酸っぱいブドウの論理ではない
その日も定刻通りに朝五時に目を覚ましたオレは、いつものようにそのまま自宅ガレージへと向かった。
ガレージ奥にぶら下がっているサンドバッグを叩く事およそ三十分、そこから蒸発した父親に教わった鍛錬の型を練っていつものメニューを終える。日によってはランニングをすることもある。気分しだいで夜間や休みの日にも似たようなことを行う。
とかく運動不足に陥りがちな万年帰宅部の予防策として、オレは自主トレーニングで其れなりの体力と身体を維持し、同時に日々のストレスを解消している。並みの運動部よりはましであるという密かな自負もある。
元来、身体を動かす事が嫌いではないが、文武問わず部活動につきものの煩わしい人間関係に縛られ、時間の無駄を感じたオレは、帰宅部に所属した。一人でできる面白いことがネットにあふれ返っている昨今、高校生活をそれなりに謳歌している。
賢者も愚者も、そして普通の人も溢れかえっているネットの世界は、変哲のないリアルな世界よりも趣があり楽しいものだ。
いずれはそういう方面に進みたいなどと考え、趣味でプログラムをいじったりするものの、こちらはまだまだ卵の殻を背負った駆け出しのひよっこレベルである。
ペットボトルの水を飲みながら、ガランと広がるガレージの中を見渡す。
三年前に父親が車ごと蒸発して以来、この場所は空きっぱなしになっている。
もともと何をやっているか、よく分からぬ人であったオレの父親は、昔から組手と称して生意気盛りの俺を叩きのめし、修行と称して近くの道場に放り込み、特訓と称してこの場所でオレに包丁を突きつける変わりモノであった。決して暴力を振うというわけでなく、力の使い方の意味と怖さを教えるつもりだったのだという事は、最近になってぼんやりと理解できるようになっていた。
人の温もりというものが欠けきった母親よりもオレはそんな父親の方が好きだった。
研究職で仕事ばかりの母親と家庭をまとめる父親。
周囲に比べて少々いびつな家庭ではあったが其れなりに幸せだったと思う。だが、オレが中学に上がる頃からやたらと夫婦喧嘩が増え、そのネタにされる頃に辟易とし始めた頃、父親は離婚届に判を押し、車庫の4WDと共に消えてしまった。
そしてその日以来、母親はただの同居人と化し、オレは家族というものを失った。
尤も同居人のお陰で金銭的には全く苦労をしていないのだから、文句を言うのは罰あたりというものだろう。
そんな事を考えながら朝のお勤めを終えたオレはガレージのシャッターを下ろして自宅へと戻る。結構な広さのあるこの場所を倉庫代わりにでも使えばよいと思うのだが、なぜか同居人はそれを許さない。
シャワーで汗を流し、自分の分だけの朝食を作ってそれを食べ、いつも通りの朝を迎えて、いつも通りに学校へと向かう。
新学期が始まって以来、戦場へと向かう兵士のような気分になってしまうのは……、何故だろう?
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
相変わらずの一日が終わり終業のチャイムを耳にすると、オレは独自の行動を始める。
『環境美化委員会』の腕章を腕につけ、ゴミ拾いトングを右手に、ゴミ袋を左手にしておよそ一時間の県立霧ヶ峰高校探検ツアーへと赴く。
環境美化委員。
簡単に言えば校内のゴミを掃除する仕事である。
それを聞いた時、少しばかりわくわくしたのだが、残念ながら仕事内容はオレの想像とはかけ離れたごくごく平凡なものだった。
あくまでも掃除であって始末ではない。そして、ゴミとは無機物のみを指す。
左巻きのハトと草食動物であふれかえり遵法精神を笠に着る島国では、社会のゴミを始末することなど個人レベルで許される事ではない。如何に将来的に社会のゴミに成長する事が確実視されようとも、校内のゴミもまた同じである。
という訳で、オレは大人しく校内美化にいそしむべく、転がっている空のペットボトルやスナック菓子、菓子パンの袋などを丁寧に拾って歩いていた。
毎日の生徒による形ばかりの掃除と業者による定期的なメンテナンスこそされるものの、それでも学校という多くの人間の集まる場所では一時間も歩けば袋一杯になるものだ。
週に二日ほど公立高校としては少しばかり広すぎる敷地内を帰宅部の立場からではなく、環境美化委員の視点から眺めると意外な発見が色々とある。しかも、ゴミというのは人の生活の証。自分とは違う人間の行動の痕跡を色々と想像するのは其れなりに面白い。
委員になったいきさつこそむかつくものだが、実のところオレはこの仕事を気に入り始めていた。ご丁寧にオレを委員に推薦してくれた奴らに感謝状を送りたいくらいである。
ちなみに現在この活動を継続しているのは、校内でオレだけのようだ。
四月の初めに各学年八クラス総勢二十四名が集まった環境美化委員会の会議では、毎日交代でゴミ拾いを行おうという事であったが、その後三日降り続いた長雨と共に決定内容はどこかへ流れ去っていった。
基本的に『自分がしなくても誰かがするさ』という思想が色濃く反映される環境美化委員というものは名誉職になる事が多い。
掃除用具の備品調達以外にたいした仕事もなく、たいていの場合、最初の会合の後でフェードアウトしていくようだ。オレ自身、ゴールデンウィークまでか、あるいは梅雨の長雨が始まるまで続けばいいかなと思っているくらいである。
清掃用具を手にぶらぶらと校内散歩をしている気分で、オレは日頃あまり行くことのない場所に足を踏み入れていた。
運動部クラブハウスの周辺では、強豪の女子硬式庭球部が相変わらずおやつを食い散らかしたまま立ち去っている。うっかりスコートひらひら補正に騙されそうになるが、奴らの確かな本性を垣間見る。『女は魔物だ』――そんな言葉と共に散っていった多くのリア充共の断末魔が聞こえたような気がした。
『今年、テニス部の一年にメチャメチャ可愛い子が入ったの、知ってるか?』
前席に座る男子生徒が何かの拍子に力説していた事をふと思い出した。
「Pretty is justice. But not touch!」
夢は夢のままであれ。現実とは得てして残酷な物だ。
探検ツアーはさらに続く。
人気のない特別教室棟近くの物陰には高校という場所に似つかわしくない煙草の吸殻が転がっている。
これまでにも文化部部室棟近くなどで見た事はあるので余り驚きはしない。
昨今のたばこ価格暴騰と理不尽極まりない愛煙家排斥運動の影響で色々と大変だろうに……と同情しつつ、本日の日誌報告欄の記載事項として記憶する。好きで吸う奴の健康がどうなろうと知ったことではない。ただ、告げ口という訳ではないが、やはり火の始末には気をつかわねばならない。
まだ未成年でありながらストレスを煙に変えて吐き出さねばやってられないだろう日々に同情しつつ、さらに敷地の奥へと踏み入ったオレだったが、そこで意外すぎる物を目にして足を止めた。たいていの事には寛容なオレも、さすがにソレらの出現には困惑する。
学校敷地内の最奥部、高い塀のすぐ向こうは雑木林になっている。
少子化のあおりを受けて使われなくなった校舎や倉庫に囲まれているとはいえ、そこそこ開けた場所にある花壇の側。
そこにあったものは、端的に言えば――水風船である。
我が国が世界に無駄に誇る最新技術で作られた薄さ0.02ミリの……というやつである。
素晴らしいフィット感と生に限りなく近い心地良い使用感に世界中が買いあさるといううたい文句のアレである。
その使用済みが三つほど。
さらに周囲にはティッシュを丸めたものが幾つも……。
ティッシュだけなら、まだ言い訳もつくだろうが、さすがに0.02ミリの水風船の存在は生々しすぎた。近くで縁日がありまして、などという冗談はさすがに無理がある。
もっと物陰のほうでヤレよとか、出したモノは飲ませとけとか悪態をつきつつ、オレは、トングで一つ一つ拾い上げては袋に放りこんでいく。
先週まではなかったので、おそらく今週に入ってからであろう。
――これも報告しなきゃいけないんだろうな、一応。
清掃を完了してどっと疲れた気分のままでオレは、その場所を離れることにした。
この敗北感は一体何故だろう。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
大量のゴミを収穫しつつもなぜか疲労感しか残らなかった一人ぼっちの委員会活動を終えると、オレは帰宅の途につくべく、教室に鞄の回収へと向かった。
終業して一時間以上たっても、友人達と無駄にだべっている姿が校内各所に散見される中、オレ達の教室はひっそりと静まり返っていた。
――まあ、当然か。
日中、不愉快極まりない空気が蔓延するその場所に、貴重な放課後の時間もずっと居座っていたい者などいるだろうか? いや、いない。
誰もが嫌な現実から目をそらし、きっと誰かがどうにかしてくれるだろうという人任せの問題解決による期待に満ち溢れている。
そんな場所で得をするのは、脳味噌をどこかに置き忘れ、声だけが大きいDQN達だけである。恥というものを知らぬ奴らの前では、譲り合いや労わり合いの文化は害でしかない。
一つため息をつくと精神的に重く感じる教室の扉を開けた。一瞬、ぎくりと足を止める。
誰もいない筈のその場所に一人の女子生徒が残っていた。
美しく艶やかに伸ばされたロングストレートの豊かな黒髪。
勝気そうな切れ長の瞳に整った鼻筋、そして控え目でありながらも少しだけ肉感的な唇。
透き通るような白い肌に165センチ近くの長身、すらりと伸びる手足。十代でありながらメリハリのはっきりしたプロポーションは、平均的なこの国の女子高生達に遺伝子レベルでの残酷さを見せつける。
学業も優秀らしく、五十番内なら一流大学は当然といわれるこの学校で、常に三十番内を維持しているという。
二年D組前期学級委員長 東堂咲耶
それが彼女の名前である。
入学以来、彼女に告白して速攻で撃沈された気の毒な男達の屍は五十とも、百ともいわれている……のは少し大げさか。
尤も最近では撃沈される事にこそ意味があるなどという歪んだ価値観が流布しているらしく、それが真実ならば当の本人にとっては至極迷惑なことだろう。決して手に入らぬ高嶺の花を、夜な夜なオカズにハアハアしているやつらも相当数いるはずだ。
さして他人と深く交わる事を良しとせず、ネットの大海に漂流する娯楽を見つけるオレのような人間には、彼女はあまり縁のない人種だった。むしろ、チートっぷりの目立つ外見と、時折、同世代の少女らしさを全く感じさせぬ取り繕った表情を浮かべる彼女に対して、違和感を覚えていた。
外見だけの人形のような女――それがオレの彼女への評価である。
酸っぱいブドウの論理を振りかざしている訳ではない、決して!
兎にも角にも只のクラスメートというには圧倒的な存在感を持つその姿に一瞬、見惚れるも、直ぐに何事もなかったかのようにポーカーフェースを取り戻し、オレは会釈と共に自分の席へと向かった。
新学期開始以来、彼女とは極めて事務的な会話を一、二度交わしただけであり、故に取り立てて親しげに話す間柄ではない。
相手が相手だけに不用意に話しかけるわけにもいかず、黙って帰り支度をしようとしたオレだったが、意外な事に彼女の方からオレに近づいて来た。
「央城君……。委員会活動?」
一瞬驚くものの、学級委員長である彼女ならその程度は察して当然である事に気づいた。
「まあね……」
収穫はあったが重すぎた、精神的に。今日の出来事はとっとと忘れよう……。
「じゃあな! 委員長」
机の上に無造作に放り出された鞄を取り上げ、その場を立ち去ろうとしたオレを委員長は慌てて引き留めた。
「ちょ、ちょっと待って、大事な話があるの!」
――あのね、東堂咲耶さん、言葉は選んで使いましょう。君は周囲に影響を与え過ぎる己の外見と青少年の心理に十分な配慮をすべきだ!
眼前にいるのは外見だけが素晴らしい人形のような女。く、くれぐれも言うが酸っぱいブドウの論理ではない!
大きく一つため息を、否、深呼吸をしてオレは彼女に向き直る。
「何だよ!」
内心の動揺を押し隠し、ぶっきらぼうに返事する。
「ご、ごめんね。そ、その……。修学旅行の班割りの事で話が……あるの」
別に彼女が謝る必要などどこにも……。
「修学旅行?」
そういえばそんな学校行事があった事を思い出した。ゴールデンウィーク明けから行われる、京都三泊四日の旅である。
尤もオレにとってはゴールデンウィーク中に訪れる予定の異世界探訪の方が重要なことであり、ここ数日はどこの世界を旅するかあちこち吟味中である。
汚い、くだらない、姦しい――我が国の電機メーカーは、世の中の暗部と恥部を超高画質でまき散らす3Kだが4Kだか分からぬ時代遅れの電化製品の開発になけなしの資力をブっ込む前に、VR技術の開発に全力を注いで、世界のトップに君臨すべきである。
二番手では絶対に駄目なのだ!
とはいえ、電極をブッ刺されたり、超高電圧で脳みそを焼き切られたりするのは御免だが……。
と、つまらぬ突っ込みを入れるオレに、委員長は一枚の紙片を差し出した。
それは旅行の三日目の日程に組み込まれた完全自由行動日の班割予定だった。
ご丁寧に四人一組の枠組みで設けられたそれらの大半はすでに埋まっており、ちらほらと空き枠が目立つ。
――また厄介なことを……。
ともあれオレにはあまり関係のない話である。なぜなら……
「適当に空いてる所に名前入れといてくれればいいから……」
突飛なオレの言葉に委員長は眉を潜める。
「いいの?」
「別にどこでもいいよ、どうせ行かないんだから」
委員長が唖然とする。初めて見る表情だった。
「あなた、何考えて……」
「いや、だから、旅行の日はオレは急性胃腸炎で腹痛を起こして休む事になってんの、OK?」
「えっ、えっ、どこか悪いの?」
かみ合わぬ会話に肩を落とす。『学校行事に参加するのは当然』という委員長と『面倒事はお断り』のオレとの意識の相違がそうさせるのだろう。
しばらくして、ようやくオレの意図を理解した彼女は、眉を潜めてオレを見つめる。
「正気なの? 体育祭や文化祭を休むよりももっとタチが悪いわよ」
それも十分に問題ではあるが……。オレは仕方なくオレ達のおかれた実情を淡々と述べる。
「委員長こそ正気か? 今のこの状況でみんな仲良く旅行に行くなんて……」
小首をかしげる彼女にさらに重ねた。
「あのなあ、修学旅行ってのはこの教室の半分、いや、三分の一程度の空間に無理矢理押し込められて延々と同じ時間を過ごさなくちゃならないんだぞ。しかも行き先は魑魅魍魎蠢く暗黒魔都。怨念渦巻く空間内でフラストレーション溜まりまくって、一人また一人と路地裏に屍をさらす、みたいなB級ホラーの登場人物になるなんてまっぴらごめんだね!」
「あなた、それは……さすがに……」
古より数多の権力争いによって生じた怨念と妄執が渦巻く千年都市・魔都京都。
DQNに茶漬けをぶっかけて成敗するあの素晴らしい風習は、今も残っているのだろうか?
オレの暴論に言葉を失う委員長。さすがにオレの言わんとする事は理解できたらしい。だが、彼女も怯まない。
「それでも修学旅行なのよ。高校生活で多分一番のイベントの……。行かなかったら絶対、後悔するよ」
確かに後悔はするだろう。主に金銭的な面で。
入学時に入学金と一緒に納めた修学旅行積立金の額はバカにならない。そこそこの異世界旅行ならかなりの課金アイテム額となって楽しめるはずだ。やはり我が国の電機メーカーは一刻も早くVR技術を……。
バカな計算をしながらも、オレはうんざりした顔で差し出された紙片に目をとおす。まだクラスの半分以上の顔と名前が一致しない。
「行った方がいいよ、絶対に、ね?」
――だからね、東堂咲耶さん。不必要に男子生徒に近づくのは止めましょう。
漂う彼女の甘い香りにくらくらしながら、オレは胸ポケットからシャーペンを取り出し、適当な空欄に名前を書き込んだ。
え?というような表情を浮かべた彼女に紙片を押し付け、オレはその場を離れる事にする。
「文句言われたら伝えといて。オレは行かない、名前だけの存在だって」
「ちょ、ちょっと待っ……」
今度は立ち止まりはしなかった。当惑する彼女を放置して教室を後にする。おそらくこれ以上の彼女との話は平行線のままだろう。
モラルのない者に道理は通じない。モラルを重んじる者はそれを理解できない。
常識的な自分を基準に考えるから、きっと相手もいつか分かってくれるだろうとバカな期待をする。
結果、生まれるのは、常識人達のフラストレーションと適当なところへの八つ当たり。得てして話の分かる善良な弱者へと向けられてしまうものだ。
そして、大きな声を上げて我がもの顔でふるまうDQN達は、サルでもできる反省すら顧みずに順調に増殖し、猛威をふるう――というのが人の世の悲しき常である。
2015/09/21 初稿