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Anomic Generation  作者: 暇犬
July――Athletic Meet
15/18

ふぇーん・いえっさー


 体育祭に向けて、実行委員会はフル操業となっていた。

 早朝、昼休み、放課後、さらには土日まで返上するだけでは飽き足らず、一部の委員が授業中も内職することをお目こぼしするように教職員と掛け合っていた。まあ、夏のクソ暑い中、期末考査の成績整理や、三者面談やら進路相談準備に追われる教師たちとしても、熱意ある授業に時間をさくことはできないだろう。

 小野木の予言通り、小宮山さんはオレを実行委員長直属部隊なる部署に放り込み、あれやこれやと仕事を押し付けていた。勿論俺だけでなく、使えると見込まれた者は次々に該当部署に放り込まれ、こき使……、否、適切に扱われる。生徒会副会長の南方さんもまた例外ではない。

 以上のような状況に至って、我が国の労働環境が何故悪化の一途をたどるのかという事に一つの仮説を見いだせたのは、思わぬ収穫だったといえよう。健全なルールに基づいた社会システムなど『修羅場』という言葉の前には儚い幻想でしかない事を痛感する。

 動くべき人間がしっかりと動き、外部からさらに必要な人材を調達することで、体育祭実行委員会は当初の倍以上の人数に軽く膨れ上がり、さらに前日及び当日に協力する運動部員をふくめれば、結構な数に上ることになるだろう。

 学期末の仕事に追われた教職員達からの協力は、当日の一部競技参加という以外は一切なく、機材や備品の調達と何かと物入りな学校行事でありながら、予算は一切出ていなかった。外見はガチな体育会系だが、頭の固い教務主任と実行委員の代表者間で、駆け引きはあったものの、残念ながら、芳しい結果は得られなかった。

 無い物は創意と工夫で乗り切ろう――我が国の『物造りスピリット』は意外とこのケチな精神から生まれているのではないだろうか? そんな仮説を立ててみる。

 非協力的な大人達とは裏腹に、今年の三年には面白いほど芸達者な者が多いらしく、実況担当の男子生徒のマイクパフォーマンスはちょっとしたものだった。

 涙と感動のドキュメンタリーが一つ、二つできそうなほどに、数々のトラブルとドラマを生みだした体育祭準備は、土日を越えて翌週へと入ったところで、ようやくめどがつき、最後の一日を使って、三日目に予定される本祭の短いリハーサルのみとなっていた。



 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 その朝、通常よりも一時間以上早く登校したオレは、自前のノートパソコンを会議室に持ち込み、土曜の夜から日曜日をまるまる使い、ウンウン唸って如何にか形にした点数計算システムの最終調整に入ろうとしていた。サンプルを次々に打ち込んで不具合がないか確かめていく。

 会議室内にはオレと同じく、まだ片付かぬ作業に取り組むために早朝からやってきた生徒たちが数人、出入りしていた。

 きっかけは競技の点数計算をどうするかということで意見が割れた事だった。

 この点に置いて過去の生徒会データはまるっきり役に立たず、三日目の本祭の競技数が激増した事もあって、新しい評価システム及びノウハウが必要となっていた。

 用具の調達や人材の割り振りなどのハード面の準備に押され、体育祭の速やかな進行に最も影響を与える点数計算システムの改良及び運用についてはすっかり忘れさられていた。『厄介事は後廻し』の精神は人類に共通するということだろう。

「表計算かデータベースでも使ってパパッとやったら?」

『あらゆる無駄をそぎ落とし合理化されたものこそ美しい』という最先端思想にのっとり、うっかり通りかかったオレが何気なく呟いた一言だった訳だが、運悪くそれを耳にしたのが、次々に起きるアクシデントに果敢に立ち向かう超ハイテンション状態の小宮山さんだった。

「よし、じゃあ、央城君、それ頼む」

 その一声であっさりと全てがオレに押しつけられ、さわやかな周囲の同調精神によってそれは揺るがぬ事実となった。

『究極の合理化とは、一切合財を適切な人間に問答無用で押し付けることである!』

 この世の真理を一つ会得しつつ、オレは泣く泣くシステムの完成目指して、奇抜な関数の組み合わせに頭を悩ませ、マクロをいじり、次々に生まれるバグやエラーとの格闘に全力を尽くす事になった。

「センパーイ、持ってきましたー」

 相変わらず気持ちの良いソプラノとともに会議室に現れたのは、実行委員長直属部隊・隊員補佐を拝命した西條だった。

 もっとも彼女の場合は奇特にも志願らしかったが……。

「サンキュー」

 こっちも負けずに疲れ気味の声で応対する。

「それと、《おばちゃんおむすびセット》それから、南方さん……からの差し入れのお茶です」

「おー、助かる、っていいのか、それ?」

「はい、私も頂いちゃいましたから」

 良く冷えたペットボトルを二つトンと机の上に置く。傍らには、霧ヶ峰高校生徒及び教職員の強い味方、三個でずっと150円の《おばちゃんおむすびセット》が三ケース。ちなみに冬場の一杯50円の豚汁との組み合わせはなかなかに好評である。

 将来さらに消費税が増えても、この価格は維持されるのだろうか、というのが目下の我が校関係者最大の関心事だろう。

 かつて価格維持のために生徒会が行った割り箸いらない運動の成果は未だに語り草であるという。

 こうやって身近な事から政治や地球環境問題への関心を持つことが大切なのかもしれない。

「悪いな、西條」

 代金三百円を手渡そうとすると彼女は慌てて首を横にふる。

「これは私からの奢りです」

「いや、さすがにそれは……」

「お・ご・り・で・す!」

 両手を腰にスレンダーな胸をしっかりと張って、彼女は堂々、のたまった。反論は一切受け付けぬ様子だった。

「そ、そうか、じゃあ、ありがたく頂くよ」

 彼女の妙な気迫に気圧され、オレはその好意をありがたく頂戴することにした。

「そしてこっちが頼まれてた本命の備品です」

「お、おう……、なかなか……年季の入った品だな」

 うまそうなおむすびに気を取られ、本命を忘れかけていたのは内緒である。

 生徒会備品の二台のノートパソコンと、ケーブル、アダプタ類を西條がテーブルの上に並べた。細身の西條には結構な重さだったと思うがテニスで鍛えた地力は伊達ではないようだ。さすがは体育会系。

「とりあえず先に飯にしよう」

「はーい♪」

 おむすび――。

 それはわが国が世界に誇る人類史上最強無敵のファーストフードである。

 安くてうまくて、潔くはっきりした白黒コントラストの身目麗しさ。時間のない朝昼のエネルギー補給にも最適である。

 時として坂道を、『ころりんすっとんとん』と転がって幸せを運んでくることすらある。ただし農村部に暮らす正直者に限るが……。

 サンドウィッチやハンバーガー、あるいは変な味のゼリーごときにそんな真似が出来るだろうか、いや、できはしない!

 がっつり掴んでしっかり食らって、ウガーと吠える。これぞ男女問わずに古より伝わるおむすびを食す際の正しき作法なり!

 学生及びビジネスマン諸君は、虚飾と打算と欺瞞にまみれた異国の幻想を追う事をやめ、今一度振り返って己が身の回りに当たり前にあるすばらしい文化の一つ一つを、誇りを持って見直すべきではないだろうか?


 広げていたノートパソコンとサンプルの資料を傍らへと追いやり、《おばちゃんおむすびセット》を広げる

 西條は一瞬躊躇った様子を見せた後で、そばにあった椅子を引っ張り、窓を背にしてオレの対面に腰を落ち着けた。

 その時のオレは気づいていなかった。

 今のオレが校内の男子生徒の圧倒的多数がうらやむ状況に置かれているという事を。

 それが証拠に会議室内にちらほらと現れた学生たちの視線がこちらに集まっている。主に男子生徒達の殺意らしきものが込められた視線とともに……。

 そしてあろうことか、当の本人はおむすび片手に、ノートパソコンのキーを叩こうとする暴挙すら犯そうとしていた。

「センパイ、行儀がとっても悪いですよ!」

 対面に座る西條が真顔で注意する。

 両手で海苔面を挟んで自分のおむすびを口にする彼女のとがめるような視線に、オレは軽く肩をすくめた。

 思えば、出会いのきっかけとなったのも、彼女の所属するクラブのメンバーが出したゴミに対するやり取りからだった。

 体育祭実行委員になって彼女とともに行動したのは、せいぜい、三、四日。それも一日一、二時間程度でしかなかったが、その言動の端々にしっかりした家庭の姿が感じられた。

 多分、彼女の両親は子供のしつけに厳しい人達なのだろう。

 西條の居場所は、同じ屋根の下に暮して月に一度言葉を交わせばよいだろうオレの家庭環境とは、全く異なるに違いない。

 羨ましいというよりは、やはり住む世界の違う人間なんだな、と改めて実感する。

 テニスコートで大見栄切った手前、一つ年上の先輩として、あるいは環境美化委員としての正しき威厳を保つべく、オレは彼女の忠告に従い、ノートパソコンの電源を落とし、スクリーンを閉じる。

 何気ない会話を交わしつつ俺達は学食のおばちゃん達の愛のこもった朝食を堪能する。

 といってもさほどのんびりしている時間はない。時間は限られ、締め切りが差し迫りつつある状況である。西條の倍のスピードでオレは次々におむすびを片づけた。

 それは時間と仕事に追われ、考える歯車と化した未来の己の予行演習かもしれない。

 はたと思い立ち、最後に二つ残ったうちの一つを彼女に勧めてみる。

 少しだけ恥ずかしそうな表情を浮かべた彼女は「いただきます」と小さく笑ってそれを口にした。

 細身ではあるが、彼女とてガチな体育会系である以上、熱量の消費は伊達ではない。

 こうしてほんの十分程度の朝の憩いの時間はあっという間に終わりを迎えようとしていた。


 ふと窓の向こうに広がる景色の中に見覚えのある姿を見つけた。

 始業までまだ三十分以上あるこの時間帯、特別棟に人気ひとけはない。ほぼ無人といえる校舎のトイレ付近で怪しげな振る舞いを見せる男女が二人。

 どちらもオレと同じクラスである。

 どう見ても嫌がっているそぶりを見せる女子生徒。

 太った男子生徒が手にしたスマホを見せつけることでうなだれ、大人しくなる。その手を無理やりひっぱり、やがて二人はトイレの中へと消えていく。

 しばらくして女子生徒がトイレから走りだし、一目散に逃げ出していった。

 少しだけ間をおいて男子生徒が股間を押さえ、太った身体をよろめかせつつ現れた。そのままよろめきながら廊下の向こうへと消えていく。


 復讐の続きか、あるいは欲望の暴走か――。


 これまでの獲物が登校しなくなったことではけ口を失い、新たな獲物を求めたのだろうか?

 あれから三週間近くたって、オレ達の教室内にかつての歪んだ空気は微塵もない。

 もう誰もが表面的にとはいえ、それを過去の出来事として受け止め、忘れ去り、新たな空気の中でそれぞれの日々を送っている。

 その中でただ一人、立場と役割がすっかり入れ替わっても、尚、その時間は止まり、彼だけがその居場所にずっと留まり続けているようだ。負の感情だけが残り続け、当事者の代わりがいくらでも利いてしまうのは、虚しい現実だった。


「……ンパイ?」

 すぐ傍らでオレに呼び掛ける気持ち良い声音に、はっと我に帰る。

「センパイ、どうかしたんですか? 変な顔して……」

 小首をかしげる西條は窓を背にしていたために、今の光景を目にすることはなかった。

 なんとなくその事にほっとする。ごまかすように傍らにあったペットボトルを手に取った。

「そんなに変な顔だったか?」

「そうですねぇ……。例えて言うなら……」

 視線をわずかに上方に逸らし、考え込むそぶりを見せる西條。

「浦島太郎が助けたカメに裏切られた……みたいな……?」

 ゴホッと飲んでいたお茶を噴き出した。

「ワッ、センパイっ、汚いです!」

「わ、悪ィ……」

 せき込みつつ、彼女に謝った。幸い被害はテーブルのみだったが……。

 それにしてもまったく……、よりにもよってとんでもない事を言い出す後輩である。

 何一つそこへ至る要素などなかったというのに、彼女は的確にオレの心情を指摘した。

 これぞ『乙女のカン』というやつだろうか?

 唯一の誤りを指摘するならば、助けたのはカメではなくブタだった訳だが……。

 ポケットティッシュで粗相の後始末をしてゴミ箱に放り込む。相変わらずきれいな下向きの二字曲線が正確に描かれ、ホール・イン・ワンしたわけだが、西條は何かを言いたげだった。

 簡素な朝食を終えて気力の蘇ったオレは、傍らのノートパソコンを引き寄せ作業を再開する。

 陽の気が眩しい彼女には、窓の向こうの暗い負の感情が行き交う世界とは縁のない場所で笑っているのが似合うのだろう。

 あの東堂咲耶と同じように。

 オレの作業を手伝い始めた西條の横顔を視界の端に捕らえつつ、そんな事が思い浮かんだ。

 ともあれ、本格的に気合を入れなおし、予定していた作業に着手する。

 与えられた時間は今日一日だけである。一分たりとも無駄にはできなかった。

 記録係が集めてきた初日、二日目の球技大会の勝敗及び、三日目の本祭の各種競技の順位を打ち込んで、各クラスの点数を導くという単純かつありふれたシステムであるが、それをバグなしに機能させるまで、ほぼ丸一日かかってしまった。

 当初の予定では、それを生徒会のHPに連動させて、各生徒がスマホで閲覧するという予定だったが、残念ながらヘッポコなオレの技術うでではとても間に合わなかった。

 集計発表は随時実況アナウンスで、という事で進行役と折り合いをつけ、どうにか完成のめどをつける。

 各生徒個々人の貢献率及び評価ポイントまで詳細に導き出せる究極のシステムの完成は、いつの日か現れるだろうまだ見ぬ天才プログラマーの後輩にでも任せることにしつつ、今はとりあえずのヘッポコシステムで急場を乗り切る事にする。

「センパイ、こっちの準備もできました」

 オレの指示に従った西條が、壁面の電源コンセントからタップをつなげ、さらにアダプタをセットした二台のノートパソコンを起動する。

 電源を入れて立ち上げるや否や、げっそりした。スクリーンに堂々華々しく映ったのは、型遅れのOSのロゴマークだった。

――まあ、予想はしてたけどね……。

 オレの自前のノートパソコンですら、新し物好きの同居人が使わなくなったものが流れてきた一世代前のものであるのだが、それよりもさらに前の品である。

 所詮は財政難の公立校。

 臨時の補助金でも出たのか勢いとノリでOA化を進めても、その後のアフターケアが続かない。

 モノさえそろえときゃ、どうにかなるというレベルの発想で、『まだ、使えるでしょ?』とか『新機種導入? そんなの後、後』とかいう美しくものんきな昭和精神により、テレビや冷蔵庫と同レベルのノリで使用され続け、やがて生きた化石と化す。

 官公庁ですら未だにこれら化石文化が生き残っているという噂は本当なのだろうか? そうでないと願いたい。

 クラウドとかいう怪しげなシステムであらゆる情報が集積と同時に問答無用でぶっこ抜かれ、世界中から新種変種のウィルスだのスパイだのマルだのが百万単位で押し寄せてくるこのご時世に、全く恐ろしい事である。

 尤も優秀な高給取り達がこぞって集う我が国の頭脳集団のおひざ元においては、実は敵対的勢力にもうとっくに何もかもぶっこ貫かれてすっかり丸裸……、などという間抜けはさすがにないだろう。

 なんといっても将来的にあらゆる情報を一元化すると触れ込みの、彼らが自信をもってお勧めする私的数字ナンマイダー制度が堂々成立したのだから……。

 今やサブカルではARだのVRだのが盛りをすぎようとしているにもかかわらず、我が国の教養の園は未だアナログ文化がしぶとく幅を利かせているようだ。

 世界に通用する人材をなどと能書き垂れるのは大いに結構だが、一体、どんな世界に通用する人材を育てるつもりなのか甚だ疑問に感じるのはオレだけだろうか? 前世紀の脳みそ一杯に詰まった『あんな事できたらいいな的アナログ未来像』など押し付けられてはたまったものではない。

『虚言』と『脳無しの言葉』は耳に心地よく響く――誰かの言葉がふと思い出された。

 ともあれ生徒会備品のノートパソコンは既にバッテリーが死にかけているらしく、連続使用には予備を探すよりも電源を引っ張って直接つなげた方が早いだろう。

 必要な備品リストにメモを加え、さらなる困難へと足を踏み入れる。

 書式のバージョンを落として、二つのノートパソコンにそれを移し、ケーブルで接続させて、共有データを確立する。

 後は西條と手分けして、サンプルを打ち込み、それぞれの動作チェックをしようとしたわけだが……。

 そこで、はたとオレの手が止まった。

 対面で一心不乱に作業に励む西條の手元に視線が注がれる。そっと彼女に声をかけた。

「…………。なあ……、西條……」

「な、なんでしょうか、い、今、手が離せないんで……」

 彼女は与えられた仕事をこなすべくノートパソコンと懸命に格闘していた。見る角度によれば仕事に没頭する『デキル女』に見えなくもない。ただし、ある一点がそれらすべてを台無しにしていた。

 大きく一つ溜息をつく。

「西條……、一つ質問していいか?」

「な、何でしょうか……」

 一心不乱にキーボードを押す(・・)彼女に質問を重ねる。

「君の指は何本ある?」

 返答には暫し間があった。区切りがついたのか顔を上げると彼女はわずかに顔を赤らめる。

「十本ですよ。足も合わせると二十本です。でも駄目ですよ、センパイ、こんなところで靴下脱げなんて……! ヘンタイさんですか?」

 テーブルの下でバタバタ足を揺する気配とともに、上ではひらひらと両手を振って見せる。小柄な彼女の手のひらはやはり小さい。

「脱がんでいい! そんなマニアックな趣味はない! それよりなぜ、その十本ある指を均等に使わない?」

「ううっ」

 突かれたくない指摘だったのだろう。事前の回避工作もあっさり無視され、彼女は返答に窮した。

 彼女は両手の人差し指だけを使って、キーを叩くのではなく押していた。キーの場所も覚えていないらしく当然、作業効率は圧倒的に悪い。

 OA実習を苦手としているだろう事はたやすく予想された。

「じ、時代はタッチパネルに、タブレットです。キーボードもパソコンもそのうち無かったことになります!」

 かつてこの国には、数字の組み合わせで五十音を表現するという驚くべき暗号文化に支えられた機械で、自在にコミュニケーションし、独自の言語文化を創造した『ぎゃるー』と呼ばれる種族及びその亜種が存在したという。

 ケータイ、ネットが物心ついたころから存在するオレ達には想像もつかない、優秀な人々に違いない。

「だが、今この瞬間は必要だ。現実を見ろ!」

「うう、で、でも、メールは早いんですよ。早打ちアヤちゃんって言われてるんですから!」

 エッヘンと彼女は胸を張る。ガンマンのポーズでふっと人差し指の先に息を吹きかける。だが、どこか虚勢のようだ。

「それは予測変換機能を使っての事だろう。すごいのは君じゃなくてメールの機能だ!」

「うう、センパイ、ひどいです」

 涙目で抗議するが、事態を看過するわけにはいかない。

「い、いいんですよー、そのうちどっかのすっごい人が、考えただけで文章化するすっごい機能を発明するに決まってるんですから……」

 確かにそのような研究をしている人も世の中にはいるだろう。

 あらゆる地道な研究過程をぶっ飛ばして最先端思想へとたどりつくその発想は驚嘆すべきものだが、その実現はまだまだ先の話。所詮はできぬ者あるいは怠け者の苦し紛れの戯言である。

 もっとも名のある最高学府の教授とやらが、実用化どころか基礎技術すら確立できていない過程で、そのうち実現できるだろうからと公共の電波でのたまい、瑕疵だらけのエネルギー政策を堂々と進めてしまうぶっ飛んだ国である。

 そんな大人の背を見て育った子供達が、危うい発言をしてしまうのは、あながち責められる事ではないだろう。

 仕方なく彼女の現状から導かれるであろう、一つの未来を予言する。

「あのなー、西條、君だっていつか就職する事になるだろ? 仮に外見と紙切れだけでしか他者を判断できず、マニュアル通りの圧迫面接で仕事した気になってるアホ人事(社のお荷物)をうまく騙せたとしよう。でも配属された先で少しばかり長く居座りすぎて、それしかできずに屈折した一人者のお局さんとか、社二病真っ盛りの困った先輩とやらに言われる訳だ。『まあ、サイジョーさん、貴女、カワイイだけで全然使えないのね!』とかな。それでいいのかよ?」

「うう、見てきたみたいに言わないで下さいよ、っていうか設定が生々しすぎです。センパイ、年はいくつですか?」

「そんな話、ネットの海にいくらでも転がってるだろ?」

「ネットの言う事を間に受けてはいけないって、テレビで言ってましたよ!」

 前半には同意するが、後半には著しく問題がある。西條のような素直で良い娘は巧妙な虚言を見抜く事が出来ずに、まだまだ影響力が強すぎるようだ。

「そんな悪い事言う機械は、さっさと窓から捨てなさい!」

「センパイ、お父さんと同じような事言わないでください!」

 彼女の父親はなかなか話せる人のようだ。彼女もいずれ世の中の真実に気づく時が来るだろう。

 ともあれ、今は、果てしない未来の事よりも眼前の問題である。

 可愛い後輩に訪れるにちがいない未来の不幸を取り除き、そのスキルアップに協力すべく、オレは自分のノートパソコンから必要なソフトを探し出す。


 ………………。

 …………。

 ……。


 なにかもっと優先すべき事柄があったような気もするが、きっと気のせいだろう。全ては可愛い後輩の為である。

「というわけでだ……」

 オレは徐に口を開く。

「これより、西條彩華一年生に新たな任務を与える。任務内容は『キーボード特訓』だ!」

「セ、センパイ、横暴ですよー」

「口答えするな、西條一年生! それから返事の前には『サー』をつけろ!」

「ふぇーん、センパイ、急にノリが変です!」

「『ふぇーん』じゃない、『サー・イエッサー』だ」

 そろそろ始業時刻が迫り、人が集まり始めた会議室内で突如として始まった寸劇に周囲の誰もが目を丸くする。

 勿論周囲の視線を背中に感じはするものの、直接見えるわけではないので、オレが気にする事はない。だが、西條の側からは丸見えの奇異な視線の集中砲火を浴び、彼女は真っ赤になってパニック寸前である。

 そして悲しいかな……、彼女はガチな体育会系。

 特訓という言葉に無意識に身体が反応し、先輩に右といわれれば右を向き、一人海に飛び込めばみんなで海に飛び込む習性がしっかりと身に染みついていた。

 パニックになって思考停止状態になってしまえば、後は条件反射に従うのみ。

「さー・いえっさー」

 と小さく恥ずかしげに返事をすると、キーボード練習プログラムを開始した。

「今日中に十分で七百字をめざせ!」

「センパーイ、それは無理ですー!」

「返事は『はい』か、『イエス』だ。それ以外の選択肢は君にはない。そして、返事の前には必ず『サー』をつけろ、西條一年生!」

「ふぇーん・いえっさー」

 彼女は泣く泣くキーを叩く(・・)。残念ながら彼女に手を差し伸べようとする者はいない。あいかわらず他人のやっかい事に首を突っ込みたがらないのはここでも同じようだ……と思っていたところに不意に声を掛けられた。

「央城君、どうかしたのか?」

 声を掛けてきたのは小宮山さんだった。西條はここぞとばかりに助けを求め、オレは状況を正確に報告する。

「ふぇーん、コミさん先輩、助けてくださーい、央城センパイがオーボーです。パワハラです!」

「実行委員長直属部隊の戦力およびスキルアップのため、隊員補佐の西條に特訓を課しているところです」

 しばし、オレ達二人の顔を交互に見比べていた小宮山さんだったが、すぐににやりと笑う。残念ながら、頭脳派といわれるこの人も、根はやっぱり体育会系ノーキンだった。

「そうか、しっかりやれ!」

 さわやかなバスケマンスマイルとともに、小宮山さんは西條に向かって親指を立てる。

 実行委員長のお墨付きが出たところで、もはや止めるものは誰もいない。

「ふぇーん・いえっさー」

 かくして、西條彩華のキーボード特訓はめでたく再開された。


 そして……


 締め切りが後一日に迫り一分一秒無駄にできぬこの状況で、そんなバカをのんびりやっていればどういう事になるか……言わずと知れている。

 昼近くになってその事にようやく気付き、慌てふためく愚か者の名を『央城連理』、そして、横暴で目先の事しか見えぬ上司の下につくとどのような苦労を背負い込むか、という世の中の仕組みを学んだ残念な彼女の名を『西條彩華』という。



2015/11/18 初稿



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