どうして人の世は争いが絶えぬのだろう
旅行は踊る……。違った……。
ゲージ目一杯に上昇するストレスをおさえつつ、どうにか一日目を終えたオレ達の修学旅行は、二日目に突入する。その昼前の事だった。
古都で尤も由緒ある金ピカな建物を心ゆくまで堪能したオレは、時代の前後、洋の東西を問わずに金ピカの力を以て己の権威を示さんとする大金持ちの為政者と彼に尻尾を振った民衆との悲しくも浅ましき関係を慮る。同時にその場所を訪れた全てのものが一度は首をかしげる、『銀ピカはなぜ銀ピカでないのだろう』という疑問に思いを馳せていた。
鬼嫁に振り回されドアホな身内に足を引っ張られ、無能な政治家と歴史に烙印を押された悲しきロマンチストこそが、真の詫び寂びを知る風流人であったという事を知る者は現代においても少ない。東山の一見、みずぼらしい書院造の建物が、その名の通りに最も幻想的に輝く瞬間を知った時、見たままでしか物事を判断できぬ現代人の浅はかさと古の人々が伝える智恵の真の奥深さを知るだろう。
――伝統文化、すげぇやるじゃん!
この旅行の間くらいは、進路志望に「伝統文化財保護管理育成者」などという選択肢が入るかもしれない。すっかり謙虚な気持ちで、次の目的地に向かうべくオレはバスに向かう。
何気にタラップを上ろうとしたその矢先、不意に厳しい視線を右頬に感じた。何となく振り向いたその先には、バスの外で怒りの形相を浮かべてオレを睨みつける壮年の運転手さんと、困った表情を浮かべてそれを押さえようとする若いバスガイドのお姉さんの姿があった。
――オレ、何かしたっけ?
心当たりは全くなかった。
ここまでの道中、やっていたことといえば、ガイドさんの案内に耳を傾けることなくイヤフォンを耳に狩りゲーに耽っていたとか、スマホで目的地情報を検索して『別にガイドなんていらないんじゃね?』とか思ったくらいである。
たいしたことではない。
まあ、いいかと一つ頷き、二段のタラップをのっそり登って車内を一瞥した瞬間、全てを理解する。
観光バスの中に広がっていたのは、オレ達二年D組のなにげない日常の光景だった。
特定の座席めがけてポンポンと飛ぶ紙くずや空のペットボトル。
うんざりとした表情を浮かべるもの、呆れて見ぬふりをするもの、そして怒りと当惑を浮かべる委員長一派。
ゴールデンウィーク期間も含めて早数日。なじみ深い重っ苦しい空気に、思わず懐かしさを感じてしまった自分に嫌悪する。
どうやら新学期から僅か一月近くですっかり異常な日常に慣れてしまったようだ。習慣とは恐ろしいものである。
バスの最後尾座席に陣取った柳瀬率いる動物集団は、たった一日で我慢の限度へと至り、旅行のストレスを手近な犠牲者で晴らす事にしたらしい。我が国の教育システムの根本的欠陥の真髄を目の当たりにしたような気がした。
犠牲者役である福田君および彼とともに班編成された四人のぼっち集団は、ゲーム機を手に飛んでくる紙くずを無視して場を凌いでいた。新幹線の中であれだけ盛り上がった同好の士による連帯感はすっかり鳴りを潜め、誰もが異常な日常で各々割り振られた役割に戻りつつある。
防波堤となるべき我らが担任教師は、離れた場所で別の教師達と打ち合わせの最中である。あるいは上手に逃げ出したのだろうか? ふとそんな他愛もない疑念が心をよぎる。
世間の常識から逸脱したその光景を目の当たりにして、部外者である運転手さんが憤りを感じるのは尤もなことであり、それはオレ個人に向けられたのではなく、異常な状況を当たり前のごとく享受しようとしているオレ達全員に向けられているのだろう。
前方の席で厳しい表情を浮かべている委員長と何気なく視線がぶつかった。その手元には拾い集めたと思える、いくつかのゴミがある。学級委員長として彼女なりの責任を感じ、動物達を諌めようとしたのだろう。人語を解さぬ者達にその行為は無意味であったようだが……。
一つ大きくため息をつくとオレは入口に備え付けられたゴミ袋の束から、一枚のそれを抜きとった。ここ一月ですっかり手になじんでしまった商売道具の感覚が懐かしかった。
と、オレに続いてバスに乗り込もうとしたガイドのお姉さんと視線が合う。その背後では怒りを収め切れずにぶつぶつ呟いている運転手さんの姿があった。小さく会釈をするとオレは小声で囁いた。
「すみません。これから修羅場にしますんで、ご容赦を……」
ガイドさんと運転手さん、そしてオレの声が聞こえたらしい数人の生徒達が一瞬、呆気にとられる。そんな中、オレは商売道具片手に前席から後席に向かってゴミを集めて回る。環境美化委員――本日はバス内の清掃が臨時任務である。
後々の事を考えて、水気のある物は遠慮しつつ、オレは着々と弾丸を集めて回る。床に散らばったゴミを拾おうとするオレに周囲の生徒達が手を貸した。まだこのクラスに常識は存在しているらしい。ほっと安心しつつ、オレはパンパンに膨れたゴミ袋を手に最後尾へと向かう。
一歩進むごとに緊張感が高まる。既にオレが良くない事を考えているらしいことに柳瀬達は気付いているようだ。動物の勘といったところだろうか。
勿論、ここで期待を裏切らぬのが正しい作法。
最後尾座席に座る六人、否、六匹の動物達の前に立ちはだかるとオレは静かに口を開いた。
「ゴミはゴミ袋に……。環境整備委員会からのお願いです」
同時に手にしたゴミ袋の口を開け、その場でバッサバッサと振りまわす。はでに飛び散るゴミ達とついでに空になったゴミ袋を彼らに向かって投げつけた。周囲の被害を無視したその行為に、車内に小さな悲鳴が上がる。
「何するのよ!」
「舐めてんのか、テメエ!」
頭からゴミをかぶって相も変わらず、オリジナリティのない台詞で憤る動物達。
『自分がされて嫌なことは人にしない』というのが人類の伝統的美学の一つのはずだが、やはり奴らは違うようだ。
鼻息荒く立ち上がった強面が売りの脅し担当・田辺がオレに突っかかろうとした。
「握りつぶしてやろうか、今度は?」
股間の前に手を広げたオレの言葉で彼は一瞬にして青ざめる。新学期初日にオレにがっちりと握られた股間の感触を思い出したようだ。自分で言っておきながら、オレもまたその時の事を思い出し、若干、ブルーになる。
座ったままオレを睨み据える柳瀬と彼女を見下ろすオレの視線が衝突する。委員長に遠く及ばぬそこそこの顔立ちに憎しみを目いっぱい張り付けた彼女が、憎々しげに口を開く。
「アンタ、こんな真似してタダですむと思ってんの?」
「続きは帰ってからにしろよ。わざわざ京都くんだりに来てまで、これ以上、恥をさらすのはやめろ!」
背後で、小さな笑いが起きる。オレは続けた。
「あまり寝ぼけたことやってると、運転手さんに頼んで市の動物園に引き渡すぞ。サル山はないらしいが、ゴリラの嫁さんなんてのはどうだ?」
バス最後方部の空気が凍りつくのが肌で感じられる。それまで無言で座っていたサッカー部の沢木が立ち上がり、オレと対峙する。六人の中で一番警戒しなければならないのは、体力のあるこいつだろう。
一対一で後れを取るつもりはないが、ここで乱闘になれば、さすがに停学は免れない。近い将来、彼らとの対立は避けて通れぬだろうが、今は時も状況も悪い。少しばかり急ぎすぎたかなと内心で、冷や汗を流す。
災いは芽のうちに摘み取るのが正しい先達の教えだが、いざ摘み取ってみると、自分達は手を出さずに摘み取り方が悪いなどとイチャモンを付けられ、背中からバッサリと切りつけられるのが当世の流行りである。
ずる賢さだけは折り紙つきの奴らもそのあたりはきちんと心得ているらしく、睨み合いが続く。
さすがに六対一での口論は分が悪い。互いに引く事ができずに膠着状態に陥りかける、そんな時だった。
のんびりとしたリズムの音楽が車内に鳴り響く。
「霧ヶ峰高校二年D組の皆さま、鹿苑寺見学ご苦労様でした。これよりバスは昼食会場へと向かいます。どうやら皆さん、そろそろおなかもすいて退屈なさっているみたいですね? 美味しいお食事というには薄味かもしれませんが、和気あいあいと楽しい旅をお楽しみください」
さわやかな声でのガイドさんの案内が始まり、場の空気が変わった。それを機にオレはバス中央にある自席へと戻る。席に戻る途中でふとガイドさんと視線が合った時、彼女の口元に小さな微笑みが浮かんだように見えた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
精神年齢を疑われかねぬ稚拙極まりないバトルの果てに辿りついた昼食会場で、薄味の仕出し弁当を手早くかきこんだオレは、食後の缶コーヒー微糖を片手に展望台にぼんやりと座っていた。
周囲にはオレと同じく先に食事を終えた生徒達が集まって、一回100円の双眼鏡に硬化を突っ込み、街の景色を覗いている。どこへいってもあの手の双眼鏡で見える景色にいまいち感動を覚えないのは、オレだけだろうか?
すっかり新緑に染まった山の匂いを胸一杯に吸うと、オレは脳内に詰まった煩悩を吐きだした。
――世界はこんなに美しいのに、どうして人の世は争いが絶えぬのだろう。
勿論、眼前の古都の風景は和洋折衷の歪さと妥協の産物が入り混じり、山肌がところどころ禿げているようにみえるのは気のせいだ。環境美化委員というお役目がら、争い事に好んで首を突っ込んでしまうのも仕方のない事にちがいない。
「面倒くせぇ……」
帰りたいと痛切に願う。帰り次第、このバカげたイベントを推奨する時代遅れの監督官庁に抗議のメールを送る事を密かに誓った、その時だった。
「のわぁ!」
首筋に固くひんやりとした感触と熱っぽい感触を同時に突然押しあてられ、オレは驚いて飛び上がる。慌てて振り向いた先には、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべたガイドさんの姿があった。以下、都合により標準語で話をすすめる。
「ゴメンゴメン、びっくりした?」
「…………」
言葉を失いコクコクと頷く。隣いいかな、と尋ねられ、さらに慌てて首を縦にふる。
年齢は二十代後……、否、半ばくらいに見えるという事にしておこう。
女性らしい華奢ななりの彼女は、とても愛嬌のある笑顔が魅力的だった。華やかなバスガイドの制服に合わせた明るめのメイクの彼女からは、同級生達にはない大人の女性の香りがした。
この手のイベント事ではお約束のように、彼女は委員長を始めとした一部の女子生徒達と仲良くなって、上手く旅を仕切っていた。それぞれのクラスについたガイドの中では彼女が一番、若くて美人である――それがオレの隣席に座る小野木の見解である。
「こんなところで一人で黄昏ても、女の子と仲良くなれないよ」
先程、オレの首筋にあてた銀色の魔法瓶を傍らに置き、持っていた包みを膝の上で開き始めた。
「折角の古都なんで、美しい景色を堪能してたんですけど……」
「若いうちから建前なんかに逃げてたら、将来、ろくな大人にならないわね」
電子文明に支配される殺伐としたこの時代、伝統文化にほのかな恋心を抱いた青少年の文学的純情は許されぬらしい。女性というのは幾つになってもそっち方面の思考しかできないようだ。はいこれ、と包みの中から小さな和菓子を取り出した彼女は、オレにそれを手渡す。
「なんです、これ?」
「向坂さんからの差し入れよ」
初日の自己紹介で、確か運転手さんがそんな名前だった事を思い出す。飾り気のない和紙に包まれた其れをそっと解くと、詫び寂びの詰まった地味な和菓子が姿を現した。
「向坂さんは昔、和菓子の職人さんだったの。まあ、折からの不況でお店が潰れて、今は運転手やってるけど……。今も時々自分で作っては、こうやって気に入ったお客さんや同僚に配ってるの」
「そ、そうなんですか……。有り難くいただきます。」
華やかな古都の伝統の裏に流れるさりげなくヘビーな話題と人生の重みが、手の中の小さな和菓子にずんと詰まっているように感じられた。おそるおそる一口それを口にする。
「いつも思うんですけど、どうもこういうお上品な菓子には甘さが足りないというか、地味すぎるというか……」
ストレートな甘さが売りのコンビニスイーツ大好きっ子のオレにはどうも相性が良くないらしい。
オレの率直な感想に小さく笑みを浮かべたガイドさんは、魔法瓶のふたを開いて紙コップに熱いお茶を入れて手渡した。
「一緒にどうぞ」
言われるがままに緑茶を口にする。程良い熱さの茶の渋みが、口の中に残った甘味を一気に引き立てる。
おお、と感激しつつ、それぞれをまた一口ずつ。お茶とお菓子、互いの魅力を引きたてあう確かな伝統として受け継がれた和のコラボレーションが、オレの中で何かを目覚めさせた。
「もう一つ、食べる?」
自分の分を差し出すガイドさんのそれを素直に受け取り、再び堪能する。
時に、味覚を、あるいは視覚を。
一つ一つは地味でもそれらが組み合わさった時、確かな計算の下に人の五感を刺激するとてつもない魅力を発揮するという。まさに調和の美学である。
――伝統文化、メッチャやるじゃん!
感動とともに、残りのお茶の渋みで舌の上に残る甘さを消し去った。
「大変だったわね、いろいろと」
彼女の言わんとする事を即座に理解する。
「すみませんね。お見苦しい所をこれでもかと言わんばかりに……」
「あそこまで、清々しくやられるととても面白かったわ」
「さ、左様ですか……」
あの後、走り出したバスの中ではさらにひと波乱が起きた。いわゆる報復行為である。
ご丁寧に散らばったゴミをかき集めた彼らは、それを背後から盛大にオレの頭の上にぶちまけた。単純な彼らの行動パターンを予想して、事前になるべく被害が少なくなるよう水物を袋に入れておくことを避けておいたわけだが、となりに座る小野木にまで被害が及び、温厚な彼が珍しくブチ切れ状態となった。
混迷する二十一世紀の世界情勢。
DQN国家への過剰な警告行為に対する報復がさらなる悲劇を呼び、戦火が拡大していく過程が、小さな観光バスの中で見事に実証された。複雑な利益が絡み合い、傍観者が傍観者で在り続けられぬ国際社会においては、核兵器の管理とその拡散の防止は絶対的急務であるといえよう。無責任なテロリストや勘違い国家に一度それらが渡ればいかなることになるか、このバスに乗り合わせたものならば、身をもって知ったはずである。
修学旅行――学べることは決して少なくないようだ。
「キミ、勇気あるのね」
「一応、環境美化委員ですから」
「環境美化委員? なにそれ?」
「簡単に言えば、校内のゴミを清掃する係です」
「ああ、なるほど」
彼女はポンと手を打った。僅かに目を輝かせてオレに尋ねる。
「じゃあ、今夜当たり、やっちゃうのね?」
「へっ?」
意図が読めずに、オレは首をかしげる。
「殺っちゃうんでしょ。皆が寝静まった頃を見計らって」
「……。何を……でしょうか?」
「だから、カンザシとか琴の弦とか三味線の撥使って、アイツらを一息に……」
右手をワキワキさせつつ、彼女はさらに目を輝かせる。
「あのー、あなたはオレに一体、何をさせたいのですか?」
「だって、校内のゴミを始末する仕事なんでしょ、環境美化委員って?」
ああ、成程とようやく合点が行った。この女性、オレと同じ思考パターンの持ち主らしい。とても親近感が湧いた事はいうまでもない。
かつて世の中が盲目的に上向きだったと錯覚された時代、権力を嵩にきて闇に蔓延る巨悪を週に一度始末しては、その様子をお茶の間に流すという風習がこの国にはあったという。
ただ、これらの作業には非情に高度な専門的スキルが要求され、身の回りの品々を駆使して暗殺するその思想は、世界中の国々の諜報機関や特殊部隊に影響をあたえたという。
さらに高度な職人集団を管理する組織の意思統一も、時として政治的な問題に発展したようだ。数多の現場を渡りあるき、将来の元締め候補と期待されたとある一人のベテラン職人の討ち死には、これらの集団に致命的な損失を与えたという。
今世紀に入って年々、人材の枯渇と高齢化による仕事料の高騰が進み、さらには始末したところで何ら世に影響を及ぼさない雑草《DQN》の蔓延、管理組織の人材枯渇による腐敗化、その他諸々の理由で今や年に一度、行われるかどうかだという。道理で世の腐敗が加速する訳だ。
「期待させて申し訳ないんですが、今のオレの守備範囲は物だけなんです。お菓子の袋とか、空のペットとか」
「そう、それは残念ね。仕事をするにはまだまだスキルが足りないってわけね」
「いえ、そういう訳では……」
「じゃあ、あれかな。こっちには短期養成講座を受けにきたとか? 資格の時代だもんね。進学や就職の役に立つかどうかはともかく。私達も国際都市の観光案内なんだから、お客様に合わせて色んな言葉話せるように、とか無茶ぶり言われるのよねえ、上から……。そんな頭があったらガイドなんてしないわよ、そう思わない?」
同じ言葉で話していても会話が通じないことがままある昨今、なんとなく同意しつつ、オレは尋ねる。
「講座って、何です、一体どこで?」
「映画村よ。ほら、最近は足元ふわふわで腰の入ってない中途半端なイケメン俳優がゴロゴロしてて、まともな殺陣一つこなせないでしょ。おまけに時代劇は絶滅危惧種指定だし。そんな訳で長年培ってきた暗殺技術の後継者を求めて、全国からやってくる志願者に安価で技術指導してるのよ。裏アトラクションとしてね……」
「ガ、ガチですか?」
「冗談よ♪」
こ、この女性面白過ぎる。ずっこけながらもオレは伝統の真髄を目の当たりにした。
「でもそういうのあったら、面白がって皆行くかも」
時はもはや世紀末をとっくに過ぎている。
だが、ストレスと狂気の時代、世界の国々は七十年ぶりの大戦に向けてウォーミングアップを行い、我が国では大人から子供まで殺したいヤツの一人や二人いるのが、デフォルトである。
『たった一時間の講習であなたも今日から立派な暗殺者!』
たかが創作物にすら病的なリアルさが求められるこの無茶な時代、ガチなアトラクションはきっと顧客の満足度を十分満たしうるに違いない。
「でしょ。でも提案すると皆、退いちゃうのよねえ、どうしてかしら?」
首をかしげるガイドさん。
「そ、それは……、一般常識的に……」
「冗談よ♪」
年上の女性に手玉に取られるのが、快感になってきた。修学旅行、学ぶことは決して少なくないようだ。
「……で、アイツらいつ殺るの? 私、何か手伝える?」
「そろそろそこから離れましょうよ」
「そう、残念ね♪」
ちっとも残念ではなさそうな表情のガイドさん。ここでようやくオレは彼女に気遣われている事に気づいた。
「すみません、いろいろと気づかいさせて……」
やりたい放題にやって後始末を放りだすのでは、ゴミを散らかして逃げる奴らと大差ない。
「まあ、あの程度、大したことないから気にしてないわ」
「大したことない……ですか……」
ふと思いたったオレは、彼女に尋ねてみる。
「参考までにガイドさんが経験した大したことというのは?」
「そうねえ……、最近、海の向こうからやってくるお客さんがやたらと小競り合いをおこすなんてのは、増えたわね……。お金持ってても、所詮、動物は動物だしね……」
暫し、小首を傾げるとすぐに小さな笑みを浮かべる。
「でも、今までで一番すごかったのは……、やっぱりあれかな。とある会社の社員旅行」
デフレ時代を生き残ったモラルのぶっ壊れた社畜達の所業は、バブル期の乱痴気リーマン達の御乱行をはるかに凌ぐという。旅の恥はかき捨てとばかりに、若くてきれいなガイドさんに、あーんな事やこーんな事をしようとする不埒なおっさん達も多いに違いない。
「虫の居所が悪かったのか知らないけど、社長さんがいきなり真昼間から一升瓶片手に、成績の悪い若い社員三人を正座させて説教し始めたのよ、貸切バスの中で」
「そんな社員旅行……嫌だ……」
将来、就職活動をする際には社員旅行の有無を検索項目に加えよう。
「観光そっちのけでやり続けるうちに、エスカレートしていってね。お前達は俺がカネ出して飼ってやってるんだとか、二十四時間奉仕しろとかいって、履いてたサンダルでバンバン頭ひっぱたいて……。車内の空気は最悪よ。さすがにたかがバスガイドが他人様の内部事情に首突っ込む訳にいかないし……、私もう泣きたかったわ」
遠い目をして彼女は語る。
「で、とうとう三人のうちの一人がプッツンしちゃって。立ち上がるや否や社長さんから一升瓶取り上げてラッパ飲みし始めて……。みんな呆然としてたわ。当の社長さんも一瞬唖然としたけど、慌てて瓶を取り返そうとしたところにガツンと……」
「やっちゃたんですか……」
「ええ、奪いとった一升瓶で思いきり……」
「ネ、ネタでしょ?」
「ガチよ。残念ながら……」
「ガチなんだ!」
――こ、怖ぇーよ、実社会。
修羅場の光景が目に浮かぶようだった。だが、悲劇はそこで終わらなかったという。
「倒れた社長さんをさらに三人がかりで罵声を浴びせながら踏みつけて……、もう物理的にボロボロだったわね、あの社長……」
「…………」
「しかも周囲の人……、誰も止めないの。なんかもうその場に居合わせた皆、正気じゃなかったわね……あの時は。私も含めて……」
ああなると喜劇ね、と彼女は溜息をつく。
「ホントにあの日は散々だったわ。救急車にパトカーまでやってきて、野次馬の人だかりの中で事情聴取されて……。おまけに担架で運ばれてく社長さん見送ってたら、『死ねばよかったのに』なんておどろおどろしい呟きが背後から聞こえてきて……」
――や、病み過ぎだよ、実社会。
「刑事さんに何度も同じ事聞かれてくたくたになって社に帰りついたら、今度は上司のお説教。おまけに労いの言葉もなく三カ月の減給。仕事やめようって本気で考えたわね、あの時は……。もう涙も出なかったわ……」
「減給って、どうしてですか?」
「問題が大きくなる前になぜきちんと対処しないんだ、ホウ・レン・ソウの基本はどこへ行った……、だって。あの状況でできるわけねぇっての! とっくにカウンセラーとか精神科医の領分でしょ、あれは! 安い給料の観光ガイドに一体、どこまでさせるつもりよ、ウチの会社は!」
本音に違いない。
「結局、日頃は正社員だの管理職だのと大きな顔してセクハラ三昧なくせに、いざ修羅場になったら常識も節度もないクライアントに文句ひとつ言い返せない小物の集まりなのよね。老いも若きも男も女もみんなそれぞれにいろんな生活抱えてるってことが全然わかってないんだから。あまりにも頭に来たんで、側にあった一升瓶で思いきりぶん殴ってやったわ」
「ガチですか?」
「ネタよ。妄想。じゃないと、こうしてキミと話なんてしてらんないでしょ?」
「そ、そうでした……」
「あの瞬間だけは、妙にはっきり覚えてるのよねえ」
手にした幻の一升瓶でガイドさんは素振りをする。
あーんな事やこーんな事、どころの騒ぎではない。現実は思春期の妄想を遥かに超えた修羅の世界だった。もはや切った張ったの命がけの戦場そのものだった。
「オレ、初めて子供のままでいたいと思ったかも……」
「ダメよ、生産性のない人間にプライスレスな価値を認めてあげる程、世の中はもう優しくないの。だから今の内にしっかり遊んどきなさい。大丈夫、大人になったら地獄で待ってるわ♪」
「いやだー!」
ポンと肩を叩かれながらも涙する。
ゴミ爆弾の応酬などというのは、所詮、可愛らしい高校生の御遊びでしかないというのもうなずける。
修学旅行、学びたくないことも又少なくないようだ……。
ふと、周囲を見渡せば、展望台の人口密度がいつの間にか上がっていた。全方位から何となく複数の視線が感じられる。
「ふふっ、キミ、注目されてるみたいね。今夜あたりお誘いがあるかもよ?」
注目の理由はおそらくガイドさんと二人で談笑しているからだろう。噂好きな奴らに事実関係などどうでもいい。妄想を膨らませ、野次馬根性を満足させる事こそ、彼らにとって大事である。
「無責任な言葉で思春期の青少年を惑わさないでください!」
気まぐれな異性の振る舞いに勘違いして舞いあがった憐れな青少年達の末路など、今更、語るまでもないだろう。時に大の大人すらも手玉にとられるというそれらは、数多の難破船の残骸となって、ネットの海に漂っている。その一つをそっと取り上げて、余りのせつなさに目頭を押さえた経験は誰にでもあるだろう。時として腹筋崩壊の痛みが加わることも……。
「そうでもないと思うけどな……。恋愛はね、敵が多ければ多いほど燃えるのよ」
「敵ですか?」
「そう、『敵』。あの子よりも私の方が可愛いわよ、っていう女同士の自尊心の戦い――それが恋。競争率が刺激されない以上、孤高なんて気取ったところで、女の群れには相手にもされないわ。せいぜい腐女子のネタにされるのがオチかしら」
「愛……はどこへ行ったんです?」
「愛? ああ、あのATMから出てくる奴?」
「いえ、それで買える奴です」
最近は理想の彼氏像の一番に、カネを持ってて、私生活に口出しをせず、休日はしっかり休んでおまけにほんのり暖かい、ATMが挙げられるそうだ。ツイートやSNSに『私達、結婚しました♡』とATMと腕を組んだ幸せそうな写真が掲載されるのはいつの事だろう? 才能の朽ち果てた老害脚本家が、一人のATMを争って泥沼にはまる女たちの物語をネタにするのは、そう遠い未来ではないのかもしれない。
「キミも言うわね」
「鍛えられましたから……ガイドさんに」
そろそろ師匠と呼ぶことを考えた方がいいかもしれない。
オレの返事にしばし破顔した彼女だったが、やがて本題へとたちかえる。
「まあ、学生の内はいろいろあった方が面白いわよ。ていっても、大抵はつまんない時間を漠然と過ごして、後で後悔するんだけどね。あの時もっとこうしてればって……」
なんとなくその言葉が突き刺さる。
「ほら、キミのクラスの一番綺麗な娘なんてどう? 脈あると思うけどな……」
「一番綺麗な? 委員長のことですか? いや、ありえないでしょ……。絶対に……」
同じクラスに居ながら、圧倒的に住む世界の違う人である。
「そうかなぁ? まあ、あの娘は少し危うい所があるものね」
「危うい? 委員長が?」
意味深な言葉に思わず身を乗り出す。そんなオレの姿にガイドさんは悪戯っぽく微笑んだ。
「気になる? 聞きたい? 聞きたい?」
ちらちらと目の前に餌をぶら下げられ、『stay』をさせられる犬の気分を理解する。
「べ、別に気になるってわけじゃ……」
――ないんだからね、と心中と口から出る言葉が一致しないのは、思春期のお約束である。
「素直じゃないなぁ、青少年」
苦笑しながらも彼女は続けた。
「外見と中身が著しく一致してないのよねぇ、あの娘。真面目そうでいい子みたいだけど、あれだけの外見だから、おかしなモノや歪んだ感情を呼び寄せかねない。それらをはねのけるだけの気の強さというよりは虚勢かしら、あれは……。周囲とも上手くやっているように見えて、実は完全に融け込めていない、本音を見せられる相手がいないんでしょうね。早めに誰かしっかりした人が手綱を握ってあげないと、悪い方に引き寄せられてどう転ぶか分からないわね。女は孤独に染まると狂うもの。今の世の中、歪んでて当たり前だから……、綺麗すぎる娘ってのは、意外に幸せになれないものよ」
あまりな評価にオレは言葉を失った。
「意外だった? 憧れの彼女の思わぬ一面に……」
「い、いや、べ、別に憧れてるってわけじゃ……」
彼女は外見だけの人形のような女、と、しどろもどろなオレの姿に、ガイドさんは楽しげに微笑む。
「憧れのフィルターを外して、あるがままの姿をきちんと見つめ本音を捕まえてあげる事……ね」
にやにやと人の悪い笑みを浮かべはじめた彼女に、オレはすっかり沈黙する。
「そうそう、まかり間違っても、もう一人の娘のほうには、絶対行っちゃ駄目よ」
「もう一人?」
「さっきやり合ってたでしょ?」
「やり合ってたって……。柳瀬ですか? 冗談じゃない、絶対ありえないですよ」
「そう、柳瀬さんっていうんだ、彼女……」
ガイドさんの視線がすっと厳しくなる。
「あの娘は……、もう……手遅れね」
「手遅れ……? いくらなんでもこの歳でさすがにそれは可哀想な気も……」
我がクラスの誇るクソ女と評価するオレでも、さすがに惨すぎるような気がする。
「無理ね。あの娘は悪意をばら撒いて、関わった周囲を不幸に巻き込みながら、やがては自分自身を不幸のどん底に叩き落としていく、そういうタイプの娘。女はね、一度染まった色からは決して逃れられないの。負の色からは特にね。もし対立するなら完膚なきまでに叩きつぶしなさい。中途半端は絶対にダメ。キミ、色々と物分かりよさそうだから気をつけて。オレが正しい道に引き戻してやるって勘違いしてつまんない情けなんてかけようものなら、足元見られて食いつかれるわよ」
「…………」
「好きと嫌いは裏表。反対は無関心。覚えておいて損はないわ」
「はあ……」
目の前のガイドさんが只者ではないような気がしてきた。
「大丈夫、間違って幸せそうな人生の一つや二つぶっ壊したとしても、大した問題にならないのが今の世の中よ」
「いや、それはまずいでしょ、人として……さすがに……」
「バカね、壊してまずいのは幸せな人生。幸せそうな人生というのは、不幸な現実から目を逸らしてるだけ。たいてい壊されても、すぐに代わりを見つけてどうにかやってくものよ。時として心のどこかで誰かに壊される事を望んでることもね。不幸なほうが生きてる実感があるって、無意識に手にした幸せを握りつぶす人、案外多いのよ……」
「すみません、全然理解できそうにないかも……」
「まだまだ子供だもんね」
この女性、本職は人生のガイドなのかもしれない。すっかりペースに飲み込まれてしまったオレの肩を、彼女は白手袋をした手でポンとたたく。
「頑張りなさいな、央城君。キミ、結構イイ線いってると思うよ」
突然、名前を呼ばれて驚いた。おそらく、ここまでの道中で仲良くなった委員長を始めとした幾人かの女子生徒達から聞きだしたのだろう。
「結構……ですか?」
なんとなく微妙な表現が気になった。とはいえ、本音をはっきり言わぬのがこの地方の風習であるという。いまいちな表情を浮かべて僅かに首をかしげるオレに、彼女はその日一番の笑顔と共にのたまった。
「そう。後は、ゲーム機の電源を切って、スマホ検索しながら『ガイドいらないんじゃね?』って顔するのやめてくれると、とってもいい男になるかもね♪」
「グハァーーーーー!!!」
もしかしてそれを言いたかったが故の、長い長い前振りだったのかもしれない。
予期せぬ方面から鋭すぎる直撃を受けたオレは、致命的損傷を受けてその場に倒れ伏し、衆人環視の下でのたうちまわる事となった。
2015/10/07 初稿