人としてのマナーを教える方が先なんじゃない
その日のオレは実に虫の居所が悪かった。全力で遺憾の意を表明したい気分だった。
原因は六時間目のLHRを利用して行われた学年集会である。
主な議題は『修学旅行においての注意事項』であった訳だが、学年主任が開口一番、オレ達に宣言した。
『昨今、修学旅行を無断で欠席しようとする不届きな生徒が多いようです。もしも旅行を欠席した時は、医師の診断書と保護者の同意書を必ず提出しなさい。それを怠る場合は厳しい処分を覚悟するように……』
生徒の集団からは諦めのため息と抗議の悲鳴が湧きおこる。
別段、ウチの委員長が告げ口をしたという訳ではないだろう。オレと似たようなことを考えていた奴らは多いらしく、教師側も計算していたようだ。
確かに教師達の言う事は正しい。業者側から多額のリベートを受け取り、欠席者が多数出ました、では面目丸つぶれという事を差し引いても。
だが時代は今や平成も終わろうとしているこのご時世である。
損得勘定ばかりで他者を計り、集団行動の基本である暗黙の了解や助け合い譲り合いの精神のなんたるかを理解できぬお一人様やぼっち達、あるいは周囲の評価にびくびくしてばかりの仮面リア充共を一つ所にまとめるなど余りに無謀極まりない。
同じクラスメートとは名ばかりの、互いに不信感だらけの者たちが寝食を共にすれば何が起きるか、想像力を働かせてみて欲しい。『友情、努力、根性』など所詮、カビの生えた前世紀の幻である。教育者の癖に『天国と地獄の長いはし』の説話を知らないのだろうか?
奇しくも行き先は京都。
あるいは仏教文化の色濃く残る魔都で其れを実践させてみようという親心なのかもしれない。
ともあれ、混乱必至、衝突必至の魔都探訪に、オレは聖剣一つ持たされることなく、無理矢理挑まされることとなったわけである。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
腹立ちを抑えきれぬまま放課後を迎え、四月最後となるだろう一人委員会活動をしていたオレは、運動部クラブハウスの林立するその場所で眉を潜めた。
丁度スコートひらひら補正がかかった野獣の集団が相変わらず、ゴミを散らかし放題にしたままその場を立ち去ろうとしている場面だった。集合がかかったらしく、一斉に駆け足を始める。一人の少女が眉を潜めてその場を振り返ったが、すぐさま走り去る集団と共に遠ざかっていった。
見事に散乱したゴミの山と、少し離れたテニスコートに整列しつつある片付けられない女達予備軍の姿を交互に見比べ、オレの怒りのボルテージは徐々に上がっていく。
結局のところ、いかに環境美化委員がボランティアをしたところで、多くの者達は己の醜い振る舞いを顧みる事はない。
『きっとまたあの人が掃除してくれるんだわ♡』
と解釈し、より多くのゴミが散乱するだけである。
度重なる世の理不尽についにプッツンと切れてしまったオレは、その場にあったゴミを凄まじい勢いで次々に袋に放りこんだ。サンタクロースよろしく一杯に膨らんだ学校中のゴミを背負うと、オレは時限的男子禁制空間となっているテニスコートへと無断突撃する。
整列した部員達を前に何やら檄を飛ばす硬式庭球部女性顧問の背後をすたすたと歩くオレの姿を部員達が見咎め、ざわめき始めた。それらを無視してテニスコートのど真ん中へと移動するオレにようやく気付いた女性顧問が金切り声をあげた。
「あなた! 一体、何やってんのよ!」
つかつかと近づくそれを背後に聞きながらオレは、ゴミ袋の中身をテニスコートにばら撒いて歩いた。この場所は風通しが良いこともあって、自由な世界に解き放たれたゴミ達は面白いように転がっていく。ちょっとばかり爽快だった。
呆気に取られている女子生徒達と、顔を真っ赤にして迫りくる女性顧問。オレに近づくや否や彼女は左腕を掴んだ。
「あなた! どこのクラス? こんな真似して許さないわよ!」
キンキンと金切り声を立てて、のたまった。アラフォーのオールドミスの彼女は、その情熱で毎年、部をインターハイ予選で良い所まで導いているという。おそらく悪い人ではないのだろうが、それでも過ちは過ちである。
つかまれた左腕に輝く腕章を彼女の眼前に堂々とさらし、オレは静かに告げた。
「環境美化委員会です。自分で出したゴミはゴミ箱へ。ご協力お願いします」
丁寧に一礼し、真っ直ぐにその瞳を見据える。予想外のオレの態度と言葉に彼女は絶句して固まった。背後の女子生徒達のざわめきがより大きくなる。何やら文句を言う声がちらほらと聞こえ始めた。モラルを知らぬ者にやはり道理は通ぜぬようだ。
「だからって、こんな事……」
風に吹かれてテニスコート一面に広がりつつある学校中から集めてきたゴミを前に、女性顧問のショックは大きい。
自身のテリトリーではない場所がどんなに汚れようと気にならない人間も、いざ、己の居場所が汚されるととたんに常識人の顔を取り戻す。オレは続けた。
「あんたさ、杓文字でボールかっ飛ばすよりも前に、そこのおバカなメス共のケツ蹴っ飛ばして、人としてのマナーを教える方が先なんじゃない?」
酷いブーイングが起きた。
まあ当然である。
正しいやり方でない事は重々に承知しているが、人は痛い目を見なければ反省などするものではない。しかも、痛い目を見て反省するどころか逆ギレするのが当世の流行りである。
それでは失礼しますと腕をふりほどき、オレはその場を後にする。
「この事は必ず報告しますからね!」
女子部員達の凄まじい罵声と共に聞こえる顧問の金切り声を背にして、オレは僅かばかりの溜飲を下げつつその場を歩き去った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
翌朝、すっきりと晴れ渡った空の下、オレは若干ダウンな心境で登校していた。出がけに色々と足止めを食らってうっかりラッシュ時の電車に乗り合わせてしまったのも大きい。
都心とは逆方向に走る路線を利用すると、八時前後の二本だけが一時的に霧ヶ峰高生によって占拠される。部活動生や一部の賢い学生は少し早めに登校する為、そのような難を逃れるがこれに乗ると身動きがとれぬ上に、自意識過剰な勘違い女子達から何かとあらぬ誤解を受けてしまう。まあ、逆路線は殺気だったサラリーマンやら何やらで大変なことになっているようだが……。
おはようと飛び交う挨拶の中を縫うようにして、駅から学校までのおよそ十分程度の道のりをとぼとぼと歩く。
修学旅行ブッチ作戦の失敗、アマゾネス軍団とのゴミ戦争、そして薄さ0.02ミリの使用済み水風船の再度の回収。
昨日はとにかく疲れる一日だった。
『人生万事塞翁が馬』などとのたまうのは幸せなヤツに違いない。
山、山、そして谷。針の山を転げ回って傷だらけのまま荒海に放りこまれ、流れついた先は不毛の地。それが人生である。
「センパーイ!」
コロコロと鈴の転がるようなソプラノが後方で響く。澄みきった朝の空気に実に似つかわしい。きっと同じ部活の先輩を見つけて朝の挨拶をしているのだろう。
部活動に入らぬ事で後悔する事があるとすれば、あのように呼んでもらえぬ事だろうか。
ふと、そのような状況を想像してみる。
男女が別々の運動部ではそのような事は稀だろうから、文化部だろうか?
演劇部、あるいは、ブラスバンド部、合唱部……などなど、と考えたところでオレは肩を落とす。
やはり、オレには縁のない世界だった。
大学に入って、ゼミやサークル活動をするときまでの楽しみにしておこうと前向きに考え、オレは足を速めた。
「センパーイ!」
再び後方で声がする。声だけ聞けばとても可愛い子に違いない。そして、ここで確認しようと振り返らぬのが、正しいマナー。夢は夢のままにして、その日一日幸せな気分でいるのが、ささやかな男子高校生の楽しみである。
――可愛い後輩に早く気付いてやれよ、先輩。
若干の嫉妬とともに校門に入ろうとした矢先だった。
ぐいっと強引に制服の袖を引っ張られる。思わずつんのめりそうになって足を止めた。
「何しやが……」
勢いに任せて振り返ったところで言葉を失った。オレを強引に引き止めたのは小柄な少女だった。
150センチに満たぬ身長。細身でプロポーションがよく手足はすらりと伸びているが、凹凸は少ない。
クルリとした瞳に平坦ではあるが愛嬌のあるとても可愛らしい顔立ち。
白いシュシュで束ねられた、今時珍しいポニーテールが頭の上で揺れていた。
小柄ながらも生命力に満ち溢れ、全身から陽の気を発している、そんな印象を受けた。
胸の記章から一年生である事は理解できるが、生憎とこの学校に年下の知り合いはいない。どことなく見覚えがあるような気もするが、やはり気のせいだろう。
オレの袖を引っ張ったまま、はあはあと息を整えると開口一番、彼女は言い放つ。
「酷いですよ、センパイ、人が一生懸命呼んでるのにすたすた先に行って……。歩くの早すぎです!」
その声はまさに先程から背後で響いていたソプラノだった。
可愛らしい声で朝の挨拶をされていた幸運な『センパイ』とは、オレの事だったらしい。
「何の用……かな?」
オレの日常に『見知らぬ可愛い後輩女子と話をする』という状況は想定されてない。故に言葉づかいすら混乱し、いきなりフリーズ寸前だった。さらに彼女はオレに追い打ちをかける。
「昨日はどうも済みませんでした。ゴメンなさい!」
オレの袖を引っ張ったまま、突然、ぺこりと頭を下げられ、唖然とした。全く話が見えない。
何よりも周囲の視線が痛すぎた。これではまるでオレが悪役だ。途方に暮れつつもオレは何とか言葉を発した。
「ええっと、とりあえず……、who are you?」
誰でもいいからオレの混乱ぶりに同情してほしい。
あ、と声を上げると少女はぺろりと舌を出し、自己紹介をした。
「私、一年C組西條彩華です。女子硬式テニス部に所属しています」
その言葉で全てを理解する。ふと昨日の光景が脳裡に浮かぶ。ゴミを放置し駆け足で去っていくスコートひらひら集団の中で振り返った一人の少女の顔と眼前の彼女の顔が一致した。同時に、今年テニス部に入ったメチャメチャ可愛いと評判の娘がそのような名前だったことを思い出した。
「そういう事なら、大体事情は呑み込めた」
ようやく冷静さを取り戻し、そっと袖口から彼女の手を離させた。彼女は続けた。
「前々から気になっていたんですけど、私、入ったばかりの新米ですから」
「別にいいよ」
所詮は体育会系、号令と共に右を向けば皆で右を向き、一人海に飛び込んだらみんなで海に飛び込むのがデフォルトの集団である。一年生がどうこう言ったところで、姦しい女の集団が理性的な判断をするのは無理だろう。下手をすれば彼女一人に押しつけられてしまうことだってありうる。
この手の集団の方向性を正そうとするなら、発言力のある指導者と直談判するしかない。
「それよりもいいのか? こんなことしてたら、怖ーいお姉さま達に目ぇ付けられるんじゃないの?」
昨日の酷い罵声が耳に残る。大和撫子とはもはや遥か古の幻想種である。オレの忠告に彼女は小さく微笑んだ。
「皆が皆、先輩に殺意を持ってる訳じゃありません」
僅か一夜にしてすでにオレに対する憎しみは、一部で殺されるレベルにまで達しているようだ。
「色々言う人もいたけど、私、先輩は全然間違ってないと思います。それにあれから部内で話し合いがあって、これからは自分達の出したゴミの始末をきちんとつけようということになったんです」
センパイがばら撒いたゴミの回収、大変だったんですよ、とさりげなく付け加える。
「それは何より……」
まだまだ良識の火は消えてはいない。大和撫子復権の仄かな希望が見えたような気がした。
「顧問の先生は、やっぱりメチャメチャ怒ってましたけど」
そう言うと彼女は楽しそうに笑った。全く悪気のないその笑顔は、側にいるこちらの心までをも明るくする。
「今日あたり呼びだしくらって、怒られることになりそうだな」
女の怨念は凄まじい。そして善行は割に合わぬのが世の常だ。
「彩華ちゃーん」
不意に背後から彼女を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと二人分の鞄とラケットを持った少女がこちらに近づいて来た。
「酷いよ、彩華ちゃん、いきなり荷物押しつけて走って行っちゃうなんて……」
「ゴメンゴメン、ちょっとセンパイ見かけたから……」
「センパイって誰?」
「ほら、昨日の美化委員の……」
振りかえったその場所にオレの姿はすでになかった。
「ええっ? 美化委員って昨日のあの恐そうな人でしょ。関わるの、やめときなよ。絶対変だよ、あの人」
「だから、センパイは正しいんだって、昨夜電話したでしょ!」
背後で何やら盛り上がる声を背にして、オレは自分の教室へと向かった。
『優しい人はいい人、恐い人は悪い人』というこの国の女性のおめでたい価値観は一体どこから来てるのだろう、と首をかしげながら。
2015/09/23 初稿