3-18 自分だけ十年遅れの異世界着
もしも、クラスの中で自分だけ別の時代に転移してしまったら……
体育祭の日の放課後、教室は勝利の余韻で揺れていた。腕章の汗、洗い立ての体操着の匂い。黒板には『クラス対抗リレー優勝!』。よく冷えたジュースの温度が指先に移る。
窓際では菊池がリボンを振り、「見ろ、超速スタートの証拠だぜ」と自慢する。後ろで中島が「走り方教えて」と乗り、笑いが広がる。美術部の麻衣は寄せ書きを配り、誰かが頭に巻いて、また笑いが弾む。
委員長の朝倉が黒板消しを手に立つ。
「よし、まずはアンカーに乾杯!」
「乾杯!」
プラスチックの音が重なり、午後の光がいっせいに弾けた。朝倉の隣にいると、不思議と安心する。あいつはまず先頭を走り、次に笑わせ、最後にみんなを集める。
「明日、文化祭の話も詰めるぞ。演出は朝倉」
「お前が言うな。台本は俺が書く。もう文化祭の話早くね?」
「そーだせっかちすぎるぞ」
話題は途切れず流れ、窓の外では入道雲がゆっくり形を変える。ふと沈黙の隙間で、朝倉が俺の肩を軽く叩いた。
「このあと飯行こう。店は任せろ。相川、遅刻すんなよ」
「絶対無理だと思ってたくせに」
と誰かが突っ込んで、また笑い。
最後に一枚!と菊池がスマホを掲げる。全員で肩を組み、朝倉が真ん中でVサイン。シャッター音一回の画面の中に汗と笑いが残る。文化祭も全力で行くぞ、という朝倉の一言に自然と背筋が伸びた。
「そろそろ黒板消すぞ」
朝倉が黒板消しを取る。名残惜しいが、明日も授業は来る──と心の中でごちた次の瞬間。
黒板消しの布の端から、白いチョークの粉がふわりと舞い上がった。落ちた粉はそのまま床で細い白線になって滑り出す。一本が二本に、二本が曲線に変わり、机の脚を縫うように幾何学が広がった。
「なんだそれ」
菊池のペンが机から転がり、白い線に触れた瞬間──フッ、と音もなく消えた。転がり続けるはずの軌跡だけが無傷で残る。息が詰まる音が教室のあちこちで連鎖した。
白線は瞬く間に床一面へ張り巡り、足首の高さでは細い輪が浮かび、椅子の脚の影にまで染み込んでいく。下手に動けば、さっきのペンみたいになる。全員がそれを同時に理解した。
「全員、その場。机は動かすな。窓際は一歩下がれ、扇風機切って!」
朝倉の声はよく通る。ちょうどその時、教室隅の扇風機が首を振り、風に乗った粉がぶわっと舞い上がった。落ちた粉が床に触れるたび、新しい輪がぱち、と灯る。粉そのものが、線の“餌”のように図形を増やしていく。
菊池がスイッチを叩き、麻衣は寄せ書きを胸に抱え直す。朝倉は教室を一瞥して距離と逃げ道を測り、円の手前に立って皆の盾になった。
「深呼吸。吸って──吐け。視線は足元。白い線には触れるな。半径二歩、近づくな」
白線は円を閉じ、内側に細かな記号がぱちぱちと点る。粉は渦を巻き、中心がふくらむ。
俺は反射で手を伸ばす。けれど朝倉の腕に触れる直前、見えない膜に指がすべって止まる。朝倉の瞳が一瞬だけ驚きに揺れ、すぐ強い色に戻った。
「相川、俺の後ろ。声だけ聞け」
円の縁が細く発光し、教室のタイルに白い輪が映る。世界が弾ける前の一拍、空気が息を止め、胸の内側から糸を引かれる感覚。
床がふっと遠ざかった。声が一枚ずつ剥がれていく。朝倉の口が何かを言う形に動くのが見えるのに、音は届かない。白い線の縁から立ち上がった光が天井へ伸び、俺の身体だけをぴたりと掴んで引き上げた。
指先を伸ばす。膜の向こうの腕に、ついに指がかすった。確かな温度。だが次の瞬間、引力が勝つ。視界の端で白線がぱちぱちと点り、菊池がスイッチを握りしめる姿、麻衣が寄せ書きを抱えて固まる姿、そして朝倉が一歩踏み出して全員を庇う姿。最後に見えたのは、彼の目の色──驚きと、俺を離す決意と、無事でいろという願い。
光がすべてを飲み込む。無音。落下でも上昇でもない、位置だけが書き換わる感覚。足裏が硬いものに触れたとき、そこは見知った場所ではなかった。
長い廊下。色の抜けたベンチが並び、行き止まりの見えない空間に掲示板らしきものが宙に浮く。
膝が抜けそうになり、近くのベンチの背に手をつく。手の震えが木目に伝わる。喉がからからで、声を出そうとしても空気ばかり吸い込んでしまう。さっきまでの教室の匂いが急速に薄れていく。頭の奥で遅れて鼓動が鳴る。ここはどこだ。さっきの笑い声は。朝倉たちは。
そう俺が絶望に触れていると、白地に黒い文字が点滅しては固まった。
《注意:教室内の白線(粉末媒介)は安定化処理中。危険域は縮小予定》
“きっとみんなは無事だ”と心に言い聞かせるのに、身体はゆっくりしか従わない。指先が冷え、呼吸が浅くなる。名前を呼ぼうとして、声にならない息が漏れた。
『転移便:分割運行。現在便:遅延。到着先:王都南門。受入:図書塔司書セラ。遅延理由:神的要因。処理:完了』
角の取れた機械音が掲示板のほうから聞こえる。音が消えると廊下の奥の壁が静かに形を変え、扉が現れた。押し開けると、腰高のカウンターと格子窓。窓の外からは、人のざわめきが分厚い石で少しだけ鈍って届く。
カウンターには革の水筒。栓を抜き、少しだけ口をつける。本来なら警戒すべきだが、つい口をつけてしまった。水はぬるいのに、喉を通った瞬間、肺の奥が急に自分のものに戻った気がした。震えはまだ止まらない。
控室の反対側の扉の閂が、内側から外れる音がした。
「ご到着を確認しました」
扉が開き、灰色の外套の女性が現れる。こちらの呼吸に合わせて一拍待ち、口を開いた。
「図書塔の司書、セラです。以後の案内を担当します。遅延は“神的要因”。天災扱いになります──お疲れさまでした」
差し出された青い封筒には《転移遅延証明書》。もう一つ、手のひら大の金属板。片面に小さな花の刻印、裏に《南封運用鍵》。
「まずは水をもう一口。吸って、吐いて。……落ち着いたら行きましょう。ここは南門の到着所です。外はすぐ広場です」
頷くと、セラは控室から短い石の廊下へ導き、最後の厚い扉の取手に手をかけた。「眩しさが来ます。ゆっくり目を慣らして」
扉が開く。光が薄れ、音が一段増える。金属の打ち合う音、馬のいななき、料理の匂いも。眩しさが遅れて目に届き、石畳が足の下で確かになった。尖塔が青空に伸び、燕の風見が南を指す。周囲のざわめきは、見たことのない街の生活そのものだ。
眩しさに目を細める俺の歩幅に合わせ、セラは門楼の陰まで数歩だけ誘導した。
「ここが南門広場です。まず、深呼吸を。……はい。歩けますか」
やたら深呼吸が多いことに疑問を持ちながらもうなずくと、
「落ち着いたら、開封を」
とセラは青い封筒を軽く示した。
封を切る手がわずかに震えた。中には日本語で注釈がびっしりの地図と、見慣れた字の短い手紙。
《間に合ったな、相川。南の封を三日以内に調整。図書塔で鍵を受け取り、封の前で二回叩いて一歩下がれ。管理者の窓が開く。手順はメニュー通り。遅れた時間は、俺たちが稼いだ》
攻略本みたいな文言の、最後の句点だけが濃い。胸の奥に、教室のチョークの匂いが一瞬だけ戻る。
「広場上の台座に“記録”が追加されています」
セラは鐘楼脇の石段を指し示した。影は涼しく、息が整っていく。段を上がるたび、喧噪が背中へ遠ざかり、白い石の輪が視界に広がった。中央には十五の台座。花束や腕章、古びたノート。十六番の位置だけがぽっかり空いている。
指先で一番手前の台座に触れる。冷たさで指の震えが止まった。縁には走り書きがあった。
《出席番号16へ。南の封を三日以内に。図書塔で鍵を借りろ。遅れた時間は、俺たちが稼いだ》
喉の奥がきゅっとなる。近くの石板に彫られた文字が目に入った。
《後続便案内:一年後三名/──年後/七──》
風化してところどころ薄い活字が、現実の重さで胸に沈んだ。
だが悪いことばかりではない。みんなは生きていたのだ。俺より前にここに来たみんなも、数年後に来るであろう友達も。
そう思うだけでいくらか軽くなった。
「あなたは“間”をつなぐ役目です、最初の十五人とこれから来る仲間の」
いくらか表情の和らいだ俺を見てから、セラが安心したような笑みを浮かべ、語りだす。
「彼らは『世界の脅威』を相手に戦いました。いきなり異世界からきて右も左もわからない中で」
聞けば10年ほど前まで、この世界はどこも戦禍の真っただ中だったらしい。
そんな中朝倉含む15人は転移してきた。全員『特殊な能力』を転移時に獲得していたみたいだが、きっともれなく全員恐怖していただろう。
それでも、”いつか絶対元の世界に戻る”という思いの元、恐怖を抑えながら戦った。だが──
「敵を大きく弱体化させることはできましたが、完全には滅ぼせず彼らは封印されてしまった。今でこそ多少平和になりましたが、いずれは敵も力を取り戻すことになるでしょう」
本来ならば俺たち全員で転移されてくるはずだった。セナ曰く、全員いれば勝てただろうとのことだ。
だがそうはならなかった。このままでやがてはまた戦禍に包まれることになる。だから──
「いきなり見ず知らずの者が頼むのもおこがましいですが──どうか。どうか力を貸してくださいませんか?」
正直、まだ怖い。自分だけ別の時代に異世界転移するし、敵と戦っていかなければならない。
だが、脅威に対し対抗してくれた『前』のみんなのためにも。これから来るであろう『後』とのみんなのためにも。
俺は意を決し、最初の鍵を回しに、セナと共に南へ向かう。





