在りし日の面影と恋焦がれる河童
幻想郷に穣りをもたらす秋、妖怪の山の紅葉は見事に色付いていた。
「綺麗な紅葉だねぇ...こんな日は紅葉酒でも一杯やりたい気分だよ」
言いながら私は川を下っていた。いつもなら花唄でも歌いながら下っていたが、この季節の時だけはそうゆう気分にはなれなかった。
私は川を下りながら思い出していた。ある男のことを。私が愛し、そして亡くしたあの男。
名前は何だったかもう思い出せない。
随分と前の事だ。私が川で遊んでいると、茂みの方から物音がした。その音の方へ振り返ってみると、そこには若い青年が覗いていた。
私の視線に気付くなり青年は慌てて引き返そうとする。しかし、ただでさえ不安定な上湿っている地面の上を走る事は河童の私でさえ難しい。案の定青年は足を崩し、川へ落ちてしまった。
「やれやれ」
渋々私は青年の手を引き、陸に上げた。
「す、すまない、助かったよ」
青年は震える声で言葉を紡いだ。
「別に助けたくて助けたわけじゃない。私は河童だからね、目の前で私の意志に関係なく溺れられるのが嫌だっただけだ」
そう言うと青年は困惑しながらも私に問いかけてきた。
「君もこの世界の住人なのかい?」
変なことを言う奴だと思った。質問の意味がわからなかった。
しかし、ここは幻想郷だ。もしかしてこの青年は外の世界の者なのか?
いや、そんなはずはない。
……でも、もしかしたら本当にそうなのかもしれない。
今度は私が青年に問いかけた。
「君は外の世界の住人なのか?」
すると青年は困ったような顔をした。
「多分、そうなんだと思う。突然あたりが暗くなって、気が付いたらここにいて…見たこともない場所ばかりだし……」
「ふーん、そんな事もあるんだねぇ」
聞いたことがある。時々外の世界から幻想郷入りしてくるモノがあるとか。今の今まで信じられなかったが……
それから私達は度々会っていた。
基本私はすることがないので、天狗と将棋を打つなりして暇を潰している。だが、今はこの男が私の暇な時間を埋めてくれていた。
長いこと一緒にいたせいか、次第に男の事を意識するようになった。
男と会う時が待ち遠しかった。
会う度に胸の鼓動が早くなった。
私はこの男に恋をしていた。
夏には川で涼んだり、秋には紅葉狩りもした。冬はこたつで温まり、春は花見にも行った。
私達は幸せな時間を過ごしていた。
でも、そんな時も終りが来る。
人間と河童では種族も違うし、当然寿命も違う。
そんな事は分かりきっていた筈なのに。
私は分かりたくなかっただけなのかもしれない。分かってしまえば、気付いてしまえば、もう隣にはいられない。そう思ったからだ。
だけど、現実は非常だ。年を重ねる毎に男は老いていき、私だけ時間がとまったようだった。
その日の妖怪の山は珍しく雨が降り続いていた。
最後に床についたとき、男は体を起こすことも困難な状態だった。私が名前を呼ぶと、男は力なく笑った。
その瞳は何処か寂しげで、まるで全てを悟ったかのような……。
その時わかった。いや、気づいたのか、この男はもうすぐ死ぬ。
溢れそうな涙を必死に堪えた。逆流しそうな感情を必死に抑えた。
震える手で握ったその手は白く冷たく、儚いものだった。
逝かないで、もう少し、ほんの少しの時間でいいから、できるだけ長く、私のそばにいて。
しかし、その願いも虚しく、男の手と共に私の中からこぼれ落ちた。
堪えていた涙も、押さえ込んでいた感情も、今ではもう止めることすら忘れていた。
一人雨の中私は泣いた。私は叫んだ。しかし、その涙も叫びも、幻想郷の誰にも届かなかった
。
叫び声は雨の音にかき消された。頬を伝う水も、涙なのか雨なのか分からなかった。
愛する者を失った私は1人山に篭った。山に来る人間は皆追い払った。もうあんな思いはしたくない。
私はただひたすら苦しみから逃げた。
私はひとり寂しく、山にとり残された。
私が思い出に浸っていた頃、遠くの方から見覚えのある帽子を被り、見覚えのある箒に跨ったシルエットが近づいて来た。魔理沙だ。
魔理沙は私を見るなり笑顔で手を振ってきた。私も気が付くと手を振っていた。
彼女の笑顔を見る度胸の奥の方が苦しくなる。多分、私は魔理沙にあの男の影を重ねていた。
「やぁ、元気か?」
「元気か?って、あなたいつも来てるじゃない」
最近魔理沙は頻繁に山に来る。初めて会ってコテンパンにされたあの日から。
「で?今日は何しに来たんだい?」
「いや、前この山を見に来たら紅葉が綺麗だったんでな、こいつで一杯やろうと思ったんだよ」
そう言って魔理沙は自分の帽子の中からお酒の入った一升瓶を取り出し、私の前に差し出した。
「この辺はもう随分前から紅葉だよ。それに、紅葉酒ならもう天狗共とやったよ」
「まぁ、そう言うなって。今度はただのお酒じゃないんだぜ?」
「何だよ、ただの酒って。お酒なんてみんな同じようなもんでしょ?」
「それが違うんだなぁ〜」
魔理沙は意味深なことを言うと頬の端を吊り上げ、こう言った。
「なんと、今度は外の世界のお酒なんだぜ!」
「…ふーん、外の世界、ね……でも、そんなもの一体どこから盗んできたんだい?」
私はまだ外の世界への興味を拭えずにいた。
「霊夢の所の神棚から持ってきた」
「やっぱり盗んできたんだね」
「盗んでなんかないさ。それにあいつはどうせ呑まないんだから良いんだよ」
「そうゆうもんかね…。でも、どうして外の世界のお酒が霊夢の所に?」
「ふふ〜ん、それがな......」
魔理沙の話によると、霊夢の神社は外の世界と幻想郷の両方に位置しており、外の世界で神社にお供えされた物が度々神棚に届くんだとか。
「それってやっぱり盗んでるじゃないか」
「細かいことはいいんだよ」
「いや、良くないでしょ」
「そんなことよりさ、一杯やらないか?」
魔理沙はもう一度笑顔で瓶を突き出した。
「別に…いいけど……」
ここで断れないのも何とも皮肉なことだろうか。
私の確認を取ると魔理沙は杯に私の分と自分の分を注いだ。それを渋々受け取り、少し口に含んで何度か舌で転がすように味わったあと、飲み込んだ。
「意外に美味しいんだね」
「だろ!お前なら絶対気に入ると思ったんだよ」
「確かに、ちょっとびっくりした。外の世界のお酒がこんなに美味しいなんて」
幻想郷のお酒と違って無駄のない澄んだ味わい。飲み込んだ後に鼻を通る濁りのない風味。やっぱり外の世界は侮れないな。
「あの人もこれを飲んでいたのかな……」
「ん?なんか言ったか?」
「え?あぁ、いや、何でもないよ」
いつの間にか口に出ていたようだった。
この前も山の天狗に「独り言ですか?」などと聞かれたことがある。
私はまだあの人に未練を残しているのかもしれない。名前も思い出せないあの男の事を。
物思いに耽っていると、魔理沙が私の顔を覗き込むようにじっと見ていた。
「な、なんだよ」
「いや、最近様子がおかしいなって。何かあったのか?それとも、具合でも悪いのか?」
「いや、何でもないんだ、すまないな、気を使わせてしまって」
「ほんとに大丈夫なのか?別に無理して私に付き合わなくてもいいんだぜ?」
魔理沙は本当に心配そうな顔で私を見ていた。
「大丈夫だよ。それに、せっかくあんたが持ってきてくれた酒だ。飲まないってのは勿体無いからね」
そう言って私は自分の杯にお酒を継ぎ足す。
「そうか、ならいいんだ」
魔理沙も空になった杯にお酒を継ぎ足していた。
「この季節の、ちょうど今ぐらいの時期が一番紅葉が綺麗なんだ」
「へー、そうなのか。じゃあ、一番綺麗な時期にお前とこうしてお酒が飲める私はラッキーだな」
そう言って魔理沙はまたケラケラと笑っていた。
私も笑った。
魔理沙は多分私のことを好きでいてくれている。
私も魔理沙の事が好きだ。でも、その好きがどうゆう好きなのか、私にはまだわからない。
でも、こうして魔理沙と一緒にいる時間は嫌いじゃなかった。
「それから、この季節になると天狗共が急に騒がしくなるんだ。秋の魔力ってやつかねぇ。時には急に色気づくようなやつまでいるよ。」
そんなたわいもない会話をしながら、私はしばらく紅葉酒を楽しんだ。
そうこうしているうちにあたりはすっかり暗くなっていた。こうゆう楽しい時間はすぐに過ぎていくものだ。
「じゃあ、今日はこの辺でお暇するよ」
顔を赤くした魔理沙はフラフラとした足取りで箒に跨った。
「大丈夫かい?帰りに木にぶつかったりしないだろうね?」
「大丈夫だよ。私はそこら辺の妖精とは違うんだぜ?心配いらないよ」
まぁ、魔理沙が大丈夫って言うんならきっと大丈夫なんだろう。
「あ、あのさ……」
出かけた言葉を自分の中にしまい込む。
私には勇気がなかった。これ以上進んではダメだと思った。
これ以上踏み込んでしまえば、もう戻れなくなるから。
「寄り道せずにまっすぐ帰りなよ」
そう言って私は誤魔化した。
「あぁ、じゃあ、また明日くるぜ」
「明日も来るのかい」
私がそう言うと魔理沙はニコニコと笑って言った。
「あぁ、また来るぜ!またにとりに会いたいからな」
その時また心が苦しくなった。
でも、ドクンとゆれる心は今までのような苦しみではなく、心地よいものに変わっていた。
その時気づいた。私も、魔理沙の事が好きだったんだ。あの男の影ではなく、魔理沙自身が。
「じゃあな」
「うん、ばいばい」
そう挨拶を交わした後、魔理沙は箒に乗って帰っていった。
彼女がさった後、静けさだけが残されていた。
川のせせらぎの音、風になびくこの葉の音、落ち葉を踏みしめる足音……
ん?足音?
不思議に思い振り返った先には………魔理沙がいた。
「いやー、忘れ物しちゃったぜ」
そういうと、魔理沙は凄く見覚えのある一冊の本を取り上げた。
「忘れ物ってそれ?」
それは私が魔理沙にプレゼントしたものだった。
普段本を読まない私が頑張って選んできた本だ。
「あぁ、そうだぜ。よかった、思い出して。…凄く、大事なものだからな」
その時の魔理沙の顔は優しい表情だった。
「あのさ、」
言える。今なら言える。怖がらずにちゃんと言える。
あの時いいかけた言葉を、今度はちゃんと伝えよう。
「あのさ、私、魔理沙のことが…好き……」
少し俯いて伝えたその言葉は、私の中で精一杯の告白だった。
「……やっと言ってくれたな」
「え?」
顔を上げるとそこには私に優しく微笑みかける魔理沙の顔があった。
「私も、ずっと迷ってたんだ。でも、言えなかった。だって、にとりはずっと辛そうな顔してたから。きっと私にはわからない何かがあるんじゃないかって。」
魔理沙は優しい口調で続ける。
「だから待ってたんだ。その何かが解決するまでずっと一緒にいようって。にとりがその言葉を伝えてくれるまで」
そうか、魔理沙は知ってたんだ。私の心も、私が悩んでいた事も。全部。
「にとりは私に伝えてくれた。だから今度は私の番だ。」
魔理沙はもう一度私に向き直り、その言葉を口にした。
「私も、にとりのことが好きだ。……今まで言えなくて、ごめんな」
その言葉を聞いたとき、私は安心したのか、頬には一筋の涙が伝っていた。
その涙はあの日の様な悲しみの涙ではなく、幸せな涙だった。
人や妖怪に限らすともいつかは終りが来る。でも、それまでの幸せな時を一緒に過ごせる。それだけで、私は十分だった。
自分の幸せか、好きな人の幸せか、どっちが大切かなんてことは私にはもう分かっていた。
残された方は当然悲しいさ。でも、幸せだった時を思い出せれば、そうすればきっと大丈夫なんだ。
いまではそう思えるんだ。