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4.それは芸術(前編)

 おばあちゃんの家でのお泊まりはとても楽しかったけれど、亜希の縄にぎゅっと締めつけられるあの感覚が恋しくて、切ない気持ちになってしまう。

 今日は登校日。亜希のことだから私を縛りたくてうずうずしているに違いない。亜希のそわそわした様子を思い浮かべながら教室へ臨む。

「おはよ」

「キィ、おはよーっ!!」

 誰よりも大きな声で誰よりも素早く私に挨拶を返してくれたのは、やっぱり亜希だった。

「うふっ、うふふふふ!」

 不気味になっていた。

「ああっ、この感じ。ぬいぐるみなんて比べものにならない。はあっ、ぎゅってしたい」

「ちょっと亜希、こんな人前で抱きつかないで、恥ずかしい……!」

「ごめんごめん。ふふっ」

 私の髪の毛を優しく触りながら、亜希は私の耳に口を近づけて囁くように言った。

「放課後が楽しみだね」

 ぞくっとする感覚が指先まで駆け抜ける。

 こんな何気ないような一言に痺れてしまうなんて……。切ない気持ちは広がるばかりだった。



 さくっと放課後になればいいのだけど、楽しみでいればいるほど時間の流れは遅く感じるもので、残念ながらまだお昼休み。

 食器などの片付けを給食当番のみんなが進めている間、私たちを含むクラスメイトは各々で休み時間をくつろいでいる。

「給食おいしかったね。お味噌汁にさつまいもを入れてくるあたり通だなぁって思うんだけど」

 亜希は給食の味を思い出してはにこにこして、まるで普段通りの態度を見せている。

 なんだか私だけ放課後を待ち焦がれているみたいで、一人でそわそわしている自分の子供っぽさが恥ずかしい。

「そんな顔しないで。待ちきれないって気持ち、思いっきり表情に出てるよ」

「別に。そんなんじゃないし」

 自分でも単純な性格してるって思うけど、亜希に見抜かれてしまうのは少し悔しい。同い年なのに一体どこに差がついているというのだろう。

「キィ。私の手を見て」

 そう言うと、亜希は両手の平を使って輪っかを作る。

「これを、ガチャリ」

 何をするのかと思えば、私の手首をつかむだけだった。亜希の手の平が温かい。

「なによ」

「私の手は今、キィを捕まえる手錠になりました」

 亜希につかまれた両手首はしっかりまとめられ、ぎゅっと締めつけられてしまう。

「お昼休みが終わるまで外してあげなーい」

「こんなの、簡単に振りほどけるよ」

「やってごらん。キィがそうしたいなら」

 ちょっとだけ本気を出して、思いっきり振り払ってしまえばいいだけのこと。

 だけど私はとてもそんなことをする気になれなかった。亜希の手の平から伝わる熱が、どうしようもなかった私の心を満たしてくれていたから。

「振りほどくんじゃなかったの? ほらほら、私は力抜いてるよ」

 またいじわるそうな顔して。私の気持ちなんて全部知ってるくせに。

「できないよ……すっごく頑丈なんだもん。亜希の手錠」

 この光景を傍から見れば、仲良しの二人組がじゃれ合っているようにしか見えないだろう。

 今この瞬間、私の心までもが縛られてしまっていることなど、誰にも分かりはしないだろう……。



 授業が全て終わり、放課後。

 待ちに待ったこの時がついにやって来たわけだけど、残念なことが一つだけあった。

「ごめん亜希。私、美術室の掃除当番だった……」

 この学校では放課後の直前にみんなで教室の掃除、放課後に各係で分担して特別教室の掃除をすることになっている。

 先週は私と亜希の二人共が掃除当番ではなかったため、今の今まですっかり忘れてしまっていた。

「気にしない気にしない。残念だけど仕方ないって。来週は私も職員室の掃除当番だし、お互い様よ」

「うん……」

「がんばってね。待ってるから」

 亜希は軽く手を振って去っていく。実を言うと亜希に申し訳ないと思うよりも、楽しみが先延ばしにされて残念と思う気持ちのほうが強かった。

 こうなったら思いっきり気合を入れるしかない。

 担当の先生に教室が綺麗になったと認めてもらえれば掃除を終えることができる。早く綺麗にできたなら、それだけ早く亜希のもとへ行くことができるのだ。

 がんばろうっ。



 美術室。体操服に着替えた生徒たちが、各学年から数人ずつこの教室に集まった。私は思いっきり雑巾を絞り上げ、余分な水分を抜き取っていく。

「気合入ってるね」

 声をかけてくれたのは二年生の華宮はなみや先輩。彼女は掃除当番ではないけれど、美術部の部長としていつも掃除を手伝ってくれている。

木下きのしたさん、だっけ。ふふっ、今日は転ばないようにね」

 彼女が呼んだ木下さんというのは私のことだ。

 名前、覚えてくれたんだ……。

 以前、拭かれたばかりの床の上で滑ってしまい、うっかり尻もちを突いてしまったことがある。華宮先輩はその時にとても心配してくれた。

 優しくて、美人で、流れるような長髪に理知的な眼鏡が似合ってて。私もいつかこの人みたいになりたいなと、お尻の痛みも忘れて憧れたっけ。

 覚えてもらえてとっても嬉しい。だけどあんな恥ずかしい出来事がきっかけだなんて!

「もう転びませんからっ」

「うん。気をつけてね、キィちゃん」

 そう言って先輩は箒を手に離れていく。私は雑巾を握る手の力を緩め、先輩の背中をじっと見つめる。

 今、私のあだ名を呼んだ……?

「こら木下、早く掃除にとりかかりなさい」

「は、はい!」

 いけない、ぼーっとしてたせいで先生に怒られてしまった。

 亜希が待ってるんだ。早く掃除を終わらせないと!

 努力の甲斐あって、掃除はいつもよりもずっと早く切り上げることができた。それに加え私が真剣に掃除をしていたことを先生に褒められて、とても充実した気分だ。

 さあ、亜希のところへ行こう。今ごろ一人ぼっちで退屈しているはずだから。

「待って、木下さん」

 美術室を出ようとしたところで、華宮先輩に呼び止められる。

「あなただけちょっと残ってくれない? 話があるの」

「あのっ、すみません、友達と約束があって……」

 私が放課後を楽しみにしていたように、亜希もかなり楽しみにしていたはず。だからこれ以上待たせるわけにはいかないし、私だって待ってなんかいられない。

 華宮先輩が私に何の用があるのかとても気になるし、もしかしたら親しくなれるせっかくのチャンスかもしれないけど……今の私には亜希のことしか考えられない。

「その約束って」

 先輩の手が私の肩に置かれ、ぐいっと引き寄せられる。ぼそっと呟くような先輩の声が、吐息と共に私の耳をくすぐった。

「亜希ちゃんって子といつもやってる、いけない遊びのことかしら」

 心臓が飛び跳ね、全身がびくっと揺れる。

「先輩、今、なんて」

「誰にもバラされたくないでしょ」

 その誰よりも優しい口調で。

「だったら……ね?」

 先輩に、脅されていた。



 美術室のすぐ隣に繋がっている、美術準備室。棚に収まりきらない教材がどこにでも置かれていて、人が通れるスペースはとても少ない。

 先輩は画板に画用紙を取りつけながら話し始めた。

「スランプって言うの? あんなにも絵を描くのが好きだったのに、最近は何を描く気も起きなくて。先輩たちは卒業してしまって、部員は私一人だけになっちゃうし」

 次は彫刻刀で鉛筆の先を削り始める。削りカスがかつお節みたいだと考えて、先輩の話に集中しようと思い直す。

「何か起爆剤になるものはないかと思って学校の敷地内を隅から隅まで歩き回っていた時……あなたとあなたのお友達が、誰も寄り付かないような寂れた場所へ入っていくのを見た」

 ごくりと唾を飲む。

「あそこで何をしていたのかしら」

 眼鏡越しに鋭い視線が突き刺さる。

 言葉が出なかった。

 私と亜希の関係は誰にも知られてはいけないことだったのに。足場を踏み外し谷底へ落ちていくような、取り返しのつかない失敗をしてしまった。

 何も言うことができないままでいると、先輩は椅子に座って画板の画用紙と向き合った。

「答えるまで帰さないからね」

 鉛筆を握り、画板と私を交互に見ては眉をひそめている。

「うーん……」

 絵のことを考えているみたい。それからも先輩は唸り声をあげるばかりで、あまり筆が進まない様子だった。

 気づけば西日は美術準備室のすりガラスから熱を通すほど傾いていたようで、背中の汗が体操服に滲んでいくのが分かる。

 一体どれだけの時間が過ぎただろう。

「はぁ、だめね。いつまでも紙と睨めっこしてても始まらないわ」

 先輩は画板を置いたかと思うと、スケッチブックを取り出してめくり始めた。

 そこには何が描かれているのだろう。先輩がどんな絵を描くのか見てみたい。

「この時は久しぶりに筆が乗ったのよね……ふふ、可愛い」

 上から覗こうとすると、スケッチブックを抱きかかえるように隠されてしまう。

「見せてあげない」

 先輩は上目遣いにいたずらっぽく笑う。この時はいつもの優しい先輩に見えた。私の警戒心は緩み、先輩の絵に対する興味でいっぱいになった。

「見たいですっ」

「どうしよっかなー。ふふっ」

 お願いしながら先輩の絵がどういうものか想像する。風景画かな。抽象画かもしれない。人物画だったらどんな人を描いているのだろう。

「そんなに見たいなら、おいで」

 私は嬉々として先輩の隣に歩み寄る。すると先輩の腕が私の肩をつかみ、ぐっと引き寄せられた。

「せ、先輩……」

 日の光に当たり過ぎたせいで滲んでいるであろう汗が気になった。とっさに身をよじって離れようとするも、先輩は私の身体を抱きしめたままさらに密着してくる。

「いい香り。清潔にしてるのね」

 最近は亜希に縛られる時のことを考えて念入りに身体を洗っている。縄に締めつけられている間は自分で汗を拭うこともできないのだから、とても気を遣わずにはいられない。

「これは先週描いた絵よ。おかげ様でとっても美しい絵が描けたわ」

 先輩はスケッチブックをめくり、ついにその絵を見せてくれる。その瞬間から私の目は釘付けにされてしまい、目を離すことなどとてもできなかった。

 やっぱり、見られてたんだ。

 スケッチブックには、上半身を縛られてうずくまっている私の姿が描かれていた。

「この時のあなたはお尻を叩かれてすごくいい顔をしていたわ。いじめられるのが好きなんて、いけない子ね」

 あんな恥ずかしい姿を絵にされていたなんて。亜希以外の誰にも見られたくなかった私の本性が、こんなにも細かく精密に、絵という形として残されてしまったなんて。

「あの光景を目の当たりにしてからというもの、いつでもどこでもあなたのことばかりで、他には何も考えられないの。木下さん……いいえ、キィちゃん」

 見ないほうが良かったかもしれない。知らないほうが良かったかもしれない。

 顔が熱くなってしまっていて、きっと真っ赤になっているんだろうなと感じる。

 こんなにも恥ずかしいことがあるなんて。

「私にも縛られてくれないかしら。あなたの全てを絵にしたいから」

 この時に見た先輩の瞳は亜希のものとどこか似ていた。どうせ縛られてくれるだろうと考えている目だ。

 先輩の瞳を見つめながら私は何を考えていたのだろう。頭がこくりと頷いた。

「ありがと。キィちゃんはいい子ね」

 抵抗する気持ちもあったはずなのに、縛られたいと思う気持ちに負けてしまっていた。

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