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未来視の結果、冷酷公爵が私にメロメロでした

作者: 月川はるの


 この世界には二つの大陸があり、そのひとつ「エルヴェイン」は、貴族制度が深く根付いた国だ。

 王家を頂点としたこの国には、王家に匹敵するほどの権威を持つ公爵家がいくつかある。

 その中でも異彩を放つのが、「氷の公爵」と呼ばれる男が率いるベルンハルト公爵家だ。



 クラウス・ベルンハルト公爵。

 冷徹な軍略家であり、感情を持たぬ戦略家の一族として知られる彼は、人々に畏怖され、恐れられていた。



 ――そんな男が、私の婚約者になる。

 その知らせを聞いた瞬間、私は思わず手に持っていたティーカップを落としそうになった。



「……今、なんと?」

「おまえの婚約が決まった。相手はベルンハルト公爵だ」

 静かに告げる父の声が、妙に遠く聞こえる。



「ちょっと待ってください、お父様。それはつまり、私が“氷の公爵”に嫁ぐということですか?」

「そういうことだ」


 さらりと言う父に、私は思わず頭を抱えたくなった。

 政略結婚が珍しくないことは理解している。

 公爵家の娘である以上、家のために結婚するのは当たり前のこと。


 ……でも、よりによって、氷の公爵!?


 あの冷酷無比な男と夫婦になる未来が、少しでも想像できるだろうか?

 おそらく会話もろくに交わさず、淡々と義務を果たすだけの冷え切った関係――。


 そう思った瞬間、視界が揺れた。

 瞼の裏に、光の粒がちりつく。

 淡い残像が浮かび、やがて鮮明な映像に変わる。



 ――――


 雪。


 静かに降り積もる白銀の世界。

 その中心に立つのは、私――そして、クラウス。


 彼は私を抱きしめていた。


 冷たい空気が肌を刺すはずなのに、彼の腕の中は驚くほど温かい。

 私の髪をそっと撫で、穏やかに微笑む。


『リディア……愛している』



 ……え?


 衝撃で思考が止まる。

 でも、映像は消えない。


 彼の瞳には、確かに愛しさが宿っている。

 言葉だけじゃなく、その指先の触れ方、表情、仕草――どれをとっても、私を心から大切にしているとしか思えない。



 信じられない。

 だって、あの冷徹無比な公爵が、こんなにも優しく微笑むなんて――。


 次の瞬間、ふっと映像が霧散し、私は現実へと引き戻された。



――――



「リディア?」

 父の声に、私は現実に引き戻される。

 目の前には、相変わらず厳しい顔つきの父。

 未来の映像があまりに鮮明すぎて、しばらく現実感がなかった。


 でも、確かに今見たのは――未来。

 クラウス・ベルンハルトが、私を溺愛している未来。


「はい……その、少し驚いただけです。申し訳ありません、失礼します」

 そう言ってティーカップをそっと置き、立ち上がる。


 足元がふわふわと浮ついて、まるで現実と夢の境目が曖昧になったかのようだった。


(あの未来、本当に起こるの?)


 クラウスが私を溺愛する――そんなありえない未来が。

 でも、もしそうなら……。

 どうしても、それがどんな道を辿って実現するのか知りたくなった。







 私は未来を視ることができる。

 まだ起こっていない未来の断片を垣間見る力。未来は唐突に視え、そしてタイミングは選べない。


 この秘密は3歳のときに亡くなったお母様しか知らない。

 もしバレたら魔女とされ処刑されるか、国に囚われ利用されるかだと母は私に秘密にさせた。


 この世に生を受けてから19年。この判断はとても正しかったと、お母様には感謝している。


 ――だけど、未来視はそこまで大したものじゃない。

 見たいと思って視れるものではないからだ。

 それに未来なんてコロコロ変わるものだから。

 この能力が発動するたびに「こうなる可能性があるよ」と教えてくれるけど、それが確定しているわけじゃない。


 たとえば、子供の頃に市場で「知らない女の子とぶつかって、その子のリンゴが泥まみれになる未来」を視たことがある。

 でも、ちょっと歩く位置をずらしてみたら、何事もなく通り過ぎた。


 ほら、変わるじゃない。


 未来視っていうのは、まるで「未来の天気予報」みたいなもの。

 降水確率80%でも、降らない日だってあるし、逆に晴れ予報でも土砂降りの日だってある。


 だったら、こっちから望む未来に合わせて傘を持つか、太陽に向かって洗濯物を干すか決めればいい。



 つまり、未来は自分で選べる!


 今回視えた未来――冷酷な公爵様が、私を抱きしめて「愛している」って甘く囁く未来。

 それも、ただの一つの可能性。

 でも、それが現実になるなら超ラッキーじゃない!?


(いやもう、せっかく視えたなら、むしろ当たりの未来にしなくちゃ損でしょ!)







「クラウス・ベルンハルトです」


 目の前に立つのは、噂通りの冷たい雰囲気をまとった男だった。


 銀色の髪に、氷のように冷たい灰色の瞳。

 長身で、鍛えられた体躯。

 冷たく鋭い眼差しは、一瞬たりとも隙を見せない。

 ――うん、完璧に「氷の公爵」だ。


 だけど、そんな彼が未来では私を抱きしめて甘やかすなんて……



(え、こんな人が私を溺愛する未来……?)


 正直、想像できない。

 とはいえ、私だって悪くないと思ってる。貴族の娘としてきちんと教育を受けてきたし、鏡を見るたび「そこそこ可愛い」と思うことくらいある。求婚状だって来ていた。


 淡い琥珀色の瞳に、栗色の髪は手入れが行き届いていて、柔らかくゆるくウェーブがかかっている。

 スタイルだって、王都の貴婦人たちと比べても見劣りはしないはず。

 ……それでも、釣り合い取れなくない?


 だって、彼の容姿はまるで「彫刻のような美しさ」と評されるほど完璧で、街中で見かけたら思わず振り返るレベル。


 そんな彼が、私に惚れ込んで溺愛する未来があるなんて――いやいやいや、普通に考えておかしくない!?



(本当に視えた未来が実現するの? それとも、あれは何かのバグ!?)


 疑問は尽きないけれど、未来視が見せたのなら可能性はゼロじゃない。

 だったら、楽しんでみるしかないでしょう!



 私はにっこり微笑んで、初対面の彼に向き直った。


「……はじめまして、リディア・カートレットです」


 彼は一瞥だけして、そっけなく「ああ」と短く返した。

 ――はい、塩対応いただきました!



(でもね、公爵様。私は知ってるのよ……!)

(数年後にはあなた、私にメロメロになってるんだから!)


 心の中でにやりとしながら、私は未来の“溺愛公爵”を目指して、最初の一歩を踏み出した。







 婚約が決まってから、私「氷の公爵を溺愛公爵にする計画」を実行しようと意気込んでいた。


 まずは、できる限り会って距離を縮めよう! と思い、何度かベルンハルト公爵家に出向いたのだけれど――



「公爵様は軍務に出ております」

「公爵様は会議中です」

「公爵様は執務室にこもっておられます」

「公爵様は本日はご多忙につき……」



 ……会えない。全然会えない。



(いやいや、婚約者とすら一度も会話しないって、どういうこと!?)


 せめて文通でも、と思い書簡を送ってみる。



 ――返信なし。


 それどころか、私からの手紙は侍従が代筆した返信で返ってきた。

 しかも、内容は「公爵様のご多忙をお察しください」とのこと。


(お察しください、じゃないわよ!!)


 普通、婚約期間ってもっと交流を深めるものじゃないの!?

 それが、直接の会話どころか、一度も顔すら合わせないまま――



 気づけば結婚式だった。







 結婚式は王宮で盛大に執り行われた。


 私は純白のドレスをまとい、クラウス様は黒の正装で並ぶ。

 並ぶ。

 ただ並ぶ。



(いや、他に何かリアクションとかないの!?)


 クラウス様は、式の間ずっと無表情で、誓いの言葉も淡々と述べるだけ。

 周囲の貴族たちが「氷の公爵らしい」「まさに公務としての結婚だな」なんて言っているのが聞こえてくる。


(いやいやいや! もうちょっと何かこう……!)


 誓いのキスの瞬間も、私は期待半分、不安半分で待っていた。



 ――が。

 クラウス様は、静かに私の手を取ると、その甲にほんの軽く唇を落としただけで終わった。



(えっ、キスこれだけ!? 本当に!?)


 いや、確かに格式高い貴族の結婚式ではそういうこともあるけど……

 でも、未来視ではあんなに甘く抱きしめられてたのに!?


(ここで一歩くらい踏み込んでもいいのでは!?)



 あの未来視自体夢だったのかもしれない。

 そう思ってしまうほど、クラウス様は“氷の公爵”もとい、“氷壁”の公爵だった。







 結婚式が終わり、新居となるベルンハルト公爵邸に移動。

 初夜のための寝室に案内され、私とクラウス様は同じ部屋を使うことになっていた。


 この状況、さすがに何か進展があると思っていた。



(少なくともキスくらいは……いや、もしかして抱きしめられたり……!?)


(いやいや……初夜よ! 初夜! 「氷の公爵様はベッドの中では野獣でした」って可能性もあるじゃない)


(あ……どうしよう、緊張してきた)



 期待と不安で心臓が跳ねる中、クラウス様が静かに寝室へと入ってくる。


 ベッドの上に座る私を一瞥し、クラウス様の冷たい瞳に熱を帯び……クラウス様のクラウス様が──…



 ――なんて展開はなく、クラウス様は無言でベッドに入り私に背を向けた。


(……え?)



 言葉もなく、背を向けたまま、すぐに寝息が聞こえてくる。


(えっ、ちょっと待って!? 初夜なのに!?)


 まるで何もなかったかのように、すんなり寝られてしまった。

 いやいや、普通もうちょっと何かあるのでは!?



(新婚の夫婦ですよ!?)


(まさか、私のこと本当にどうでもいいとか!?)


 そんな不安がよぎった瞬間――



 視界が揺れた。




――――



 視界が揺れ、瞼の裏に光の粒がちらつく。

 ふわりと浮かぶ未来の断片が、私の意識に流れ込んでくる。


 ――そこには、朝日の差し込む公爵邸の執務室。

 机に向かいながら、クラウス様が無表情……のようでいて、どこか困惑した様子で書類に目を落としている。


 相変わらず座っているだけで麗しいけれど、手にした羽ペンの動きが鈍い。

 ふと、彼はこめかみを押さえ、小さく呟いた。



「……昨夜、どうするべきだったのか……」



(え? 昨夜……)


 クラウス様の近くで書類の整理をしている侍従のオスカーが、呆れたように言う。


「初夜に妻を放置して寝るだなんて、さすが氷の公爵様ですね」

 どこか皮肉を含んだ言葉から、クラウス様との気安い関係が伝わってくる。


「……やはりリディアは怒っているだろうか」



(えええ!? まさか、初夜のことを後悔してるの!?)


 クラウス様は、自分で出した結論を持て余すように、僅かに眉間に皺を寄せている。


「だってまだ……結婚式を含めて2回しか会ってないのにそんな……」


 そして、顔を伏せた瞬間――耳が、赤い。



(……え?)


(まさか、まさか……)



 その瞬間、視界がふっと元に戻る。



――――




(あれは本当にクラウス様……?)



 あの端正な顔立ちは間違いなく私の夫、クラウス・ベルンハルト公爵。


 けれど、未来視で見た彼は、これまでの印象とはまるで別人のようだった。


 氷の公爵――いや、違う。

 もし未来視が本当ならば、彼は氷の公爵どころかただの“ウブ公爵様”ではないか。



(か、かわいーー!)



 そう思った瞬間、今までの彼の行動がすべて、ただの不器用さゆえのものにしか思えなくなった。


 婚約期間中、一度も会ってくれなかったのも、

 結婚式でほとんど会話を交わさなかったのも、

 初夜に無言で寝てしまったのも、

 ――ぜんぶ、ただの不器用だったから!?


 私はすぐ隣で背を向けているクラウス様を見つめる。

 こうしている今も、彼はいつも通りの無表情のまま、何事もなかったように寝息を立てている。


 けれど未来視が見せた通り、昨夜のことで悩む未来があるのなら――



 絶対に寝たふりしてる!



 私は彼の背中にそっと指を伸ばし、ゆっくりと背筋をなぞった。

 クラウス様の身体がびくりと震える。


(やっぱり!!)


 けれど、どうやら寝たふり続行の方針らしい。

 無言のまま少し硬直している背中に、私はますますいたずら心をくすぐられた。


(どうせ今日は初夜なんてないんだし……)


 だったら、少しくらい意地悪をしてもバチは当たらないはず。

 だって、婚約期間中、一度も会ってくれなかったんだから!



 私はそっと顔を寄せ、クラウス様の耳元に柔らかく息を吹きかけながら――


「クラウス様。大好きです」

 そう甘く囁いた。



 ――瞬間。


「っ……!」


 気づけば、私はベッドに押し倒されていた。


 銀色の髪がさらりと揺れ、頬をかすめる。

 至近距離にあるクラウス様の顔。

 いつも冷静な灰色の瞳が、熱を帯びて揺れている。



「……リディア」


 低く、けれどどこか戸惑いを滲ませた声。



(えっ、待って待って!? 私、ただちょっとからかおうとしただけなのに!?)


 彼の体温が驚くほど近い。肌に触れる呼吸が熱を持ち、私の心臓が跳ねる。


 ――そうだ、未来視って変わるんだった。


(これ、絶対未来変わったよね!?)



 氷の公爵様もとい、氷壁の公爵様もとい、ウブ公爵様が――

 野獣公爵様になった瞬間だった。







 暖かな陽光がカーテンの隙間から差し込み、私はまどろみの中で目を覚ました。



(……ん……?)


 身体中が痛い。

 昨夜の出来事を思い出し、ぼんやりしていた意識が一気に覚醒する。


(ま、待って……昨夜、あれ……初夜……だったよね!?)


 クラウス様の寝たふりを見破って、ほんの少しいたずらするつもりが――未来が変わってしまった。


 私は布団をぎゅっと引き寄せ、隣に視線を向ける。

 相変わらず、クラウス様は背を向けたまま静かに横たわっている。


(まだ寝てるのかな……)


 ――が、よくよく見ると耳が真っ赤。


(え、かわいい)


 これは、確実に寝たふりだ。

 昨夜もそうだったけれど、どうやらクラウス様は「寝たふりをしてやり過ごす」という選択をしがちらしい。



(うん、間違いない。これ、絶対動揺してる)


 私の視線に気づいたのか、クラウス様はゆっくりとこちらを向く。

 灰色の瞳がこちらを捉えた瞬間、私は軽く微笑んだ。



「おはようございます、クラウス様」


「……ああ」



 一拍遅れて返ってきた声は、いつも通りの低く落ち着いたもの。

 すぐにまた背中を向けてしまったが、照れているだけだとわかった今は、むしろ愛おしさを感じてしまった。

 不器用なクラウス様がとても可愛く見え、同時にいたずら心が湧いてしまう。


 私はそっと、彼の背中に頭を寄せ、囁いた。



「昨日は……嬉しかったです」


 ドッドッドッドッドッ!


(……え?)



 ドッドッドッドッドッ ドッドッドッドッドッ ドッドッドッドッドッ……

 まるで鼓膜に直接響くような心臓の音が、耳元で鳴り響く。



(ええええ!? 何この爆音!?)


 どうやらクラウス様の心臓が大変なことになっているらしい。



「クラウス様?」


 そう呼びかけると、彼はゆっくりとこちらを見て、眉をひそめながら小さく息をついた。


 ――そして、私の額にそっと唇を落とす。



(……えっ)



 思わず心臓が跳ねる。

 彼はいつもの冷静な顔を保ったまま、私の頬に手を添え、低く囁く。



「……からかうな」

 その言葉とは裏腹に、指先は優しくそっと私の髪を梳いた。


 大変だ……。

 もしかしたら今度は私の心臓の音がクラウス様に聞こえているかもしれない。







 無事初夜を経て、私とクラウス様の新婚生活が始まった。


 とはいえ――


 クラウス様は相変わらずの無表情。

 初日の朝は、照れ隠しなのか背を向けたままだったけれど、その後も妙に距離を取ろうとする。

 朝食を共にするかと思いきや、すでに公務室へ。

 話しかければ返事はするけれど、短い単語で終わらせようとする。



 でも、私は知っている。

(クラウス様は、ただ不器用なだけ!!)



 未来視が見せた、初夜のことで悩んでいた彼の姿。

 あれを見た以上、私はもう彼のそっけなさに惑わされたりはしない。


 夕食を終えたあと、私はさりげなくクラウス様を散歩に誘った。


「クラウス様、一緒にお庭を散歩しませんか?」

 彼は一瞬だけこちらを見て、ほんの少し考える素振りを見せた後――


「……ああ」

 端的な返事。


(ふふ、やっぱり)


 すっかり彼の性格を把握してしまった今となっては、この反応も想定済み。

 食事中も無駄な会話を挟まないし、感情を大きく表に出すこともない。

 私が何かを提案すれば、必要か不要かだけを判断して、最小限の言葉で返してくる。


 でも――

(だからこそ、「ああ」と言った時点で、もう答えは決まってるってこと)


 表情にはほとんど変化がないけれど、彼は私の誘いを断るつもりはなかったのだ。

 私は何も気にしていないような顔で微笑み、クラウス様と並んで庭へ向かった。



 夜の空気は少しひんやりとしていて、秋の気配を感じる。静かな庭には、ほのかに花の香りが漂っていた。

 頭上には美しい星々が広がり、風がそっと肌を撫でる。

 クラウス様は一言も話さず、ただ静かに私の横を歩いていた。


 私が話しかけなければ、きっと何も話さないまま散歩は終わるだろう。


(そもそも、クラウス様に気の利いた会話を期待しているわけじゃない)


 会話がなくても、同じ空間で時間を共有すること。

 それが、今は何より大切なことなのだ。

 私は彼の歩幅に合わせながら、ふと気づく。

 クラウス様の歩幅が大きいせいで、少しずつ遅れ気味になっていることに。


 そして、何も言わずに――すっと、彼の手を取った。



「……!」


 ぴたり、と動きが止まる。

 驚いたように私を見下ろすクラウス様。だけど、手を振り払うことはしない。

 むしろ――指先に、ほんの少し力が込められる。



(やった)


 私は何事もなかったかのように微笑み、そのまま歩き出す。

 するとクラウス様も黙ったまま、手を離そうとはせず歩き続けた。


 ちらっと彼の横顔を見上げると――耳が、また赤い。



 もちろん、ここで「クラウス様、耳が赤いですよ?」なんて言ったら逃げられる。

 だから私は、あえて気づかないフリをして、当たり前のように手を繋ぎ続けた。







 ベルンハルト公爵家に嫁いで、数か月がたった。空気は冷たく乾燥し、冬の気配を感じている。


 最初は、冷たく無口な夫との夫婦生活に不安もあったけど、今ではクラウス様の不器用さも、無愛想な言葉の裏にある優しさも、少しずつ理解できるようになった。


 彼は甘い言葉を囁いたり、情熱的に愛を語るような人ではない。

 けれど、さりげなく私を気遣い、隣にいることを当たり前にしてくれる。



 夕食後の散歩が、すっかり私たちの日課になっていた。

 最初は私が誘っていたこの習慣も、今ではすっかり定着し、気づけばクラウス様が当たり前のように扉の前で待っている。

 「散歩に行こう」とは言わない。

 でも、そこにいるということは、つまりそういうこと。



(……ふふっ)

 変化がわかりやすいわけじゃないけれど、それでもこうして毎晩待っていてくれるのが、なんだか嬉しい。


 私が隣に立つと、クラウス様は無言のまま歩き出した。

 夜の庭園には、冬の冷たい空気が広がっている。

 花の香りはほのかに残っているものの、寒さのせいでどこか静まり返ったような雰囲気だった。



(思ったより寒いかも……)


 夜風がひゅうっと吹き抜け、私は無意識に身を縮めた。

 そのとき――す、と何かが肩にかけられる感触。

 驚いて振り向くと、クラウス様が何も言わずに自分の上着を私にかけていた。



「クラウス様?」


「寒いなら、無理をするな」



 さらりとした口調の彼。

 私は微笑み、クラウス様の上着をぎゅっと握る。


「ありがとうございます。でも、クラウス様のほうが寒くなってしまうのでは?」


「俺は慣れている」

 短く返される。



(……ふふ、こういうときは譲らないのよね)


 クラウス様の優しさを胸に感じながら、私は何も言わずに彼の手を取った。

 ピクリ、と彼の指がわずかに動く。

 でも、振り払われることはない。


 ほんのわずかに、彼の指が私の手を握り返す感触がある。

 それだけで、今日はなんだかいい夜だなと思えた。



 最初に未来視で見た「溺愛するクラウス様」には、まだ程遠いかもしれない。

 だけど――


(……私は、今のクラウス様が好き)



 愛情というものが、こんなふうに静かに芽生えていくなんて、結婚する前は思ってもみなかった。

 彼が優しく手を差し出してくれるたびに、無意識に私のペースに合わせてくれるたびに、私はクラウス様のことをもっと知りたいと思うようになった。


 冷たい空気が頬を撫で、肩にかけられたクラウス様の上着をぎゅっと握る。


(寒い夜だけど……なんだか、すごくあたたかい)


 そんなことを思った瞬間――視界が揺れた。



(――未来視!?)

 瞼の裏に光の粒がちらつき、ふわりと浮かぶ未来の断片が、私の意識に流れ込んでくる。




――――



 炎。


 燃え盛る炎が天井を舐め、黒煙が渦を巻いていた。

 崩れ落ちた梁の下に、クラウス様が倒れている。

 腕を押さえ、苦しげに顔を歪めていた。


 火の粉が舞う中、ゆっくりと立ち上がろうとしていたが、肩口には赤い血が滲んでいる。



(クラウス様っ!)



――――



「リディア」


 名前を呼ばれ、意識が引き戻される。

 気づけば、クラウス様が私を覗き込んでいた。


 目の前のクラウス様は傷一つない、普段通りの姿。

 けれど、先ほど見た光景が、頭の中に焼きついて離れない。



「……どうした?」


 私は言葉を失い、その場にへたり込んでしまった。

 心臓がドクドクと音を立てている。



(……今の、未来視……)


(炎の中で倒れるクラウス様……周りに人は見当たらなかった……)


(私がいないときに火事が起こる……?)



「リディア、大丈夫か?」


「あ、えっと……その……少し……立ち眩みが……」


 必死に平静を装いながら、私はそっと胸元を押さえた。

 すると、次の瞬間、ふわりと体が浮く。



「ク、クラウス様!?」

「無理をするな」

 彼は私を腕の中に収め、ゆっくりと歩き出した。

 私は大丈夫だと伝えようとしたが、胸元に響くクラウス様の心臓の鼓動に口を閉じる。



 クラウス様の体温が、こんなにも近くにある。

「辛いなら、無理しなくていい」


 その声は、いつもの冷静なものとは少し違っていた。

 どこか私の体調を本気で気にしているような、優しさが滲んでいる。



(クラウス様……)


 口数も多くないし、不器用な人。

 けれど、こうして必要なときに迷いなく支えてくれる。


 私は大人しく、クラウス様の腕の中で目を閉じた。

 そのまま揺られながら、自室へ運ばれる。



 ふわりとベッドに降ろされると、彼は私の肩まで布団を掛けてくれた。


「しばらく休め」


「……ありがとうございます」



 未来視の衝撃と、心臓の鼓動を落ち着かせるために、私は深く息を吐く。


(でも……どうしよう?)


(燃え盛る炎。その中で負傷するクラウス様。そして、私はそこにいなかった)


(屋敷……? それとも外出先?)


(未来視は鮮明だったのに、どこで起こる出来事なのかまではわからない)


(でも――私が、あの未来を変えなければならない。私が、クラウス様を守るんだ)







 火事の未来視を見て以来、私は不安を拭いきれずにいた。

 けれど、いくら屋敷を調べても、それらしい場所は見当たらない。

 そもそも梁が崩れ落ちるほどの大火事となれば、どこで起きてもおかしくはない。



(なんて役立たずな能力なの……)


 不安と焦りで夜もよく眠れない日々が続く。


 そんな中、クラウス様が領内の視察へ行くことが決まった。

 広大な領地を治める公爵として、定期的に視察に出るのは当然のこと。



(でも、なんてタイミングが悪いの……)


(もしかして、あの未来視の火事は視察先で起こるのかもしれない)


 そう考えた私は、クラウス様に同行を申し出た。


「ダメだ。お前は残れ」


 恒例の食後の散歩中、私の願いはあっさり却下された。


「どうしてですか?」

「最近顔色が悪い。あまり眠れていないんじゃないか」


 確かに最近は眠りが浅い。

 でも、今日からちゃんと寝れば問題ない……!



「大丈夫です! それに私、クラウス様と一緒にいたいんです!」


 するとクラウス様は一瞬ピクリと固まり、すぐに小さく息をついた。


「……視察先は馬車で長旅になる。負担が大きい。今回は諦めろ」


「でも!」


「リディア」

 ぴしゃりと響く低く冷静な声。



 クラウス様もなかなか頑固だ。

 それ以上何を言っても無駄だと悟り、私は渋々引き下がるしかなかった。



(でも……だからって、大人しくしているつもりはないわ)







 簡単に諦める私ではない。

 クラウス様が視察に出る当日、私は使用人の馬車に乗っていた。


 使用人の服を借り、髪を簡単にまとめて帽子を深く被る。

 そう、変装して視察隊に紛れ込んだのだ。


(我ながら完璧!)



 視察隊の騎士や使用人たちは忙しく、新顔の使用人などいちいち気にしていない。

 警備が緩い気もするけど……まあ大丈夫よね?





 視察隊が中継地点の街へ到着すると、一面の雪景色が広がっていた。


 屋根には厚く雪が積もり、人々は毛皮のコートを羽織りながら忙しなく動いている。

 市場では、凍った野菜や薪を売る商人たちの声が響いていた。

 子どもたちはそんな中でも元気に雪玉を投げ合い、楽しそうに駆け回っている。

 寒さに震えながらも、どこか楽しげな声が街中に広がっていた。



 私は視察隊の荷ほどきを手伝う。

 冬の間、村の人々に支給される毛布や食糧を整理していると、聞き覚えのある低い声がした。


「リディア」


 振り向かなくてもわかる。クラウス様だった。


(えっ、なんで!? バレた!?)



 私は顔が見えないよう下を向くが、クラウス様は無言でこちらを見ている。

 沈黙に耐えられず、ちらりとクラウス様を見上げた。


 ……怒ってる……。



「……どうして、ついてきた?」


「えっと……その……」


 誤魔化せないと悟った私は、しゅんとしながらも正直に答える。


「クラウス様と離れたくなくて……」


 その瞬間、クラウス様の眉間にさらに皺が増え、ため息をつかれた。



「……俺のそばから離れるなよ」

 低く囁かれた声には、さきほどの怒りは感じられない。


「一緒にいてもいいんですか!」


 思わず嬉しくなり、私はクラウス様に抱きつく。

 少しの間離れていただけなのに、寂しかったのだ。



(ずっと一緒にいれば、あの火事の未来視だって変わるかもしれない)



 未来視は私の行動で変わる。

 ここまで火事にならないように行動してきたし、もう未来は変わったかもしれない。

 そう思った、そのとき。



「きゃああああっ!」

 突如響いた子供の悲鳴。


 慌てて駆けつけると、古びた建物から子どもたちが飛び出してきた。

 そこからは黒い煙が立ち昇り、赤い炎がゆらゆらと揺れている。

 雪の積もる時期、この建物は子供たちの隠れ家になっていたらしい。

 寒さを凌ぐために、大人の真似をして室内で焚き火をしていたようだ。


 子どもたちの親はパニックに陥り、クラウス様は即座に消火の指示を出している。

 公爵である彼は現場の取りまとめに追われ、火の中に飛び込む様子はない。

 ちりちりと降ってきた雪は、炎に呑まれ消えていく。


(きっと大丈夫……)


 私はクラウス様の邪魔にならないよう、少し離れたところで消火の様子を見守った。

 そのとき、クラウス様の視線とは反対側で小さな影が揺れるのが見える。

 瞼の裏に光の粒がちらつく。ふわりと意識をさらう未来の断片。




――――



 ――燃え盛る炎。

 黒い煙。


 倒れた子供を抱き上げるクラウス様。煙を気にするように身を低くした瞬間――梁が軋む。


 崩落。


 火を纏った木材が、轟音とともにクラウス様の背を襲う。



――――



「――っ!」


 未来視から覚めた私は、咄嗟にクラウス様を見る。


 彼は相変わらず指示に追われていて、その子供には気づいていない。

 燃え盛る建物のそば、地面に倒れている小さな子ども。



(建物からは逃げ出せたけれど、煙を吸って倒れたのかもしれない……)


(クラウス様に知らせれば、本人が行ってしまう。行かせてはダメ……でも……)


(騎士たちも消火活動で手一杯。誰も気づいていない。あの子はまだ3歳くらい……私にも抱えられるはず)


(未来視は変えられる。私が行けばクラウス様は助かる!)


 そう思った瞬間、体が勝手に動いていた。



「リディア!」

 後ろからクラウス様の声が聞こえた。







 使用人の服を着ていたのは正解だった。ドレスだったら重くて走りにくかっただろう。

 しかし、意識のない人間がこんなに重いとは思わなかった。

 貴族令嬢の私には、子どもとはいえ、抱きかかえて走るのは容易ではない。



 そのとき――熱を帯びた梁が軋みを立てて崩れ落ちる。


(あ……ダメだ――!)



 ぎゅっと目を閉じた瞬間、強い腕に引き寄せられた。



 ……熱くない。痛くない。

 恐る恐る目を開けると、目の前にはクラウス様の背中。


「クラウス様……?」


 クラウス様は左腕で崩れ落ちた梁を支えている。

 その腕からは鮮やかな血が滴っていた。



「クラウス様!!」



 叫ぶように名を呼ぶが、彼は表情一つ変えずに梁を押しのける。


「リディア、子供をしっかり抱いてろ」

 低く、けれど優しい声。



 次の瞬間、私は子どもを抱えたままクラウス様の腕の中で宙に浮いた。


 一気に外へ駆け抜ける。炎の熱気が背を追うが、彼の腕は決して揺るがない。

 雪が積もる外気が、一気に私を包み込んだ。

「……っ」



 ようやく安全な場所へ辿り着いたとき、私は震える声で呟く。


「……すみません……私のせいで……」


 結局、クラウス様を傷つけてしまった。


(こんな未来視、全然役に立たない……)







 火災に早く気づけたのが不幸中の幸いだったのだろう。

 被害は最小限で済んだ。

 しかし、クラウス様はその後の処理に追われている。


(俺の側を離れるな……そう言われたのに、私は足手まといでしかない)


 居たたまれず、私は静かに外へ出た。







 冷たい空気が肌を刺す。

 見上げると、夜空には星が瞬き、静かに雪が舞っていた。

 白銀の世界は美しく、すべてを包み込むようにも見える。


 ふっと息を吐くと、白い吐息が儚く散っていった。


(勝手についてきて、勝手に行動して……溺愛どころか、嫌われるのが先よね)


 そう思うと、鼻の奥がつんとして涙がこぼれそうになる。

 冷え切った風が頬を撫で、涙が凍るように冷たい。



「ここにいたのか」

 振り向くと、そこにはクラウス様がいた。

 少し息を切らしているのは、私を探してくれたから……?

 また迷惑をかけた罪悪感と、ほんの少しの嬉しさで胸がぎゅっとなる。



「クラウス様。腕は大丈夫ですか」

 私が傷つけてしまった左腕には、包帯が巻かれている。


「こんなのかすり傷だ。問題ない」


 そう言いながら、彼は私の頬にそっと手を添えた。



「……君こそ大丈夫か」


 その手は氷のように冷たい外気とは対照的に、とても温かい。

 私の無事を確かめるように、ゆっくりと頬を撫でる。

 私は下を向き、唇を噛みしめた。



「クラウス様、私……すみません……勝手なことばかりして……」


 その言葉に、クラウス様の瞳が揺れる。


「心配した」



 次の瞬間――私はクラウス様の腕の中にいた。

 力強く、けれど優しい抱擁。


「君は無鉄砲で、後先も考えない」


 静かな夜の中、クラウス様の低い声が響く。


「真っ直ぐで、芯があって、ときどき抜けていて……」


 抱きしめる腕が僅かに力を増す。


 俯いた顔をクラウス様のほうに向けると、彼はふわりと笑った。



「俺をからかうのは、君だけだ」



 その笑顔に、鼻の奥がつんとする。



「……俺はもう、君がいないと生きていけない」


 先ほどとは違う、心が温かく満たされる感覚。



「リディア……君が無事でよかった」



 クラウス様の声が夜風に溶ける。

 そして――



「愛してる」



 彼の囁きが静かに私の耳をくすぐる。

 ゆっくりと、クラウス様の顔が近づいてきて……

 舞い落ちる雪の中で、私たちの唇がそっと重なった。





 その後、私は熱を出し、三日ほど寝込んだ。

 最後まで迷惑をかけてしまう自分が情けない。

 今は熱も引き、ベッドで静養しているのだが……



「ほら、リディア。口を開けて」


 クラウス様がスプーンを持ち、私の口元へ運んでくる。


「あの……一人で食べられます……」


 そう言ってみるものの、彼はまったく聞く耳を持たない。



(聞こえていないのか、聞こえないふりをしているのか……)



 クラウス様の気持ちがわかってから、彼はとても過保護になった。


 書斎での仕事中にも膝の上に乗せようとするし、夜になれば当然のように抱きしめて眠る。

 “氷の公爵”だったはずなのに、まるで“溺愛公爵”だ。



 その変化に戸惑いつつも、心の奥底で幸福を噛みしめていた。

 口数は少ないけど、言葉の端々から滲む私への執着と甘やかしぶりに、思わず頬が緩む。



 大人しく鳥のヒナのように食事の世話をされていると、ふと気づいた。



(私……まだ伝えてなかった)



「……クラウス様」


 姿勢を正し、彼のほうを見る。

 私が名前を呼ぶと、彼の手がぴたりと止まった。



「……なんだ」


 ほんの少し不安そうな瞳。焦りが見える気がする。

 そんな彼がかわいくて、私は少し身を乗り出し、彼の肩に手を添える。


 そして、その頬にそっと唇を落とした。


 ふわりと触れるだけのキス。



 クラウス様の体が一瞬固まり、灰色の瞳が大きく揺れる。



「……私も、愛してます」


 その瞬間、クラウス様に引き寄せられ、強く抱きしめられた。



 未来視は確定された運命じゃない。

 私の行動次第で、いくらでも変わる。


 クラウス様の腕の中で、私はそっと微笑んだ。


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