顔を思い出せる限り、キサラギ・シンゴは立ち上がれる、走れる、戦える――。
――ドグン、と。
一際強い脈動が迸り、大地を踏み締める足に更なる力が巡る。
「しつこい……しつこい、しつこい、しつこいぞぉ――ッ!!」
鋭利な爪を、凶悪な咢を、極太の尻尾を振り回し、シンゴを殺そうと躍起になるイブリースが、苛立たしげに絶叫した。
同時に、その攻撃の密度が格段と上がり、シンゴは小さく舌打ちをこぼす。
「だったら、さっさとベルフを解放しやがれ――!」
「この鳥は目障りだ! 不死性をここまで削り、消滅の一歩手前まで来た! 決して見逃さん! こいつはここで消し尽くす! お前は儂という罪だけを背負っていればいいのだ!」
「ヤンデレのドラゴンとか、誰も望んでねえんだよ――ッ!」
吠え、シンゴは振り下ろされる凶爪を躱しながら距離を取る。
荒い息を吐き、顎に伝う汗を乱暴に拭って顔を上げる。
たとえ身体能力が『激情』の権威で強化されていたとしても、あの攻撃を一度でも貰えば、肉塊になる事は必至だ。必ず全てを回避し、イブリースの懐まで潜り込まなければならない。
だが、近付けば近付くほど、イブリースの攻撃がシンゴに届く速さは段違いに上がる。
しかも先ほどから、徐々にではあるが、イブリースの攻撃の速度と威力が上がってきているようにも感じられる。
まさかとは思うが、奴自身もシンゴ同様に――。
「――!」
何か嫌な予感を感じ、シンゴはその場から飛び退いた。
それとほぼ同時に、シンゴがいた位置に巨岩が突き刺さる。
ハッと顔を上げてイブリースの方へ右目を凝らすのと、イブリースが突き出した岩を尾で破壊したのは同時だった。
「あぶ――っ!?」
飛来する岩を躱しながら、シンゴはふとあの金髪の男の顔を脳裏に思い浮かべる。
おそらくではあるが、今しがたの飛来する岩を事前に察知できたのも、あの男の持つ悪意を読み取る力のおかげだ。
シンゴは『ウォー』に来るまで、何度かいじめを受ける夢を見た。
今になってようやく分かったのだ。あの夢が、一体誰の夢だったのかを。いや、夢ではなく、実体験か。
カワード・レッジ・ノウは他人の悪意に対し、異常なまでに敏感だった。
それが生い立ちから獲得した、一種の特技――否、自己防衛本能の異質な発達だったのだ。
本来そのような機能を獲得するなど考えられないが、ここはシンゴの常識が通用する世界ではない。
魔法があり、魔物がいて、不思議が当たり前にある――そんな世界だ。
彼のしてきた事を許すつもりはないし、過去を知った今でも正当化は出来ない。だが、同情はする。
この同情は、彼の過去の一端を覗き、そしてその特別な力を限定的に受け継いだシンゴだけが許された同情だ。
「厄介な奴も引き継がされたけど、な――ッ!!」
連続して飛来する岩を次々と躱しながら、シンゴは小さく毒づく。
イブリースはベルフを押さえ付けている為か、あの場所から動こうとはしない。それほどまでに、ベルフを排除する事に固執しているのか。
「そんな事、絶対にさせねえ――ッ」
だが、こうしていつまでも攻撃を回避しているだけでは一向に状況は好転しない。どころか、イブリースから感じられるどこまでも純粋な怒りが、シンゴに対しての敵意が、先ほどから留まる事無く募り続けているのを感じる。
それと比例するように、攻撃の威力も速さも上がってきている。
どうやら、先ほど脳裏を過った可能性は正しかったらしい。
イブリースはこの状況で、シンゴにとって唯一の命綱である『激情』の権威と同じ異能を使っている。
「考えてみりゃ、当然――か!!」
目に集中するのでなく、悪意を先に読み取って、投じられた岩と岩の僅かな隙間へあらかじめ身体を捻じ込んでおくというかなり強引な回避運動を取りながら、シンゴは一つの結論を得る。
『激情』を司る『大罪の獣』であるイブリースが、『激情』の権威を使えないはずがない、という結論を――。
「――蓋を僅かにこじ開けたか? 忌々しい……開けるなら全て解放しろ、小僧!!」
「さっきから言ってる意味分かんねえだよ! 一から十まできっちり話しやがれ、この自己中が!!」
相変わらず会話を成立させる気がないイブリースに抗議の叫びを返しつつ、シンゴは一つの決断を前に迷っていた。
このまま逃げ続けるだけではジリ貧なのは目に見えている。シンゴのここでの目的は、捕えられているベルフの解放へとシフトしている。
「んで、俺には飛び道具なんてない……だったら!」
シンゴは迷いをかなぐり捨てると、飛来する岩を真下へ滑り込むように躱し、イブリースに向かって真っ直ぐ突っ込んだ。
「血迷ったか愚か者め! その無能な頭、ねじ切って潰してやるわ――!!」
牙を剥きながら、無謀にも突貫してくるシンゴにイブリースが爪を振り下ろす。
その悪意を事前に読み取り、シンゴは素早く横にずれて右の爪を躱し、続いて放たれた左の爪を、踏み込んだ足の裏に『激情』で底上げされた力を爆発させて何とか躱し切る。
素早いサイドステップを刻んで爪の連撃を掻い潜ったシンゴは、イブリースの腹の下に一気に潜り込む。
飛び道具を持たないシンゴが唯一持つ攻撃武器は、『激情』で底上げされたその常人離れした身体能力のみだ。
故にその武器を最大限に活かすには、必然的に距離を詰めるしかない。
攻撃は忌々しい狂人から意図せず引き継いだ悪意を読み取る力で先読みし、底上げされた身体能力を最大限に活かして回避する。
はっきり言って、無謀としか思えないその回避方法のみで、キサラギ・シンゴは攻撃の嵐を抜け切った。
この、他人の悪感情を読み取る事が出来る状態で、イブリースという存在に感覚をフォーカスしてみると、奴の本質が視える。あの銀龍が、悪意の塊とも呼べる存在だと気付ける。
そして留まる事無く湧き上がり続ける怒りが、『激情』の権威と呼応して、イブリースの力をノンストップで上昇させ続けている。
そこから導き出される答えは至極単純――少しばかり常人よりおつむの弱いシンゴでも、簡単に辿り着ける答えだ。
つまり――、
「長期戦は――不利!」
死角となる腹の下を駆け、ベルフの捕まっているイブリースの巨大な左足を目指す。
どうやってベルフを助け出すかは簡単だ。あの左足をシンゴの強化された拳でぶん殴り、無理やり浮かせた隙にベルフに逃げて貰う。
今の身体能力であの足を浮かせられるかは、正直ぎりぎりのラインだ。それに、足が浮いた隙にベルフ自身に逃げて貰わなければならない。
さすがに全力で殴り付けた直後に、ベルフをあの場から引きずり出すという作業をいっぺんにやり切るには、今の身体に巡っている『激情』の力では難しい。
だからまず、ベルフにこちらの意図を察して貰わなければならず――。
「ベルフ! 浮かすから一気に――」
――次の瞬間、シンゴは己の死を悟った。
理由は、頭上全てを埋め尽くす悪意が、猛烈な勢いで降下してきているか――
「――っぶ」
肉と骨が潰れる生々しい音を響かせ、キサラギ・シンゴはイブリースの腹の下敷きになって、その中身を盛大にぶちまけた。
いくら悪意を読み切る力があろうとも、躱せなければ意味がない。
キサラギ・シンゴの敗因は、腹の下なら安全という安易な考えで、ボディプレスの可能性を一切考慮していなかった、その圧倒的戦闘経験の少なさが原因だ。
「ふん。儂を愚弄するような枷を己に課すだけに飽き足らず、この『激情』のイブリースに盾突いたのだ。――当然の報い」
満足げに鼻を鳴らしたイブリースは腹を上げると、その下で原形すら分からないほどぐちゃぐちゃの肉塊と成り果てた元キサラギ・シンゴを一瞥すると、己の全体重を左足――ベルフを捕えている足に預けて、右足を上げた。
「ぐ、おぁ……っ」
「うるさいぞ、紛い物め。この肉片を片付けたら、次はお前だ。大人しく黙して待っていろ」
苦しげな呻き声を漏らすベルフを鋭く紫紺の瞳で一瞥し、イブリースは右足を地にこするようにして振り抜いて、散らばった肉片を向こうへと追いやる。
びちゃびちゃと湿った音を立てて散らばる肉片に鼻を鳴らし、イブリースは鬱屈としため息を吐き出した。
「あの枷……一体過去に何があった? あれほどまでにきつく己を律するに至った、その原因は――」
「――おい、何終わった感出してんだよ?」
「――!?」
不意に響いたその声に、イブリースはバッと顔を上げた。
その紫紺の瞳が映したものは――。
「まだまだこっからだろうが、イブリース!!」
紫紺と真紅の双眸でイブリースを睨み上げ、挑発するように中指を立てる少年の姿に、イブリースは限界まで目を押し開く。
「ありえん……! 確実に殺したはずだ! ここで死ねば、迷い込んだお前の魂は必然――!?」
動揺に声を震わせるイブリースだったが、キサラギ・シンゴの右肩で揺らめく紅蓮の炎を見て言葉を詰まらせると――、
「きさまかぁぁ――ッ!?」
足裏のベルフに向かって怒りを爆発させた。そこに生まれた決定的な隙を見逃さず、イブリースの目の前からシンゴの姿が掻き消える。
完全に意表を突く結果となった、本来はありえないこの世界でのシンゴの復活。その復活に一役噛んだベルフは苦しげながらも、どこか不敵な笑みを浮かべて――、
「……行け」
「そこかぁ――ッ!!」
巨体をひねり、真横にそそり立つ岩を尻尾で砕き割ったイブリースだったが、そんな悪意が剥き出しの状態では、今のキサラギ・シンゴなら目を閉じていても躱せる。
「走れた――!」
「――ぬ!?」
思い付きで実行した“壁走り”はシンゴの想像以上の効果を生み、イブリースの意表を突く第二の矢となった。
予期せぬ復活と回り込むような全力の壁走りは、勝ちを確信していたイブリースに対し、ものの見事に突き刺さった。
跳躍で尻尾を回避したシンゴは、重力に引かれながらイブリースの紫紺の瞳と視線をぶつける。
一対の紫紺に浮かぶのは、意表を突かれた事に対する驚愕と、己が出し抜かれたという事実に対する悔しさ。そしてそれら全てに対する、煮え滾るような紅蓮の憤怒だ。
そしてその怒りは、シンゴの右肩で風圧に揺れる炎の翼を見て取った瞬間、一気に爆発した。
「儂がいながら、紛い物なんぞに尻尾を振りおって……この裏切り者めがぁ!!」
「お前みてえな奴に嫉妬されても嬉しくねえ――ッ!!」
砲弾のように射出された凶悪な咢を、シンゴは右肩の翼を羽ばたかせる事で、本来は不可能な空中での回避を成功させる。
そして翼を翻らせ、真横を突き抜けたイブリースの横顔に強引に身体を寄せると、怒りで血走ったその巨大な目を睨んだ。
――視線の交錯は一瞬だ。
「ちょっと失礼――!」
「ぬお――っ!」
シンゴはイブリースの頬を全力で蹴ると、そのまま真下に向かって飛んだ。
空気を穿つように飛んだシンゴは、地面との衝突寸前に全力で翼を羽ばたかせ、その揚力で安全に着地。そして衝撃を殺すように曲げた膝を一気に伸ばし、腰を全力で回転させて、真後ろにある足へと――、
「ぉ、らぁあああ――ッ!!」
「ぐおぉ――っ!?」
斜め下の角度から入った『激情』による全力の蹴り上げが、イブリースのくるぶし付近に炸裂――その足を斜め上に浮かせた。
その隙を見逃さず――、
「ベルフッ!!」
「ぉ……お、おおお――っ!!」
シンゴの掛け声と同時に、ベルフが残った力を振り絞り、その場から脱出した。
ベルフが飛びのいた次の瞬間、その場にイブリースの足が落とされる。
「よし! やっ――」
思わずガッツポーズを取ろうとしたシンゴだったが、ハッとしてその場で跳躍。足元ぎりぎりの所を銀色の尾が通過した。
ヒヤリとした戦慄を背中に感じながら、シンゴは更に迫りくる悪意を感じて右肩の翼を全力で羽ばたかせた。
上下逆さになりながらも、辛うじて迫っていた爪撃を回避する。そして今度は翼を引き戻すように羽ばたかせ、身体を回転させて続く悪意の軌道から逃れる。
だが――、
「――がぁっ!?」
横腹を一本の爪先が掠め、シンゴの腹が半分以上も抉れる。
その傷は瞬きの間に治癒するが、痛みと衝撃までは治せない。
体勢を完全に崩され、神経を駆け抜けた激痛がシンゴから身体の自由を一瞬だけ奪った。
そしてその一瞬は、文字通り命取りとなり――、
「――ぁ」
――濃密な悪意と臭気を感じた次の瞬間、キサラギ・シンゴはイブリースの強靭な咢によって粉砕された。
――――――――――――――――――――
「――おい、紛い物。降りてこい」
肉片を咀嚼して飲み込んだイブリースは、片翼だけで飛んでいるベルフを睨み上げると、血まみれの制服を吐き出し、真っ赤に染まった牙を剥いた。
「それは無理な相談だな、イブリース」
「けっ。もう回復しやがったか……」
「それだけが私の取り柄だからな」
ベルフの淡々とした返しに、再び「けっ」と毒づいたイブリースは、苛立たしげに牙を打ち鳴らし、
「もう少しで滅ぼせたものを……余計な事をしてくれたわ、あの小僧め……!」
「何度も言っただろう。私は『怠惰』を司る獣だ。いかに同じ『大罪の獣』であろうと、私を滅ぼし切る事は不可能だ」
「はっ! お前が儂と同じだと? 笑わせるな……食い殺すぞ!」
ぎろり、と紫紺の瞳で空中のベルフを睨み上げるイブリースだったが、すぐに興味を失ったのか、不機嫌そうに鼻を鳴らすと、そのまま身体を横たえて瞼を閉じた。どうやらそのまま眠るらしい。
ベルフはそんなイブリースを攻撃が当たらない安全な高度からしばらく見下ろしていたが、やがて真上を見上げると、
「紛い物、か……」
どこか寂しげにそう独りごち、そのまま片側しかない翼を羽ばたかせると、上昇を始めた。
どこまでも続く闇を己の炎で散らしながら、ベルフは脳裏に彼の少年を思い浮かべる。
親交も浅く、確かな絆を結んだ訳でもないあの少年は、しかしベルフを助けてくれた。
過去、他ならぬベルフに殺害された経験があるにも拘わらず、だ。
それには、様々な理由があったのかもしれない。
打算の末に、ベルフは助けられたのかもしれない。
それでも、そうだったとしても――、
「私は、お前ともっと話したい」
それは、ひどく厚かましい願いなのかもしれない。
だとしても、ベルフにはあの少年しかいないのだ。
だから、まずは今回の借りを返す為に、あの少年の望んだ力――ベルフにとっても他人事ではないあの黒い少年を、共に打倒しよう。
「だから、待っていてくれ、シンゴ。今の私なら、きっと――」
半身を持たぬ炎鳥は力強く羽ばたくと、飛翔する速度を上げた。
『怠惰』を司る『大罪の獣』――ベルフ。彼は、主である少年の力になるべく、闇の中をひた駆ける。