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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第1章 リジオンの村
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第1章:8 『白い少女』

「……ぅ」


 小さな呻き声を上げ、キサラギ・シンゴはうっすらと目を開けた。

 辺りには夜の闇が満ちていたが、空に浮かんだ月がその闇をぼんやりと散らしていた。

 この世界の月が元の世界の月と同様のものだとは考えにくいが、それでも夜闇を照らしてくれるその温かい光は、どちらの世界でも同じだった。


 シンゴは、そんな月明かりを今“初めて”認識した。

 何故かと問われれば、そんなことを気にする余裕がなかったと答える。


 延々と繰り返された痛み。終わりの見えない苦しみ。“死ねない”という絶望――。

 それらをシンゴに刻んだ男の姿は、今はどこにもない。気付けばいなかった。ただそれだけだ。


 何度、死にたくないと思ったか。幾度、死にたいと願ったか――。

 されど、謎の再生能力が死ぬことを許さなかった。

 負わされた傷は瞬く間に癒え、流れた血は煙を上げて蒸発し、主の元へと帰還する。


 ――まるで、世界がシンゴの逃げを邪魔しているかのようだった。


 痛みで気を失い、痛みで目を覚ます。その繰り返し――。

 例えるなら、終わりの見えない暗いトンネルを、裂けた腹から零れ落ちようとする臓物を手で押さえながら、痛みと苦しみで朦朧とする意識で歩き続けるような、そんな感じ。


 しかし、終わりが見えないかのように思われた暗いトンネルは、不意にかけられた誰かの感心するような声で、唐突に終わりを告げた。


「へぇ……君が、ね」


「…………ぁ?」


 ヒィースのものではない、耳に染み込むような澄んだ女性の声。

 聞いたことのない声だったが、しかしどこかで聞いたような気もする声だった。

 そう、この声は、シンゴと共にこの世界に飛び込んだ、あの――、


「あ……り、す……?」


 胸の奥で、温かい火が灯ったような気がした。

 シンゴはその火元を目指すように、削られ切った気力をかき集め、ゆっくりと顔を上げた。


 そこには――、


「誰と勘違いしているか分からないが、“私”は『ありす』などではないよ――」


「…………ぇ?」


 月明かりを浴びて佇む少女。髪は月光を反射して輝く、美しい白。その相貌はシンゴの見知った少女と瓜二つ。しかし、決定的に違う点が二つあった。


 まず、髪の長さ。眼前の少女の髪は肩にかかるほどで切り揃えられていた。

 そして次に、その身に纏う服の色。こちらも髪の色と同じく、上から下まで白一色。

 アリスと似てはいたが、全くの別人。――白い、少女だった。


 その事実に、落胆するように目を伏せる。

 そんなシンゴの反応に、少女は肩をすくめると、


「ひどいな……初対面の女性に対して、その反応とはね」


 本当に、ひどい少年だ――と微笑む少女からは、言い知れぬ何かを感じた。

 具体的にどうとは言えないが、漠然とした“違和感”のようなものだ。

 この少女は、何か違う。見た目で騙されてはいけない。そう、感じたのだ。


 シンゴは再び顔を上げると、掠れた声で問いかけた。


「だれ……だ?」


 シンゴの問いかけに、白い少女は妖艶な微笑を浮かべた。

 そして“真紅”に輝く瞳で、悠然とシンゴを見据え――、


「私は『憂鬱』だよ」


「ゆう……うつ?」


 人名、ではない。偽名――少なくとも、本名ではないのは確かだろう。

 シンゴの困惑した視線を浴びながら、少女はゆっくりとこちらへ向かって歩いてきた。

 そして、独り言なのか、それともシンゴに語りかけているのか、意味の分からないことを呟き始めた。


「ずっと探してきた。でも、見つからなかった。それがつい先日、前触れなく現れた。そしてそう時間を置かず、小さなヒビが入った――」


「なに、言って……」


 言葉の意味を微塵も理解できず、シンゴの困惑の度合いが増す。

 しかし少女はそんなシンゴの様子などおかまいなしに、一人で語り続ける。


「まず、あんな封印がされていること自体が驚きだよ。一体誰があんなことをしたのか……まあ、その封印を解く“鍵”も見付けたし、よしとしようじゃないか」


 少女はシンゴの目の前まで来ると、その場にしゃがみ込み、闇夜で存在感を主張するその真紅の瞳でシンゴの目を覗き込んだ。その瞬間――、


「――――ッ!?」


 シンゴは慌てて目を逸らす。

 心臓が早鐘のように鳴り、体中から尋常ではない量の汗が噴き出す。


 ――決して覗いてはいけない、底の見えない穴を一瞬だけ覗き込んでしまったかと思った。


 咄嗟に視線を逸らさなければ、どうなっていただろうか。考えるだけで、体の奥から言い知れぬ恐怖が込み上げてくる。

 そんなシンゴの様子を楽しそうに見詰めていた少女は、やがてぽつりと言った。


「どこからどう見ても、普通の少年。そんな君が“鍵”だとは、さすがに私も驚きを隠せなかったよ。……君は一体、何者なんだい?」


「し、るか……俺は、今お前が言った通り、どこにでもいる普通の一般人だ……」


「…………ぷっ」


 シンゴの話を聞いた少女が吹き出した。

 少女は口元に手を当てくすくす笑うと、次いで妖艶な流し目をシンゴに送り、


「そんな“普通”の君が、どうしてあんな真似ができるんだい? それに、どうやら一つ……いや、少し欠けてるね。でも、“それ”が入っているんだから、魅入られる理由があるはずだ。しかも“それ”は、“あれ”同様に長年探しても見付からず、この私ですら存在を認識できなかったものだ。この二つの要素だけで、君は十分に“特別”だよ」


「…………」


 完全にシンゴの理解できる範疇の話ではない、少なくともそれだけは理解できた。

 目を逸らしたまま沈黙するシンゴ。そんな彼の反応を受け、少女は満足気に微笑んでから立ち上がった。


「――――な!?」


 突如、顔を伏せていたシンゴの視線の先――月明かりで出来ていた少女の影が生き物のように蠢きだし、少女を飲み込み始めた。

 慌てて顔を跳ね上げる。微笑を浮かべた少女と目が合った。

 その瞬間、ぞっとする悪寒が背筋を駆け上がりかけ、咄嗟に視線をずらした。そこで、はっとなる。


「な……んだ?」


 影に体の半分を飲み込まれた少女。その額に、何やら奇妙な痣が浮かび上がっていた。

 古来の日本で使われた家紋、三つ巴。その勾玉模様は上下が逆さまになっており、本来は外側に尻すぼみなっていくはずの勾玉だが、少女の場合は外側に行くにつれて膨らみ、中心に向かうにつれ尻すぼみとなっていた。


 目を見開くシンゴに、体が影に飲まれて既に顔だけとなった白い少女は、目を細めて楽しそうに微笑みながら告げた。


「君は“死ねない”だろうけど、ここで廃人になってもらうのは困る。だから、今回は特別だよ。ちょっとした手助けだ。今宵の逢瀬は、心から楽しめたからね。……それでは、そう遠くないうちにまた会おう。『堕落』の片割れ、『怠惰』な少年――」


 その言葉を最後に、白い少女の姿は完全に影の中に飲み込まれた。

 辺りにはシンとした静けさだけが残り、しばらくして虫の鳴く音が響き始めた。

 シンゴは顔に伝う汗を手で拭おうとして――、


「――――!?」


 縛られていたはずの手が動く。

 シンゴははっとして己の体を見下ろす。いつの間にか体を拘束していた縄は解かれており、身動きが可能となっていた。


「……これ、さっきの女がやったのか……?」


 シンゴは呆然と己の手を見詰めながら、先ほどの白い不思議な少女のことを思い返す。

 しばらくそのまま固まっていたが、すぐさまこんなことをしている場合ではないと気付く。


「そうだ……ユリカは!?」


 隣で縛られているはずの少女へと視線を向ける。

 ユリカを縛り付けていた縄もシンゴ同様に解かれており、彼女はぐったりと横倒しになっていた。


 慌てて駆け寄るが、ユリカの消耗は激しく、とてもではないが一人で歩くのは無理そうだった。


「背負ってくしかねえか……ッ」


 シンゴはユリカを持ち上げると、背中に乗せる。

 その際の揺れが原因か、背中から呻き声が上がり、


「し、んご……?」


 自分のことなど棚上げした、シンゴを案ずるような声音だった。

 シンゴがヒィースによる拷問に等しい責苦を受けていた際、ユリカは何度か目を覚ましていた。


 朦朧とする意識の中、しきりに「やめて……」や、「ごめん、なさい……」という言葉が聞こえたのを覚えている。

 そんなユリカの優しさが、折れそうになる心を少なからず支えてくれたのを、キサラギ・シンゴは覚えている。


 シンゴは心の中で背中の少女に感謝しつつ、急いで辺りを見渡す。


「……ユリカ、聞きたいことがある。ここ、見覚えないか?」


 正直、ここからどこに向かえばいいのかなど見当もつかない。故に、ユリカがこの場所を知っているかどうかが最大の鬼門なのだが、果たして――、


「……あっ……ち」


 背後からゆっくりと腕が伸び、ある方向を指差す。


「よし! ユリカ、でかした! あとは俺に任せて、お前は俺の背中で休んでろ!」


「…………ん」


 自分の普段の運のなさにしては、今回は運が良かった。

 さすがにこんなにもツイてないことが連続して起こった挙句、ここでもツキに見放されるほど、世界はシンゴに厳しくないのかもしれない。


 後ろから聞こえてくる規則正しい呼気を感じていると、月が雲に覆われ、辺りを暗い闇が満たした。

 だが、この状況はシンゴにとってマイナスではない。何故なら――、


「この右目……よく分かんねえけど、今は使える!」


 シンゴは遠近感が狂うのにも構わず、左目を閉じる。

 闇に閉ざされた森の一角に、真紅の瞳が浮かび上がった。

 得体のしれない右目の暗視能力に頼るのは少し気が引けたが、今は緊急時と割り切り、使えるものは全て使っていく姿勢で事に当たる。


「頑張れよ、ユリカ。俺がお前をここから絶対に連れ出してやる。だから、全部終わったら、俺にきっつい一撃ぶちこんでくれ――!」


 深く深呼吸し、シンゴは暗闇の奥を真紅に輝く右目で見据える。

 そして、ユリカの足に回す手に力を込め、決して落とさないようにする。


「俺はおんぶ得意なんだよ。いくぜ……十八番奥義その二! ばあちゃんお墨付き、『安心安全しんちゃんのおんぶ』だッ!!」


 わざとふざけるように言って、シンゴは暗い森の中へ歩み出した――。



――――――――――――――――――――



 ヒィース・ラウドは、フゥーロ・ラウド、ミィート・ラウド、ヨーク・ラウドの四兄弟の長男として生まれた。

 ラウド家は割と裕福な家庭で、四人は何の不自由なく幼少期を過ごした。

 こんな生活がずっと続くと、当時は本気で思っていた。


 そんな、ある日のことだった――。


 四兄弟が家に帰ってくると、まるで台風が過ぎ去った後のように、家の中はひどく荒らされていた。

 ヒィースたちは震えながらも、両親を探して家を歩き回った。


 ――両親はすぐに見つかったが、既に死亡していた。


 金目の物は全て持ち去られており、四兄弟は無一文となった。

 おそらく、どこかの盗賊――それも徒党を組んでの犯行だったのだろう。でなければ、あれだけあった調度品などを全て持ち出すのは不可能だ。


 その後ヒィースは、兄弟たちを連れて親族を訪ねて回った。――が、全て門前払い。

 ヒィースの家は貴族ではない。両親のちょっとした事業が上手くいき、懐が潤っていただけなのだ。

 当然、そのことを疎ましく思う者たちはたくさんいた。


 ――親族は、その全員がラウド家に反感を持っていたのだ。


 頼りにしていた親族は当てにならない。

 腹は空き、夜の寒さに身を震わせた。


 だが、ヒィースは諦めなかった。

 弟たちが、彼の心の支えだった。


 ヒィースは考えた。生きるための方法を。

 盗みも、詐欺もやった。腹が空けば虫を捕まえて焼いて食べ、雑草をんだ。喉が渇けば雨水を、時には泥水を啜った。


 生きることにひたすら貪欲になった彼らは、やがて成長し、傭兵となった。

 稼ぎも安定し、ようやく平穏な生活が送れると思った矢先だった。


 四男のヨークが――死んだ。


 その死体は首を力ずくで捩じ切られており、凄惨の一言だった。

 当然、残された三人は悲しみ、そして激怒した。


 ここで、ヒィースは長男として、選択を迫られた。

 傭兵稼業で人を殺すことなど日常茶飯事のヒィースたちから見て、ヨークの死体は死後、それほど経っていないことが分かった。


 つまりそれは、まだ近くに犯人がいるかもしれないということを示唆していた。

 悩んだ。考えた。必死になって、突き付けられた現実に向き合った。


 そして、ヒィースは決めた。

 もしヨークの立場だったら、どちらを選んでほしいか考えての決断だった。


 ヒィースたち三人は、ヨークの死体をそのままに、犯人にいち早く復讐することにした。そこでヒィースが目を付けたのが、近くにあった『リジオン』という村だった。


 村に駆け込み、村長に詰め寄り口論となるうちに村人たちが集まってきた。

 焦燥感に身を焼かれていたヒィースは、煩わしげにその様子を眺めた。ふと、オレンジの髪を三つ編みにし、肩から前に流した十歳前後の少女に視線が止まった。


 ヒィースは知っていた。人はそう簡単に恐怖には抗えないと。

 殺そう。そして、恐怖で支配する。そう瞬時に判断し、腰の剣に意識を向けたときだった。


 突如、見るからに頭のわるそうな茶髪の少年が、意味不明なことを喚き散らしながら割って入ってきた。


 ヒィースはその少年を一目見て、声を聞いて、猛烈な嫌悪を抱いた。

 何も考えず、愚かで、無知で、この世界は平穏であると、人の暗い部分など知ろうともしなかった、かつての自分に似ていたから。


 すぐ、こいつにしようと決めた。

 途中で『吸血鬼』の少女の横槍が入ったが、ヒィースは退かなかった。

 絶対にこのガキは殺さなければと、使命感に似た感情に突き動かされたのだ。


 そして、ヒィースは無知な少年の油断を誘い、剣で腹を貫いた。

 まるで、過去の自分に決別を告げるように――。


 結局、犯人は特定できなかった。

 あの『吸血鬼』には、決して自分たちでは勝てないと分かっていたから、ヒィースは村から一時退散した。


 その後、ヨークの死体を近くの森で埋葬した。

 犯人は捕らえそこなったが、それでも諦めるつもりは毛頭なかった。

 だが、あの『吸血鬼』が村にいる限り、下手に突撃しても無謀の一言だ。


 どうすべきかを考えながら、気分転換がてら近くの川を歩いていた時だった。

 確かに殺したはずの少年が、ピンピンした様子でオレンジの髪の少女と話しているではないか。


 驚きはしたが、同時に絶好の機会だと思った。

 少年があの『吸血鬼』の連れであることはもう知っている。なら、あの少年を人質にでもすれば『吸血鬼』への牽制になると考えたのだ。

 しかも、あの少年は村に泊まっている様子。なら、もしかしたらヨークを殺した犯人について、何か村人から聞いているかもしれない。


 そう判断するや否や、ヒィースは少年と、ついでに近くに居合わせた少女を連れ去った。


 近くの森の中、少年から情報を聞き出すために剣で突き刺したところ、この少年もあの『吸血鬼』の女と同類であることが判明した。


 ――嬉しかった。


 過去の自分を、愚かな自分を、今の自分が痛めつけ、現実を知らしめるかのようなこの高揚感。

 何度、夢に見ただろうか。過去に戻れたならば、あの愚かな自分に警告と共に現実を教えてやれるのにと。


 ――いつの間にか、情報を聞き出すことなど、頭から消えていた。



――――――――――――――――――――



「……やべぇ」


 茂みに身を潜めながら、シンゴは小さく呻いた。

 その背には苦しそうな浅い呼吸を繰り返す、ユリカ・フレイズが背負われている。


 ユリカの指し示した方向に、シンゴは右目の暗視能力を駆使し、ここまで進んできた。

 しかしここで、キサラギ・シンゴの不運が発動、結果――、


「三人……全員いやがる……ッ」


 シンゴの見つめる先、たき火を中心に三人の男が談笑していた。

 ここからはあまりよく聞こえないが、「あのガキ――」と言っているのが辛うじて聞き取れた。


 ――ヒィースたちだ。


 どうやらここを拠点にしているらしい。彼らの周りには飲み物の入ったカップに、食べた後らしい魚の骨が転がっている。


「(迂回するしかねえか……)」


 そう判断すると、シンゴはゆっくりと左から回り込むように、静かに移動を開始した。

 途中、ここに来るまでの間に頭の片隅で考えていたことを思い出す。


 ――『吸血鬼』。


 おそらくシンゴは、『吸血鬼』になったのだろう。

 さすがに馬鹿なシンゴでも、あれほどお膳立てされて気付かない訳がない。それに、あの驚異的な回復力が、雄弁に物語っていた。


 ――『吸血鬼』に血を吸われた者は『吸血鬼』になる。


 言い伝えというか、伝説通りである。

 おそらくあのとき――ヒィースに腹を剣で貫かれたときだ。そのときに、アリスがシンゴを救うために吸血鬼にしたのだ。


 だが、逆に言えば、シンゴは吸血鬼化しなければ助からないほどに危険な状態だったということになる。正直、ゾッとする。


「……でも、なんで再生能力と片目のみの暗視能力しか使えないんだよ……」


 シンゴは今のところ、この二つの能力しか使えない。おまけに暗視能力は片目のみ。

 確かに二つとも素晴らしい能力だ。再生力がなければシンゴはここにはいないし、暗視能力がなければこんなにスムーズに動けていない。必ずどこかで転んでいただろう。


 しかし、今一番必要なのは別の力だ。具体的に言うと、ユリカを背負ってここまで来るだけで足が限界に近い。


「できればアリスさん、あなたみたいな怪力が欲しかったよ、帰宅部の俺は……ッ」


 不完全な状態。まだ体が慣れていないせいなのか、後から完全な『吸血鬼』となるのか。

 だが、今はそんなことを考えている暇はない。


「くそ……ッ」


 膝が折れ、荒い息を吐く。

 そんなシンゴを見かねたのか、どうやら意識を取り戻していたらしいユリカが背後から声をかけてきた。


「ユリカ……じぶんで……ある、くよ……」


 しかし、そんなユリカの頼もしい強がりを、シンゴは鼻で笑って拒絶。


「馬鹿言え、大丈夫だって。少しは俺にもカッコつけさせろよ」


 思い返すと、シンゴはユリカの前ではだらしない姿しか見せていない。さすがにそろそろ名誉挽回、記憶の上書きを図りたい。


「……ん、わかっ、た……」


 背中から頷く気配を感じ、シンゴは改めて腹に力を込める。膝を上げ、前進を再開する。

 今のシンゴには、これくらいしかできないのだから――。


「――――ッ!」


 不意に誰かがこちらに近づいてくる足音が聞こえて、シンゴは慌てて身を伏せる。

 近くで立ち止まる気配。心臓がバクバクと早鐘のように鳴り、聞こえてしまっていないか不安になる。


 ひりつくような緊張感の中、やがて――、


「ふぅ――」


 水が流れ落ちる音。次いで、鼻を刺すアンモニア臭。


 これは――、


「(ションベンかよ!?)」


 ほっとすると同時に、何とも言えない気分になる。

 ピンポイントでこの場所を選んできたのも、まさかシンゴの持つ不運が引き寄せたのだろうか。


 シンゴはそっと、三人の内の誰なのかを確認するため、右目だけを少し上に向けた。


「…………あ」


 ――目が合った。


 頭の中が空白に染まる。

 おそらく、シンゴが顔を上げなくてもバレていたのだろう。だが今は、互いの認識はほぼ同時。なら、主導権を握られる前に――動く。


「ガキが逃げ――」

「させっか!!」


 咄嗟に茂みから飛び出すと、シンゴは目の前にいた細身の男――フゥーロの剥き出しの股間を躊躇なく蹴り上げた。


「お゛ごぉッッ!?」


 何かが潰れる嫌な感触を感じ、顔をしかめる。

 白目を剥いて泡を吹きながら倒れ伏すフゥーロ。やっておいてあれだが、さすがに同情する。


「おい、どうし――てめぇッ!?」


「くそッ……!」


 どうやら今の断末魔を聞かれたらしい。こちらに向かってヒィースとミィートが駆けてくるのが見えた。

 シンゴは咄嗟に、ここから考えられる最悪の展開を想像する。


「動けねえユリカの存在が露見すること……ッ!」


 そう判断すると、シンゴは地面で失神しているフゥーロを見下ろし、一瞬だけ躊躇するような表情を覗かせる。

 しかし、かぶりを振ると、


「ビビるな、俺ッ!!」


 シンゴは倒れ伏すフゥーロの腰から剣を奪い取ると、足をフゥーロの頭の上に乗せる。

 そして空気を肺いっぱいに吸い込むと――、


「どうだぁ!? お仲間の子孫繁栄は、俺が潰したぜッ!!」


「フゥーロ!! このクソガキ……ぶっ殺してやるッ!!」


「…………」


 鬼のような表情のヒィースに、無言で無表情になるミィート。

 そんな二人の怒気にあてられ、思わず後退しそうになる足を踏ん張り、さらに続ける。


「はっ! ヒィース、てめえの俺への仕打ち、全然響かなかったぜ!? ほら、来いよ? お前らみてえな鈍足野郎どもが、俺に追い付ける訳ねえけどなぁ!!」


 二人のシンゴに対する怒気が、さらにその濃度を増した。

 震える膝を奪い取った剣の柄で殴って無理やり力を込めると、シンゴはユリカのいる茂みとは別の方向に駆け出す。そして冷や汗の滲む顔を背後に向け、ダメ押しに吠える。


「さあ、鬼ごっこと行きましょうぜ? おっさん!!」


 暗闇に染まる森を舞台とした、命懸けの鬼ごっこが幕を開けた――。


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