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夢現  作者: 天月
1/8

練習用としての作品です。

でも次を書く予定もないですが・・・。

お目汚し失礼します。

部屋を真っ暗にして目を閉じる。

睡魔を感じていたわけではないけれど、横になるとそれは直ぐにやって来て。

夢の世界へと誘って行く。

ふわふわと、漂うように。


カーテンに遮られた朝日が、顔の上に降ってくる。

肌触りの良い毛布をちょっとだけ引き上げてクルンと寝返りを打ってまどろむ。

この時間が、とても好き。

右も左も、上も下も、分からない、関係ない。

フワフワと漂うような、夢に落ちていくような。目覚めに落ちていくような、この瞬間。

生まれる前の雛のような気分になる。

自分の名前すら意味を成さないような、平和なまどろみの中で、目覚めを待つその一瞬。

ひどく安らぐ。


ドアノブが回り扉が開く、人が入ってくる、そして閉まる。

それをどこか遠くで感じながらもう一度寝返りを打つ。

別段、起こさないようにと気遣っているわけでもないのにそれでも殆ど音を立てない優雅な動作でその人は動く。

時折カタカタと音がする。カチャカチャと。騒々しいと表現するには小さな小さな響きであるのに、不思議と目覚めへと導かれる。

それは、部屋中に漂い始めた上質な紅茶の香りの所為かもしれなかった。


「お目覚めでございますか? お嬢様」

見慣れた執事が、見慣れた制服で、見慣れはしても見飽きることがない端正な顔に、どこか作り物めいた笑顔を貼り付けて朝の挨拶をする。

寝台の直ぐ傍にある小さなテーブルに、紅茶を置いて簡単に飲み物の説明をされる。

一口、口に含むと安物には有り得ないまろやかなけれど癖のある味わい。部屋中に香るベルガモットの香りに「アールグレイだわ」と小さく言う。

先ほどご説明申し上げましたでしょう、などと無粋なことを彼は言わずに作り物めいた笑顔を僅かに呆れ顔にすると「はい。」と笑みを含んだ声で小さく言う。

その眼差しは酷く優しい。


タッタッタ―――。

快活な足音が近づいてくる。

ため息をひとつ、そして瞬時に作り物めいた笑顔を取り戻した彼は、部屋の扉を開くと「明夜さま」と心持ち強めに足音の主を確認もせずにそう呼んだ。

もっとも、この家にそぐわない騒々しい足音を立てて歩く人間といえば、呼ばれた彼―メイヤ―ただひとりだけではあったが。


「おはよう、陸斗!」

快活な足音でやって来て、やはり快活な声と笑顔で、そう爽やかに挨拶をする。

その屈託のない明るい挨拶にお小言を封じ込められて「おはようございます、明夜さま」と律儀に返事をする様子がどこか微笑ましい。

そのまま足を止めずに部屋の中に駆け入り、ベッドの上に飛び乗る。

彼が部屋に入ってくると、それだけで、部屋に太陽が入って来たかのように一気に辺り中が明るくなったような錯覚を起こす。

「おはよう、ねえちゃん。」

そう言ってぎゅっと抱き寄せられる。大型犬のような仕草に笑みをこぼしつつ、「おはよう、明夜」と返事をして犬を撫でるように頭を撫でた。

太陽のような笑顔と、朝の挨拶と、幾分過度なスキンシップ。

入り口で、明夜のための自動ドアと化していた彼は柔らかくなりかけていた表情を、もう一度作り物のような笑顔に変えると「明夜さま。お行儀が宜しくありませんね。」と言いながら、わざとらしくひとつ、ため息をついた。

「あ、ごめんごめん。」

悪びれず、という表現そのままに、軽く謝罪を口にする。

重ねて何か言おうかどうか迷っている風の彼に空になったティーカップと御礼の言葉を渡すことでお小言を封じると、“甘いですね”と唇の動きだけでそう伝えてから、きっちり45度まで頭を下げる礼をして音もさせずに部屋から出て行く。


その優雅な動作を何となく目で追っていると、小さな頃から私の意識が他に向くことを極端に嫌がった弟が拗ねたような顔をして自分の方へと優しい動作で振り向かせる。

目が合う。

視線が重なる。

太陽のような、明るい瞳。

どうしてかしら、色は確かに黒なのに、どうしても明夜の全ては太陽から出来ているかのように、明るく、眩しい。

「悠ちゃん。起きたなら部屋に来てって兄貴が言ってたよ」

起き抜けの、閉じかけた瞼を思い切り開く。

“兄貴”

その一言で、頭は一気に覚醒する。

あの人が、呼んでる。待たせてはいけない。

先ほど紅茶を運んでくれた彼――木崎さんが見たら眉をひそめそうな慌しい動作で起き上がって身支度を整えると明夜と一緒にあの人の部屋へと向った。


重厚な扉の前に立ってひとつ深呼吸。

ノックをしようとこぶしを作ったその手が扉にたどり着くより早く、何の気負いもなしに扉が開かれる。明るい挨拶をする声が直ぐ隣からした。

「おはよう兄貴!」

太陽のような、明るい声。決して高いわけではない音を、どうして太陽のようだと思うのだろう。

「おはよう」

それに返される艶やかな声。

明夜を、お日様のようだと思う。

けれどもこの、夜の闇のような方を前にして。この方よりも輝ける存在などないのだ。

この方は神様だ。

神のような人、と言うよりも、私にとって神様はこの人だけ。

イエスキリストよりも、お釈迦様よりも、何よりも尊い。

「おはようございます、お兄様」

黒い瞳がこちらを向く。

明夜の瞳よりももっと、吸引力がある強い瞳、けれども艶やかに甘い。

兄と弟を見比べる。

似ていない兄弟だった、ここまで似ていない兄弟は他に無いんじゃないだろうかと言うほどに、正反対のイメージを与える兄弟も珍しかった。

陰と陽、光と影、太陽と闇、昼と夜。

対極のように、違う2人。けれども甲乙付け難く。どちらも同じほど美しかった。

「おはよう。悠緋、まだ眠そうだね」

からかうような笑み、それに膨れて見せて甘えたように言う。

「悠緋は、朝が弱いんですの。まだ眠いですわ」


悠緋・・・ゆうひ。

一人称はいつだって。そう、いつだって自分の名前だった。

それなのに、何故か。自分の名前をその日最初に口にする瞬間や、紙に書く時。

どうしてか、遠いところまで来てしまったような。何か酷い間違いを犯しているような。取り返しが付かないことをしてしまっているような、焦りにも似た気持ちに囚われる。

一人称はいつだって、自分の名前。自分を呼ぶ私の声。

それは、自分が誰であるのか自分自身で確認する儀式だった。


朝の挨拶が済んだところを見計らって、遠慮がちな声が割ってはいる。

「朝来さま、朝食はどちらでお召し上がりになりますか?」

そこで、さっきの名前も知らない不思議な感情は日常に消えてなくなる。

明日、一番最初に自分の名を口にするその瞬間まで。

声のした方に目を向けると、先ほど自室で見かけた作り物めいた美しい笑み。

「4人分、ここに運んでもらえるかな?」

―トモキさま―と呼ばれた兄様は疑問の形をした命令を、極自然に口にする。

部屋に運ぶよう指示したことで、用件はそこそこ内密なことであろうと予測をつける。

かしこまりました、と言い終えてから、きっちり45度まで頭を下げる礼を残して優雅に部屋を出て行く。まるでさっきの繰り返しのようなその動作を何となく目で追いかけていると、カツンと音がする。

振り向くと兄様と目が合った。

視線と一緒に・・・まるで、心が吸い込まれていくみたい。闇色の瞳、そして、そのくせ与える印象は光そのもののような人。

「お前はよくよく海斗がお気に入りだな」

笑っているようで笑っていない瞳。柔らかいのに、棘のある声音。

どこまでも、美しい人。恐ろしいほどに。

その問いに、私が答えるよりも先に明夜が口を挟んでくる。

「ねえちゃんは、ああいう顔が好みなんだろ。陸斗にもポーッと見とれてたしさ」

兄様よりはあからさまな嫌味ったらしい言い方で不機嫌だと、態度で表す。

「いいえ、悠緋の好みではございませんわ」

静かに、けれどキッパリと言い放つ。

少しの淀みも後ろめたさも無く。はっきりと視線を兄様に固定して、にっこりと。

「ならば、なぜ?」

まっすぐに見返されて、まっすぐ問いかけられる。

私はこの人にだけは嘘はつけない。

「……似ているからです」


会話の間に挟むには少しだけ長い沈黙。呼吸3回分ほどのそれ。

「双子だから、似てるのは当たり前だろ?」

変なねえちゃん、と続けながら明夜が呟く。

「そうねぇ。私には2人のことが見分けられないわ」

正直に言う。別にどっちでも良いから見分けられないのかもしれないと思いつつ。

見分けも付かぬほど、似た兄弟の話はそこで終わる。

正反対と言って良いほど似ていない兄弟が、機嫌よく笑う。


「おはよう~」

ノックもせずにガチャリと扉が開いた。

「おはよう、真昼は悠緋より眠そうだな」

「おっはよ! まひちゃん髪が跳ねてるよ」

「ふふ、悠緋もまだ眠いわ。おはよう、真昼ちゃん」

目を擦りながら入室してきたその人は寝癖で跳ねた癖っ毛を無造作に手櫛で整えるともなしに梳きながらやって来て、普段この部屋で4人で集まる時の定位置に腰掛けると「飯、まだ?」と言う。

自分の兄弟たちを見回して似てないな、って今更ながらに思う。

神名家の4兄弟。

神名朝来

神名悠緋

神名明夜

神名真昼

4人が4人とも、全く似てはいなかった。けれども単独で見ても呼んでも似ているのか似ていないのか分からないような4人の名前が、揃えると誂えたようにぴったりとはまるように。

同じ画家が手掛けた別の絵のように、または、違う楽器で奏でる同じ曲のような私たち。

通常の兄弟が似て異なる存在だとすれば、私たちは全く似てはいないのに、それでも同じ存在のようだ。

運ばれてきた4人分の食事。主に喋るのは明夜と、目が覚めてきた真昼ちゃん。

兄様も私も、喋らない訳じゃないけれど。2人の話に耳を傾け、微笑んで、相槌を打って、時々訊ねる。

兄様の、2人を見る目が言ってる。愛しいと。

そうしてきっと、私も似たような目をして2人を見ているのだろう。

取り分け、明夜のことを。

朝の夢のことを思い出して、どこか胸が詰るような気持ちになる。


この至福の時。毎朝毎朝の繰り返し、これを永遠に変わることなく続ける為になら、何を捨てたって構わないと思う。

そんなことは本来考えることさえ違和感がある当たり前の日常である筈なのに。

愛しさと、幸せと、訳の分からない寂寥感。

愛しい人、愛しい時間、大切なものたち。

幸せが、目に見える形としてここにある。

ここにこうして在れることの幸せ以上に、尊いものなんて私には無いのに。

それでも、ひとつだけ。

世界中の中で何かひとつだけ選べといわれたら。

この幸福な時でもなく、お日様みたいな明夜でもなくて。

ただ夜のような、神様を。一も二も無く選ぶのだろう。比類なき人を。


「どうした?」

そんなことを考えてポーっと見とれていたに違いない私に視線を向けて。

笑みを含んだ瞳で兄様が言う。

私が兄様にこんな風に見とれるのはこれが始めてでもなくて、朝……寝起きはとくにこうして兄様に見とれることは多かった。

「いえ、何でもありません……ただ、見惚れていただけです」

いつも繰り返される変わらない返事を今日もまた口にする。

そうすることで、昨日とまるで同じ1日が始まるような錯覚を覚える。

「ねえちゃんは、本っ当に! 兄貴が好きだよな~」

これまでに何度聞いたか分からない明夜の台詞に苦笑して。視線を外そうと試みるけれど。

どうしても上手く行かなかった。

自分の意思とは反対に追い続ける。“本当に好き”と言うその言葉は正確に言い当てているようでいて、全く見当ハズレなことを言われているような気さえする。

狂った信者が自身の信じる神を崇めるように。

それは純粋な、けれど間違った気持ちなんだと思う。

普通なら居心地も悪くなりそうなほど熱心な視線を向けられても、そんなことには慣れきってしまっているだろう兄様は、何かを意識しているふうでもなく普段通り。

そう、普段通り。

綺麗な兄様に見惚れながら、お日様のような明夜の声。

真昼ちゃんの笑い声に、美味しいご飯。

これほどまでに優しく流れていく時間を、私は他に知らない。

だから、なのかしら?

どうしてか、泣きたいような気持ちになる。


「それで、話なんだが・・・」

唐突に、けれどもちゃんと話の途切れ目に。これ以上ないタイミングで兄様が口を開く。

男の人にしてはやや赤すぎる唇。それは肌の白さがそう感じさせるだけなのかも知れないけれど。

「実は悠緋か真昼に、婚約話がある、受けることにした」

淡々と事実だけを告げる声。そこにはどんな感情も見出せない。

穏やかな、優しい声音、いつもの。

「はぁ? 何それふざけてんの? 嫌よ、絶対嫌!」

「はい、分かりました」

先ほど考えたことがもう一度頭を過ぎる。

似てなくて、けれども同じ。

私たちは、全く違う答えを全く同じタイミングで返す。

どんな人とか、どんな理由でとか。そういう説明がなされる前に。

「じゃぁこの話は悠緋に。詳細は後で」

淡々と、告げる、いつもの声。お前は良い子だな、と言わんばかりの優しい瞳。

この人の、役に立ちたい。そのためになら、どんなことでもするだろうと、思う。


「っ……ねえちゃんっ……っ!」

世界の終わりでもやって来たかのような悲壮が漂う呟き。

―――チクン、と。胸が痛んだ。

この、お日様みたいな弟にそんな顔をさせてしまったことへの罪悪感と、そして暗い悦び。

自分の為に誰かが必死になることは嬉しい、いや、この弟が必死になることが?

「なぁに?」

泣く寸前みたいに歪んだ顔。それでも、お日様みたいな。

なんて愛らしい、可愛い。

そして、愛しい。

それでも正面から問い返せば何も言えずに口を噤む。

明夜にも、分かってはいるのだ。

この“なに不自由なく”暮らしている私たち。けれども“自由がない”と言う意味で、誰よりも不自由なのだろう。


一等地に在る広い敷地。敷地に対しては小ぢんまりとした、けれども豪邸としか呼べない家。

高価で趣味の良い調度品と、品の良い使用人たち。

俗に言えばお金持ち、である我が一族の婚姻は一族の為以外の何者でもなくて。

この年になって、決まった相手が居ないことのほうが珍しく、それは自分がどれだけ大切にされていたかを伺わせると同時に、それ程大切な駒であったのだと思い知る。

切り札にもなり得る私の婚姻。

それが、必要になったと言うただそれだけのこと。

それが、この人のためになったと言うこと。

実際明夜には分かっている。私よりひとつ年下の明夜だけれど、もう随分前に結婚する相手は決まっていた。

「んでもねぇよ……」

珍しく歯切れ悪く、目をそむける。

これを言い出した兄様に食って掛からないところが躾られた犬のようで好感が持てた。

(野良犬は嫌いだわ。)

可愛くて、可愛くて。

撫でたくなってそっと隣に手を伸ばす。

明夜の、確かに黒だけど、日本人にしては赤っぽい柔らかな髪に手が届く、一瞬前にその動きは止められた。

バンッ!!!

真昼ちゃんが机を乱暴に叩いたから。

「と、朝兄! ふざけるな!!」

兄様に食って掛かった真昼ちゃんを見る私の目はきっと柔らかなものじゃないはず。

そんな非難の視線よりも、もっと強い反発をその瞳に真昼ちゃんは兄様を見ていた。

その激しさ、兄様にも平気で楯突く度胸、侮蔑と羨望。

この神名一族の恩恵を受けていながら、義務を当然のように跳ね除けようとするその図々しいまっすぐさに呆れながらも、眩しさを感じてしまう。

決してそうなりたいと思うわけではないけれど。

「別にふざけてないさ、それにお前には、もう関係ない話になっただろう?」

穏やかな優しい声音。けれどもこの人の声には何かがあると思う。

それは毒だったり棘だったり、甘い麻薬のような何かであったり。

魔力、なのかも知れない。どれ程激昂している人間相手も、この穏やかな喋り方ひとつで押さえ込んでしまう何かが確かに、その声にはあった。


それに押さえ込まれて真昼ちゃんがこちらを向く。キッと釣りあがった眦にうっすらと涙が浮かんでいる。

「悠緋も!!! 嫌なら嫌だって、ちゃんと言えよ!」

男の子みたいな話し方をしていても、真昼ちゃんはとても女の子らしい。

自分が嫌だと思うことは他人も嫌だと思うはずだと信じて疑わない純真さや。

例えば今みたいな怒った顔をして怒ることや、そのヒステリックな気の強さ。

思ったことを言葉として発することを躊躇わない愚かしさも、全て。

「悠緋は別に嫌じゃないわよ?」

「……っ! す、好きになれない奴だったらどうする!」

泣きそうな、顔。自分はそうそうに蚊帳の外に出たくせに……。否、だからこそ?

「別に、どうにも。好きになれと兄様は仰らないわ」

それは異様な光景に思えた。

声の大きさや、感情の表し方。話が噛み合う筈もないほどに、同じ場所に居て会話をしているのが不思議なほど、チグハグな態度だと思った。

「明兄が、どんな思いでっ!」

その後には言葉は続かなかった。けれども言いたいことは分かった。

キッと睨み付けられる。

その視線の強さに、きっと……真剣に対峙していたら怯んでいただろうなぁと、ぼんやりと考える。

そして、目線を合わせてからニコと笑んだ。

目が合ったから微笑む。そんな何気なさで。その態度が、相手の神経を逆なですることなど百も承知で。

「……っ!! もういい!!!」

少しも良くはなさそうに、悔しそうな顔をしてそう言い捨てると乱暴に部屋のドアを開けて駆けていく。

もう少し気持ちを上手に隠せば良いのに……。と思う。

それでも“じゃぁ私が代わりに”と言わない真昼ちゃんの傲慢な正しさはやっぱり好きだなぁと思う。

何事もなかったように食後のティータイムを続ける兄様と私。

明夜は「オレ、様子見てくる」と言って席を立った。

本当は、真昼ちゃんの様子を見ることよりも。ここで当たり前のように紅茶を楽しむ私たちの傍から逃げる為に席を立ったのかもしれない。


軽快な足音が去っていくと、時間が止まっているかのような静寂がやって来る。

喧騒はどこまでも遠くて、優雅に、音も立てずに動く兄様の洗礼された仕草に目を奪われる。

目が合えば微笑みをくれる。柔らかな優しい笑みを見ていてふと疑問に思った。

真昼ちゃんが嫌がって、私が頷くことは兄様にだって分かっていた筈。

それなのにどうして、この話をこんな食事時に兄様は持ち出したのだろう?

こっそりと私に言えばあんなふうに真昼ちゃんを怒鳴らせたり傷つけたりすることもなかったはずなのに。

それでも私はその疑問を口にしない。兄様のされることは全て正しいのだから。

まるで人形のようだ。疑問を持つことにすら微かな嫌悪感がある。

それでも、何の疑問も持たないような人形のような駒をこの人は私に望んでいないことも知っていた。


自分の考えに沈むともなしに耽っていると、角1のクラフト封筒を1通と洒落た厚紙に閉じてある恐らくは見合い写真を1冊渡される。

「時間があるときにでも、一度目を通して置くんだよ」

どうやら婚約する相手の見合い写真と、情報であるらしかった。

自分の結婚相手としては欠片ほどの興味もないのだけれど、この人が兄様にとってどう必要なのかが気になった。

渡された物を受け取って。「はい、分かりました」と答えて席を立つ。

兄様の部屋から出て自分の部屋へと戻るために。

兄様の言う“時間があるとき”とは今なのだろうとその言葉の意味を正しく受け取ったから。


誰も居ない部屋のソファに幾分お行儀悪く寝転がる。

A4の用紙を折りたたまずに入れることが出来る封筒の中から丁寧に書類を取り出す。

(え……?)

最初のページの最初の行をみて驚きで書類を取り落としそうになる。

(珍しい、名前だよね……)

『真神雷人―現在は藍川雷人と名乗っている』

そこに書いてある名前は一度も聞いたことも無いまるで知らない名前の筈だった。

けれども物凄く見覚えがあった。

否、見覚えがあることに驚いたわけじゃない。知った名前が書いてあることなど予想されたことだから。

幼い頃から教え込まれている上流階級の家の名前、当主の名前、跡取りになるであろう候補者の名前、重要人物の名前。全て頭の中に入っている。

そこに、全く知りもしない家の、全く知りもしない名前が書いてあったら驚いただろう。

そういう意味でも驚いた。まるで知らない名前……。

サッと家名に目を通す。良く知っている家名だ。神名家ほどではないにしろ、大きな家で。

全く姻戚関係にはない。けれども神名家との関係も良好で、確か、執事として家に勤めてくれている木崎さんはこの家の分家の出だった筈だ。

家に勤める当初、親戚中が情報が洩れはしないかと大反対したのを覚えている。

それを押し切ったのは兄様だ。

婚約話を聞かされたとき、どの家だろうとざっと頭の中で当たりをつけた家のひとつ、では、あるのだけれど………。

当主や跡取りでも、その兄弟でも、まして重要人物としてでも。

その名前を聞いたことはなかった。


ドキドキドキ。

不穏な胸の高鳴り。

ドキドキドキ。

口の中がからからに乾く。

「あ……」

かすれた声を出して、写真を開いた。

「っ!!!」

叫び声を飲み込む。全身が慄く。風邪の引き始めのようなゾクリとした寒気。

どんな社交の場でも見たことはなかった。

けれども目を閉じれば笑顔と、声がまざまざと蘇る。

強烈なめまいに襲われて横になって目を閉じる。

(何故……?)

キーンと言う耳障りな耳鳴り。

ドクンドクンと煩く主張する心臓。

意識してゆっくりと深呼吸を繰り返す。・・・息苦しさに涙が頬を伝っていく。


落ちてバラバラになった書類をのろのろと一枚ずつ拾う。

1文字も逃さぬように食い入るようにそれを見つめた。

「まがみ、らいと……あいかわ、らいと。藍川雷人……。」

真神家の現当主の長男。真神家の当主に子どもが居たとは知らなかった。

次期当主は甥の真神智喜と言う、図々しくも兄様と同じ呼び方の男だった筈。

自分の頭にある情報と、書かれてあることを照らし合わせる。

真神の当主には“正当な”子どもはなし。

つまり正妻には子どもが居ないと言うことだ。となれば愛人の子であるのだろう。

昨年当主の奥方が亡くなってから、甥の智喜と折り合いが悪くなったと言う話は有名だ。

幼い頃から当主として甥を教育していたが、やはり人間の性であるのだろう。

大切な物は我が子へと継ぎたいものなのだ。それは自分の遺伝子を継ぐ物への、自分に対する本能にも組み込まれた愛情。

当然何の教育も成されていない雷人は当主となってもお飾りに過ぎないのだろう。

智喜が補佐として、または当主代理として色々なことは取り決める筈だ。

「お飾り当主の奥方……ね」

各々意図が在るのだろう。

真神の現当主や、実権を握るであろう智喜や、私の愛する兄様の。

そして私は兄様の思惑通りに動きたい。


写真をもう一度見る。見覚えがあった。

家の執事に恐ろしく似ていた。あと何年かすればああなるのだろうと言うほどに。

数年前の彼らの写真だと言われても、頷いてしまいそうな顔だった。

知らない人だった。見たこともない人だった。名前も、恐らく聞いたことがないはずの。

胸がざわついた。胸騒ぎ、落ち着かない。


どれくらい時間が流れたのか。

ノック音に我に返った。返事をする前に扉が開いた。

この部屋にそうして入ってくる人間は一人だけだ。彼の足音にも気づかなかったことに心の中で苦笑する。

……あぁ、部屋が明るい、と。温かくなった、と感じる。

「ねえちゃん。まひちゃん、落ち着いたよ。部屋にもどした」

時計をチラと見て驚く。

藍川雷人のことで茫然自失になっていた時間の長さと。

なるほど今回は、簡単には真昼ちゃんも落ち着かなかったんだなって思い。


明夜の場所を空けるために座りなおした私の隣に腰を下ろして、膝にコロンと頭を乗せる。

いつもの癖で頭を撫でる。飼い猫を甘やかしてでも居るかのような心地になる。

「落ち着いたけど、後で何か……様子、見てやってよ」

真昼ちゃんのことだけを気遣った言葉。

多分、そうした方が良いんだろうことも、自分が何も言われなくてもそうするはずだったことも知っていたけれど。

「イヤ」

天邪鬼にもそう言う。……どうしてか昔から。

この弟には変な独占欲のようなものがある。

「ん……」

何か言いたいことがあるのだろう。口を開く。けれど言わない。

言えないのではなく、言わない。明夜のその大人びた優しさが愛しかった。

嘘だよって言って冗談にすることは容易かった。

けれども、明夜のその優しさに甘えたかった。

「時間稼ぎにしか、ならなかったなぁ……」

ポツンと明夜がつぶやく。それが何を指しているのか私は正確に理解した。

そして恐らくは先ほど真昼ちゃんが言いたかったことでもあるはずだ。

『明兄が、どんな思いでっ!』

知っている。明夜がどんな思いで婚約したのか。

明夜の婚約者とは私より10も年上の人で。離婚歴ありの人だった。最初はその人の弟と私の婚約話が纏まりかけていたところを、明夜の思わぬ動きで私は今日まで自由だったのだ。


写真を拾い上げて寝転がったまま開く。

ガバ!! と起きて食い入るように写真を見つめた後上目遣いで見上げると言う。

「ねえちゃん、写真、見た?」

おずおず、と聞いてくる。何を思っているか分かってクスクスと笑う。

「ええ、見たわ。木崎さんたちに、そっくりね」

「うーっ……ねえちゃん、好みだろ……」

嫌そうに言う明夜が可愛くて。

「好みじゃないって言ったでしょう?」

まるで信じてはいませんと言う膨れた顔をして、ツンと背を向ける。

(もぅ、突っつきたくなるような顔だわ)

「へぇ……真神の長男なんだ。」

封筒の中から書類を取り出して、熱心に見ている。


(藍川雷人、かぁ……)

色んなことを考えたい。考えを突き詰めて混乱した頭のなかに何かの回答が得られれば。

けれども、考えることを拒否する心がある。パニックになっていると言っても過言ではない。

これ以上考えたなら、知りたくはなかった何かを知ってしまいそうで。思い当たりたくない何かに思い当たってしまいそうで。自分自身考えるのを拒否している。

「悠ちゃんってば!」

ハッとなる。至近距離から覗き込まれていて驚く。

「オレ、何度も呼んだんだけど?」

「あ、ごめん」

不機嫌な明夜に反射的に謝る。イライラしてますって態度で「何ボーっとしてたの」と言う。

「うん、何でも……」

「なんでもないわけないだろ!」

私の答えに被せるように、語尾荒く明夜が言う。

うっすらと潤んだ瞳。キッと釣りあがった眦。チュっと頬にキスをして良い子ねと撫ぜる。

「こ・・・こんなんで、ごまかされないからな!」

真っ赤になってそっぽを向く弟にクスクスクスと笑いが止まらない。

「い、いつまで笑ってんだよ!」

クスクスクス、ああ、幸せ。

なにかひとつだけ。

ひとつだけ、大切なものを選べと言われたら。

選ぶのはあの人だけれども。


一番愛しいもは何かと問われたら。

このお日様みたいな笑顔を、思い出すかも知れないわ。

夜の名前を持つのに、それでもお日様みたいな。

夜も明るいと言う意味なら、名は体を現すとはよく言ったものだと思った―――。


部屋を真っ暗にして目を閉じる。

睡魔を感じていたわけではないけれど、横になるとそれは直ぐにやって来て。

夢の世界へと誘って行く。

ふわふわと、漂うように。

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