第13話 弁当の送り主は秘密です
「お前、その弁当、誰かに作ってもらってるだろ」
佐野の声は、妙に確信に満ちていた。
昼休みの教室。
周囲では弁当を広げるやつ、購買パンをかじるやつ、スマホを見ながら笑っているやつがいる。
そんな普通のざわめきの中で、俺だけが取り調べ室に座らされている気分だった。
「……弁当は自然発生しないからな」
「そういう屁理屈じゃなくて」
佐野は俺の机に肘をつき、ぐっと顔を近づけてくる。
「誰に作ってもらった?」
「親戚」
「何回目だよ、その親戚」
「親戚は何回いてもいいだろ」
「人数の問題じゃない。お前の親戚、尽くし方が重いんだよ」
「重いって言うな」
「いや重いだろ。卵焼きに唐揚げにおにぎりだぞ? しかも彩りにブロッコリーとミニトマト。これはただの昼飯じゃない。感情が詰まってる」
「弁当に感情を読むな」
「読むだろ。男子高校生の弁当でミニトマトがあんな端っこにきれいに収まってる時点で、作り手は相当ちゃんとしてる」
妙に鋭い。
こういうときだけ佐野の観察眼が無駄に働く。
俺は弁当箱の蓋を閉め、包み直した。
「まあ、とにかく秘密」
「秘密って言った!」
「言ったけど」
「つまり、言えない相手なんだな?」
「違う」
「違わない。普通の相手なら言えるだろ。母さんとか姉ちゃんとか」
「うちに姉はいない」
「じゃあ妹」
「いない」
「じゃあ親戚」
「だから親戚」
「戻った!」
佐野は大げさに頭を抱えた。
俺は水筒のお茶を飲む。
佐野がじっとこちらを見ている。
「高坂」
「まだ何かあるのか」
「その弁当作った子、同じ学校?」
危うくお茶が変なところに入りかけた。
俺は咳をこらえながら、できるだけ普通の顔を作る。
「なんでそうなる」
「反応」
「俺、まだ何も言ってない」
「何も言ってないのに反応した」
「してない」
「した」
まずい。
俺は本当に顔に出るらしい。
いや、佐野が鋭すぎるだけかもしれない。
どちらにしても、この話題は危険だ。
「佐野」
「おう」
「英語の課題、次の授業までだぞ」
「うわ、急に現実を突きつけるな」
「忘れてただろ」
「忘れてた」
「やれよ」
「高坂、ノート貸して」
「嫌だ」
「弁当の送り主を聞かない代わりに」
「脅迫の仕方が雑だな」
佐野は笑いながらも、ようやく自分の席へ戻っていった。
助かった。
俺は小さく息を吐く。
弁当箱を鞄にしまおうとして、もう一度メモが目に入った。
『卵焼きが甘すぎたら、次は調整します』
その下に、俺が送ったメッセージ。
『甘い方が好き』
既読はついた。
返信はまだない。
でも、廊下の向こうで凛音が耳を赤くしていたのを俺は見た。
あれが返事みたいなものだと思うと、胸の奥が妙に温かくなる。
その温かさを悟られないように、俺はあえて英語の教科書を開いた。
英文はまったく頭に入ってこなかった。
◇
同じ昼休み。
氷室凛音は、教室の自分の席で弁当箱を開いていた。
中身は、今朝作ったものとほとんど同じ。
卵焼き、唐揚げ、ブロッコリー、ミニトマト、小さなおにぎり。
ただし、悠真の弁当の方が、卵焼きを一切れ多く入れてある。
唐揚げも一つ多い。
それは、たまたまではない。
高坂くんは、朝ちゃんと食べても昼にはお腹が空く。
体育がある日は特に。
今日は体育がないが、昨日少し寝不足だったはずだから、体力回復のためにタンパク質を多めにした。
――ということを、凛音は誰にも言えない。
「凛音」
向かいの席から、白川沙耶が顔を覗き込んできた。
「なに」
「最近、お弁当がさらにきれいになってない?」
「そう?」
「そうだよ。前から綺麗だったけど、最近はなんか……気合い入ってる」
「料理の練習」
「またそれ?」
「料理は生活に必要だから」
「凛音、最近そればっかり言ってない?」
沙耶はおかしそうに笑った。
凛音は卵焼きを一つ箸でつまむ。
今朝、悠真が「甘い方が好き」と言った。
正確にはメッセージで言った。
あの文字を見た瞬間、凛音はスマホを落としそうになった。
甘い方が好き。
それは卵焼きの話だ。
絶対に卵焼きの話だ。
わかっている。
けれど、文字だけで見ると、少しだけ別の意味に見えてしまう。
甘い方が好き。
甘い方が。
好き。
凛音は箸を持つ手に力を入れた。
だめ。
学校で思い出してはいけない。
「凛音、顔赤い」
「気温」
「今日は涼しいよ」
「体温調節」
「その言い訳も聞き飽きてきたなあ」
沙耶は頬杖をつく。
「もしかしてさ」
「なに」
「誰かにお弁当作ってあげてる?」
凛音の箸が止まった。
本当に一瞬。
だが沙耶には十分だった。
「え、図星?」
「違う」
「今の間は図星の間だった」
「白川さん」
「はい」
「人には、踏み込んではいけない昼休みがある」
「昼休み限定なんだ」
「午後の授業に支障が出るから」
「出てるのは凛音の方じゃない?」
沙耶は楽しそうだった。
凛音は無表情を保つ。
保てているはずだ。
でも、耳が熱い。
たぶん赤い。
「誰かに作っているわけではないわ」
「じゃあ、余った?」
「……作りすぎた」
言った瞬間、自分でもまずいと思った。
作りすぎた。
悠真に対して使っていた言い訳が、口からそのまま出てしまった。
沙耶の目がきらりと光る。
「へえ。作りすぎたんだ」
「ええ」
「で、その作りすぎた分は?」
「……処理した」
「誰が?」
「適切に」
「適切に誰が?」
「白川さん、午後の古典の予習は?」
「凛音が逃げた!」
「逃げてない」
「逃げてる。めちゃくちゃ逃げてる」
沙耶は笑ったが、凛音は笑えなかった。
まずい。
最近、自分でも言い訳が雑になっている自覚がある。
悠真の前では、まだ何とかごまかせている。
いや、ごまかせていないかもしれない。
むしろ最近の悠真は、何かをわかったうえで知らないふりをしてくれているような気がする。
それが優しくて。
だから余計に、苦しい。
「ねえ、凛音」
「なに」
「好きな人でもできた?」
卵焼きが、箸から落ちかけた。
凛音は慌てて持ち直す。
危ない。
弁当箱の中に落とすところだった。
「……どうして、そうなるの」
「最近、雰囲気が違うから」
「違わない」
「違うよ。前はもっと、誰にも興味ありません、みたいな感じだったけど」
「そんな顔をしていた?」
「してた。かなり」
「……そう」
「でも最近、たまに遠く見てるんだよね」
沙耶は窓の外をちらりと見る。
「誰かのこと考えてるみたいな顔」
凛音は返事をしなかった。
できなかった。
悠真のことを考えている。
朝食を食べる顔。
卵焼きを褒めてくれた声。
名前を呼ぶときの少し照れた表情。
夜中に水を飲んだときの、優しい横顔。
考えないようにしても、すぐ浮かぶ。
学校では距離を取ると決めているのに、廊下で姿を見つけるだけで目が追いかけてしまう。
「凛音」
「……なに」
「今、すごくわかりやすかった」
「何が」
「好きな人いるんだ」
「いない」
否定が一拍遅れた。
沙耶はそれを聞き逃さない。
「今のは、いる人の否定」
「いない」
「じゃあ、気になる人?」
「……」
「沈黙!」
「白川さん」
「はい」
「お弁当を食べなさい」
「はーい」
沙耶は笑いながら自分の弁当を食べ始めた。
しかし、その目は完全に面白がっていた。
凛音は小さく息を吐く。
好きな人。
その言葉が胸の中で小さく跳ねる。
いる。
いるに決まっている。
ずっと前からいる。
けれど、それを口に出す勇気はまだない。
たぶん、悠真本人に言う勇気も。
友人に打ち明ける勇気も。
凛音にはまだ、足りていなかった。
◇
午後の授業は、妙に長かった。
俺は英語の課題をごまかし切れなかった佐野にノートを貸す羽目になり、代わりに佐野から「弁当の送り主については今日のところは保留」という謎の判決を受けた。
保留。
つまり、追及は終わっていない。
放課後になっても、佐野はまだこちらを見てにやにやしている。
「高坂」
「なんだよ」
「今日、帰り遅い?」
「普通」
「寄り道する?」
「しない」
「誰かと待ち合わせ?」
「しない」
「早いなあ、否定」
「勉強しろ」
「出た、便利な逃げ台詞」
俺は鞄を持って立ち上がった。
今日は凛音と時間をずらして帰る。
いつも通りだ。
だが教室を出て廊下を歩いていると、隣のクラスの前で凛音の姿を見つけた。
彼女は白川さんと話している。
学校の凛音。
姿勢がきれいで、表情はほとんど動かない。
でも、今日は少しだけ違った。
白川さんが何か言うたびに、凛音の耳が赤くなっている。
何を話しているのだろう。
気になる。
気になるが、見てはいけない。
昨日から噂は少し残っている。
ここで不自然に視線を送れば、また誰かに見られる。
俺は前を向いて通り過ぎようとした。
その瞬間、白川さんと目が合った。
にこりと笑われた。
まずい。
なぜだかわからないが、まずい。
「高坂くん」
呼ばれた。
俺は足を止めるしかない。
「白川さん」
「今帰り?」
「うん」
「凛音もそろそろ帰るんだって」
凛音の肩が、ほんの少し跳ねた。
「白川さん」
凛音が低い声で名前を呼ぶ。
「何?」
「余計なことを言わないで」
「まだ何も言ってないよ?」
「その笑顔がすでに余計」
「ひどい」
白川さんは楽しそうだった。
俺は状況が読めないまま、凛音を見た。
彼女は俺と目が合った瞬間、すぐに視線を逸らした。
学校だから。
わかっている。
でも、家では名前を呼ぶことを許された相手が、学校ではこうして距離を取る。
その落差が、少しだけ胸をくすぐる。
「高坂くん」
白川さんが言った。
「凛音のお弁当、最近すごく可愛いんだよ」
「え?」
「白川さん」
凛音の声が一段低くなる。
「卵焼きとか、すごく上手で」
「あ、そうなんだ」
「高坂くん、卵焼き好き?」
俺は言葉に詰まった。
白川さんは、たぶん何かを探っている。
そして凛音は、今にもその口を手で塞ぎたいという顔をしている。
いや、表情は無表情なのだが、俺にはもうわかる。
「好き、かな」
「甘いのとしょっぱいの、どっち?」
ピンポイントすぎる。
俺は凛音を見た。
凛音は見ないふりをしている。
でも耳が赤い。
「甘い方」
俺は答えた。
凛音の指先が、鞄の持ち手をぎゅっと握った。
白川さんはそれを見て、にやっと笑った。
「そっか。凛音、よかったね」
「なぜ私に言うの」
「なんとなく」
「なんとなくで人を巻き込まないで」
「巻き込んでないよ。ね、高坂くん?」
「俺に振らないでほしい」
白川さんは声を出して笑った。
凛音は完全に無表情だが、耳だけは正直だった。
「じゃあ、俺、帰るから」
「うん。またね、高坂くん」
「また」
凛音には、学校用の距離で軽く会釈だけする。
彼女も同じように会釈した。
ただ、そのすれ違う一瞬。
凛音が本当に小さな声で言った。
「……甘い方」
俺だけに聞こえるくらいの声。
それだけだった。
俺は振り返らなかった。
振り返ったら、顔が緩むのを隠せないから。
◇
家に帰ると、凛音は少し遅れて戻ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
俺が返すと、凛音は玄関で靴を脱ぎながら、少しだけこちらを見た。
「……白川さんが、変なことを聞いてごめんなさい」
「卵焼きのこと?」
「ええ」
「別に変じゃなかったよ」
「変だったわ」
「まあ、少し探られてる感じはしたけど」
「かなり探られていた」
凛音はリビングに入り、鞄を置いた。
「白川さんは、鋭いから」
「佐野も鋭い」
「佐野くん?」
「弁当のこと、かなり怪しまれてる」
「……そう」
凛音は一瞬だけ不安そうな顔をした。
「迷惑だった?」
「全然」
「本当に?」
「本当に。むしろ嬉しかった」
言うと、凛音は鞄の持ち手を握ったまま止まった。
「……そういうことを」
「急に言うな?」
「言おうとした」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
「嬉しいから困る?」
昨日と同じ流れで言うと、凛音は少しだけ目を細めた。
「高坂くん」
「はい」
「最近、少し意地悪」
「そうかな」
「そう」
「嫌?」
「……嫌ではない」
その返事に、俺の方が言葉を失った。
凛音は赤くなった顔を隠すように、キッチンへ向かう。
「夕食、作る」
「手伝う」
「今日は私が作る日」
「じゃあ洗い物は俺」
「ええ」
いつもの会話。
でも、今日の空気は少し違った。
学校でお互いの友人に探られたせいか、二人だけの秘密が少しだけ外に漏れかけているような感覚がある。
それは怖い。
けれど、どこかくすぐったい。
夕食の準備をしながら、凛音はいつもより口数が少なかった。
俺も無理には話しかけなかった。
ただ、隣に立って味噌汁を見たり、皿を出したりする。
その沈黙は、もう気まずくない。
むしろ落ち着く。
「凛音」
「なに?」
「明日の卵焼きも、甘い方がいい」
凛音は包丁を置いた。
危ないからかもしれない。
いや、たぶん照れたからだ。
「……弁当の話?」
「うん」
「作るとは言ってない」
「作りすぎたら」
「……作りすぎたら」
「処理する」
「処理という言い方は、やめて」
「佐野にも言われた」
「当然よ」
凛音は少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、食べる」
「そうして」
「残さない」
「知ってる」
「知ってる?」
「高坂くんは、そういう人だから」
さらりと言われた。
俺は返事に詰まる。
凛音は何でもない顔で味噌汁の火を弱めた。
この人は、たまに自分がどれだけ強い言葉を言っているのかわかっていない。
◇
その夜。
夕食と勉強を終え、俺は自分の部屋に戻った。
ベッドに座り、今日のことを思い返す。
佐野に弁当を追及された。
白川さんに卵焼きの好みを聞かれた。
凛音は学校で小さく「甘い方」と言った。
家では、明日の卵焼きの話をした。
外堀が少しずつ埋まっている。
でも、俺たちはまだ真ん中に立ったまま、言葉を言えずにいる。
スマホが震えた。
凛音からだった。
『明日の卵焼きは、少し甘めにします』
俺は画面を見て、思わず笑った。
返信を打つ。
『楽しみにしてる』
すぐに既読がついた。
少し間を置いて、返事が来る。
『作りすぎた場合だけです』
俺はまた笑った。
『了解。間違いは誰にでもあるから』
今度は、しばらく既読だけがついて返事がなかった。
やりすぎたか。
そう思ったとき、短いメッセージが届いた。
『高坂くんは、ずるいです』
俺はベッドの上でしばらく動けなかった。
◇
一方そのころ。
凛音の部屋では、彼女がスマホを両手で握りしめたまま、ベッドに座り込んでいた。
『高坂くんは、ずるいです』
送ってしまった。
送ってから、すぐ後悔した。
ずるい。
それは本音だった。
優しくて、待ってくれて、気づいていないふりをしてくれて、たまに名前を呼んで、たまに意地悪をする。
そんなの、好きになるなという方が無理だ。
いや、もう好きなのだけれど。
凛音はスマホを枕に伏せた。
「……だめ」
小さく呟く。
明日、普通の顔で会える気がしない。
学校では、いつも通り氷室凛音でいなければならない。
家では、少しだけ凛音でいられる。
その切り替えが、日に日に難しくなっている。
凛音は枕元のノートを開いた。
『高坂くん同居生活記録』
今日の欄に、ゆっくり文字を書く。
『卵焼きは甘い方が好きらしい。明日は少し甘くする。作りすぎる予定』
そこまで書いて、ペンを止める。
作りすぎる予定。
もはや言い訳として破綻している。
凛音はしばらく考え、最後に小さく書き足した。
『白川さんに、好きな人がいるのかと聞かれた』
否定した。
でも、できなかった。
完全には。
凛音はノートを閉じる。
その瞬間、沙耶の昼間の声が蘇った。
――好きな人でもできた?
凛音は枕に顔を埋めた。
「……いる」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
いる。
ずっと前から。
そして今、同じ屋根の下にいる。




