もみじ饅頭、あれはいいものだ
向かった先はコンビニの裏手にある小さな社の境内だった。遊具があることから、公園内に社があるといった方が正しいのかもしれない。
適度な照明に照らされたその場所は、昼間その場所を占領していただろう子供達の熱気もとうに冷めやり、静かに更けゆく古都の闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
一番明るい街灯の下のベンチを選んで、並んで腰かける。湯上がりの甘いソープの香りがオレの鼻孔を刺激する。
「こんな場所、よく知ってるわね」
「昨日、来る時にバスから見えた」
孤独な時間を愛する者は、本能的に己の求める場所を瞬時に見出すことが可能だ。
実は昨夜もコーヒーだけを片手に、息抜きをしにきていた。一日中、よく分からぬ他人と面を突き合わせっぱなしで、皆よく我慢できるものだとつくづく感心する。
ワシャワシャと音を立てて袋から取り出すと、徐にシュークリームの封を開ける。
至福の瞬間である。
それではいただきますとかぶりつこうとしたその時、ふと視線を感じた。
「食べるか、一口?」
人間関係において、特に女性が同席する時の気配りは大事という事を思い出し、視線の主に尋ねてみる。
――も、勿論、全部じゃないからな!
当然のごとく断られるはずだったオレの非常識すぎる提案は、意外なことに受け入れられてしまった。
「いいの……? じゃあ、一口」
晩飯は結構な量があったと思うが、それでもお腹すいてるんだろうか、などと首をかしげつつ、彼女にブツを差し出した。艶やかなストレートの黒髪を右手でそっとかきあげ、彼女は差し出されたそれにそっと口を付ける。
シャンプーの香りがふわりと広がる中、とろりとしたクリームが僅かに覗く口元にどきりとし、慌てて視線を逸らす。クリームで口元を汚す委員長、あるいは、クリームまみれの……ふとそんな煩悩が思春期の脳裏をよぎる。
「ごちそうさま」
そっと唇の端をぬぐうと彼女は手にしたペットで喉を潤す。
己がとんでもない幸運を手にしているのも気付かずに、食べかけのシュークリームに無造作に口を付ける。食べなれたストレートな甘さが口に広がると同時に、世俗の悩み事が遠ざかっていく。
「シュークリーム、好きなの?」
「どちらかといえば甘いものかな」
二日に一度は欠かせない。シュークリームだけならどこの店の味か、即座に判断できる程だ。ただし、コンビニ限定で。甘いものに国境などない。
至福に浸るオレに彼女が尋ねた。
「甘いもの、好きなんだ」
「甘いものが嫌いな奴がいたら、オレのところに連れてきてくれ」
「どうするの?」
「そいつが今後の人生で手にする全ての甘いものをオレに回すように交渉する」
「太るわよ」
「いや、気にするのは成人病の方だろう」
気を付けよう、マジで……。最近は若年性健忘症の原因にもなるとかなんとか……。おっかない時代である。
オレの返答に暫し、笑っていた委員長が尋ねた。
「じゃあ、彼女になる娘にはお菓子作りのスキルを要求するとか?」
「今時、そんな天使がいたら、是非とも会ってみたいね」
「て、天使……なんだ」
若干、退き気味の委員長。
「世の中、なんでもカネで買える時代だぜ。カネさえ出せばすぐに手に入るものをわざわざ手作りして、相手の為にかける無償の労力を喜ぶような奇特な娘、今の時代にいると思うか?」
重要なのは相手の持つスペックと肩書。
その本質など一顧だにせず、好みの外見の相手に理想を押し付けて利用し合い、飽きたら至らなさを見つけて貶し合う。情熱的でロマンチックな恋愛など、所詮、前世期のプロパガンダ、滅びゆく『聖なる森』の文化である。健全なお付き合いごっこで満たされぬ性欲は、ばれないようにスマホで処理相手を探す。
「不倫は文化だ!」
「人生に一度、不倫をしよう!」
とんでもない内容であるにも拘らず、なぜか美しく聞こえてしまうのだから言葉とは恐ろしい。
行き遅れのもてない女共が一生懸命に考えた理想の幸せがぎっしり詰まった雑誌に踊らされ、如何にしてうまく条件の良い相手の身体と財布を開かせるかという男女の闘争こそがこの時代の恋愛と結婚である――そんな記事をどこかで読んだ事を思い出した。
『ケーキ作ってみたの……。私と一緒に召し上がれ♡』
などというシチュエーションは所詮、思春期の青少年の悲しくも甘い妄想である。もしもそんな事態に本当に遭遇したならば、相手の本音を疑うべきだろう。男が女に求めるものなど所詮、平凡なものでしかないのだが、現実とはどこまでも悲しいものだ。
「それは、ちょっと言い過ぎだと思うな……」
「きっとこの瞬間だけは、あるいは自分達だけは特別だ……、なんて考える奴ほど決まって同じ穴におちるものさ」
「それって経験則?」
「いや、だが、人間には想像力というのがあってだな……」
目の前のことしか見えぬ人間は、得てしてそれを妄想などとバカにする。お前は心配性だ、といって苦言を無視し、見事に同じ穴に落ち込んでこうつぶやく。
『運が悪かったのさ』
あえて声を大にして言おう。
悪いのは『運』ではなくてテメエの『頭』である!
さらには己に都合の悪い苦言を無視した事を綺麗に忘れて、こうのたまう。
『分かってたのなら、どうして教えてくれなかった、さては苦しむのを見て楽しんでたんだろう、この人でなしめ!』
困ったことに、この場合世間で同情されるのは、相手の為に泣く泣く苦言を呈して煙たがられた者ではなく、自業自得な落とし穴にはまり込んでこの世の終わりとばかりに大声で泣き叫ぶ者である。
世間とはどこまでも愚者を甘やかすようにできているものらしい。
「想像力か……。ちょっと自信ないな。央城君、成績優秀だもんね」
「いや、それとこれとはあまり関係は……」
せいぜい学年一桁キープが関の山。オレより優秀な奴ならこの学校にも全国にも世界にも山ほどいる。
そして一芸に秀でた本当にすごい奴は、この時代、年齢に関係なくあらゆる分野で飛び抜けた活躍をする。
「それをいうなら委員長だって優秀だろ? たしか学年三十番内キープとか何とか……」
「うわ、それどこ情報? プライバシーなんてあったもんじゃないな」
高度すぎるネット時代。
検索ワードや通販の購入履歴にメールのやり取り。あらゆる断片的情報が知らぬ間に蓄積され、見ず知らずの者に覗き見されている。今や無防備な一般市民がそんなものを求める方が無茶というものである。
「自分が周囲にどういう影響をあたえているかというのを、もう少し自覚すべきだな」
オレの言葉に少しばかりむっとした様子で彼女は反論する。
「央城君だって同じじゃない!」
「オレが?」
「皆、結構見てるよ……、色々と……」
「いや、まあ確かに最近、色々と悪目立ちしている自覚はあるけど……」
「やってる事がすごく派手だもんね」
「そ、そうかな……」
決して自分から望んだわけではない。
俺は平和を愛する国家に暮らすに相応しい、自分からは決して手を出さず、やられたら即十倍返しの新専守防衛思想に共感する、ただの一青少年に過ぎない。
だが、なぜか厄介事の方から近づいてくるのだ。まるで売れない物語の主人公のように……。
「そういえば結局、ミドリさんとはどうだったの? テニス部の一年の次はバスガイドなのねって、女子部屋は大いに盛り上がってるんだけど……」
「オ、オイ……」
ミドリさんというのはガイドさんの事だろう。
生意気盛りの高校生を気づかうとともに、色んなアドバイスをしてくれた彼女は、本職の顔を取り戻すと、旅の終わりに見事なノドを披露して、爽やかに去っていった。おそらくもう二度と遭うことはないだろう。残ったのは旅の思い出とスマホの中の一枚のツーショットだけ。
『一期一会』
書物の中でしかお目にかかれない言葉の重みをじっと噛みしめる。
ふと思い出して、その一枚を表示する。
写真映りの悪い不器用な表情のオレの隣で、彼女は艶やかな微笑みを浮かべていた。
「うわ、いい顔してるなぁ、ミドリさん」
「そうか?」
委員長が身を乗り出してオレのスマホを覗き込む。湯上りの彼女の香りに思わずくらくらする。
――だからね、東堂咲耶さん。不必要に男子生徒に近づくのは…………、まあ、いいか……。
いつもと違う古都の空気が少しばかりオレを寛大にしているようだ。
「うーん、やっぱり若い男の子と一緒に写る方が気合の入り方が違うのかなぁ」
――ずっこける。
色々と人生について考えさせられてしまった彼女とのやり取りも、恋愛脳にかかれば一瞬で別モノになってしまう。
「委員長でもそういう話題に食いつくんだな」
「そりゃ、年頃の女の子だもん」
歳相応の少しだけはっちゃけたような表情を彼女は浮かべる。そんな彼女の姿に師匠の言葉が重なった。
『あの娘は少し危うい所があるものね』
『あるがままの姿をきちんと見つめ本音を捕まえてあげる事』
視点の違う人間の言葉だけで、目の前の彼女が全く別人のように思えた。いつもよりも身近に感じられ、手を伸ばせば届いてしまうような、ふっとそんな気分になる。
――そういえば、師匠、他にも何か言ってたっけ。
『キミのクラスの一番綺麗な娘なんてどう? 脈あると思うけどな……』
とてつもない急流をおそるおそる覗いていたところ、後ろからドンと突き落とされるようなその言葉を思い出す。
背筋にぞっと寒気が走る。
旅行先での開放的な空気に惑わされて、危うくとんでもない間違いを犯すところだった。この手のパターンに陥って高校生活どころか、その後の人生にもついてまわるようなトラウマを抱える――ネットにはそんな悲劇が数えきれぬほどに転がっている。
自分から進んで小野木のような奴らにネタを提供するような愚は論外だ。
『大丈夫、人間、間違って幸せそうな人生の一つや二つぶっ壊したとしても、大した問題にはならないわ』
その対象がオレ、などというオチもありえない訳ではない。幸せそうなというよりはむしろ不幸に近いと思う……が。
「ああ、そういう事か」
ふと、ひとつの考えが脳裏に閃いた。
「どうしたの……急に」
「いや、委員長が、オレを自分の班に引き込んだ理由がなんとなくな……」
えっ、と驚くような表情を彼女は浮かべる。そろそろ本題に入るべきだろう。
「ズバリ、弾避けと番犬がわりってとこか……」
驚きから訝しげな表情へと変わる。
「まあ、委員長も何かと大変そうだからな。なにかとお騒がせな俺が周囲をうろうろしてれば、下心丸出しの野郎共も近づきにくいって考えたんだろ?」
旅行の最中も、彼女の周囲はさりげなく騒々しい。何やら交渉に赴く者もいれば、遠間からスマホやデジカメで盗み撮りする者もいる。隙あらば足を引っ張ってやろうと考える同性も多いだろうし、クラスの委員長としての立場もあって、何かと気を抜く間がないのだろう。彼氏の一人も作っておけば問題解決するのでは、などと思い至ったところでなんとなくどんよりとする。
「それは、考え過ぎだよ、央城君」
オレの出した解に、若干、気分を害したようだ。互いの距離感だけが少し遠のいた。
「そうか、そいつは悪かったな……」
受け取り方によっては、彼女が自分の利益の為に平気で人を利用する人間であるという侮辱とも解釈できることに気づき、オレは慌てて詫びる。
やはり、人間関係、さらには女の子の扱いというのは酷く面倒臭い。解無しの問題に出会った時の不快感に似ている。それぞれが無責任な事を喚き立て、それを身勝手に解釈しながら傍観するネットのやりとりが無性に懐かしかった。
成程、これがホームシックというやつだろうか?
「まあ、明日は早いうちに適当なところで消えるから、後は気心の知れた三人で仲良く旅を楽しんでくれ。予定は決めてるんだろ?」
再び、彼女が驚いたような表情を浮かべる。
「あなた、明日一人で行動するつもり?」
「まあな、っていうか、最初からそのつもりだったんじゃないのかよ? 委員長達はどこへ行くつもりなんだ?」
「嵯峨野方面だけど……」
「ああ、トロッコレースの後でつり橋からダイブして、船頭さんに竿で突っつかれながら泳いで川下りって奴か……。流れは意外に早いっていうから、気をつけてな」
「そ、そんなアトラクションはありません!」
一拍の間をおいて、彼女が噴き出した。
「あれっ、違ったっけ、おかしいな……」
観光協会は退屈な現実社会に飽き飽きしている若者達の気持ちを、もう少し汲み取った上でのアトラクションを組むべきではないだろうか?
狩りゲーが流行るのだったら、サファリパークで片手剣を持たせて歩かせることくらい何故考えられないのだろう。温い電脳世界の中に浸る若者達をゆとりだなどと罵って侮蔑するよりも、活を入れ現実社会の厳しさを教える絶好の機会だと思うのだが。
本物にビビって腰の砕けた若者達の前で襲い掛かってくる猛獣に果敢に立ち向かう勇姿を見せれば、大人としての威厳と尊敬など直ぐに得られるだろうに……。
発表すれば社会的に絶賛されるに違いない迷案をそっと頭の中のメモ帳に書き写すと、オレは再び委員長との会話に意識を戻す。もちろん戻したのは彼女の豊かな胸元にではない事は、強調しておこう。
「どこか行きたいとこ……あるの? 予定に余裕はあるから一緒に廻ろうよ」
「いや、多分無理だ、方向が全く違うし、時間もかかる。それに空振りの可能性だってあるんだから……」
「参考までに聞きたいんだけど……、何するつもり?」
「ん? 買い物だよ」
委員長が眉を潜める。
「一体、何を?」
「決まってるだろ、はるばる京都に来たからにはアレとアレを買って帰らねば!」
そう、オレはそのためだけにこの街へとやってきた。
当初の予想に反して、いろいろと学ぶことの多い修学旅行となりつつあるが、やはり最初の目的を見失ってはならない。
初志貫徹、己の意思を貫き通しさえすればカッコイイと称賛され、何をやっても許されるのが、我が国の伝統的美学である。
「アレと……アレ? ……って、何?」
それらは、オレのような若造の歳など遠く及ばぬ年月の中、時代の荒波にもまれながらも磨き抜かれてきたという。
時に笑いあり、涙あり、そして感動あり。
それらに関わってきた人達の人生の数だけドラマがある。時代の節目に現れる無数の人生の修羅場を乗り越え積み重なった伝統の味が、後世へと引き継がれる。
そう、それらはズバリ――!
「『生八つ橋』と『すぐき』だ!」
京都に訪れるものなら知らぬ者などあろうはずもないそれらの味を、じわりと思い浮かべながら、堂々と誇りと共に胸を張って宣言する。
傍らで暫し呆然とした表情を浮かべていた委員長だったが、やがて小さく頭を振り、こめかみに手を当てる。
「…………。央城君……」
「どうした、委員長?」
爽やかに尋ねるオレの顔を見る委員長の視線は何故か冷たい。頭でも痛いのだろうか?
「確認してもいい?」
「なんなりと」
「生八つ橋って、あれよね。お菓子の」
「ああ、そうだ」
「駅の売店とかお土産コーナーで売ってる……」
「ま……、まあな……」
「たまにチョコレートとかクリームとか入った……」
「誰がもみじ饅頭の話をしている! 生八つ橋はつぶ餡のみが唯一無二の正統だ!」
もみじ饅頭――あれはあれで悪くない。瀬戸内の一地方の銘菓は、民間補給施設の普及とともに今や全国区になろうとしている。バリエーションも豊富で、温めすぎに注意すれば、なお一層上手い物だ。だが、上品な味わいという点では今一歩及ぶまい。
「八つ橋には長い長い歴史があるんだぞ。しかもあの上品な味わいの影で、たかがお菓子一つに、本家だの元祖だのとスケールの小さすぎる島国根性丸出しの醜い争いがぎゅっと詰まっていてだな……」
勿論、今のはたかが一高校生の妄言である。
この地に暮らす人々は、調和を愛する国に暮らす人間らしく、互いの領分と節度を守ってはんなりと日々の商いに励んでいるに違いない。
委員長は一つため息をつく。
「語るに落ちたわね。通ぶっていても所詮はニワカね、あなた」
「なんだと!」
聞き捨てならぬ言葉に政党甘味党支持者のオレが憤慨する。
「あなたが言うのは餡入り生八つ橋。生八つ橋ってのは側の方のみを指すの。ううん、側って言うのは不正確ね。あれは煎餅の一種で主にシナモン味の生地を蒸しただけのものの形状からそう呼ばれてるのよ」
「な、なんと……!」
驚くべき歴史の真実だった。だが、真実はそれだけではないという。
「餡入りが定着したのは昭和もずっと下ってから……。暴論を承知でいえば、お土産として認知されたのは戦後の商業主義の産物よ。そして最近では色んな種類の餡が入ったものが売られてるわ」
「バ、バカな!」
それではコンビニのおにぎりと一緒ではないか。
売れさえすれば何でもいいという我が国の伝統を軽んじる風潮は、実に嘆かわしい。
失われた国を取り戻したいという夢を語りたいのならば、まずは謙虚さをもって基本に立ち返り、その古の精神と思想をもう一度学び直す事から始めるべきであろう。
昨今は他所の国に文化をパクられたなどと、世界規模で大騒ぎするのが流行りのようだが、所詮、DQNにパクれるものなど薄っぺらい表面的なものでしかない。古の先達が生きた証としての智恵と思想を学び、生活の中でそれを生かし、後世の者に伝えて初めて、その文化はその地とそこに住まう人々の心に根付く。
その心を知らずして伝統という言葉の上に胡坐をかき、先達の生きた証をおろそかにするような者共に、文化を語る資格などありはしない。本物の価値を知らずして、パクさんにパクったのパクられただのと騒ぎたてる輩など、所詮、目糞と鼻糞程度の差でしかない。
いつしかオレ達の間の空気の微妙さ加減は言葉で言い表されないものとなっていた。八つ橋論争では圧倒的不利な立場に追い込まれつつあるオレは、それでも起死回生の一手を放つ。
「まだだ! まだオレには『すぐき』がある!」
まだ、やるの? という委員長の呆れたような視線を無視してオレは咆哮する。
「フン、八つ橋など所詮は前座! オレの本命はすぐきだ! アレさえあればあと半年は戦える!」
己の不利を悟るや否や、途端に扱いがぞんざいになり、別のものにすがりつく。確固とした心のよりどころを持たぬ悲しき現代人のサガである。
「はいはい」
もはやすっかり呆れた様子の委員長。だが、それでもオレが諦める事はない。
「そのままでも良し、味付けしても良し、混ぜて炒めても良し。塩と素材のみの味で勝負するものこそが本物! 偉大なり、発酵食品!」
「…………」
「あっ、バカにしてるだろ。いいか、委員長、発酵食品の歴史ってのはな、人類の歴史といっても過言じゃないんだぞ」
冷蔵技術のない時代に保存の効く発酵食品とは、まさに天からの授かり物である。
食の歴史とは空腹と飢餓との戦い。
多彩な食文化を誇るというのは裏を返せば、彼らが常に飢餓の環境に怯えながら生活してきたかということ。
『あんなもの食べるなんて、昔の人は好奇心旺盛だったのね』
というのは飽食の環境の中で育ってきた脳みそお花畑の人間の言葉である。
飢饉や戦争などの様々な理由でまともな食べ物が無かったからこそ、先達はそれらを食べて飢えをしのぎ必死で生きてきたという事実の積み重ねの証といってもいい。
気の遠くなるような長い時間の中で押し寄せる貧困と飢餓の場面において、時に毒物すら食らう命がけの経験則によって培われてきたもの――それが食文化である。だからこそ、いかに奇怪なものであったとしても、他国の食文化を安易に否定するというのは、その歴史と存在価値そのものを否定する事に他ならない。
すっかり聞き流している様子の委員長は、なにやら珍獣を眺めるかのような視線でオレを眺めている。
だが、オレはそれでもすぐきの素晴らしさを力説する。
「この季節はもう旬じゃないから、まともな物は手に入らないかもしれないんだぞ。そうじゃなくても好みにあった漬物に出会えるってのは、なかなかないんだからな!」
もはや通常の一般家庭で漬物を漬けるなどという文化は死滅しているご時世である。スーパーで売られている既製品を口に含んだ瞬間、ん?と一瞬、疑問符を浮かべた後で、白飯と一緒に飲み込むのが今や当たり前だろう。
当然、入手難易度が上がれば上がるほど燃えるのは、現実も仮想現実も変わらない。入手用件が確率任せなのは論外というものだが。
「私、お漬物のことは良く知らないけど、今の時代、みんな工場で作るんじゃないの? 本物の味って料亭とかでしか手に入らないんじゃ? あとはその地方の親戚とかに送ってもらう……とか?」
「だ、だからだな、明日一日、足を使ってあちこちの店を歩いてだな、ついでに生八つ橋も……」
すでに八つ橋がついで扱いになっていることについては突っ込みはなしだ。オレは明日の為に検索に検索を重ねて周到な準備をし、積み重ねられた偉大な歴史へのリスペクトを胸に色々な本店を回って……。
だがあろうことか、委員長、いや、東堂咲耶は大胆不敵、傍若無人、前代未聞な一言をあっさりと言い放った。
「あのさ……、通販でも買えるよね?」
「グハァーーーーー!!!」
それは……、無情な言葉だった。
そして……、余りにも非情だった。
便利すぎる世の中は、若者達から苦労してようやく手に入れた時の喜びや達成感というものを尽く奪いつくしていく。
いや、頭の足りない老人たちによって無軌道な合理性の追求のみがもてはやされるこの時代において、もはや苦労するという事に美学を感じるような若者は皆無といっていいだろう。そして仮想電脳空間に縦横無尽に張り巡らされた電子網は、もはやお土産という文化すらも駆逐しつつあった。
「だからさぁ……、漬物ってのはさぁ……偉大な食文化でぇ……」
高度な電子文明によって支配されるこの時代、絶対的な便利性と優位性を備えた『ツーハン』なるたった一言で、全てを論破されて説得の材料をすべて失ったオレは、刀折れ、矢も尽き果てすっかり涙ぐんでいた。
オレの傍らに座る校内一の美人さんは、同じクラスに居ながら住む世界の違う人である事を改めて実感する。
そんなオレに委員長は静かに畳みかける。
「そういう訳だから、明日は私達と一緒に回ろうね? 大丈夫、観光地だからお土産売り場ならいくらだってあるわよ。京野菜の漬物の出店なんてのも、確かあったはずだよ」
「だからぁ……、本物の味わいがぁ……」
「はいはい、そういうのは個人的に通販サイトで探しましょうね」
「うわーーーーん!!!」
身も蓋もなく泣き崩れるふりをするオレの傍らで、委員長は勝ち誇った表情を浮かべる。
すっかり敗北を悟り、彼女の旅の従者とならざるを得なくなったオレは、『チクショー、いつかゼッテー泣かしちゃる!』という決意と共に、その軍門に下ることとなった。
「なあ、委員長?」
ふと思い立ってオレは尋ねる。
「なに?」
「なんでオレなんだ。別に三人で回った方が気兼ねなく色々と行けるだろう」
「そ、それは……」
わずかに焦った表情を浮かべる委員長。弾避けだとか番犬がわりというのはさすがに言い過ぎだろうが、それでも彼女の意図が今一つ理解できない。あえて言うなら委員長としての彼女なりの責任感というところだろうか?
「央城君だって嬉しいでしょ、女の子三人に囲まれて……。ハーレム状態っていうんだっけ」
「いや、全然。それ虚構の世界だけの話だから……」
教室内で飛び交うクラスの女子達の当たり障りのない会話の裏に隠された本音を目の当たりにすれば、わざわざ自分からその集団内に飛び込んで神経をすり減らそうなどと考える愚かな男はいない。
女の子言葉など所詮、人ときちんと本音で向き合わぬ癖に己の事だけは理解してほしい、という都合のよい子供の思想の産物である。いい年をして『なんとか女子』というカテゴリーに自分を嵌めこんで喜ぶ姿は、憐れみすら誘う。
大人になってもそこから抜け出せぬ者は、手にした家庭をたやすく崩壊させ、守るべき家族を犠牲にしても尚、「私の事なんて誰も分かってくれないのよ」などとのたまう度し難い愚か者になるという。
自分に都合のいいことしか言わずにチヤホヤしてくれる異性達に囲まれてウハウハな世界など所詮、虚構の中にしかない。人格形成される前からそんなものに嵌り込んでしまえば、その後の人生が悲惨なものになるのは当然だろう。
「もしかして……迷惑だったかな……その……」
少しばかり表情に陰りを見せて委員長が問う。
「いや、そんなことないけど。どっちかっていうと感謝してるかな、拾い上げてくれて……」
きれいな顔に一瞬浮かんだ陰りに、オレの罪悪感が刺激される。
孤独を愛する一人者には何かと理不尽な視線が突き付けられる昨今、委員長の好意に感謝せねば罰があたるというものだろう。
「じゃあ、明日は一緒に回ろうね!」
突然、うって変った明るい表情で彼女はこうのたまった。
――しまった、図られたか……。
自身の魅力をうまく利用した説得術にまんまとはまってしまった青少年の姿がそこにあった。時代と世代を越えて共通するオスという生き物の悲しきサガを実感する。
「念の為に連絡先教えてもらってもいいかな? 一晩寝たら央城君逃げ出しちゃうかも知れないよね」
「なんでだよ!」
「もしかしたら、迷子になっちゃうかも」
「オレはいくつのガキだよ!」
スマホを取り出しながらの彼女の言葉に条件反射で、通信機能を起動させる。
この機能を使うのはおよそ一年ぶり、入学式初日の勢いでアドレス交換して以来であった。あの日登録されたアドレスの大部分は一年という時間内で次々に削除され、残っているのは今や片手の指に満たない。通信料稼ぎをごまかす業者のサービスメッセージ以外でたまに飛び込んでくるのは、小野木のバカメールくらいのものだろう。
遥か一年前の記憶を頼りにどうにかそれを起動させ、彼女とアドレス交換を行う。
「よーし、交渉終了!」
難解な交渉相手に完勝した凄腕外交官のように満足げな表情を浮かべて彼女は立ちあがる。つられて立ち上がろうとした俺だったが、ふと思いなおして、再びベンチに腰掛けた。
ここにきてからかなりの時間が経っている。一緒に戻るところを誰かに見られたら、また、無責任な噂のネタにされるに違いない。
委員長の方もオレの意図を察したらしく、小さく微笑み「また明日」とオレを残してその場から離れて行った。
上背のある整った後ろ姿が宵闇の中へと消えていく。委員長の香りがまだほのかに残る初夏の空気の中、めまぐるしく押し寄せる状況にすっかり翻弄され、途方にくれかけたオレだけがその場に残された。
ふとスマホの液晶に表示された画面が目に入る。
つい先ほど得られたばかりのプラチナチケット張りの高価な情報が表示されたままになっていた。
「委員長、ゲットだぜ……?」
なんとなく口をついて出たのは、その世界のトップを目指して故郷を旅立ったものの、大人の事情で延々と挑戦者の役回りに甘んじ、「カワイイ」という理由だけで成長を許されぬ相棒の電撃ネズミとともに、あてどなく永遠に世界をさまようことを義務付けられた野球帽の少年の決め台詞だった。
2015/10/17 初稿