第24話 そばにいて、の破壊力
氷室凛音は、鍋の前で固まっていた。
正確には、お粥を作っている途中だった。
米は少し柔らかめに煮えている。卵も用意してある。小さく刻んだねぎは別皿に分けて、喉に刺激が強くならないよう量を調整するつもりだった。
手順は頭に入っている。
水加減も問題ない。
火加減も見ている。
なのに、凛音の意識はずっと別の場所にあった。
『あとで、少しだけそばにいてくれる?』
高坂悠真の声が、頭から離れない。
熱のせいで少しかすれていた。
いつもより弱くて、少し頼りなくて、けれど凛音の胸の奥をまっすぐ突き刺してくる声だった。
そばにいて。
そんなことを言われた。
寝ている彼にこっそり会いに行っていた頃とは違う。
起きている悠真が、凛音に向かって言った。
そばにいてほしい、と。
「……無理」
小さく呟いた瞬間、鍋がぽこりと音を立てた。
凛音は我に返り、慌てて火を弱める。
危ない。
看病中に動揺して料理を失敗するなど、本末転倒にもほどがある。
「落ち着いて。これは看病。生活管理。発熱時の適切な対応」
自分に言い聞かせる。
しかし、心の中の別の自分がすぐに反論してくる。
でも、そばにいてって言われた。
凛音は片手で額を押さえた。
熱を出しているのは悠真の方なのに、自分の顔まで熱くなっている。
しっかりしなければならない。
今は浮かれている場合ではない。
悠真は三十七度八分の熱を出している。喉も痛そうだった。体もだるそうだった。夕飯は消化の良いものにして、水分を取らせて、薬を飲ませて、早めに寝かせる。
やるべきことは決まっている。
決まっているのに、胸の奥がずっと落ち着かない。
凛音は卵を溶き、鍋にそっと流し入れた。
白い湯気が上がる。
卵がふわりと広がった。
「……高坂くん、ちゃんと食べられるかな」
そう呟いてから、凛音はまた固まる。
声が心配そのものだった。
生活管理という言葉では、もう隠しきれないくらいに。
◇
お粥を小さな器によそい、スプーンと水、薬をトレーに乗せる。
凛音は一度深呼吸してから、悠真の部屋の前に立った。
ノックする。
「高坂くん。入っていい?」
少し間があった。
「……うん」
返事は、やはり弱い。
凛音は胸がきゅっとなるのを感じながら、扉を開けた。
悠真はベッドで横になっていた。
額には冷却シート。頬は少し赤い。目は開いているが、いつもより焦点がぼんやりしている。
「起きていたの?」
「寝ようとしたんだけど、あんまり眠れなくて」
「無理に寝ようとすると、逆に眠れないこともあるわ」
「医者みたいだな」
「病人は口答えを控えて」
「はい」
「はいは一回」
「はい」
いつもの返し。
けれど、声に力がない。
凛音はトレーを机に置き、ベッドのそばに椅子を寄せた。
「お粥、少し食べられそう?」
「食べる。作ってくれたんだろ」
「当然でしょう」
「当然なのか」
「同居人が発熱しているのだから、消化の良い食事を用意するのは自然な対応」
「生活管理?」
「……看病」
言ってから、凛音は少しだけ目を伏せた。
今、自分は「生活管理」ではなく「看病」と言った。
その違いに、悠真も気づいたらしい。
彼はほんの少しだけ笑った。
「そっか。看病か」
「笑わない。喉に響く」
「厳しい」
「病人用特別規定だから」
「また規定増えた」
悠真はゆっくり体を起こそうとした。
凛音はすぐに手を伸ばす。
「急に起きないで」
「大丈夫」
「その大丈夫は信用できない」
「今日、何回信用失ったんだろうな」
「朝から数えると、かなり」
凛音は枕を背に当て、悠真が少し楽に座れるようにした。
距離が近い。
彼の体温が、いつもより高いことがわかる。
凛音は器を持ち、スプーンを添えた。
「自分で食べられる?」
「さすがに食べられる」
「手、震えてない?」
「震えてない」
「本当に?」
「凛音、過保護になってないか?」
名前で呼ばれた。
こんな状況なのに、胸が跳ねる。
しかし今は看病中だ。
動揺している場合ではない。
「過保護ではないわ。必要な確認」
「そっか」
悠真はスプーンを受け取り、お粥を一口食べた。
ゆっくり飲み込む。
凛音は無意識に息を止めていた。
「……うまい」
その一言で、肩の力が少し抜けた。
「熱があるから、味は薄めにしたけど」
「ちょうどいい」
「熱い?」
「平気」
「喉は?」
「大丈夫」
「無理してない?」
「してない」
凛音がじっと見つめると、悠真は苦笑した。
「そんなに疑われると、お粥一口食べるだけで試験みたいなんだけど」
「重要な試験よ」
「合格?」
「今のところ」
「厳正だな」
悠真は少しずつお粥を食べた。
いつもよりゆっくり。
途中で咳をすると、凛音はすぐに水を差し出す。
「飲んで」
「ありがとう」
「急がなくていいから」
「うん」
素直な返事。
普段の悠真より、ずっと素直だった。
熱のせいかもしれない。
体が弱っているからかもしれない。
けれど、凛音にはその素直さが少し苦しかった。
普段なら遠慮するところで、今日は受け取ってくれる。
水も、薬も、世話も。
そばにいてほしいという言葉も。
凛音は器を受け取りながら、少しだけ視線を落とした。
「全部食べられそう?」
「半分くらいでいいかと思ったけど、意外といける」
「無理はしないで」
「凛音が作ったから、残すのもったいない」
スプーンが止まった。
いや、持っているのは悠真だ。
止まったのは凛音の思考だった。
「……そういうことを」
「熱あるときに言うな?」
「そう」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「嬉しいから困る?」
悠真が弱い声でそう言った。
凛音は口を結んだ。
いつものやり取りなのに、今日は破壊力が違う。
熱で少し潤んだ目で言われると、余計に。
「……今は、困るより心配が勝つ」
正直に言うと、悠真は目を丸くした。
「そっか」
「だから、ちゃんと治して」
「うん」
「私を心配させないで」
言ってしまった。
凛音は自分の言葉に少し驚いた。
でも、取り消さなかった。
悠真はしばらく凛音を見て、それから小さく頷いた。
「わかった」
◇
お粥を食べ終え、薬を飲ませ、もう一度熱を測る。
三十七度九分。
ほとんど変わっていない。
「上がってないだけ、まだいいわ」
「下がってもいないけどな」
「今日は寝ることが仕事」
「仕事なら仕方ない」
「そう。だから働いて」
「寝る仕事って、楽そうで難しいな」
悠真はそう言って、ゆっくり横になった。
凛音は冷却シートを貼り直し、タオルケットを肩までかける。
「寒くない?」
「平気」
「暑くない?」
「それも平気」
「水、ここに置くから」
「うん」
「何かあったら、すぐ呼んで」
「呼んでいいのか?」
「当たり前でしょう」
「凛音も休んでいいからな」
「私は大丈夫」
「それも信用できないやつじゃないか?」
悠真が弱く笑う。
凛音は少しだけ眉を寄せた。
「私は病人ではないもの」
「でも、学校あったし、看病してくれてるし」
「問題ない」
「無理するなよ」
「高坂くんに言われたくない」
「たしかに」
悠真は目を閉じかけて、また開いた。
「凛音」
「何?」
「……さっきの、覚えてる?」
「さっき?」
「そばにいてって言ったやつ」
凛音の心臓が、また跳ねた。
本人が覚えていた。
熱でぼんやりして口にしただけかと思っていたのに。
「覚えているわ」
「ごめん。変なこと言った」
「変ではない」
「そうか?」
「病人が不安になるのは自然」
「自然か」
「ええ」
凛音は椅子に座り直した。
ベッドの横。
悠真の手が届く距離。
「いるわ」
凛音は言った。
「ここに」
悠真は少しだけ安心したように息を吐いた。
「ありがとう」
「寝るまで」
「うん」
「寝たあとも、少し様子を見る」
「それ、結局ずっとじゃないか?」
「必要なら」
「凛音らしいな」
彼はまた目を閉じた。
部屋が静かになる。
凛音は椅子に座ったまま、悠真の呼吸を聞いていた。
寝息ではない。
まだ起きている。
たまに喉が引っかかるように小さく咳をする。
そのたびに、凛音の胸が痛む。
「水、飲む?」
「……少し」
凛音はすぐにコップを取った。
悠真が上体を起こそうとする。
「そのままで」
「飲みにくいだろ」
「少し起こす」
凛音は枕の位置を調整し、コップを渡した。
手が触れる。
悠真の手は熱い。
凛音は思わず眉を寄せた。
「熱い」
「熱あるからな」
「わかっているけど」
「凛音の手、冷たい」
「嫌?」
「嫌じゃない」
悠真は水を飲んだあと、ぽつりと言った。
「冷たくて、気持ちいい」
その瞬間、凛音は動けなくなった。
まただ。
熱のせいで、悠真が素直すぎる。
普段なら絶対に言わないようなことを、何でもない顔で言う。
しかも本人には悪気がない。
「……そういうことを」
「今度は何だ?」
「熱があるときでも、言わないで」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
凛音はコップを受け取ろうとした。
そのとき、悠真の指が凛音の手に触れた。
触れただけでは終わらなかった。
熱で少しぼんやりしているのか、悠真はそのまま凛音の手を軽く握った。
「高坂くん?」
「……少しだけ」
悠真の目は半分閉じている。
声も眠そうだった。
「手、冷たくて気持ちいいから」
凛音は息を止めた。
離さなければ。
そう思った。
でも、悠真の手は熱くて、指先は少し力が抜けていて、握り方は弱い。
なのに、安心したような顔をしている。
離せない。
凛音は椅子に座ったまま、手を握られたまま固まった。
「……これは」
誰に言い訳するでもなく呟く。
「看病だから」
悠真は返事をしない。
目を閉じている。
それでも、凛音の手を離さない。
凛音は小さく息を吐いた。
「緊急時、だから」
かつて停電の夜に使った言葉を、また心の中で持ち出す。
生活管理。
看病。
緊急時。
どの言葉を使っても、この胸の高鳴りは隠しきれない。
凛音は悠真の手をそっと握り返した。
ほんの少しだけ。
彼が安心して眠れるくらいに。
「……早く、よくなって」
声は、ほとんど祈りだった。
悠真は返事をしなかった。
けれど、彼の表情が少しだけ緩んだ気がした。
凛音はそのまま、彼のそばにいた。
約束したから。
看病だから。
そして、それ以上に。
自分が、そうしたかったから。




