9.8m/s^2
なんという、なんという力だろうか。
エレオノーラは自らの足が生まれたての小鹿のようにがくがくと震えるのを止められずにいた。
壁に手をついていなければへたり、座り込んでしまっていただろう。
それほどまでに眼前の光景は衝撃的だった。
あれほどこちらを脅かした弓兵も、戦士団もいまや地面に転がっている。
大きく隆起しあちこちに無数の穴を空けた大地は数瞬前と同様のものとはとても思えない。
正に災害、天災。
これこそが魔女なのだと、殴りつけるように叩きつけられた事実に目がくらむ。
よくもまあ交渉などをぬけぬけと行えたものだ。
本物ではないのでは?
そんな馬鹿げた考えの持ち主であったかつての自分を殴りたい。
振り向く魔女と視線がかち合った。
実は見えているのではないか?
そんな気がしただけで震えが増す。
手汗が滑り思わず腰を抜かしてしゃがみこんでしまう、と。
五感が白に染まった。
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魔女の眼前。
突然鐘塔が砕けた。
正確には鐘塔の先端。
原因は南東より唐突に飛来した紫色の閃光。
「何が起こった?!」
思わず水晶玉に怒鳴りつけるように問いかけてしまう。
『恐らく魔術攻撃かと。方角は見ての通り南東。マルニル王国は魔術師を戦争に投入していると聞き及びました』
「同族がいたってわけですか。面倒なことで」
『いえ、貴方様は魔術師ではありませんのでその発言は誤りかと』
それってどういう、と聞き返そうとする前に思い出す。
鐘塔には少女が居たのだ。
「サテツさん。ここからあそこまであっという間に移動する方法あるかな!?」
慌てて問いかけるもサテツの返答は芳しくない。
『残念ながら今使えるものでは難しいかと。そもそも、わざわざ助ける必要もないでしょう。依頼されたのは戦士団の排除ですし、彼女がいかなる損害を受けようとも書庫は手に入ります。問題はありません』
このわからず屋め、と毒づきは水晶が音声を拾わないように横を向く。
言ってもらちが明かない、何かしら説得力を持たせなければサテツはいつまでも納得すまい。
無視して何とかするのも有りかもしれないが折檻は出来ることなら避けたい。
人の命がかかった状況で何を悠長な、とも思うが自らにとっては彼女は唯一以前の自分を知る存在であり、道しるべでもある。
下手に機嫌を損ねて見放されでもしたら、自分はそれこそ何もわからぬ状態で悪評のみを抱えこの世界に投げ出されることになる。
野垂れ死には御免だ。
さあ考えろ考えろ。
何ならでまかせでもいい。
「…なあ、サテツさん。あの子を見殺しにすると、約束を反故にされるとは思わないのかい」
『契約は既に締結されておりこちらは履行も済ませております。問題は…』
「いいや、問題はありますよ。連中の中で僕を呼ぶのに積極的だったのはあのお嬢様だけです」
逸る心を抑え、ゆっくりと、ゆっくりと説得する。
「いいですか?唯一の推進派が亡くなったならば、それ見たことかと言って契約を破る連中は大勢いるんです」
それに、と付け加えるように。
「ここで彼女を助けて恩を売っておけば後々役に立ちます。本国の方へ進出できれば、より多くの知識を得られるはずですよね?」
返答はしばしの沈黙と、それに続いて。
『貴方様がそう言うのならば裏切り行為の可能性はあるのでしょう。許可します』
思ったよりもあっさりと許しをもらい拍子抜けする。
しかしまだ肝心の助けに行く方法が見つかっていない。
最悪姿を消したままダッシュで鐘塔を駆け上がることになるのだろうか。
数週間で覚えた魔法を思い出し、何とかならないかと考え。
『危険ですが、一つ方法があります』
助け舟を出してくれたことに意外を感じながら聞く。
その方法は。
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全身の感覚が失われたことに気付いたのはどれほど経ってからだろうか。
まぶたは開いているのか閉じているのかもわからない。
上下はどちらだ。
どちらに身体を動かせば起き上がれる。
そもそも手足は動いているのか。
死ぬかもしれないという恐怖感の中、徐々に感覚が戻ってくる。
最初に身体が横になっていることがわかる。
次に指先が動かせるようになる。
続いて腕、脚、しかし。
両足が動かせない。
最悪の想像が頭をよぎる中、視界が開けてくる。
目に映るのは夜闇の中に瞬く星空と、そして月。
首を回すと自らの横には先ほどまで頭上に吊られていたはずの鐘。
その内側から染み広がるのは赤黒く、そして側に転がるのは騎士団の徽章。
上半身を起こそうとするが、まだ腕がそこまで突っ張れない。
助けを呼ぼうにも喉をやられたのか声すら出ない。
退避の指示をさっさと聞いておくべきだった。
後悔の念と謝罪を心中に浮かべる。
また塔に振動が走るのを感じる。
ひょっとしたら完全に崩れてしまうかもしれないなと、どこか他人事のように感じる。
意識が再び遠のく中、視界が暗くなる。
始めは気絶する前触れだと、そう思っていたが、それは人の顔で。
「生きてるよな?」
問いかけるその顔は若い男か。
首より下は夜の闇より更に暗く。
その意味を理解することも、問いかけに答えることもなくエレオノーラは意識を手放した。
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『歩行の魔術を用いましょう』
サテツの提案、その内容はいたってシンプル。
『歩行の魔術は足底の向いた方向を地と認識することです。即ちその方向への重力作用』
そして、と続ける。
『塔の側壁目がけて落下しましょう。もちろん姿隠しを忘れずに』
「随分と用意のいい提案なことで。…それ失敗したら大怪我しますよね?」
『御安心ください、怪我する事はないでしょう。死ぬだけですから』
さらっと言われる死の危険性に、実は彼女は僕のことを貴方様呼ばわりしながら亡き者にしようとしているのではと思う。
が、実際問題この案は失敗さえしなければ悪くはない。
これ以上に最速最短な最適解はそうそうあるまい。
だから。
『運悪く着地点が脆い可能性を減らすため、着地点は塔の真ん中より下を狙ってください。着地に成功しましたら先ほどと同じ要領でてっぺんまで登りましょう。幸運を祈ります』
返答も適当に、飛び降りる。
『足は地につく』
短い詠唱の後、両足を軽く跳ねるように一気に塔へ向ける。
足を滑らせたような感覚、内臓の浮き上がる冷えとともに落下する。
瞬間的な加速に思わず目を逸らしたくなるが耐える。
身体さえ動かさなければ、無事に着地できる、だが。
「しまっ…!?」
人間というものは、してはいけないと言われるとやってしまうものである。
極度の緊張から震えが足にきてしまった。
進路が微妙に横にずれる。
慌てて魔法を解除するも、既に速度は乗ってしまっている。
覚悟を決めろよ。
自分に対するなじるような自答は、頭を冷やし、そして血液を流入させる。
『地は壁なり!』
先ほどに比べて遥かに短縮された詠唱。
しかし魔法はきっちりと効果を発揮する。
対象は鐘塔。
側壁からぬるり、と突き出すのは土くれの円柱。
みるみる視界に映る大きさを拡大させるそれは。
「痛いだろうなあ…」
直撃した。
身体を常に空気で覆うイメージは最初の方にサテツに叩きこまれた。
曰く、攻撃されても血を流さないということは相手にしてみれば相当な恐怖を覚えるとか。
確かに、血の流れていない土人形が黙々と接近してきたら嫌だなあ、と脇腹を抑えながら冷や汗垂らして魔女は思う。
例え全身が防御されていようが痛いものは痛いのだ。
衝撃までも完全に防げるわけではない。
だが生きている。
気合を入れて起き上がり、塔の側面を走り登る。
意匠を凝らされた尖塔部分は哀れ原形すらとどめていない。
砕け積み重なった破片の中で、しかし殆ど石が落ちていない部分が。
「生きてるよな?」
声に反応したのか、うっすらと空いていた目がこちらへ向く。
しかしすぐに首を落とし、動かなくなった彼女に魔女は。
「さっさと助け出したいところだけど…まずはコイツを退かさなくちゃなあ」
向ける視線は彼女の足を完全に下敷きにしている大きな破片。
とりあえず持ち上げてみようとして、しかしほとんど動かない。
魔法で吹き飛ばそうかと思ったが、下手に使って巻き込みでもしたら大惨事だ。
一旦手を放し、考え思いつくのは今日三度目の。
『地は壁なり』
対象は彼女の足を押しつぶす石くれ。
横合いから細く、長い棒状を伸ばす。
途中に上手く大き目の石が来るようにしたそれに手を掛け。
「支点だったか何だったか、忘れちまったなあ」
思い切り力を籠めれば、先端部分がふわりと浮きあがる。
チラと石の影を見て、綺麗な足がきちんとつながっていることを確認する。
安全な形状に石を変化させると手を放し。
「さて…抱えて降りるしかないのかなあ、これ」
美しい金髪を眺め、嘆息する。