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「――――!!!」
不自然な薬品臭に目を覚ます。鈍く体が痛んだ。それは肩だったり、足首だったり。
激痛と言うわけではないけれど……軋むような違和感。
瞬きをすると心配そうな顔をした雷斗くんと目が合った。
雷斗くん、と名前を呼ぼうとした途端、……乱暴に、扉が開かれた。
「悠緋!!!」
名を呼ばれる一瞬前に、気付く気配。
濃密な空気をまとって夜がやって来る。蛍光灯で不自然に明るい室内。
・・・今はもう、夜なんだということを強烈に意識する。
諌める時にも、責める時にも・・・諭す時にも。
この人は少しだけ強く、けれども穏やかに名を呼ぶ。
悠緋、と。何度呼ばれたか知れない。けれどもこれほど乱暴に荒く呼ばれたのは初めてじゃないだろうか……彼の怒鳴り声に近い大声も、終ぞ記憶にない。
「あ……」
兄様と、そう、呼ぼうとして……。
「ゆうひ? なんですか・・・貴方がたは。病室を間違えていますよ」
聞いたことも無いような雷斗くんの冷たい声に、遮られる。
(……なんか。頭が・・・ぼーっとして・・・)
兄様と、雷斗くんは仲が悪かっただろうかと考えてハッとする。
「え・・・。」
「あ、あの……。」
カラカラに乾いた喉に、声が引っかかって裏返る。
どうしよう、と泣きそうになって、そして……。
「鈴ちゃん?」
「悠緋?」
違う名で呼ばれる。
(頭が、おかしくなりそうだ……。)
私は狂ってしまったの?
いつの間にか手放していたらしい意識が戻ってくる。
部屋にはお姉ちゃんと……太陽が、増えていた。
兄様と、明夜を見る。
奇跡のような、ふたり、だと。思う。
「鈴。」
凛と、通る、透き通った声。
例えば声に色があったとしても、お姉ちゃんの声は透明なんだと思う。
「あ……」
お姉ちゃん、と呼ぶ前に、明夜が呼ぶ。
「姉ちゃん。」
きょろ、きょろきょろ。
見回す、顔、顔、顔。
見知った顔ばかり。
「おはよう、お嬢さん。良く眠れたかな?」
知った人ばかりのなかで、知らない声が割って入る。
矛盾しているけれど、知らない、と言うことが今はありがたかった。
白衣を着た、まだ若い男の人。若いと言ってもわたしより、10以上は年上になるだろう。一緒に来た看護師さんが……皆を部屋の外へと連れ出した。
「おはようございます。」
訳の分からない状況だ。夢と言う可能性に縋り付きたい気分。
「君の乗っているバスは事故に遭ったんだが、覚えているかい?」
気遣っているような風を装って話す。けれどそれを事務的だと思う私はきっと、穿っているのだろう。
「はい……いえ。バスに乗ったことまでは覚えています。」
そう、バスに乗った。雷斗くんと一緒に。映画の帰りだったのだ。
いいえ、違う。バスには乗った……木崎さんと一緒に。真神雷斗に会うために。
「では、バスに乗る前のことは覚えているね? 君の名前を教えてもらえるかな?」
私の、名前。
それは毎朝儀式のように確認するもの……そうせねば、不意に間違えそうになる、名。
「……。」
カチカチカチ、と揺れる秒針。
視界の隅では、それに合わせるようにポタリポタリと点滴の液体が落ちていく。
そのふたつが無かったら、この部屋の時間は止まっているのかもしれないと、錯覚してしまっただろう……。
迷う必要のない問い掛けに、迷う、時間。
本当なら簡単に答えられるはずの、難問。
(どう、しよ……)
「記憶が、ないのかな?」
困ったような声、視線が外れて、ホッと息をつく。
「……。」
記憶なら、ある。
それも、2人分。
……記憶なら、ある。
でも、自分が誰かが分からない。
穏やかに悲しそうに医者が話す。それを事務的だと感じる私。
凄い事故だったこと。同じ服を着た女の子が死んでしまったこと。
私の知り合いだと言う人たちが言うふたつの名前。
「君をとても心配している人たちが居るんだ。とりあえず彼等にあってみるかい?」
私はひとつ、頷く。
今、どの記憶が私のそれであるのか分からなくても。会えば分かるような気がしたから。
4人の人が病室に入ってくる。医者は部屋の隅に下がって、けれども出て行く気配はない。
看護師の姿は見えなかった。
4人の人たちを見る。
どの人も、知った人だ。それも、とても良く。
ゆっくりと見回す。
大好きな自慢のお姉ちゃん。
可愛い私の明夜。
やっぱり大好きな、雷斗くん。
そして……。
名を呼ばれるたびに、思う。
(あぁ、私のことだ)
鈴葉と呼ばれても、悠緋と呼ばれても。
それは、自分のことだと分かるのに。
でも、返事が喉に引っかかって苦しい。
大好きな、大好きな人たち。
大切で、愛しい人たち。
泣きそうに、なる。
お姉ちゃん
明夜
雷斗くん
3人とも縋るような顔をして、目が会うと一言。わたしの名前だけを呼ぶ。
そして……。
視線が、重なる。
不安そうな顔をしたお姉ちゃん。
泣きそうな顔をした明夜。
心配そうな顔をした雷斗くん。
そして、視線が合う。
ふふっと、笑う兄様。
「悠緋」
先の3人が口にした、切羽詰ったような呼び方とは全く違う、落ち着いた呼び方。
それは、何時も聞く日常の音で。
わたしは、そこに。日常のことを思い出す。ありふれた毎日毎日の中で、数えることなど不可能なほど呼ばれ続けた私の名前を。
「兄様」
兄様は笑みを深くする。にっこりと笑う満面の笑顔。それは珍しく、貴重なものだ。
もっとも、珍しくなかったとしても、この方の笑顔は大切な大切なものに違いは無いけれど。
明夜が、太陽のように笑う。
いつもの、お日様のような笑い方。良く知る見慣れたもの。
それと反対に、お姉ちゃんと雷斗くんの表情は固まって凍りつく。
ひとつ。
たった、ひとつだけ――。
自分が、誰であるのかなんて本当のとこ今でも分からない。
けれどもひとつだけ、確かなことがある。
ひとつだけ。
たったひとつだけ。
何かを選べと言われたら。
選ぶモノは決まっていた。
ひとつを選ぶと言うことは、それ以外を選ばないと言うことだ。
この人の呼ぶ声が、私の名前を決めてしまう。
本当の名前などに一体何の意味が在るのだろう。
どんな意味があっても……兄様が、私を悠羽と呼ぶのに返事をしない理由にはならないのだ。
死んでしまった私のことを想う。
チクリと、胸が痛んだ。
本当はまだ続きを考えていましたがここで終わります。
ぶつ切り感じたっぷりで申し訳ありません……。
お付き合いありがとうございました。
お粗末さまでございました。




