5.それは芸術(後編)
「いざ縛るとなると気を遣うのね。痕なんか残したくないし」
ビニールの紐で窓枠に手首をくくりつけられてしまい、私はばんざいをする形で磔にされていた。
どっちかといえば華宮先輩はこういう遊びを嫌いそうな性格だと思っていたのに、私を縛って楽しんでいるなんて……。
先輩は私の脇を指先でつついたかと思うと、くすくす笑い始める。
「すごい汗ね」
「っ!!」
どうしてそんなことを言うのっ。縛られていることも忘れて脇を閉じようと必死になるけれど、手首に紐が食い込んで痛くなるばかりだった。
「ごめんごめん」
先輩は機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら、画板と鉛筆を手に私のことを見つめている。頭から身体、足元までくまなく観察してくる先輩の目を意識するたび、丸裸にされていくような羞恥心が掻き立てられる。
お腹を見られた。次は胸を見られた。目が合うと微笑みかけてくれる。今度は腰……じゃなくて足かもしれない。下半身はどこを見られているのか分からない。時々笑顔が消えて描くことに集中する。少ししてまた全身を観察される。
気づけば私は先輩の視線を追ってばかりいた。身体を見られている時はそわそわして、絵に集中している時には寂しさを覚えていた。
ただ見られるだけで、こんなにも心を掻き乱されるなんて……。
廊下側の扉がガタッと音を出す。
突然の物音に私も華宮先輩も肩をびくっと震わせ、おそるおそる視線を扉へ向けた。
外から開かれようとしているようだった。誰だろう。鍵が掛かっているようで開かれる心配はないが、もし教師の誰かだったらと思うと生きた心地がしない。
私たちに冷や汗をかかせた張本人はぽつりとひとり言を漏らす。
「おっかしいな……キィ、どこに行ったんだろ」
亜希だ!
私がいつまで経っても来ないから、わざわざ美術室まで様子を見に来てくれたんだ。
もし今のこの状況を見た時、亜希はどう思うだろうか。亜希のことを忘れかけてモデルに没頭していたことで怒られるかもしれない。強気な亜希のことだから華宮先輩に食ってかかるかもしれない。
先輩はピンと立てた人差し指を口元に当てて「声を出さないように」という意思を私に伝えていた。
「すぐに解いてあげる。そして何事もなかったかのように振る舞うのよ」
廊下の亜希には届かない小さな声での指示。避けられるトラブルは避けたほうがいい。私もそう思ったから、頷いた。
しばらく二人で息を潜め、人の気配が感じられなくなるまで待つ。亜希はいつの間にか離れていたようで、気づいた時には何一つ物音の立たない静寂が戻っていた。
「行ったみたいね。キィちゃん、この後はすぐ制服に着替えるのよ」
制服は教室に置いてある。先輩はすぐにハサミを使って紐の縛めから解放してくれた。
「また明日ね」
「はいっ」
先輩の一言にどう答えたものか一瞬だけ迷ったもののすぐに返事をする。
大丈夫。今日ぐらい早めに終われば亜希との遊びも先輩のモデルも両立できる。亜希にバレてしまわないように気をつけてさえいれば、絶対にうまくいく……。
教室へ戻るべく、私は廊下に続く美術準備室の扉を開けた。
「ずいぶんと楽しそうじゃないの。ねえ……キィ?」
彼女は、すぐ目の前に立っていた。
息を潜めていたのは私たちだけではなかった。目の前にいる亜希もまた、気配を隠して私が出てくるのを待っていたのだ。
「鍵が掛かっている扉でも開ければ隙間ぐらいできるのよ。そこから中を覗いてみたら驚き桃の木」
表情こそは笑っているけど、声には微かに怒気が含まれていた。
「私のことは放ったらかしてこんなところで遊んでたんだ。あんたを待っている間も私は一人で待ちぼうけだったのにさ。あーあ、寂しかったなぁ」
「う……」
亜希の言葉と視線がずさりと突き刺さる。
もし私と亜希が逆の立場だったら。どれだけ経っても亜希が来てくれなかったなら、見捨てられてしまったのではないかと不安になって、悲しい思いを堪えながら待ち続けていただろう。
私はそんな苦しみを亜希に与えてしまったんだ。
自分の愚かさと身勝手さを思い知り、胸の内からこみ上げてきた罪悪感に心が押しつぶされる。自分で自分が許せない。よりにもよって大切な友達を裏切ってしまうなんて!
「ごめんなさい……っ」
「わっ、ちょっと、マジに謝んないでよ! 冗談よ、じょーだんっ。そんなに怒ってないから。ね?」
亜希の手の平が私の頭に置かれる。何をそんなに焦りだしたのかと思えば、私の目に涙が溜まっていることに気づいた。
これでは亜希を怖がって泣いてしまったみたいだ。自分のこういう子供っぽさも憎たらしい。
「私が本当に怒ってんのはね、そこの先輩。そいつに怒ってるの」
亜希の険しい視線が華宮先輩へ向けられる。
「先輩に向かってそいつ呼ばわり? ずいぶんと礼儀を欠いた後輩がいたものね」
対する先輩も負けていない。笑みの奥に見え隠れする牙が輝いて見えた。
「あんたに礼儀なんていらないわ。もう勝手にキィを縛らないでよね!」
「なにそれ。飼い主気取り? キィちゃんはあなただけのものじゃないわ」
互いの視線が火花となってぶつかり合っている。
こっそり涙を拭き取りながら、私のために争わないで……なんて思っていると、
「それ、あんたが描いたの?」
ふと、亜希は床に落ちていた画板を指さした。
「まあね。久しぶりの最高傑作がもう少しで完成するところ」
先輩の言葉を聞きながら画板を拾い上げ、亜希は絵の上から下までじっくり見つめて鑑賞を始める。最初こそケチの付け所はないか探しているような目つきだったけど、次第に険しかった表情が柔らかくなっていった。
「一応はキィのこと分かってるみたいね」
「お気に召した? なんならあげよっか」
場の雰囲気が変わっていく。事態が好転しているような気配を感じた。
「この絵はよく描けてる。単純な縛り方でキィの羞恥心を刺激し、それをしっかり絵に収められている。けれど私の縄で引き出したキィのさらなる魅力までは描写しきれないでしょうね」
「ふうん。それは私に対する挑戦、と受け取っていいのかしら」
「ご自由に。尻尾巻いて逃げるもお好きにどうぞ」
まだどこかけんか腰だけど、二人の間に流れていた緊張感は次第に失せていく。
ひょっとして、仲良くなっていってる?
「もちろん受けて立つわ。私の情熱で必ずキィちゃんを描きあげてみせる!」
「ならついて来るのね。秘密の場所に招待してあげる!」
大した喧嘩にならなそうでほっとしたのも束の間……右腕を亜希に、左腕を先輩にがっちりと抱きしめられる。
なになに、二人ともいきなりどうしたの!
まるで逃亡犯を連行する警察のような強引さで私を引っ張っていく。信じられないほと息がぴったりで、さっきまでいがみ合っていた二人とはとても思えない。
「なんなの、話が見えないんだけど!」
私の叫びは聞こえなかったようだ。
それからはあっという間の出来事だった。更衣室の裏まで運ばれたかと思えば、亜希は未だに体操服を着たままの私を固く縛りあげてしまった。
久しぶりに受けた縄だけど、いつも以上に気合が入ってるように感じる。今までにないほど力強く締めつけられているせいで、吸ったと思った息がすぐに抜け出てしまう。
「キィのチャームポイントはふわふわしてるところなんだからね。しっかり表現しなさいよ」
「そのふわふわをあえて締めあげるなんて、亜希ちゃんっていい趣味してるのね」
画板と画用紙の束まで持ってきて、先輩もかなり気合が入ってるみたいだ。
あんなに大量の紙を持ってきて、今日のうちに一体何枚描くつもりなのだろう。
「足は縛らないの?」
「縄が足りないのよ。でさ、完成した絵なんだけど……」
「コピーならいいけど……」
二人の会話がごにょごにょと聞き取れないほど小さくなっていく。
私に内緒で何の話をしているのか、知りたいような、知りたくないような。
今回のテーマは「視姦」でした。