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Anomic Generation  作者: 暇犬
June――Tearful Day
12/18

住んでる世界がちがうのさ

 翌日の二年D組の教室内はちょっとした混乱状態に陥っていた。

 昨日、自宅の階段で転倒し、肋骨を骨折した沢木が入院したことを筆頭に、田辺、金山、山西、多々見が病気欠席していた。五人の欠席者、しかも全員がいわくつきとなると教室内の風通しは恐ろしく良くなるのだが、異変はそれだけにとどまらなかった。

 昼休み開始と同時に、福田君が立ち上がり、一人顔色の悪いまま登校した柳瀬の前に立った。

「おい、ちょっと付き合え!」

 柳瀬が素直に従い、二人で教室を出て行ったのを居合わせた全員が狐に抓まれたかのような表情で見送った。

 トランプの『革命』のごとき状況に、すぐに教室内はパニックになり、見当外れの憶測が飛び交った。

 ざわめくクラスの光景を横目に、いつも通り一人学食へと向かうオレに、珍しく小野木がついてきた。

「お前、何かやったのか?」

 小野木のさりげない問いに、オレは素知らぬふりを通す。

 暫し、オレを訝しんでいた彼だったが、やがてその日の昼食を奢ってやる、などと気の利いた素敵な提案をした。

「いいのか?」

「なんでも遠慮なく頼め、男に二言はない!」

 何はともあれ、くれるというものは素直にもらっておくに越したことはない。

 感謝の念とともに、遠慮なくA定食とB定食、ついでに学食名物《おばちゃんおむすびセット》をその眼前でぺろりと平らげ、その美しく幸福すぎる光景に小野木は大いに涙した。

 きっと、よほど嬉しかったのだろう。

 勘の良い者がさらにもう一人。委員長からも一通のメールが届いていた。

『昨日、何かあったの?』

 短い文面に暫し戸惑ったものの、すぐにオレは返信した。

『別に何も。天下泰平、万事めでたし』

 返事はこなかったので、納得したのだろう。

 とにもかくにも、これでようやくオレは平穏無事な学園生活を取り戻し、楽しい夏休みに入れるだろう。

 その時のオレの頭の中からは、柳瀬達の置き土産となった体育祭実行委員就任の事はきれいに消え去っていた……。


 期末考査が始まるまでのさらに一週間、クラス内が落ち着く事はなかった。

 沢木以外の全員が出席するようになったものの、以前のように徒党を組んで悪さをすることもなく、全員がバラバラになっていた。おかげでオレ達のクラスはそれまでの陰気さがすっかり消え去り、全く異なるクラスへと変貌しつつあった。

 劇薬が効きすぎたのかすっかりおとなしくなった彼らとは対照的に、それまでブタ君といじめられていた福田君は生き生きとし、その振る舞いに大胆さが増し、下剋上の時代を謳歌しつつあった。

 相変わらず昼休みに柳瀬を連れてどこかに消え、時にそのまま五限をすっぽかす事もある。

 すっきりとした顔で戻ってくる彼とそのまま戻ってこぬ柳瀬に、誰もが落ち着かぬようだった。

『昼休みに体育倉庫で二人がさかってた』

 とうとうそんな書き込みが例の掲示板に書き込まれ、それをきっかけにそれまで自重気味だった書き込みが一気に爆発した。

 保健室で見た、特別棟のトイレでエロい喘ぎ声を聞いた、という者がいれば、筆おろしで彼に後れをとってへこむ者、「逆襲のブタ」と喝さいを浴びせる者、正義の環境美化委員が季節外れの大掃除をした、という突拍子もないデマを放って、ソースを示せずに袋だたきにされた者、と様々だった。

 一度変わった風向きはもはや変わりようがないらしく、さらに風速は増していく。

 日々精彩を欠いていく柳瀬の姿に、リアルでもネットでも同情するものは全くいなかった。逆に一年の頃だけでなく中学時代の悪行までが次々に露見し、ついに彼女のものと思われる音声データまでもが公開され、密かな学内祭りと化した。

 公開されたデータはオレも初めて聞くものであり、多々見達と同じような事を考え、チャンスを窺っていたものの仕業らしい。

 学校側からは不気味なほどに反応がなく、まるで教師たちの間に緘口令が敷かれているようだった。

 そして、期末考査最終日を最後にとうとう柳瀬は登校しなくなり、その学期を最後に転校した事をクラスが知らされたのは二学期になってからの事になる。




 期末考査が終わったその日、オレは委員会活動を名目になんとなく校内をぶらぶらと歩き回っていた。試験のストレス発散とばかりに、再開された部活動に勤しむ学生達の姿をぼんやり眺めながら、オレはほとんど空っぽのゴミ袋を処分し、教室へと向かった。途中で立ち寄った学食では、三年の女子生徒達が例の話題を肴に井戸端会議をしていた。

 相変わらずの内容をさらに過剰に装飾したトンデモ話が耳に入ってくるのにまかせ、自販機で缶コーヒー微糖を買って、教室へと足を向ける。

 そろそろ皆帰宅し、教室内は無人と化した頃合いである。

 波乱万丈だった一学期のせいか、オレ達のクラスは放課後にだらだらと居残って生徒が駄弁る、という風習は未だに定着していない。

 期末テスト最終日という事もあって、打ち上げの為に街に繰り出すといったリア充文化も一役買っているはずだ。

 学生の本分である期末考査を乗り越え、長きに渡って教室内を覆っていた黒雲を一掃し、しばし、『兵どもが夢の跡』の境地にじっと浸るべく、無人の教室内でコーヒータイムを楽しもう――そんな気分だった。

 だが、無人であることを期待した教室内には、オレの予想に反し、一人の女子生徒が居残っていた。

 己の席に座ってスマホの画面をじっと見入るその姿に、小さくため息をつく。

 つい先日、人間の汚い部分をモロに目の当たりにしただけに、学内といえども彼女には余り無防備でいてほしくない。

 衣替えして夏服のシャツになったことでその豊かな胸のふくらみが、くびれた腰が、背中にほんのりと透ける魅惑の布地が、多くの思春期の煩悩を刺激する。その類いまれな外見へのあこがれや嫉妬が、平凡な学生達の裏に潜むよからぬ願望を刺激することもありうるのだという事を、もう少し自覚すべきだろう。

 開け放たれたままの後ろ側のドアから教室内に入ったところで、オレの気配に気づいた彼女と視線が交わった。

「委員長、まだ帰ってなかったのか?」

「うん、ちょっとね……」

 彼女とは修学旅行以来、挨拶を交わす程度の関係を保っている。が、それ以上でもそれ以下でもない。そして多分、ずっとこのままなのだろう。

 なんとなく視線を感じつつ、彼女の席の二つ斜め後ろ、教室内左最後列のベストスポットであるオレの指定席へと向かった。くじ引きの結果偶然得られたこの特権も、二学期になれば自動的に消滅する。再びその席を引き当てる三十五分の一あるいは千二百二十五分の一の確率に遭遇するのは、普通に考えれば難しい。年間を通して座るとなると四万二千八百七十五分の一。その確率に当たるのならば、その幸運を持ってジャンボ宝くじを買うべきだろう。

 左手にある窓を開け放つ。

 七月に入り、そろそろ梅雨明けも見えてきそうな空は、久しぶりに晴れ渡っていた。そのうち蝉が鳴き始めればいよいよ夏到来であろう。

 着席し、部活動生達の声をBGMにオレは缶コーヒー微糖のタブを開け、コーヒータイムとする。

 しばし躊躇った様子を見せていた委員長だったが、やがて思い切ったようにオレに声をかけた。

「央城君、ちょっといいかな?」

 返事をする代わりに、オレは彼女に前方の小野木の席を勧める。東堂咲耶が自分の席に座ったなどという事を奴が知れば、きっと大喜びするに違いない。

 教えてやる義理はないが……、

 と、以前奢ってもらったA定食とB定食、そしてとどめの《おばちゃんおむすびセット》の味を思い出す。

 あれはいいものだった……。

 他人の財布で食った飯であるだけに、その味も格別だった。

 とはいえ、なんとなく胃袋《良心》がとがめてしまうのは、きっと生まれ育った国の文化のせいに違いない。生き馬の目を抜くようなG7国際基準に習って、ここは堂々、踏み倒す事にしよう。

 窓を背にして椅子に座った彼女の髪の香りが、風に乗ってふわりと踊る。正面の席に横向きに座った彼女の身体の豊かな凹凸に無意識に視線が吸い寄せられる。

 彼女とこういう時間を過ごすのは修学旅行以来である。

 以前のオレならば、その一挙手一投足にドキドキしていたことだろう。ネットの海にたゆたう数多の青春の妄想と暴走につながりかねぬシチュエイションに心躍らせていたかもしれない。

 けれども、なんとなく彼女が近付いてきた理由を察してしまっただけに、オレは思春期の青少年にふさわしくない落ち着いた心境で、缶コーヒー微糖を味わっていた。

 一向に会話が始まらない。徐々に重苦しい沈黙が広がる。

 オレの眼前で横を向いたままの彼女は、どう切り出していいのか躊躇っているようだった。

「聞きたいことでもあるのか、委員長? ちなみにテストの答え合わせなら受け付けないぞ。過ぎ去った事は振り返らぬ主義なんだ」

切り出したのはオレだった。少し、驚いた表情を浮かべた委員長だったが、座りなおして正面を向くとおもむろに口を開いた。

「あの噂、本当なの?」

「噂って、なんだ?」

「それは……」

 彼女はらしくもなく躊躇っている。多分柳瀬・福田関連の事なのだろう。

 ここ最近、例の掲示板に通って一通りの情報はチェックしていたが、相変わらずのガセとゴシップ以外に変わったものを目にした記憶はない。テスト期間中という事もあって、書き込み量もそれほどではなかった。

 やがて委員長は躊躇いながらも話し始めた。

「あの日、運動部の子が見たって……その……、第三倉庫から出てくる彼女、その、柳瀬さんが……、ひどい事になってるのを……。それと……」

 その声が、徐々に小さくなる。

「すごい剣幕であそこに入っていく……、央城君の……姿を見たって……」

「ガセだろ……。どこ情報だよ、それ?」

 即座にオレは言いきった。

 念の為、一日ごとに例の掲示板はチェックしている。それらしいのは正義の環境美化委員のくだりだけ。それもソース不足を理由に容赦なく叩き潰しておいた。以降、その手の突飛な話題は誰かが同じやり方で叩き潰す流れになっている。

「一部の女の子達同士のコミュだって……。よっちゃんが教えてくれたの」

 よっちゃんというのは、彼女の友人その一こと遠見さんのことである。

――マジかよ。

 さすがにそこまでは手が回らない。

 ぼっちの悲しき限界である……というよりは、いかに検索技術が進歩しようとも、個人レベルでは今や階層制に移行した複雑怪奇な電脳空間内の全ての情報を把握するのは不可能だということだろう。

「ごみ袋と清掃用具を地面にたたきつけて飛び込んで行った……。央城君の名前が直接出てたようじゃなかったけど、学内で今それをしてるのは……」

 言葉を切ると委員長はじっとオレを探るように見つめる。視線に気づかぬふりをして、オレは中身が半分になった缶を机の上で弄んだ。

――隠せないだろうな……。

 遅かれ早かれ彼女はオレがしたことに気づくだろう。翌日すぐにメールで探りを入れてきたくらいである。ヘタな小細工をしてもいずれバレるにちがいない。

――仕方ないか。

 手段はともかく間違った事をしたつもりはない。はあ、と一つ溜息をつきオレは腹をくくった。視線を戻し委員長と向き合った。

「その噂、本当だ……。ただし、事実関係、順番、結論がかなりめちゃくちゃだけどな……」

「そう……だったんだ、やっぱり……」

 互いに視線は逸らさない。

「何があったか、聞いてもいい?」

「聞いてどうするんだ?」

「それは……」

 彼女は視線をそらして口ごもる。

「いまさら蒸し返したって誰も得しない。知っての通りクラス内は今や天下泰平、皆万々歳。何か問題でもあるのか?」

「でも、私は……このクラスの学級委員長だから……」

 そういう事かと納得する。まじめな彼女なりの責任感故ということらしい。ヘタに隠し事をして、委員長・東堂咲耶に不信の念を抱かれるのはあまり好ましくないだろう。

 そう考えたオレはあの日の出来事を、順番通りに話して聞かせた。しばし、青ざめて聞いていた彼女だったが、話を聞き終わると沈黙する。

 金山、福田、柳瀬の間にあった事は一部ぼかしたものの、かなりどぎつい内容だけにショックは大きいはずだ。

「納得できたか?」

 そう尋ねたのは、話し終え、コーヒーの缶が空になってから随分たってのことだった。

「どうして、周りに相談しなかったの?」

 絞り出すように尋ねられたその言葉に心が小さくざわめいた。

「相談?」

「その……生徒じゃなくても、先生に言う……とか……」

 委員長がオレの表情を見て驚いたように言葉を切る。その時のオレの表情は多分、かなり険しいものだったはずだ。

「教師共が……、何してくれるっていうんだ、委員長?」

「それは……」

「周りだってそうだ。誰かがどうにかしてくれる? 我が身かわいさに、教師も生徒もみんな見て見ぬふりしてたの、忘れたのかよ、委員長?」

「…………」

「あいつらに何度も注意して無視され続けた自分が一番分かってることだろう。どうにもならないってことくらい。それとも何か? 福田に全部おっかぶせて、アイツが登校拒否か、自殺するまで放っとけって、言いたいのかよ?」

「そんなこと言ってない。私はただ……」

 誰かが死んで、その無念と真実が明るみにされるならまだ健全だ。死人に口無しとばかりに責任をおっかぶせて、口裏を合わせ、なかった事にするのが悲しい現実だ。この時代、『良心』などというものはすでに死語である。

 いつしかオレの中には言い知れぬ怒りが生まれていた。自分の中のひどい落胆とその反動で生まれた怒りの正体に、オレ自身戸惑っていた。

「私はただ、央城君が、らしくない暴力を使って解決するよりも、もっと別の……」

「いい加減にしろ、東堂!」

 声を荒げたオレの剣幕に押され、東堂咲耶が驚き黙りこむ。

「オレらしくない? 勝手なこと言うなよ、あの場に居合わせた当事者でもないくせに! 話を聞いたくらいで何が分かるんだ!」

「でも、だからといって……、柳瀬さんは……」

 弱々しい反論を即座に叩き潰す。

「だったら、君がかばってやったら……、代わってやったら……どうなんだ?」

 東堂咲耶がオレの顔を凝視したまま口ごもる。オレは声を落として続けた。

「この二週間近く、何があったか知ってるはずだよな? 君だけじゃない、多分このクラスの全員が……。どうして止めようとしなかった?」

「…………」

「ずっと汚い事をして他人を傷つけ好き勝手やってきた奴があっという間に堕ちていく姿に、心の中で誰もが思ってたはずだ。ざまあみろ、柳瀬ってさ。オレも君も……、違うか?」

 東堂咲耶はうつむき答えない。

「別におかしい事じゃないだろ。当たり前のことだ。汚い真似したやつがいつまでも大きな顔してる事が当たり前になったら、そこにいる奴らは全員狂ってる。因果応報だから、世の中どうにかおさまりがつくんだ」

「でもだからと言って……」

「オレが暴力を使ったのがそんなに気に入らないか? 委員長である自分の頭を飛び越して、世の中で正しくないとされるやり方で問題の解決をしたのがそんなに気に入らないか?」

「違う、そんなつもりじゃ……」

「そうじゃなかったらなんだ? どうやったら東堂咲耶様のお気に召すやり方になるんだ?」

 オレの言い方が勘に障ったのだろう。初めて彼女はオレを睨みつけた。

 だが、オレが動じることはなかった。むしろ怒りが増幅する。

 結局のところ他人事なのだ。

 かわいそうだ。

 あんなやり方じゃなくてももっと正しい解決法で……。

 置かれた当事者の地獄よりも、傍観者としての気楽さで傍観者の都合のいい事実だけをつまんで、万能の神になったかのごとく見下ろして。


 自称常識人が……。

 肩書きを持つ偉い御方が……。

 現実を見ようとせず高尚な能書きを垂れる学術研究者が……。

 脳なしのくせに承認欲求だけは人一倍の奴らが集まるメディアが……。

 周囲への日々のイライラのはけ口を求めるネットの住人が……。


 平和な自分の日常に波風を立てず傷つかずに、他人の不幸を適度につまんで見下ろして、そこに置かれぬ自分の幸運に胸を撫で下ろす。

 故に何も変わらない。

 いつまでも同じことがどこかで繰り返され続ける。

 当事者のすぐそばにいて、柳瀬達と度々衝突してきた委員長でさえ、いざとなればそうなってしまう。

 それは防衛本能を持った人間という生き物のおそらく本質なのだろう。

 だからオレは許せなかった。目をそらしてはいけないものから目をそらそうとするオレも含めた人の弱さが。

 険しい表情を浮かべる東堂咲耶の眼前でオレはスマホを取り出し、あの日の動画データを読み出して、彼女の前に置く。

「見てみろよ、それがあの日の現実だ」

 厳しい表情をしたオレと静止画像を暫し見比べていた彼女は、やがてそれを再生した。

 バックアップを取って尚、それをフォルダ内から削除することは未だにできなかった。

 あの日の生々しいやり取りが二人きりの教室内で再現された。余りにも非日常すぎるやり取りに東堂咲耶の整った顔が徐々に青ざめる。

『ごめんなさい、ごめんなさい』

 人間としての尊厳を踏みにじられ、名前を奪われブタになって這いつくばる彼の声が、あの日の状況を克明に思い出させた。

 映像はさらに続き、やがて、オレが完全に切れる原因になったシーンを最後に突然に途切れる。

 手の震えを隠すことなく真っ青になったままの東堂は、机の上にオレのスマホを置き、そっと前に押しだした。それを取り上げ、ポケットに戻す。

 おそらく彼女はもう何も言えないはずだ。現実を嫌というほどに見せつけられたのだから。

『映像』というものにはそれだけの力がある。愚者のいかなる屁理屈もはねのける力が。


 超ハイテクのネット時代において、誰もがその力を行使できる機会を持つという本当の恐ろしさを、平和ボケしたこの国で見せかけの平等にすがって生きるオレ達は、多分まだ正確に把握できていない。

 わずか手のひら程度の大きさの薄っぺらい端末を一つ持つだけで、理論上、世界中の人間に己の思惟や誰もが建前のもとに隠してきた本音を発信できてしまうという異常さに……。

 やり方とちょっとした覚悟があれば、憎い相手や邪魔な障害物を社会的に、あるいは物理的に葬ることすら不可能ではない。

 その事にまず気づくのは失うものを持つ人間だ。

 自分達だけが独占できた特権、嘘と虚飾で積み重ねてきた栄光、心ない社交辞令に満ちあふれた日常を支える浅薄な人間関係。

 そんなものを一気に吹き飛ばされてはたまらない。

 他者を欺き蹴落としてえた特権や苦労に苦労を重ねて得た地位を、そこらの無名の雑草にひっくり返されてはたまらない。

 全てを失った自分が、蔑んできた雑草共と同じ価値しか持たぬことに気づかされるのが恐ろしい。

 否、苦労に苦労してようやく得たものが、只の幻でしかなかった事に気づかされるのが恐ろしい。


 だから必死でネットを制御しようとする。その海の広さと深さをわきまえもせずに……。


 一年前、この学校に関わる者達はその片鱗を嫌というほど味わった。

 友人達の嘘、教師達の嘘、大人達の嘘、社会の嘘。

 見て見ぬふりをしてきたそれら全てを、リークされた動画からおきた騒ぎの中で嫌というほどに見せつけられ、誰もが見たくない現実の前に置かれ混乱した。

 信頼という理想論は儚く崩れ去り、相互不信と悪意だけが誰の心にも影を落とした。

 もはやいくら誠実さを装っても、素顔に張り付いてしまった『嘘』をごまかす事は出来なかった。

 それでも嘘吐きは嘘をつき続ける。『嘘』という言葉の存在すら嘘にして。

 そうして時が経てば忘れられる。人は忘れようとする。

 幸せそうな現実をおびやかすどぎつい証拠は、プライバシーという素敵な建前によって世界から抹消され、強かな奴は他人を蹴落として生き残った。

 一度、いじめる側に回ってその手と己自身を汚した彼女は、その泥沼から這いあがれなかった。逃げ出せなかった

 卑しい己を基準にして他者もそうであると考え、己がされる側になる事を恐れて同じ事を繰り返す。それも一種の防衛行動といえるかもしれない

 結局、因果応報の枠から逃れることはできなかったが……。

 誰もが納得する『話し合い』など所詮、欺瞞に満ちた絵空事でしかない。それが通用するのならば、嘘の世界で嘘にまみれて生きている証拠。

 相手を従わせる力を誇示し、その論理を納得させたときに初めて秩序が生まれる。

 だが力持つ者がその責任を果たさず放置することで、DQN共が横行する。

 それらに対して、動画の暴露という誰かの行為が有効であると知るや否や、次の誰かが模倣する。オレがやった事も一種の模倣である。

 それに対して生存本能にだけは長けるDQNは、自分達の脅威となるものを社会正義の建前とともに排除する。恥知らずなのだから、自分たちが建前を踏みにじる行為にふけっている事など気にも留めることなしに。

 こうして両者の攻防は次々に手を変え品を変え、際限なく続いていく。


 オレの前に座って青ざめたままの東堂咲耶もまた、その事を知っているはずだった。この学校に関わる者があの映像を見なかった訳はないのだから。

 それでも彼女がこの期に及んでまだ、欺瞞に満ちた絵空事を振り回すのだとしたら、オレはおそらく彼女を軽蔑するだろう。

 ここを卒業して人生の道が分かれ、何気なく思い出を振り返った時でも、軽蔑し続けたままだろう。青春の苦い思い出とともに……。

 完全に言葉を失い、うつむく東堂咲耶の姿を前に、オレの中にいつしか後悔が生まれていた。

 彼女を傷つけたかったわけではない。むしろその逆だった。

 でも結局、そうなった。所詮、一人で空回りすることしか出来ない者に出来ることなどその程度だった。

 結局のところ、住んでいる世界が違いすぎるのだ。

 所詮、外見だけが素晴らしい人形のような彼女。オレとは全く異なる人間なのだ。

 その言葉でオレ自身を納得させる。これまでと同じように……。

 故に違う世界のルールで生きる彼女がオレの流儀に染まる必要はない。

 だから、オレは彼女に囁いた。

「忘れちまえよ……委員長」

「忘れる?」

 委員長は眉をひそめ顔をあげる。

「ああ、他の奴らだってやってることだろ? 幸運な事に委員長はこの一件には何の関係もない。今日の話は全て忘れて、私は何の関係もありません、知らないうちに問題が解決しててラッキー、ってことでいいじゃねえか。誰も責めやしないと思うぜ」

 去年の一年E組にも当然、学級委員長がいて、クラスの中にはその状況に胸を痛める善良な思考の持ち主もいたはずだ。問題の解決を外部に強制された彼らは、おそらく今も忸怩たる思いを抱えているだろう。

「もうすべて終わったこと。来年の今頃は違うクラスで、苦い思い出を胸の片隅に押しこんで進路のことで頭を悩ませながら、友達と高校最後の夏休みの予定でもたててればいい。再来年の今頃は、どこか別の大学で思い出すことすら忘れて、カッコイイ彼氏と楽しくやってればいい。そういうものだろ?」

 委員長が大きく目を見張る。

 何かを言いたそうに口を開きかけるが、言葉にすることを躊躇したようだった。

 空になったコーヒー缶をこつんとはじく。倒れそうになりながらも、それは如何にか踏みとどまった。

「じゃあ……、央城君は……、どうするの?」

「さあな、人の噂ってのはどうしようもないからな。バレるときはバレるだろうし、それに恨みは消えないだろうからな」

「恨み?」

「当然だろ。オレがあそこに乱入しなきゃ、あいつらは我が世の春を謳歌し続けていられてたんだから。もっとも、あいつらに文句を言われる筋合いはないけどな。どうしてあんなクズ共のせいで、退屈な学園生活をどうにかまっとうに過ごそうと、嫌々ながらに努力する良心的な学生オレが嫌な思いし続けなきゃいけないんだ、そっちの方がどう考えてもおかしいだろ」

 人間の本音は分からない。

 あの時の金山の歪みを目の前で見せつけられた今、教室に座る一人一人が、他者には決して言えぬ様々な思いを抱えているという事を考えずにはいられない。

 委員長は答えなかった。

「とにかくもう、忘れろよ。もともと住んでる世界が違うんだからさ……、無理にどうこうしようとしたって碌な事にはならないと思うぜ」

 委員長の長い眉がピクリと動いた。

「そんな言い方好きじゃないわ。私、そんな風に思いあがったつもりはないけど……」

弱々しかった表情が一瞬、厳しくなる。何か地雷を踏みかけたようだが、今さらである。さらに盛大に地雷原にダイブする。

「違うのさ、委員長とあいつらは……」

「…………」

「他人と理解わかり合い調和を旨とする生き方を好む者。それに対して誰かを踏みにじり傷つけることでしか、自分のあり方を見い出せぬ者。同じ場所にいたって混じり合う事も肩を並べることも絶対に出来ねえよ」

 委員長は、はっと何かに気付いたような表情を浮かべた。

「まあ、オレみたいなどっちにも入らぬ孤独を好む者もそういう意味では第三勢力だな。やっぱり住む世界の違う人間だ」

 話は終わったとばかりに立ち上がり、さほど中身の入ってない鞄を取り上げる。

「そういう訳だからさ、今日の話は忘れて、お互い今まで通り挨拶程度の関係にしとこうや。こういうのを見られて、変なとばっちりくらうのも嫌だろう?」

 じゃあな、と挨拶をしてその場を後にする。

「央城君、私、貴方の事がよく分からなくなっちゃったよ」

 ぽつりと言われたその言葉にオレの心が小さくざわめいた。それを押さえつけて歩き出す。

「いいんじゃないの、それで。お互い住む世界の違う人間だって事を確認したばかりだろ?」

「バカ」と小さな声が聞こえたような気がしたが、振り返りはしなかった。もし、缶コーヒーの空き缶を机に置きっぱなしにしていたのを 思い出して振り返ったならば、オレはその時、東堂咲耶の涙を見ることができたのかもしれない。




 すっかり人気がなくなりがらんとした廊下を抜けて階段を下り下駄箱へ。

 スニーカーに履き替えて外へと出たオレは、駅への道を一人とぼとぼ歩きながら、青い空を見上げていた。

 さっきから何か大切なものを失くしてしまったように思えてならなかったが、それが何なのかは考えないことにした。

 もしもその正体に気づいたらどっぷりと自己嫌悪に陥り、せっかくの一人ぼっちの夏休みが台無しになってしまうような気がしたからだ……。



2015/11/03 初稿



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