『天祐(前編)』
第5話【天祐(前編)】
~1984年5月~
その『意識』がいつ芽生えたのか…
いや
『意識』その物はずっと以前から有った様にも思えたし
逆に今も
明確に『意識』と呼んで良いのかも分からない
視覚も聴覚も持たず
時間の概念すら無く
何ら自分が存在している証の無い静寂の闇と
様々な思惟が混然となった曖昧な感覚
しかし確実に
1つの『意識』に似た物が
そこに生まれようとしていた…
「聴覚反応出ました!
聞こえている様です」
最初に聴こえたのは
男の声
「視覚は?見えるのですか?」
女の人…綺麗な声
「眼底に動きが見られます
瞼、開きます!」
瞼…目…?
それを開く動作は自然に出来た
最初は全部が真っ白にしか見えなかったが
すぐに物の輪郭が分かる様になった
顔…?
それが人の顔だという事は
何となく知っていた
「気分はいかが?
見えているのね?」
それが
最初に見た動く物
とても優しい
女の人の顔…
▼
「起きるのぉー!」
午前4時
霜月と翳は突如安眠を妨害された
「なっ…何です?」
翳が寝ぼけ眼で体を起こすと
布団の上にサクヤが乗って来た
「サクヤちゃん…?どうしたんです?こんなに早く?」
「遊ぶのぉ!」
「遊ぶ…?」
「アカネがね、人間の子供は外で遊ぶって言ってたの
サクヤは人間の子供と同じ事した方がいいんだって!」
サクヤは霜月の横に移動して
「ね、ソーゲツ遊ぼ
ボール投げしよ」
と肩を揺する
霜月自身も毎日早起きだが
自然に目が覚める前に起こされるのはリズムを狂わされる様で気分が悪い
「くだらんっ…」
霜月は不快感を露わにしながら寝返りを打ち
サクヤに背を向ける
「じゃあ、ナワトビは?ナワトビしよ」
霜月は答えようとせず翳は困った様な顔をして
「サクヤちゃん…人間の子供は、こんな時間に外で遊ばないんですよ」
と言う
「えー、そうなの?今日は日曜日なのに?」
「いや…日曜とかの問題じゃなくてね…」
「じゃあ何時?何時なら子供は遊ぶの?」
「そうだなぁ…
朝ご飯終わってから…9時頃かな」
「9時って時計の針、どんな形?」
翳が両手の指で形を示すと
サクヤは得心して部屋を出て行った
「やれやれ…」
翳は背中を向けたままの霜月を見て
ひとつ欠伸をしてから自分も布団に入り直す
(そう言えば…梅雨入り前だけど、天気大丈夫かな…)
雨なら外で遊べないな…等と考えながら
翳は瞼を閉じた
▼
翳がゆっくりと投げたゴムボールは
2回程バウンドしてサクヤの胸元に届く
サクヤはそれを受け止めようと両手を伸ばすが
タイミングが合わずに掴み損ねて
胸に当たったボールはサクヤの前に転がり
サクヤはそれをパタパタと追い掛けて拾い上げる
それをサクヤは翳に投げるが
まるで見当違いの方向に転がってそれを翳が追い掛ける…
黒羽神社の境内の片隅で
そんなやり取りがもう15回以上繰り返されていた
朝食が済んで各々が行うべき神社内の仕事を済ませた後
時計の針が9時を指すや否やサクヤが翳を呼びに来た
とりあえず用事の無い翳は
サクヤのボール投げに付き合う事になったのだが…
(やっぱり違うよなぁ…)
翳はサクヤの動きのぎこち無さが
普通の子供のそれとは明らかに違うと感じていた
実際は自分達より長く黒羽神社に暮らしていたらしいが
翳と霜月がサクヤの存在を知り文字通りの同居を始めて3週間
神社内を歩き回ったり喋ったりする分には普通の子供と変わり無く思えるのだが
間近で見る彼女の顔や手の質感は
明らかに造り物であり人ではない
高性能な義手や義足の類かとも考えたが
そういったメカニカルなディテールは一切感じられず
どちらかと言えば木で出来た操り人形に近い
それ程に『簡素』なのである
唯一瞳の部分だけは人のそれに近い変化を見せる事が有るが
それも小型カメラのレンズの様に見えなくもない
(子供の頃、そんなお伽話が有ったっけ…)
おじいさんが樫の木で造った操り人形が
魔法で人間と同じ様に喋り動く物語…
あれは…紙芝居…?
絵本だったかな?
どんなシュチエーションだったのか思い出せない
あの頃の記憶は何故か霞みがかかった様に所々が不鮮明で
正確に思い出せない箇所が有る…
ボールを拾い上げて翳は少しの間考え事に耽っていたが
霜月が鳥居の方に歩いて行くのが視界に入り
そちらに目線を遣った
「霜月さぁん、どちらへ?」
翳が声を掛けると霜月は
「散歩だ」
とだけ答えて鳥居の外へ出て行った
休日に天気が良いと霜月はよく1人で散歩に出る
今日は茜も町内の寄り合いが有るとかで朝から出掛けていた
「翳ぃ、早くぅ!」
サクヤが両手を広げて急かす
「あぁ…ごめん」
翳はサクヤに向かってボールを投げ
やはりサクヤは取り損ねて転がるボールを追う
何度やっても少しも上達する気配が無い
「サクヤちゃん…楽しいですか?」
翳がサクヤに訊くとサクヤはボールを拾い上げて
「『タノシイ』って何?」
と訊き返す
「何?って訊かれてもなぁ…」
翳には答えようが無かった
▼
正午前に会合を終えた茜は神社への帰路を歩いていた
月に1度とは言え
町内会の年寄り達との打ち合わせは決して快い物では無い
年中行事である夏祭りを2ヶ月後に控え
老舗の神社の宮司としては顔を出さない訳にはいかないのだが
打ち合わせとは名ばかりの完全な井戸端会議で
中には缶ビールを飲みながら赤ら顔で意味の無い世間話に花を咲かす中年も居る
会合後の昼食会にも毎度の様に誘われるが
今回もやんわり断って一足先に会場を後にした
昼と夕飯用の魚が切れていた為
行き着けの魚屋に寄ったがシャッターが降りていた
仕方無く遠回りをしてスーパーに立ち寄り
食材を買い揃えて帰路についたのだった
ザワッ…!
不意に強い風が吹いて
茜は思わず右手を顔にかざして土埃を避ける
風はすぐに止み
茜は何気なく風が吹いて来た方向に顔を向けた
何も無い空き地に人が立っている
茜はその人物が男性である事と
青い着物を着ている事を視覚で捉えていながら
それが知己の相手だと頭で理解するのに時間を要した
それ程に唐突な再会だったのである
いや
正確にはその人物と出くわしてしまった現実を
本能的に深層意識が受け入れる事を拒んだのかも知れない
その人物は始めから茜に気付いていた様子で
ゆっくりと茜に歩を進めながら片手を上げて
「やぁ…」
と微笑んだ
「皇…様…」
茜の言葉は声にならぬ程に掠れていた
その人物は
皇 曠であった
曠は茜の目の前まで近付くと
「久し振りだね
5年…?6年位になるのかな
元気だったかい?」
と茜の気分など意に介さない様子で親し気に語り掛けた
皇 曠…
全国の『ハンター』を統括する闇の『組織』
その中枢たる『本部』に於いて本部長の肩書きを持つ幹部の1人である
『組織』の枠の外で
『はぐれハンター』として長く活動する茜には
その名前すら知ろう筈の無い相手の筈である
しかし2人には確かに過去に面識が有り
6年という歳月を経て
余りにも必然性の無いタイミングと場所で2人は再会したのだった
そして茜にとって曠は
最も歓迎したくない再会の相手であった
「さすがに女性は変わるね
随分大人っぽくなって、ますます美人に磨きがかかったみたいだ」
曠は茜の肩に手を添えようとし茜は動いてそれを躱す
「お陰様で…皇様はお変わり無く…」
茜は言いながら始めて曠の顔を正面から見据えた
(…変わらないどころか…)
この男は年を取らないのだろうか…と
茜は我が目を疑う気持ちだった
まるであの頃の本人がタイムスリップでもして来たかの様に
記憶の中の曠と全く同じ曠がそこに居たのである
「いやぁ…あの頃より更に仕事が増えてね
変わる暇が無い程忙しいのさ」
1人笑顔を崩さない曠に茜は平静を装いながら
「それにしても偶然です事
どうして、この様な場所に…?」
と訊きかけてハッとする
(偶然じゃ…ない…?)
その思い付きは茜を戦慄させた
(私がここを通るのを知っていた…?)
それは有り得ない事だった
会合の帰りにスーパーに立ち寄る予定等無かった
この道を歩いたのは
茜自身にとっても極めて突発的な出来事だったのである
ではどうして…?
(尾けられていたというの…?)
一体いつから…?
「雨にならなくて良かった
良い日曜だねぇ」
茜の動揺に気付く素振りも見せずに
曠は笑顔のまま空を見上げた
「髪…伸ばしたんだね
良く似合ってる」
曠は茜の肩口を見ながら言う
そう
あの頃の茜は顎の高さ位のショートボブだった
曠はその髪型すら変わっていない
「私を…捕まえにいらしたのですか?」
茜は自分の中の懸念をストレートにぶつけた
曠はククッと笑いながら
「…だとしたら、どうする?」
と茜を横目で睨む
冷たい光だ…
6年前の茜は
この瞳の奥の冷たさに気付く事が出来なかった…
「フッ…冗談だよ
あの件は『組織』の中ではもう、とっくに終わってる
僕が終わらせたからね」
「終わらせた…?」
「君は能力を失った事により、『組織』に関する記憶を消した上で追放
『アレ』に関しては他の実験体と同様に廃棄処分…って形で処理してある
いずれにせよ『アレ』から取るべきデーターは全て取った後だったし」
本当だろうか?
確かに曠は人の記憶を消す特殊能力の持ち主である
しかし茜が過去に行った事は本来ならば厳罰に処せられるレベルであり
そして今もあの頃の記憶を茜は消されていない
故に茜は
その後も『ハンター』としての『仕事』を行いながらも
極力『組織』から身を隠す努力を続けて来たのである
この所2度程関わりを持ってしまった『組織』の人間は
桐生 光流という女性と彼女のチームメンバー達だが
茜は彼等を信じられると直感していた
「私の罪は消滅している…と解釈して宜しいのですか?」
茜は念を押す様に訊いた
「そうだよ、だから君の『オモチャ』を誰も取り上げたりしないし、飼い猫君達との生活も、今のまま続けてくれたらいいよ」
その言葉も茜に戦慄を覚えさせるに充分だった
飼い猫…君…達…
それが
本物の猫であるサンシローを指していない事は明白だった
(…霜月様と翳様の事も知っている…)
霜月等からは何も聞かされた事は無いが
茜だけは知っていた
この男が
霜月と翳の過去にも大きく関わっている事を
「それにしても…」
曠は茜が持つスーパーの買い物袋を見て
「そんな給仕がする様な仕事を、君みたいな才女がね…
実に嘆かわしく思えてしまうよ」
と言った
「私は、こんな日常を気に入っています
少なくとも『あの場所』で、自分のしている事の善悪も判らずに、罪深き研究をさせられていた事に比べれば、ずっと意味の有る生き方だと思っています」
茜は曠と目を合わせて静かな口調で言う
「生き方ね…そのまま、せっかくの才能を生かす事無く老いていくのかい?
死んでしまえば何も残らないじゃないか」
「それはあなた様の価値観です
私は自分の出来る事の中で、生きる意味を見つけられればそれで充分です」
曠は芝居じみた溜め息を吐いて見せると
「では、死に方は?
君は『死』についてどう考えている?」
と訊いた
「死…?」
「そう、死さ
君にとって『死』とは何だい?」
何故そんな事を訊くのか…
茜には曠の意図が読めなかった
▼
霜月は住宅地を抜けた川沿いの小径を散策した後
昼食の時間に間に合う様に神社へ戻るコースを歩いていた
遠目に最初に見えたのは白い着物の茜の後ろ姿だった
…?
数歩進んで角度が変わり
茜が会話している相手の姿が見えた時
霜月は思わず民家の塀の陰に身を隠した
(…どういう事だ…)
霜月は曠の事を知り過ぎる程に知っていた
だが曠と茜の接点なぞ霜月の中では有り得ない事であった
もう一度塀から顔を覗かせて2人の様子を窺い
2人の立ち位置と距離感が
それなりに近しい間柄のそれである事を再確認した
(茜とアイツが知り合い…?)
数十メートルの距離が有る為会話の中身迄は聞こえないが
こちらの存在に気付かれるリスクを考えれば
これ以上近付く気にはなれなかった
茜は人の霊気を感知する能力者だし
曠は恐ろしい迄に勘が鋭いのを霜月は知っていた
霜月は何度も頭の中を整理してみたが
やはり茜と曠の接点は見つからなかった
▼
「現世を生きる者にとって、『肉体的な死』は平等に訪れる物
『霊的な死』…つまり『魂の絶対死』は、不平等な物…
ご質問の答えになっているかどうかは分かりませんが、私はそんな風に考えています」
茜は曠の問いにそう答えた
「死は平等であり不平等…まぁ、言い得て妙だね
肉体的な死と魂の絶対死、君はどっちが怖い?」
「…前世の記憶は持ち合わせておりませんし『死』に対する経験値が無いので比べようも有りません
ただ、今を生きる凡俗としては、この日常を少しでも長く続けていたいと欲しますけれど」
曠はそれを聞きながら茜から目線を逸らした
茜はその反応を見て
自分の言った事の何かが気に入らなかったのだろうと思ったが
それを気にする事もしなかった
「…君も普通の人間と同じく、この煩わしい暮らしを失う事の方が怖いのかい?
もう少し違う意見が聞けると期待したけれど」
「失望して頂いて結構です
私は凡俗ですから…
あなた様とここで哲学を語り合う事よりも、今日のお昼の献立の方が大事だと思う…そういう女なのです」
この言い回しも
きっと勘に触るだろうと茜は自覚していた
逆に曠は感情の動きを一切顔に出さず
「そうか…足止めして悪かったね
また…会えるかな?」
と茜に微笑みかけた
白々しい…
ここ迄のやり取りで
曠は茜の今の暮らし振りを知っている事は明白だった
会おうと思えば今日の様に
いくらでも茜の目の前に現れるのは可能な筈だ
「さぁ…ご縁が御座いますかしら?
…では、失礼致します」
茜は頭を下げると曠の脇をすり抜けようとした
…!
速過ぎて予備動作すら茜には読めなかった
気が付けば片腕を曠に掴まれ
唇を重ねられていた
曠は茜のリアクションを待たずに顔を離すと
「唇の感触はあの頃と同じだね」
と笑った
茜は指先で口元を拭う仕草を見せ
「随分、破廉恥な事をなさるのですね」
と冷静に言った
「7年前は僕等の日常的行為だったじゃないか
ま…冗談だよ、失敬、失敬」
茜は何も言わずに背を向けて歩き始め
数歩進んで曠の視線が背中に纏い付く様な気配を感じて振り返った
…?
一本道で脇に逸れる場所など無い筈だったが
曠の姿はどこにも見えず
ただ一陣の風が通りを吹き抜けて行った…
▼
茜と曠の顔が重なり合うのを遠方から見ていた霜月にも
それがどんな行為を意味しているかは明確に理解出来た
それは10才の時から茜と暮らして来た霜月にとって
色々な意味で極めてショッキングな場面だった
その後で茜が身じろぎひとつしなかった事も
そのショックに更に拍車をかけていた
まるで母親を汚されたかの様な…
いや
霜月にとって茜は母親以上に神聖な存在だった
誰よりも神聖である筈の茜が1人の女であるという現実を
何の心の準備も無く突然目の前に突き付けられた様な物だったのである
しかしその打ちひしがれた状態も長くは続かず
霜月は直ぐに現実に引き戻される事になった
茜が曠に背を向けて歩き始めた直後
曠が顔を横に向けて霜月を見たのである
霜月は慌てて塀の影に隠れ
(馬鹿な…)
と自問自答する
曠との距離は数十メートル有り
しかも霜月は塀から顔を半分覗かせて見ていたに過ぎない
(気付かれる筈が無い…)
そう思い直して再び顔を出して曠を見たが
そこに曠の姿は既に無かった…
▼
昼食の準備が出来た段階でサクヤは蔵の木箱の中に入り
黒羽神社の居間では霜月ら3人と黒猫のサンシローが
いつもの休日と同じ静かな昼食を摂っていた
霜月と翳が知る限り
サクヤは食事を一切摂らないどころか
水を飲む所すら見た事が無く
食事の時間には大抵木箱の中で過ごしていた
先刻霜月が街角で見掛けた光景は
未だ霜月の気分を大きく揺らしていたが
元々無口であるが故に茜も翳もその異変に気付かない
「サクヤちゃんて…本当に不思議な子ですよね」
翳が茶碗から最後の一口を口に運びながら独り言の様に呟いた
「半日一緒に居て、益々普通じゃないって思いました
茜さん…そろそろ教えて貰えませんか?サクヤちゃんの事…」
翳は茜の方に顔を向けて言った
茜は逡巡する表情を見せたが
「そうですね…
いつかはお話ししなければと思いながら…」
と言う
「サクヤの事の前に俺からも茜に訊きたい事が有る」
霜月が割り込む形で口を開いた
「昼間に立ち話していた男とは、どういう知り合いなんだ?」
霜月は茜を見捨て言った
茜の目にはっきりと驚きの表情が浮かんだ
「…見ていたのですか…?」
霜月は無言のまま頷く
霜月と翳が
過去に曠と深い関わりを持っているのを茜は知っているが
霜月等は茜がその過去を知っているとは思っていない
そして茜は
霜月が心の内に秘めている翳との思い出を知っているが
当事者である筈の翳にはその記憶が欠落している
更に翳は霜月にも茜にも知られていない宿命を負ってる…
彼等3人の関係は
そんな記憶の共有と隠し事の歪なバランスの上に成り立っていた
「え、何です?誰と居たんですか?」
翳は霜月の言葉の意味が読めない
「皇 曠…奴とはどういう知り合いなんだ?」
霜月は茜を見据えて言った
「え?曠さん…?曠さんに会ったんですか?
茜さんと知り合いって…?」
茜はパタリと箸を置き
一呼吸置いてから口を開いた
「あの方と、あなた方は知り合いという事ですね…
恐らく同じ様な時期から私もあの方とは知り合いでした」
霜月と翳にとっては始めて知る事実であった
「あなた方2人にも、いつか話さなければいけない事とは思っていました
皇様とお2人が知り合いならば尚の事ですわね
あの方との経緯は…サクヤの話にも繋がるのです」
茜は飯台の上の食器を寄せながら
「先に片付けてしまいましょう
お茶を煎れ直してからお話しします
きっと、長くなりますから…」
と言って立ち上がった
20分後
3人は湯呑みだけが置かれたテーブルを改めて囲んだ
「もう、7年も前の事です
私はまだ、学校を出たばかりの世間知らずでした…」
茜の独白が始まった…
▼
三島 茜は特異な少女だった
生まれつき人が感じない気配を察知する所謂霊感体質に違いは無かったが
彼女はそれを表に出すと大人達が怪訝な表情を見せる事に
幼少期から気付いていた
その為自分の特異体質については
出来る限り周りに悟られぬ様振る舞う習慣が既に身に付いていた
彼女の特異点は寧ろその『物分かりの良さ』であると言えた
生まれ育った家は没落財閥の末裔で
戦時中迄はそれなりのステータスの有る家柄だったが
民主国家への変革の中で全ての財と地位を失ってしまった
彼女が中学を卒業する時迄生きていた祖母は
華やかりし頃のプライドへの固執だけで生きている様な人で
たった1人の孫娘である茜に古めかしい礼儀作法を毎日教え込み
家の中では和装以外の着衣を許さなかった
茜は非常に大人しい子供で
それは近親者達には性格的な物であったり
躾の厳しい環境による物と解されていたが
実は彼女の人並み外れた洞察力と理解力に起因していた
茜は持ち前の聡明さで
大人達の気分や彼等が自分に何を求めているのかを反射的に読み取り
それに合わせて振る舞っていたのだった
その才覚に始めて気付いたのは幼稚園の先生だった
他の子供達に比べて物覚えが異常に早く
また応用力もずば抜けていた為
「天才児かも知れない」
と周囲に漏らした程だった
小学校に上がった頃両親は周囲の勧めで
茜にある大学の研究施設での検査を受けさせた
学力や知能を測るペーパーテストと面接による質疑応答
そして見た事の無い機械が沢山並んだ部屋で
ベッドに寝かされて頭や体に何本もコードを付けられ
1時間程何かを計測される場面も有ったが
茜はその部屋に
自分だけが感じる奇妙な気配を幾つも感じて不快だった
それらの検査がどんな結果を導き出したのかは
茜は知らない
その後も他の子供達と同じ学校に通い同じ勉強をした
学校の成績は極めて優秀だったが
余り目立つとまた不快な検査を強要されそうな気がして
茜はその部分でも自分を抑制する事を覚えた
それは
茜が高校を卒業する迄続いた
茜は和服で居る事が好きだった為
祖母が亡くなった後も学校以外は和装で過ごす習慣を継続した
幼い頃から自分は人とは違うという自覚が有った為か
それとも茜の持つ雰囲気が人を敬遠させてしまう為か
茜は学友等とは余り交わらず
放課後も休日も殆ど家で読書をしたり
公園や神社等自然が多い場所を散歩したりして
1人で過ごす事が多い学生時代だった
そしてその事が一層茜に浮き世離れした雰囲気を纏わせ
彼女を周囲から孤立させた
類い希な才能を持ちながら
茜は自分の人生に対して悲観的だった
人が感じない気配を感じ
人が努力と苦労を伴って懸命に理解する事を
いとも簡単に解ってしまうその能力は
茜にとっては自分を孤独にしてしまう要因に過ぎなかった
実の両親すら
そんな茜を変わり者として見ていると感じられた
聡明であるが故に
自分の境遇を恨む様な愚かな考え方こそしなかったが
一生こんな物…という諦めに似た気持ちで
茜は思春期を過ごしたのである
やがて大学への推薦入学も決まり
茜は何の感傷も湧かない卒業式を終え
そして正に卒業式の夜に『事件』は起きた…
茜は息苦しさと激しい喉の痛みに目を覚ました
暗闇の中
明らかに物が焼ける臭いと煙が立ち込めているのが分かった
起き上がって部屋の明かりを点けようと
手探りで紐を探して引くが明かりは点かない
咳き込みながら廊下に出ようと部屋のドアを開けた途端
熱を帯びた空気が茜に襲いかかり
廊下の奥が業火に包まれているのを見て茜は愕然とした
その向こうには両親の寝室が有る…
茜は体を低くしながら廊下を進み
燃え盛る炎を潜りながら寝室に何とか辿り着いたが
そこは廊下以上に炎が渦巻き
横たわる両親の体がその炎に焼かれているのを
茜ははっきりとその目で見た
火の粉が舞う室内で床に座り込み
茜は次第に意識が遠のくのを感じていた…
▼
(…誰…?)
誰かが呼んでいる気がした
声…ではない
しかし確かに呼んでいる…
茜は目を開けた
間接照明の様な淡い光の中に
顔が見えた
男の人…
笑っている…?
「気が付いたかい?
僕が見えるね?」
今度は確かに声だった
優しい声…
「もう大丈夫だ
けど、もう少し休んだ方がいい
さあ、目を閉じて」
心地良く響く声に促されるまま瞼を閉じて
茜は再び深い眠りに就いた…
▼
次に目が覚めた時には意識は随分はっきりとしていた
自分が寝かされているのが病室の様な場所だという事と
腕に点滴の針が刺さっている事が直ぐに分かった
首を動かすと
こちらに背を向けて椅子に座る白衣の男性の後ろ姿が見える
(あの人じゃない…)
背中しか見えていないが
それが最初に目覚めた時に見た男性とは違うのが何となく分かった
そして茜は
自分が意識を失った業火の風景を思い出した
両親が確実に死んでしまった事と
自分が生き残った事を改めて自覚し
茜は涙を流し小さな嗚咽を漏らした
白衣の男がそれに気付いて
「あ…」
とだけ声を上げると机の上のインターホンを取り
小声でどこかに連絡をする
間も無くドアが開き
人が入って来る足音が聞こえた
(あの人だ…)
姿を見る前に
茜はその足音の主が最初に目覚めた時の男だと分かった
「辛い事を思い出したんだね
今は泣きたいだけ泣くといい
悲しみに付ける薬は無いからね」
その言葉に誘導される様に茜の目からは更に大粒の涙が溢れた
優しい声の男に指示されて白衣の男が茜から点滴の針を外し
茜は体を動かして枕に顔を埋める様にして泣いた
ひとしきり泣いた後茜は男の方を向き
「…取り乱しました…すみません
ここは、病院ですか?」
と訊ねた
男は首を横に振り
「病院ではないよ」
と答えた後
「僕は皇 曠
よろしくね、三島 茜君」
と微笑んだ
茜が目覚めたのは
火事が有った夜から2日後の午前11時頃だった
家は全焼で両親は即死…
それ以外は何も教えられなかったが
茜もそれ以上知ろうとは思わなかった
近しい人の死に直面したショックは有りはしたが
何日も泣き暮らす程の悲しみは無かった
自分を産んで育ててくれた両親には違い無かったが
世間で聞く様な愛情の通い合う親子関係だったとは決して言えず
またあの家の娘として暮らした生活その物に
茜は全くと言って良い程に愛着も未練も無かったのである
目覚めたその日は食事も着替えもベッドの上で行った
所々皮膚がヒリ付く感触は有ったが目立った外傷は殆ど無く
呼吸器系も不具合は無かった
身の回りの世話は白衣を着た女性が何人か交代で行い
体の検診や雑用の類は目覚めた時に居た白衣の男性がしてくれた
「『山辺 勇吾』といいます
医者の玉子みたいなものです
宜しくお願いします」
真面目そうなその青年は照れ臭そうに茜に自己紹介をした
翌日の午前中に優しい微笑みの男性
皇 曠が再度部屋を訪れた
椅子に座って山辺と会話する茜を見て
「もう起きられるんだね?」
と相変わらず優しい声で微笑んだ
「えぇ…お陰様ですっかり…」
「リハビリがてら少し施設の中を歩いてみないかい?
君には色々知って貰わなければいけない事が有るしね」
茜はカーデガンを羽織り曠に促されるままに部屋を出た
暫く歩く内に
この場所が非常に広い敷地面積を持つ建物だと分かった
通路は幾重かに分岐し
その両脇に扉が幾つも並んでいる
途中何人か白衣を着た人とすれ違ったが
皆一様に曠に対して頭を下げて行った
殺風景な造りと白衣の職員達を見る限り
病院か
そうで無ければ何かの研究施設の様だが
皇 曠と名乗ったこの男性が青い着物を着ているのが
ひどく場違いに思えた
茜はこの建物自体にも不明瞭な違和感を感じていたのだが
その違和感の正体に暫く経ってから気が付いた
(窓が無い…?)
先程迄茜が居た部屋にも廊下にも窓が1つも付いていない
「奇妙な造りだろう?」
「え…?えぇ…」
曠の言葉に
茜は心の内を見透かされたかと思い曖昧な返事をしてしまった
「ここは地底なんだよ」
「地下…?あぁ…それで…」
茜は窓が無い理由を納得した
「正確には、山の中腹の一部をくり抜いてるんだけどね
…さぁ、ここだよ」
曠は廊下の突き当たりの部屋の前に立つと
懐から磁気カードの様な物を取り出して扉の横の機械に挿入した
短い電子音に続いてドアノブのロックが解除される音がする
「…ここ…は…?」
茜はドアの奥の気配に気付いてつい足を止める
「もう感じるの?
外に霊気が漏れない様に防壁を施した部屋なんだけど…流石だね」
「え…?」
茜は曠の顔を思わず見上げた
茜が奇異な気配を感じる事は近親者以外誰も知らない事だったし
ましてや知り合って間も無いこの男性が知ろう筈が無い
それに…
霊気…防壁…って?
「ここでは何も隠す必要は無いよ
僕は君の『能力』を知っているし、その素晴らしい才能を活かしたいと思ってるんだ」
能力…
素晴らしい…才能…?
単に重荷でしか無かったこの感覚が…才能?
曠はドアを開け茜にも入る様に促す
ドアの奥には更に不透明の自動ドアが設けられており
曠は廊下側のドアを閉めてから自動ドアの横にもカードを差し込んだ
自動ドアが開いた途端
茜は今迄に感じた事の無い強い気配を感じた
部屋に入ってすぐ目の前には
色々な計器やスイッチが並ぶパネルが有り
2名の白衣を着たスタッフが椅子に座って機械を操作している
2人は曠の入室に気付き
慌てて立ち上がろうとしたが曠は手で制して
「挨拶はいい、そのまま続けたまえ」
と言った
2人のスタッフが座るパネルの前面はガラス張りになっていて
その向こうの広いスペースに3人の人間が見えた
男性らしい2人は同じ作業着の様な服を着て並んで立ち
指を2本立てた右手を体の前でしきりに動かしている
そしてもう1人
赤く長い髪を後ろで括り
全身赤と黒のビンテージに身を包んだ女性が2人の前に仁王立ちしていた
「何回やらせりゃちゃんと出来んだい!!」
室内に突然大きな声が響いた
機械パネルに仕込まれたスピーカーから出た音だが
ガラスの向こうの赤い髪の女性が発した声だと知れた
「気が練れてないんだよ!
まだまだワンサカ浮いてるだろーが
5つや6つ集められなくてどーすんのさ!?」
何かのトレーニングをしている様な雰囲気である
女性が教官で男性2人が訓練生といった所だろうか
「暫く練習!
2人共最低5つ集められる迄昼メシ抜き!」
赤い髪の女性は言い捨てると歩き始め
茜達から見て右側の自動ドアからこちらの部屋に入って来た
「あぁ…所長、来てたんですか?」
女性は曠に気付いて気だるそうに声を掛け
隣に居る茜に目を向けた
170センチは有ろう筋肉質な体躯に
貼り付く様にフィットしたレザーのパンツとブーツ
炎の様に赤い総髪に加え
彫りが深い色白の顔立ちとライトブラウンの瞳は
一見して西洋との混血だと分かるルックスだった
「相変わらず『ライザ』の指導は厳しいね
どうだい、彼等は?」
曠の問い掛けにライザと呼ばれた女性は
「潜在能力はともかく、精神面の練度が低過ぎで浮遊霊の数が集められません
もうチョイ鍛えないとね」
と答えた後
「ルーキーですか…?」
と茜を見下ろしながら言った
「あぁ、特性は『コネクター』だけどね」
「そう…ま、『ハンター』やるにゃ、線が弱過ぎだね」
『コネクター』?
『ハンター』…?
茜には2人の会話の意味が理解出来なかったが
ガラスの向こう側で懸命に手を動かす2人の周囲に
奇異な気配が漂い集まっているのが見えていた
(浮遊霊を集めてる…)
それが新米『ハンター』の訓練風景だという事を
この時の茜は知る由も無かった
そして赤い髪のライザという女性…
彼女の中に
更に異質の強く禍禍しい気配が在る事にも茜は気付いていた
スタッフの1人が壁に立て掛けてあったパイプ椅子を出し
曠と茜はそれに腰掛けてガラスの向こうの様子を眺めた
「何をしている様に見える?」
曠は茜に訊く
「…あの方達の周りに沢山の気配が飛んでいるのが分かります
それを…集める練習でしょうか?
先程浮遊霊と仰いましたが…」
茜は言葉を選ぶ様に言い
ライザはそれを聞きながらフンッと鼻を鳴らし
「防壁を張ったガラス越しにそこ迄見えるかい?
アイツ等よりよっぽど優秀かも知れないねぇ」
と言った
「うん…君が感じ取っている気配は浮遊霊…つまり、死んだ生き物の霊魂なんだ
彼等はね、召喚の呪文でその霊力を集める練習をしているのさ」
曠はゆっくりとした口調で茜に言った
「霊力を集める練習…?
何の為にですか?」
「『ハンター』になる為さ」
「『ハンター』…?」
「君は霊気を感じ取れる人だから、今更霊魂の存在の是非については説明する迄も無いよね?
人も含めて生き物が死ぬと、肉体から魂が離れる訳だけど、その後辿る道程は様々なんだ」
茜にとっては曠の喋る言葉のひとつひとつが新鮮だった
これ迄茜の周囲に居た人達は
茜が霊気を感じたり見たりする事に否定的で
ともすれば嫌悪感すら抱く者も居た
ところが曠は
今迄茜が孤独に耐えながら秘め事にして来た霊の存在を
さも当たり前の様に語っている
茜にとっては
生まれて初めて同じ視線で話の出来る相手に出会えたも同じで
それは感動的な出来事であった
「うん…?どうかした?」
茜は無意識の内に曠の顔を羨望の眼差しで見つめていた
曠は生き物が死んで魂になった後のパターンについて語り始めた
死した後も霊魂は数日間は現世に留まり
自分の肉体の近くを浮遊する
遺体を埋葬するという儀式は魂に死を自覚させ
肉体への未練を断ち切らせる意味が有るのだと言う
「土葬…つまり土に埋めたりするのは、肉体を見えない所に隠す行為なんだ
鳥葬の様に他の動物に食べさせる形式や、火葬なんかは肉体その物を無くしてしまう発想だね
そして近親者達が集まって、故人に別れを告げる儀式を行う事で、魂は漸く自分が死んだ事を自覚するのさ」
茜は曠の説明を聞きながら
どうしてこの人の声はこんなに耳障りが良いのだろう…
と思っていた
「君が今迄に感じ取っていた霊の殆どは、恐らく死を自覚する前に一時的に現世を漂っていた物だろうね
その後魂は現世とは別の場所…魂の在るべき場所に帰るんだ」
「天国…とかでしょうか?」
「まぁ、そんな物だろうね
ところがね…そこに帰らずに、現世に留まり続ける魂も居るんだよ」
死んだ事に気付かなかったり生前に強い念を残している場合
魂は天界に帰らず現世を浮遊し続ける事になる…
「それを我々は浮遊霊と呼んでいるんだけど、動物霊も含めてこれが意外な程沢山居るんだよ
そして、その中には怨みや怒り、或いは人だった時の業の強さから、人に害を成す力を持つ魂も出て来る…」
俗に言う悪霊や怨霊の事だろう
愉快犯的にいたずら等をする妖怪等も
或いはそんな浮遊霊の1つなのかも知れないと茜は思った
「普通レベルの悪霊なんかは、術者によって封印したり退けたりする訳だけど、悪い霊には更に上が居る」
「上…?」
霊力が強大であるが故に並の術者の手に負えず
また犯した罪の重さ故に魂の存続すら許されない霊…
「それを『鬼』と呼ぶ…
『ハンター』はね、その『鬼』を狩る者なんだよ」
『鬼』を狩る者…
茜はガラスの向こうの2人と隣に立つライザを改めて見た
曠の説明に拠れば『ハンター』の歴史は古く
記録を辿れば平安以前に遡るらしい
そして全国の『ハンター』を統括する『組織』が存在し
今茜が居る建物もその『組織』の研究施設の1つだと言う
「僕は一応、この研究所の所長をやっている
ライザは我が『組織』の『ハンター』の1人なんだ
病室に居た山辺君も、ここに居るスタッフも全員『組織』の構成員…
そして、君もね」
曠の言葉に茜はキョトンとした表情を浮かべた
「『組織』はね、君の才能をずっと以前から知っていたんだ」
「はい…?」
「覚えていないかも知れないけど、君は子供の頃にある検査を受けているんだよ」
「あぁ…覚えています
知能検査…」
「そう、多分それだね
『組織』は将来のスタッフや有能な『ハンター』になるべき人材を発掘する為に、多方面にアンテナを張り巡らせている
ああいった特殊な適性検査もその1つなんだよ」
知能が高かったり感応力が強かったりという人間を
『組織』はより多くピックアップする為に大学や研究所
或いは病院等にその末端セクションを配置して
常にデータ収集をしている
そして有能かつスカウト可能な人材は
然るべきタイミングで『組織』に誘致される…
「『組織』はずっと君を見守っていた
勿論、始終監視する様な事迄はしないけれどね
火事と御両親の事はとても悲しい出来事だったけど、君の救出が間に合ったのも、我々が君をマークしていたからなんだ」
あの火事が何時頃の出来事だったのかは定かではないが
夜中であった事は間違い無い
茜の家は周囲を木々に囲まれ
住宅地から離れた場所に立地していた
普通に考えれば確かに周囲が火事に気付くのも
救助が駆けつけるのも遅れていたであろう
「家と家族を失ったばかりで、冷静な判断はまだ無理だろうけど、僕等のやる事をゆっくりでいいから理解して欲しい
そして、君の素晴らしい力を貸して貰いたいんだ」
曠は茜の目を見詰めながら言った
「我々は、君を必要としている」
茜は曠の眼差しに吸い込まれる様な錯覚を覚えた
自分の力が必要とされている…
具体的に何がどう役立つのかは分からないが
自分の感応力を疎ましく思いながら人生その物に悲観していた茜にとって
曠の言葉は面ばゆい気持ちにさせられる物だった
そして何より
それを曠の口から言われた事が茜には嬉しく思えた
頭脳明晰だった茜は
幼少期から現在に至る迄同年代の男子達はどこか自分より子供で
しかも粗雑な印象ばかりを抱いていた
それは自分の父親や学校の教師達に対しても同じで
男性イコール無知でデリカシーの無い物と思っていたのである
しかし今目の前に居る曠という男性は
少なくとも茜の知る男達とは全然違っていた
優しく知的で
喋り方にも物腰にも品が有る
今迄に出会った事の無い男性との接触は正にカルチャーショックだった
その曠が自分を必要としてくれているという事に
茜は感じた事の無い悦びを覚えていたのだった
「『組織』は古来から、この国の人々を『鬼』から守る為の機関として存在し続けて来た…
言わば秘密の国営機関なんだよ」
「国営の…?皆さん、公務員という事なのですか?」
「公務員か…面白い考え方をするね
公務員というのは、今の行政の中のシステムだよね?
『組織』の存在は明治維新よりずっと昔から『普通の人』には秘密にされてきた
幕府だとか、内閣だとかはその時代の便宜的管理者でしかない
だから、我々の存在は総理大臣すら知らないよ
『組織』の雇い主は大昔から、『この国その物』なんだから」
この国…その物…?
頭脳明晰な茜にもそれがどういう事なのか理解が出来ない
「良く分からないよね?
それでいいよ、実は僕も良く知らない」
曠はそう言うとニコリと笑って見せ
茜もつられる様に曠を見て微笑んだ
曠と茜の会話を余所にライザはガラスの向こう側に入って行き
再び2人の訓練生に叱咤を飛ばし始めた
「君が感じた通り、あちら側の部屋には幾つかの浮遊霊を閉じ込めてあるんだ
彼等2人も、君と同じ霊能者なんだけど、適性は『エリミネーター』…
つまり、直接『鬼』と闘う事に向いているから、その為の訓練をしている訳さ
そこで機械を操作しているスタッフ達は機械を使って、別の研究に利用する為のデータを取ってるんだよ」
「どうして浮遊霊を集める練習が必要なのですか?」
「一般的に知られる除霊師だとかは、自分自身の肉体と魂を鍛えて悪霊なんかと対峙するんだけど、『鬼』レベルになるとその霊力は強大でね
人間の持つ霊力だけじゃ太刀打ち出来ない」
「えぇ…」
「だから『鬼』とやり合う為には、他の魂の力を借りなければならないんだ」
「あぁ、それで浮遊霊の霊力を…
あのライザという方も、『ハンター』なのですね?」
「彼女はその辺の『一般ハンター』とは違うよ
『鬼飼い』だからね」
「『鬼飼い』…?」
「そう…自分の体内に『鬼』を宿して自在に操る特殊な『ハンター』の事だよ」
曠はそこ迄言うと
「さぁ、ここの見学はこの位でいいだろう
そろそろお昼だ
食堂に案内するよ」
と言って立ち上がった
廊下へ出て元来た方へ戻り
分岐を幾つか折れて食堂に入る
学食の様な造りの広いスペースには既に疎らに職員達の姿が有った
入り口横にボタンでメニューを選ぶ機械が有り曠はその前に立つと
「好き嫌いは有る?」
と茜に訊く
茜が
「いいえ、大丈夫です」
と答えると
曠はニコリと微笑んでからボタンを2回押した
案内されるまま席に着いて暫くすると小さなブザー音と共に
カウンターの一角の小さな扉が自動で開き
プラスチックのプレートに盛られた定食の様な物が2つ出て来る
「秘匿性の高い施設でね、調理人なんて居ないから、食堂と言っても機械が盛り付けたこんな物しか無くて
栄養バランスは完璧だから、味は我慢してくれたまえ」
曠は冗談めかして茜に言った
その後食事をしながら曠は『鬼飼い』について茜に説明した
強大な霊力を持つ『鬼』と呼ばれる霊を常に体内に宿し
その力を利用して闘う超A級の『ハンター』…
それが全国に何人も居ると言う
茜はそれらの話全てに新鮮な驚きを覚えていた
この研究所…いや
全国に広がる『組織』には
一般世間では異質にしか扱われない自分と同じ霊能者と
霊の存在を認知している人々が大勢働き活躍している
これ迄茜が知っていた世界とは全く違う現実が
そこには確かに存在していた
2日前の火事を境に茜の世界は180度変わった様に思えた
そして曠は『コネクター』についても言及した
霊を感知してターゲットとなる霊と同化し
更にその記憶を他の『ハンター』に転送する役割で
『ハンター』のチームには欠かせない存在だと言う
「ただ悪さをするからと言って、何でも退治して良いという物じゃない
我々が行うのは、生まれ変わる機会さえ奪う『魂の処刑』だからね
処分するに値する『鬼』であるか否かを、そこに居合わす全員で判断しなければならない
そういう意味で『コネクター』は必要不可欠な存在なのさ」
やり直しの利くレベルの悪霊であれば
一般の除霊師や退魔師にその『仕事』を譲る事になる
曠は更に説明を続け
基本的に『ハンター』の仕事は
それを依頼しようとする『依頼人』からの報酬の上に成り立っている事と
依頼人不在であれば『組織』の『本部』から
特例で報酬を支払う場合が有る事等を話した
そして
『組織』に属さず自営業的に『ハンター』としての『仕事』を行う
『はぐれハンター』が居る事も…
「『はぐれハンター』…?」
「中には『ハンター』の本分も弁えず勝手な処刑を行う輩も居るけれど、そういう連中はいずれ『組織』に粛清される
キチンとルールを守って『仕事』を行う者は、我々も黙認しているんだ
何故だか分かるかい?」
「いいえ…」
「報酬が高くて『組織』に依頼出来ない依頼人への救済策なんだ
『はぐれ』は自分達の食い扶持だけ有れば良いから、とても安い報酬で動くからね
道に外れた『仕事』さえしなければ、それはそれで必要悪と言う訳さ」
初めて聞く話ばかりだが曠の説明は非常に分かり易かった
それが茜には
彼の知的レベルの高さを表していると思えた
「私は…ここで何をさせて頂く事になるのでしょう…?」
プレート上の食べ物を全て食べ終わり
茜はフォークを置きながら曠に訊いた
「君の適性は100パーセント『コネクター』だよ
それも鍛え方によってはかなり高い能力を発揮出来ると、僕は見ている
いずれにしても一度『仕事』の現場に同行して、『コネクター』の何たるかを体験した方が良いね
その上で…現場では無く、君の明晰な頭脳をこの研究所で生かして貰いんだ」
「研究…ですか?」
「我々は今、太古に封じられた、ある秘術を科学的に研究して復活させようとしている
そのプロジェクトに是非参加して貰いたいと考えているんだ」
それがどの様な研究なのかその時の茜には想像も出来なかったが
少なくとも何となく大学に通うだけの生活と比べれば
ずっとやり甲斐が持てそうに思えた
ただ…
燃えてしまった家の後処理や
今春から通う予定の大学はどうするのか…
茜自身は親しくは無かったが
大勢居る親戚達にも自身の行方位は知らせるべきであろうし
両親の葬儀だってどうすれば良いのか
そう言えば…
誰も知らない『組織』の研究所に自分は保護されている
一体外の世界では自分の所在はどうなっているのか…
茜は今更ながら急に心配になりその疑問を曠に投げかけた
曠は瞼を閉じて少し間を置いてから
「火事の現場である君の家の検証は終わって、ご両親の葬儀は明日行われるよ
君の分と一緒にね」
と言った
「私の…分…?」
茜には曠の言葉の意味が分からなかった
「そう…ご両親と君、3人分の葬儀が明日行われる予定だ
君はね、死んだんだよ」
余りに断定的な物言いに茜は自分が気付かぬだけで
実は霊体になってしまったのではないかと不安になった
「正確に言うと…2日前迄あの家に住んでいた三島 茜君は、火事でご両親と一緒に死んだ事になってる
勿論君は、今こうして生きている訳だけれど、戸籍上の君はもうこの世に存在しないんだよ」
「よく…分かりません…」
「あの火事の現場から君を救出した我々は、これは、君という優秀な人材を『組織』にスカウトし得る好機だと考えたんだ
そこで『組織』の力で情報操作を行った
『あの現場には、焼死体が3つ有った』…とね」
自分が死んだ事になっている…
さすがに直ぐには消化の出来ない言葉だった
「何の断りも無く勝手な事をして、すまないと思う
けど、君が目覚めるのを待っていたら事件の工作は間に合わなかった
当然、君が今後実社会で生活する為の新しい戸籍やプロフィールは用意してあるけれど、もしも君が、どうしても元の生活に戻りたければ、それも今なら可能だよ」
曠は相変わらず穏やかな口調で言い
茜は暫く考えを巡らせてから口を開いた
「何もかもが余りに唐突で…どう返答えすべきか判断に迷いますが…
少なくとも私は、これ迄の生活に心残りは御座いません
正直、何の為に生きているのか分からない様な毎日でしたから…
帰る家も、親も失った今は、頼れる縁故も無く、ここを出ても路頭に迷うだけとなりましょう…」
曠は茜の言葉を聞きながら一度だけ頷くと
「やはり君は、聡明な女性だ」
と呟いた
「いいえ…今の自分には、こちらでお世話になるしか無いと判断したに過ぎません
…打算です」
曠はその言葉にも満足した様に笑顔で頷いた
この瞬間から過去の三島 茜はこの世から消え
別人のプロフィールを持つ
『組織』の一員としての三島 茜が誕生した
▼
ランチを済ませた後茜は再び病室に戻った
部屋に入ると山辺が椅子から立ち上がりながら
「あ…お帰りなさい
指示頂いていた物、届いていますよ」
と曠に言った
ベッドの横にキャスター付きのラックが置かれ
その上に数冊の本が載っている
「君の生活スペースは明日中に準備させる
それ迄は申し訳無いけど、ここで過ごしてくれるかな」
「はい、お手数をおかけ致します」
「退屈凌ぎにもならないだろうけど、娯楽用の本と今後の『仕事』に役立つマニュアルを用意させたから、好きな様に目を通してくれたまえ」
「はい、ありがとうございます」
「じゃあ、後はゆっくりね」
曠は右手を茜の肩に乗せてニコリと笑った
「僕も持ち場に戻りますけど…何か必要な物が有れば、いつでも枕元のスイッチで呼んで下さい」
山辺が実直な性格丸出しで茜に言う
「お気遣い、ありがとうございます」
茜はペコリと頭を下げる
2人が退室し
1人になった茜はベッドに腰掛け
「『ハンター』…」
と呟いてから
曠から聞いた話を順番に頭の中で反芻した
▼
翌朝少しだけ病室に顔を出した山辺に勧められ
茜は1人で食堂に赴き朝食と昼食を摂った
「昼過ぎに、皇所長がいらっしゃると思いますよ」
山辺の台詞を思い出して茜は胸が高鳴るのを自覚した
そう
曠と会えるのを心待ちにしている自分が居るのである
茜が他人に対してこういう気持ちになるのは極めて珍しい事だった
茜はこの時迄一度も恋をした事が無い
(恋…?)
そう認めてしまう事に戸惑う部分も有る
経験値が皆無の茜にとっては
今の気持ちが果たして恋心であるか否かの判断が付かず
また知り合ったばかりで素性が全く分からない相手に
そういった感情を抱ける物なのかという疑問も有る
それに…
たった3日前に両親を亡くしたばかりで
その葬儀が自分の知らない所で行われるこの日に
浮ついた気持ちで居る事が不謹慎だという思いも有った
しかし確かに茜は
曠と会える事で心がときめいているのは間違い無かった
▼
午後になり果たして曠は茜の病室を訪れた
「君の私室の準備が出来たよ
早速お引っ越しだ
荷物は何も無いけどね」
あぁ…
こういうふとした物の言い方が知的でスマートに聞こえるのだ
それが他の男達とは全然違う…と茜は思った
曠が連れて来た女性職員と3人で階下に降りる
そのフロア全体が職員達の居住エリアだと言う
「このフロアも含めて研究所内の殆どの場所がセキュリティーカードが無いと入れない
私室のドアキーも兼ねているから、無くさない様にね」
そう言って曠は茜にカードを手渡した
階段を下りた中央の区画は共用部で
生活用品等が買えるショップや
地上から光ファイバーで太陽光を取り込んだ中庭と
その他のレクリエーション施設等が有り
共用部の両端がそれぞれ
男性用と女性用の居住スペースに分かれている
女性用居住エリアの入り口に着くと
「ここから先は男子禁制だから、彼女が案内するよ
3時頃にインターフォンで呼ぶから、それ迄ゆっくりしてくれたらいい」
曠はニコリと優しく笑った
初めて自分のカードを使ってドアを開け
女性職員と2人で茜は居住エリアに足を踏み入れた
「こちらがあなたの私室です」
女性職員が示した部屋のカードリーダーには
茜の名前を記したプレートが既に貼られていて
差し込み口にカードを挿入すると解錠音が鳴った
ドアを開け室内に入ると
殺風景なワンルームマンションの一室の様な部屋だった
小さなキッチンにユニットバスと
個別空調にテレビやラジカセも設置されていて
部屋の真ん中には座椅子と小さなテーブルが置かれている
収納スペースには布団類と箪笥の様な引き出しが有り
中を開けて茜は思わず声を上げた
「着物…?」
そこには何点かの和服と帯が入っていたのである
「三島さんは和装がお好みだと聞いて、揃えさせました
所内での服装は自由です
サイズは合うと思いますが、不都合が有れば購買の窓口に言って下さい
下着類や履き物も用意しましたが、それも必要に応じて購入して下さい
お手持ちのカードに十万円分のクレジットが付いています」
必要以上の事を喋らないタイプらしく
説明は淀み無いが事務的で淡々としていたが
ズケズケと人の内面に干渉する様な人間よりは
ずっと付き合い易いと茜は思った
「私は女性居住区の責任者兼世話役をさせて貰っている川田と申します
インターフォンで『101』を鳴らして頂くと私の部屋に繋がります
職務中以外は何か有ればいつでも連絡して下さい
あなたのナンバーは『112』…下二桁が部屋の号数を示しています」
エアコンやユニットバスの使用方法の説明を受ける内に
茜はこの部屋の特異点に気付いた
「窓…?」
遮光カーテンに遮られている為直ぐには気付かなかったが
明らかに窓と思われる構造と
隙間から漏れる明るい日差しの様な光が見えた
「えぇ、居住区には窓が有るの
開けてみて下さい」
カーテンと窓を開けると
ベランダの様なせり出しの向こうが白い壁になっていて
天井から明るい光が降り注いでいた
「中庭と同じ光ファイバーです
施設の外の明るさに応じて変化するから、夜は真っ暗になります
今日はお天気が良いみたいね」
山田は天井を見上げて言った
「洗濯物を干したり植物を植えたり、自由に使って頂いて結構です」
山田はやはり淡々とした口調で説明をした
山田が退室し1人になった茜は
引き出しから着物を出して手触りや柄を確かめた
茜が普段着ていた物と比べれば質感は劣るものの
当面は充分これで過ごせるだろうと思えた
着物が着たい…
目覚めてからずっと
厚手のパジャマの様な入院服で過ごしてきた茜は
直ぐにでも着替えたい衝動に駆られた
ゆったりした洋服…しかもパンツルックはやはり落ち着かない
先程山田から聞いた手順に従ってシャワーを浴びて
着物に着替えた後もう一度部屋の中とベランダを改めて見て回る
ここが今日から自分の家…
さすがに直ぐに実感は湧かないがやはり殺風景なのは嫌だなと思う
(花の種とかは売っているかしら…)
後で共用エリアのショップを見に行ってみようと茜は思った
▼
午後3時を5分程過ぎた時茜の部屋のインターフォンが鳴り
茜は飛び上がる様に立ち上がって受話器を取った
「やぁ、新居の具合はどうだい?」
曠の声に胸が躍る
茜の方は30分も前から3時が近付くに連れて
曠からの連絡を待ちながら気持ちが落ち着かず
何度も壁に掛かった時計を見上げていたのだった
「はい…何もかも揃えて頂いて、お陰様で不自由御座いません」
茜は努めて声を落ち着かせながら答えた
「それなら良かった
今から上に来れるかい?
早速だけど、君にして貰う仕事の説明を始めたいんだけど」
茜は迷う事無く
「はい、直ぐに伺います」
と答えた
▼
居住区から研究施設のフロアに上がった茜は
曠に指示された通りの順路を進み
ある一角の突き当たりのドアの前に辿り着いた
ドア横のインターフォンのボタンを押そうとすると
「開いているよ、入りたまえ」
と中から曠の声がした
ノブを回しドアを開けて部屋の中に入ると
手前右手に応接用のソファーと机が置かれ
壁の周囲には書類がファイリングされたバインダーや書物が詰まった本棚が並んでいた
一番奥に木目調のデスクが有り
曠は正面を向く形でそこに座っていた
デスクの周囲には何台かのテレビモニターが並び
施設内各所の画像が映っているのが見える
たった今茜が歩いて来た廊下が映るモニターも有り
それを見て茜の到着が分かったのだろうと知れた
消えている小さな幾つかの画面は
通話用だろうか…
「ほぅ…」
入室した茜の立ち居姿を見て曠は感嘆の声を上げた
「急遽用意させた安物だけど、着こなしが上手いね
良く似合ってる」
曠に誉められたのが茜には面ばゆい
曠は立ち上がって茜に近付くとソファーを指して
「さぁ、掛けたまえ」
と促し
茜が腰を下ろすと曠はその正面に座った
「昨日病室に置いたマニュアルは、どの位読めたかな?」
「一応、昨日の内に全て目は通しました」
「え…?昨日の内に全部かい?
3日は時間が潰せる量だと思ったが…速読術でもやっていた?」
「いいえ、特には…
読書は元々好きでしたから」
曠はマニュアルに記載されていた内容をランダムに選んで
茜に幾つか質問をし
それに茜は全て正確に答える事が出来た
「驚いたなぁ…
いや、確かめる様な真似をしてすまない
君の理解力は常人の域を完全に越えているね
間違い無く我々の力になって貰えそうだ
しかし…そのレベルで普通の学生達と同じ勉強をするのは、随分ストレスだったんじゃないかい?」
「いえ…そんな…」
「謙遜しなくて良いよ
ここにスカウトされて来た連中は、常人離れした特異な才能を持つ者ばかりだからね
多かれ少なかれ、みんな同じ様な思いを経験して来てるから…分かるんだ」
ここには
この皇所長の下で自分と同じ人達が働いている…
茜にはこの研究所が
益々魅力的な場所に感じられた
「あのマニュアルが全て頭に入っているなら話は早いよ
で…どう思った?君の感想が聞きたい」
曠は茜を正面から見据えて言い
茜は少し頭の中で考えを纏めてから口を開いた
「『ハンター』という仕事そのものの必要性は良く分かります
対象が『鬼』であるか否かの判断基準が抽象的で難しいと感じました
それと…これは感想とは少し違う事だと思いますが…」
「何だい?言ってごらん」
「はい…これ程迄に霊魂の存在が明らかで、今も『鬼』による犠牲者が数多く出ている現実が有りながら…何故一般的に霊は正しく認知されていないのか、それが奇異に感じられました」
曠は茜の言葉に頷き
「成る程ね」
と言って言葉を繋げた
「世間一般の霊に対する認知に関しては…この国自体がその正確な情報提供をタブーにして来た歴史が有るからだろうね」
「タブー…何故でしょう?」
「人心の混乱を防ぐ為とか、科学文明の発展の妨げになるからとか、理由は様々だけど…何より古来から国家自体が神霊の類に対して、強い恐れを抱く体質なのが一番の要因だろうね」
「恐れ…」
「諸外国と比べて、この国は歴史的に見ても霊的な事件の発生頻度が高いんだよ
位置的な物なのか、形状的な物なのか、要因は分からないけど、とにかくここは神霊の国なんだ
魑魅魍魎だの妖怪だのと伝えられる物の殆どは、過去に発生した霊現象だと考えられるしね」
「はい…」
「島国だから単一民族国家だと良く言われるけど、実際はそうじゃない
太古の昔にこの国を統治した人達は、大陸から何派にも分かれて入って来た渡来人の中の一派なんだ
時代を考えれば、平和的に先住民を支配したとは考え難いよね?」
「侵略だったと…?」
「まぁ、先住民にとっては侵略以外の何物でも無かっただろうね
その時に滅ぼした旧来の民族達の怨霊に、恐らく統治者達は長く苦しめられたんじゃないかと思う」
もしも曠が言う通り
この国が取り分け霊が具現化し易い場所だとしたら
外の国から入って来た人々にとっては
カルチャーショック以上の脅威だったであろう
「大陸では余り縁が無い、火山の噴火やそれに伴う地震
海と山に挟まれた逃げ場の無い地形の為に一気に蔓延する疫病
年にいくつも上陸する台風…
そう言った自然災害も全て、怨念や祟りだと思えてしまったんじゃないかな」
民俗学や歴史など今迄興味を持った事が無かったが
茜は引き込まれる様に曠の説明に聞き入っていた
「何世代もかけて民衆には霊現象をオカルトな幻想と思わせる事には成功した
その一方で、歴代の為政者達は霊的脅威に対しての防御策を、凄まじい迄のエネルギーを費やして行って来たんだよ
全国に配置した管制神社の多くは都を護る結界なのは見え見えだし、平安京は地形すら利用した完全防壁の要塞都市だ
現在の首都だって、計画段階から霊的結界を模して造られているしね
あぁ…こんな話は興味無いかな?」
「いいえ、非常に興味深いお話ばかりです
今迄周囲から否定されながら、私が見たり感じたりして来た物が、急速に具体化してゆく様で…
この感覚は、喜ばしいと思います」
これは茜の本音だった
「そうか…
これからこうした雑学も沢山覚えて貰わなければならなくなるから、興味を持ってくれるのは良い事だよ
いずれにしても霊魂を禁忌な物と位置付けている以上、『ハンター』の存在もシークレットなんだ
『組織』の事を外部に漏らせば、厳罰に処せられる
これだけは覚えておいてね」
「はい」
答えながら
仮に『組織』や『ハンター』の存在を世間に声高に叫んでも
それを信じる者は1人も居ないだろうと茜は思うのだった
その後曠は『ハンター』と『組織』についてお浚いの様に話し
『コネクター』の役割と
『鬼飼い』と『一般ハンター』の違いについても再説明を行った
「厳密には『ハンター』になり得る人間にはもう1種類有るんだけど、それは極めて希少な存在だから、今は説明を省こう
…で、我々がここで行っている研究についてだけれど…」
曠は立ち上がると本棚から何冊かのファイルを取り出し
その内の一冊を茜に向けて開いた
そこには
幾つかの数値とグラフが描かれていた
「過去20年間の『ハンター』の人数の推移だよ」
曠はグラフの一番上を指差して説明を始めた
「これが『組織』に所属する『ハンター』の1年毎の人数
下がその年に新たに採用された『ハンター』の人数
…で、その下は…」
曠の言葉を待つ迄も無く
茜の分析力はその数値が何を表しているのかが計算出来ていた
死亡者数…
「毎年それなりの新人を入れていながら『ハンター』の数が増えないのは、それだけ命の危険を伴仕事だうからなんだ
それ程に、『鬼』は凶悪で手ごわい…」
次に曠は別のファイルを開いた
「これは年毎の『鬼』が絡む事件の発生件数の推移…下は地域別になってる」
「増えて…いますね?」
少なくともそのページに記されている約20年分のグラフは
緩やかな右肩上がりのラインを描いていた
「そう…理由は不明だけれど、確実に頻度が増している
世紀末が近いからなのか…なんて言ってる職員も居る位さ
いずれにしても、やがて『ハンター』の数が足りなる事と、『鬼』による被害が拡大してゆく事は明白…
これは国家にとってはゆゆしき問題でね」
更に曠は別のファイルを手に取る
「この研究所では様々な霊魂に関する研究が行われているけれど、今、一番力を入れているのはね…」
曠はファイルをパラパラと捲り
「人為的に『ハンター』を造り出す事なんだよ」
と言った
「『ハンター』を造る…」
「あ、ここだ…
これ、知ってるかい?」
開かれたページにはワープロ印字されたレポートと
コピーされた資料が切り貼りされている
「ホムン…クルス…?」
茜には馴染みの無い単語だった
「西洋の錬金術の1つで、分かり易く言うと『人造人間』だね
他には、カバラのゴーレムだとか、日本の傀儡だとか、似た様な事例は世界中の至る所に記録が残っている」
人造人間と聞くとSF小説や漫画に出て来る物という認識しか茜には無かった
「物に依っては人型じゃないケースも有るけれど、この手の人工生命の製造は魔法や秘術では1つの定番みたいな物でね…」
その時
曠のデスクの横から呼び出しの電子音がなった
曠が立ち上がって応答スイッチを押すとモニター画面の1つが点き
画面にライザの顔が映し出された
「どうした?」
「草薙のチームがやられたんです」
「何だって?」
「生き残った『コネクター』が連絡を入れて来ました
他の連中は全員喰われちまったって…糞ったれ!」
「分かった、すぐにそちらへ行くよ」
曠は画面を切ると茜の方を向き
「言ってる側から、また『ハンター』が減ってしまった様だよ」
と言った
▼
曠と茜は2人で別の区画へと向かい
通路の奥の他より大きめのドアを開けて中に入ると
そこはデスクやテレビモニターが並ぶ指令室の様な造りの部屋だった
ライザの他に3名のスタッフが居て
各々受話器やモニターに向かって口々に何か叫んでいる
ライザは曠に歩み寄り
「『本部』には連絡済みです
処理には動いてるでしょうけど、こんな明るい時間じゃどこ迄揉み消せるか…」
と言う
「実体化させた後にやられたのかい?」
「いいえ、調査中に急に襲われたらしくて…記憶の転送も、しちゃいない段階でしょう」
「彼等は、石崎町の事件の担当だったね
現場は?」
「町外れの農地ですが、住宅も有ります
夜ならともかく…」
「目撃者が居る可能性が高いね
情報操作が厄介だな…」
ライザは茜に目線を向けると
「おや、所長に合わせて和服かい?」
と言う
「いいえ、これは…」
「彼女はね、元から普段着は和装なんだ」
言い澱む茜の代わりに曠が答え
ライザは
「フゥン…」
と鼻を鳴らすと直ぐに話を戻した
「『ハンター』が2人も喰われたとなるとタダ者じゃありません
今から私も出ますよ」
「そうだね、早めに片付けないと面倒だね…
良い機会だ
ライザ、茜君を現場に同行させよう」
曠は茜に顔を向け
「いきなりだけど、『ハンター』の仕事という物を体感して貰うよ
僕も一緒に行く」
と言い
茜が頷くと同時にライザがスタッフの背中に向かって
「サチに連絡取っておくれ!
ウチの『コネクター』だよ
分かんだろう!?」
と叫んだ
▼
「当面君は、施設の外に出る事は出来ないから、これは貴重な外出の機会になるね」
ライザの運転する車の後部座席で横並びに座る茜に曠が言い
茜は
「はい…心得ております」
と伏し目がちに答えた
助手席には途中で合流した『コネクター』のサチという女性が座っている
研究所の最下層の地下駐車場からライザの車に乗り込み
幾つかの分岐を経てトンネルから山道へ出
いつの間にか一般の道路を走っていた
研究所施設への出入り口は恐らく厳重なカモフラージュが施されていて
道に迷った程度でたまたま入り込む様な造りにはなっていないのだろう
いずれにしても
夕暮れが迫る外の景色を眺めてみたところで
土地勘の無い茜にはどこを走っているのか全く分からない
「サチ、そろそろ現場だよ
アンテナ張りな」
「はい…」
真後ろに座る茜からはサチの動きは見えないが
何らかの精神集中を始めたらしいというのは分かった
「君もやってみるかい?
『鬼』の気配を感じ取る『サーチ』というやつだ」
曠が茜に言う
「マニュアルで読みましたが…何をどうすれば良いのでしょう?」
「霊気を感じる感覚が有るよね
その感覚を意識的に広げるんだよ
耳を澄ます様に、目を凝らす様に…ね」
茜は目を閉じて神経を集中させてみた
「色んな霊の気配を感じたら、更にその範囲を広げてご覧
一際強くて邪悪な気配が有れば、それが『鬼』だよ」
精神集中などやった事は無いし
日常生活では寧ろ感応力を閉ざそうと努力してきた茜には
いきなり真逆の作業は難しいと思えたが
次第に走行する車の外を漂う幾つかの霊気を感じ始め
更にその範囲を広げる事も可能に思えた
「警察の姿は無し…
連中の亡骸の撤去は間に合ったみたいですね」
「その様だね
まぁ、騒ぎにならなくて何よりだ」
曠とライザの会話が終わらぬ内に茜は奇妙な気を感じて
「うん…?」
と声を発した
「どうした?」
隣に座る曠が茜の反応に気付く
「いえ…何だか、違う感じが…」
「どこ?」
「今、通り過ぎました」
「ライザ、車を停めろ」
車が停車する
「何ですぅ?」
「茜君が何か感じたらしい」
「えぇ?サチ、そうなのかい?」
ライザは助手席に顔を向けて訊くが
「いいえ…それらしい気配は何も…」
とサチは答える
「…ですってよぉ?
嬢ちゃん、何を感じたって?」
ライザがルームミラー越しに茜を見ながら皮肉気味に言う
「すみません…強いとか、邪悪とかでは無いのですが異質な…感じなのです」
上手く言葉で表現出来ない事が茜にはもどかしかった
「今、通過した所に、何か建っていたね」
曠の言葉にライザがドアミラーを見る
「あぁ…有りますね
祠…?地蔵堂ですかね」
「調べてみよう」
曠の言葉に4人は車を降りて祠に歩いて近寄り
その際ライザはトランクから大きめのジェラルミンケースを取り出して左手に持った
「あっ…」
サチが不意に声を上げ
「何だい?」
とライザが訊く
「何か居ます…これは…?」
「あの中かい?」
「はい…けど、微弱過ぎて…」
サチは判断しあぐねている様子だった
「眠っていると感じませんか?
眠りながら…泣いている…」
茜が言う
「不明瞭だねぇ…
試しにシンクロしちまいな」
ライザに言われてサチは顔の前で印を結び
やがてサチの体の周囲にオーラが立ち上り始めた
「よく見ておくんだ
霊との『同調』を始めるよ」
曠が茜に耳打ちをする
サチの体が浮く様に伸び上がり
オーラの流れが変わった
「…う…ぐぅ…」
サチが声を発し始めたが
それは先刻迄のサチとは明らかに違う男性の声質に聞こえた
「シンクロしたね?
サチ君、僕と茜君にも転送を頼むよ」
曠がサチの背中に向かって言う
マニュアルで読んだ『記憶の転送』が始まるのだと知り
茜は初めての経験に心の中で思わず身構えた
次の瞬間
茜の頭の中に突如として別の意識が流れ込む様な感覚を覚えた
(老人…?)
固い布団…
息子の嫁…
嫁の言いなりの息子…
2人の会話がリフレインする
「もう、あの爺さんどうにかしてよ!
自分でトイレも行けないんじゃ、家中臭くってたまんないわ!」
「そんな事言ったって…仕方無いじゃないか、寝たきりなんだから…」
「家付き土地付きと思って嫁に来てみりゃ、あんなお荷物…」
記憶の中の老人は固い布団の上で動く事も出来ず
渇きと空腹感にただ耐え続けていた
手の届く場所に有る水飲み用の容器は
何日も前に空になったきり放置されていた
「何か食べさせたかい…?」
「知らないわよ!
食べたらまた垂れ流すじゃない!
動かないんだから、食べなくっても平気でしょっ」
飢え…
渇き…
数年前に先立たれた妻の面影…
見合いで知り合い
よそよそしく不器用に始まった婚姻生活だったが
一緒に畑を耕し共に汗をかき
そして息子が生まれ…
2人共真面目だけが取り柄で要領が悪い夫婦生活は苦労もいっぱい有ったが
妻は甲斐甲斐しく懸命に尽くし
そしていつも笑顔で励ましてくれた
四十を過ぎた息子の縁談がが漸く纏まり嫁を迎え入れた矢先に
雨漏りを直そうと年甲斐も無く屋根に登った際に足を滑らせ
落下して背骨を強打し病院に運ばれた
一命は取り留めたものの
下半身は全く動かなくなり言語障害も残り…
妻はそれでも甲斐甲斐しく世話をしてくれた
その妻が
突然病死した
息子の嫁は最低限の世話をしてくれたが
嫌悪感を抱いているのが有り有りと分かり
そして
いつしか何もしなくなった…
「死んでくれて良かったじゃない、保険金出るんでしょ?
今迄手間掛かった分、それ位役に立って貰わなきゃ割り合わないわよ」
息子は何も言わない
その様子を
すぐ目の前で見て
聞いていた
足元には
固い布団の上で干からびた様に横たわる自分の亡骸…
残留した空腹感が衝動的に行動を取らせた
気が付けばブクブク太った嫁の腹を裂き
その腑を貪り喰らっていた
悲鳴を上げて顔をひきつらせる息子にも怒りしか湧かなかった
2人を喰った後
久し振りの満腹感と自分の意志で動ける事への喜びが
心の中を満たしていた
老人の半生と死後の記憶が
頭の中に全て流れ込むのに数秒とかからなかった
暫く家の周辺を漂った後
再び空腹感を覚えた老人の霊は外へ出て更に人を喰い
妻とよく手を合わせた思い出の有る地蔵堂に憑く様になった
そして一番新しい記憶の中の2人の被害者達は
『組織』の『ハンター』だと知れた
記憶を共有するという事はその魂の実体験を体感するに等しい
死の直前迄耐え続けた飢えと渇きと
人の肉を喰い血を啜る感触迄もリアルに体感し
茜は思わず吐き気をもよおしていた
「ビンゴだねぇ!
草薙達を喰ったばかりで、満腹だから霊気が弱くなってったって訳かい
嬢ちゃんお手柄だよ!」
ライザは手に持ったジェラルミンケースを地面に置くと留め具を外して開き
中から直径40センチ程の円盤を取り出して右手に所持した
「殺りますよ?」
ライザは曠に顔を向けて言い
「あぁ、人の味を覚えてしまうと戻れないからね」
と曠は答える
「サチ、実体化だ!」
ライザが指示を出しながら右手の円盤の持ち手のトリガーを引くと
ジャキンッという音と共に円盤から3枚の刃が飛び出した
円形の盾に攻撃用の剣が内蔵されたライザの攻防一体型武具
『D・S(dueling shield)』である
「殺るよ!出といで」
ライザの言葉に呼応してその体からオレンジ色のオーラが吹き出すと
右手のD・Sに纏い付く様に収束していく
この瞬間の霊気の凄まじさは茜の想像をはるかに超えていた
(これが…『鬼』…!)
サチの眼前に老人の『鬼』が実体化する
胃袋から下が大きく膨らんだそれは
眠りながら涙を流している様に見えた
「…ったく馬鹿な爺さんだよ
大人しく成仏してりゃ、今頃あの世で愛しい婆さんと会えてただろうに」
ライザはサチの横を駆け抜け
老人の『鬼』の腹部にD・Sを一旋した
霊体が斬られた瞬間『鬼』は目を見開いたが
声を発する間も無くその霊体を霧散させて消えていく
余りに呆気ない一瞬の出来事だった
ライザがD・Sの刃を収納すると共にオレンジ色のオーラは姿を消し
同時に強大な霊気も消える
「お見事…本当に桁外れな霊力だ
正に瞬殺だね」
曠はライザに言った後茜の方を向き
「間近で『鬼』の霊気を感じるのは初めてだろう
当てられなかったかい?」
と気遣う様に言う
「はい…正直これ程とは…
でも、大丈夫です」
茜は努めて明るく答えた
▼
サチを途中で降ろした後
茜達3人は再び研究所への帰路に就いたが
道中は皆何事も無かったかの様に
先刻の『鬼』については一言も触れなかった
茜にとっては霊の記憶を共有するのも
『鬼』を処刑する場面に立ち会うのも初めての事であり
一時的に精神が不安定になる程の衝撃的な経験だったが
曠やライザ達にとってはあくまで日常的な出来事なのであろう
研究所に着くとライザとは別れ
曠と茜は再び所長室に入った
「色々驚いたんじゃないかな?
もう夕食の時間だけど、どうする?」
曠に訊かれ茜は
「はい…少々気持ちが落ち着きません
食事はちょっと…」
と答えた
「…だろうね
今はショックが大きいだろうけど、慣れて貰うしか無いから…」
曠は言いながら茜に優しい目線を向ける
(この人にならついて行ける…)
茜は確信していた
知的で物腰が柔らかく
こちらの気持ちを常に気遣う繊細さが感じられる
何の為に生きているか分からないこれ迄の生活への未練が皆無である事も
茜の思いを更に強くさせていた
「今日は疲れただろうから、話の続きは明日にするけれど、ここで協力してもらう研究の趣旨だけは言っておくよ」
テーブルの上には説明途中のファイルが部屋を出た時のまま開かれていた
ホムン・クルスという人造人間のページである
「今日の事件で、また貴重な人命が失われてしまった…
あの『鬼』自体は大して強い部類ではなかったにも関わらずね
『ハンター』はそれだけ危険な仕事なんだ
僕等が行っている研究はね、『人造ハンター』の製造なんだよ」
「人造…?」
「霊的アンドロイド…
それを『ハンター』として使えないかとね
それもこれも人命を失うリスクを減らす為さ」
霊力で動く人型の道具…
そんな物が果たして実現可能なのだろうかと茜には思えてしまう
「まだまだ実験段階で実用化には程遠いけれどね」
曠は言いながらファイルを閉じた
▼
翌日から茜は
居住区の1つ上のフロアである研究所に
着物姿で正式に『出勤』する事になった
8時半前に指令室に着くとそこには曠を始めとして
自称『医者の玉子』と言っていた山部と
居住区管理人の川田が白衣を着て椅子に座っていた
「今日から茜君は、基本的に彼等とチームを組んで動いて貰う事になる
プロジェクトの責任者は僕
他のスタッフは追々紹介するよ」
4人で指令室を出て別の区画へと向かう
幾つかの扉が見られるそのエリアは
照明の加減なのか壁の色が違う為か分からないが
他のエリアより暗い印象を受けた
元々は廃材等を置く為の倉庫スペースを改造した物で
通路の内装迄は手が回らなかったと曠は歩きながら茜に言った
最初に幾つかの工作機械と部品等が置かれている
通称『工房』と呼ばれてる広い部屋に通された
「昨日話した『人造ハンター』の、ハード部分…
つまり、入れ物を造る所だよ
今、試作中のプロトタイプの仕上げに掛かっている段階だ
川田君と山部君の両名はこのセクションのメインスタッフなんだよ」
子供位の大きさの
首から上の無い人形の胴体部分が台の上に寝かされている
表面は樹脂の様な皮膜で被われているが
腕や脚には可動式の関節の意匠が分かる凹凸が見える
「体の部分は非常に簡素な造りでね、殆どが木で出来てるんだ」
「木…ですか?」
「あぁ、操り人形を想像してくれたらいいよ」
そんな簡単な物が人造人間になり得るのだろうか…
と茜には疑問だった
別の台の上には頭部と思われる部位と
幾つかの小さな機械部品が置かれている
「胴体はともかく、目や耳の感覚器官と声帯は、人間と同じレベルで造らないと『ハンター』として機能しないから、その部分だけはハイテクノロジーの塊だよ
川田君は、この若さで電子工学のエキスパートでね
彼女無くして試作品の製造は有り得なかった」
曠の言葉に山田は
「いいえ…人体の構造については全くの無知でしたから…
山部君のアドバイス有っての事です」
と謙遜する様に言った
「山部君は神経外科が専門なんだが、人間の感覚器官には特に詳しくてね
この2人が試作品のハード部分の殆どを造ってると言っても過言じゃない」
茜は
頭部の周囲に置かれた細かな機械が
その感覚器官の部品なのだろうと想像するしか無かった
「君達は通常の仕事を続けてくれたまえ
もう他のメンバーも来る頃だろう」
曠に言われて川田と山辺は
「はい」
と声を揃えて答えてからデスクに向かい
茜は曠に促されて工房を後にした
更に奥に進んだ扉の前に立つと曠はカードキーを取り出しながら
「ちょっと感応力を閉ざした方が良いかも知れないよ」
と茜に言う
ドアが開いた瞬間
茜には曠の言葉の意味が直ぐに分かった
ライザが新人の訓練をしていた部屋と同様に
奥にガラスで仕切られたスペースが有り
そのガラスの向こうから異様な霊気が滲み出ているのを感じたのである
部屋の中へ進んでガラス越しに覗くと
白い台の上にソフトボール程度の大きさの黒い球体が乗っていて
異様な霊気はその球体を中心に発せられていると分かった
「感じるだろう?」
「これは…何でしょう…?」
前日に初遭遇した『鬼』とも
通常の浮遊霊とも明らかに性質の違う霊気だった
「『人造ハンター』のソフト部分…人間で言えば、脳や心臓に当たる所さ」
霊力自体は極めて強いと感じる
恐らく他の実験室と同様にこのガラスや壁にも
霊気を通し難くする防壁が張られているのだろうが
それでも茜の感覚に強く触る
何より奇異に思えるのは
この霊気には特定の『個性』が無く
とても不安定だと感じる部分だった
まるで…
「…複数の霊魂が居る様…」
茜は独り言の様に呟いた
「うん、素晴らしい
君の感応力は驚く程繊細だね
この実験にはやはり適任だよ」
言葉無く見上げる茜に曠は笑みを見せながら
「君の言う通り、あれには複数の霊魂を1つに凝縮した物が詰まっているんだ」
と言った
「霊魂を凝縮…」
戸惑う様に言う茜に曠は
「座ろうか」
と椅子を指して促す
「僕等はね、過去に存在した様々な霊的な人工生命の製法を参考に、現代のテクノロジーと融合させて、より実用性の高い物を造ろうと実験を重ねて来たんだ…」
…古来から霊魂が色々な物に憑依する事は知られていた
人形に霊魂が乗り移ったり動物霊が人に取り憑く事も有れば
多くの人を斬った刀がその霊力を纏い妖刀となるケースも有る
歴史の中で人為的に造られた霊的アイテムや人工生命の製法も
やはり多くの生きた人体を使用したり
禁忌とされる魔法により悪魔と契約を結ぶ等
相応の代償が必要な物が多い
「僕等はね、代償を伴わない霊的生命体の創造を目指したんだ
多くの『ハンター』は、浮遊霊の霊力を集めて『鬼』に対抗するよね?
1つ1つの浮遊霊の力は弱いけど、数個集まれば大きな力を生む
その理屈を利用しようと考えたんだよ」
『ハンター』によって浮遊霊を集め
それを加工しコントロールする術を得る為の研究…
「浮遊霊の多くは生前の記憶の大半を失っていて、且つ現世に長く留まり続けたが故に天界に帰る術を持たない者が多い
別の『鬼』に喰われてしまったり、現世での霊体の維持が出来ずにそのまま消滅してしまう場合も有る…
それ程に儚い存在なんだ
それらを集めて1つのエネルギー体として定着させる訳だけど、これがなかなか難しくてね」
曠はガラスの向こうの黒い球体に目を遣る
「ああして漸く形にはなったものの、ない交ぜになった魂がまるで安定しない」
「はい…寧ろ混乱していると感じます
おおよそ人の魂とは思えません」
曠は茜の言葉に無言で頷き
「君に手伝って貰いたいのはね…」
と茜の方を向く
「第一に、あれを安定させ、次に、川田君達が造っている感覚器官とのリンクが出来る所迄持って行って貰いたいんだよ」
茜は返事をする前に視線を逸らしてしまった
曠に見つめられると心臓の鼓動が高鳴り
頬が紅潮してしまう事に
気付かれる様な気がしたからだった
▼
人間の肉体を含む三次元の物質は
基本的に霊体に対して物理干渉する事は出来ない
修行等により高められた自らの霊力や
呪術的な技法…例えば結界や魔法陣等…を使用しなければ
霊を動かしたり触れたりする事は不可能である
逆に霊体は三次元物質への干渉が可能で
物を動かしたり壊したり
何かに憑依して操る事も出来る
故に霊体は現世の生き物より高次元な存在なのかも知れない…
曠は茜にそう説明した
『ハンター』の能力を利用し
古来からの魔法術等と最新テクノロジーを融合させた技術を結集させ
20体以上の霊魂を1つの球体に封じる事には成功した
強い霊力さえ有れば霊魂の任意で物を動かす事は可能な為
腕や脚等にはロボットの様な機械は必要無いが
人間と同じ様に『見る』『聞く』『話す』機能が無くては
『ハンター』として稼働させる事は出来ない
故に人工の感覚器官をその頭部に設置する必要が有る…
「要は、個体としての人格を持たせたい訳さ」
それには
より繊細な感覚を持つ『コネクター』の力が必要で
曠曰わく茜は適任者なのだと言う
「茜君が適任だと考える理由はもう1つ有る
それは、君の知能指数の高さなんだよ」
最終的に機械で出来た感覚器官の使い方を
この禍禍しい霊の集合体に理解させ覚えさせなければならなず
それには霊とコンタクトする『コネクター』自身が
その機械的理屈を理解していなければならないと言う
「ま、教育係という事だね」
曠は茜にウインクして見せたのだった
▼
その日から茜は
曠の立ち会いの元で霊の集合体である黒い球体との霊的コンタクトと
川田や山辺達の居る工房での精密機械のテストを交互に行う事になり
合間には曠による様々な知識習得の為の個人授業を受けた
全てが初体験で手探りの連続だったが
自分の能力が頼りにされているという実感と
何より曠の期待に応えたいという思いが茜のモチベーションを高揚させていた
▼
研究所の職員には月に7日程度の休日が与えられたが
茜は休みの日も通常と変わらない稼働を続けた
休日と言っても外出出来る訳では無いし
元々レクリエーションの習慣等無かった茜には
与えられた仕事をしている方が充実した時間に感じられたのだった
工房での実験は興味深い物で
川田達が造る人工の瞳や鼓膜の構造を知れば知る程
その精度の高さに茜は感嘆させられた
逆に他のスタッフ達は茜の理解力の良さに舌を巻き
「何か専門的な教育でも受けた経験が?」
と異口同音に訊かれた
「高校は何を専攻していたの?」
専門知識の説明を始めて20分もしない内に川田も思わず訊いた程で
「公立の普通科でしたから、特には…」
と言う返答に
「勿体無いわ…」
と独り言の様に呟いたのだった
「ね?天才って居るんですよ!
凡才との違いは、脳の使用体積と、神経細胞の情報伝達だと思うんです
具体的に言うとですね…」
興奮気味に喋り始める山辺を
「業務外の演説は休憩時間にして下さい」
と川田が窘める一幕が有り
茜が思わず微笑を漏らすと山辺は
「あ…三島さん、笑顔…」
と反応した
茜が不思議そうな顔をすると
「あ、いいえ…ここへ来られて一度も笑った所を見た事が無かったので…
お辛い事が有ったばかりなので当然なんですが…そのぉ…」
とどぎまぎした様子で口ごもる山辺に川田が
「笑顔が素敵だった訳よね?
才色兼備って言いたいんでしょう?」
と皮肉っぽく言う
「いやっ…そのぉ…はい…まぁ…」
「悪かったわね、私は『才』の方だけで」
「べ、別にそういう意味じゃ…」
そんな川田と山辺の会話に
茜は再び笑みを浮かべたのだった
▼
一方球体の中の混合霊魂は
複数の周波数を持つ電波の様に不安定であり
秒刻みにその性質が変化する為コネクトするの困難に思えたが
茜はガラス越しに根気良く同調を試みた
そんな茜に曠は
「焦らなくて良いよ」
「無理に同調しようとしないで、そっと触れる様にしてごらん」
と優しく語りかけてくれた
仕事とは別次元で
茜はこの時間に幸福感を感じるのだった
▼
茜が黒い球体とのコンタクトを開始して10日が経過した頃
スタッフがチェックする計器盤に変化が現れ始めた
「空気の微振動が落ち着き始めました」
スタッフの言葉に曠は計器盤に歩み寄る
霊が発する力は通常の三次元エネルギーとは明らかに性質が異なる為
霊力その物を計測出来る機械は存在しない
その為霊魂の物理干渉によって生じる音や空気中の振動
或いは電磁波等を計測して霊魂の変化を察知するのだが
その1つにそれ迄とは違う反応が出たのである
「茜君?」
曠は茜を振り返った
「はい…昨日から1つ1つの個性に個別にシンクロしていたのですが、先程全て終わりました
全ての個性が、私の方を向いていると感じます」
茜が言い終えると同時にスタッフの1人が
「電気パルスも急速に弱くなっています
凄い…静電気並みに落ち着いてる」
と言う
小さなボールの中に押し込められた幾多の霊体は
まるで小さな嵐の様に荒れ狂い続け
茜が来る以前から一度も鎮静化する気配すら見せなかった
それが始めて
しかも急速に安定を見せたのである
「中へ入ってよろしいですか?」
茜は椅子から立ち上がって言う
「防壁の中へ?危険です!あれの霊力は…」
止めようとするスタッフを曠は左手で制して
「その方が良いのかい?」
と茜に訊く
「はい…向こうは今、私を認知したがっていますが、ここからでは上手く届かないのです」
「もしもの為にライザを呼ぼうか?」
「いいえ、あの方のオーラは攻撃的なので、怯えてしまうと思います
1人で大丈夫です」
曠はスタッフに目配せをし
そのスタッフは立ち上がると計器盤の下のボックスからカードキーを取り出し茜に差し出した
「ドアは二重になっていますが、どちらもこれで開きます
けど本当に…」
中年男性のスタッフは
明らかに成人前と分かる可憐な茜の身を案じて躊躇してした
「ご心配ありがとうございます
お気遣い無く…」
茜はカードを受け取ると曠に顔を向けた
曠は無言で頷くだけだったが茜には励ましてくれていると感じられた
使命感を更に強くしながら
茜はドアに歩を進めた
2枚目のドアが開くと
突風の様な霊気が茜の肢体に襲いかかった
鎮静化しているにも関わらずこれだけの力を感じるという事は
スタッフの男性が危険を訴えるのも頷ける
一度でも実際の『鬼』と対面していたお陰で
強い霊気への免疫が出来ていたのは茜にとって幸いだったかも知れない
気圧される事無くドアの位置から茜が球体に向けて緩やかに意識を伸ばすと
霊達は茜を感知するや否や一斉にその霊気を向け
同時に霊圧とも言うべきプレッシャーが更に茜を襲う
完全に1つに纏まりきらない霊力の集合体は当然力加減を知らない
茜はギリギリの所でそれを受け止め
より間近でその霊気を知覚した
嘆き…不安…哀しみ…そして混乱
明確な意識を持たない魂の集合体は
何も知らない無垢な赤子が泣き叫ぶが如く
己が感情をただ剥き出しにしている様だった
(赤子…?そう、赤ん坊と同じ…)
一片の知性も自我も持たないそれは
生まれたばかりの赤子と同じだと茜は気付き
そして全ての個性に向けて意識の中で語り掛けた
…大丈夫…
今は何も分からないけれど
怖がらなくていい…
あなたは生まれたばかりの新たな命
直ぐに見えるし聞こえる様になる
喧嘩しないで皆混ざり合ってごらん…
大丈夫…
きっと仲良くなれるから…
球体の中の霊達はざわめきに似た小さな動揺を見せたが
やがてゆっくりと落ち着きを取り戻し
まるで融和する様に安定していくのが分かった
茜はゆっくりと球体に歩を進める
「危険です!安易に近付いては…」
スピーカーからスタッフの声が響くが茜は足を止めなかった
球体の霊は茜が近付くに連れて
より静かに安定していく様に感じられた
「そう…不安だったのですね…」
茜の呟きは
室内のマイクを通して曠や他のスタッフ達にも聞こえていた
そして…
「おぉ…!」
スタッフ達のどよめきがスピーカーから漏れる
茜は球体を素手で持ち上げ
その胸に抱いたのである
(大丈夫…生きるのです
みんな一緒に…)
茜の意志は球体に染み込む様に伝わる
そしてこの瞬間に
球体の霊達は完全な融合を果たしたのだった
▼
以降の研究所内…
特に『人造ハンター』の開発に携わるセクションの職員達は
俄然盛り上がりを見せる事になった
これ迄幾人かの『コネクター』が挑みながら果たせなかった魂の融合を
経験値が皆無に等しい茜が僅か10日余りで成功させたという事実は
その日の内に所内全体に広まり茜は一躍時の人となった
球体は茜が離れると微妙な変動を見せたが
それも全く問題にならないと言える程に安定し
プロトタイプ初稼動への気運は否が応でも上昇していく
工房の川田と山辺も茜の勇気有る行動と成果に驚嘆しつつ
自分達の組み上げた感覚器官の最終チェックに俄然意欲を燃やした
茜自身は自分の感ずるままに行動したに過ぎなかったが
生まれて初めて自分の能力が何かに役立ち
それが高く評価された事を嬉しく思い
「君は僕達の救世主になるかも知れない」
と言う曠の言葉が何にも増して茜には嬉しかった
その後も茜は球体との心の対話を続け
回を重ねる毎に中の霊体との触れ合いがスムーズになっていくのを実感し
いつしかその霊体に対して愛着に似た感情を抱き始めていた
そしてその様子を常に曠はガラス越しに見守り
茜が報告する霊体の変化を一緒に喜んでくれる
それはまるで
産まれた我が子の成長を確かめ合う夫婦の様で
茜には胸踊る時間だった
頼りにされ評価されるという達成感
無垢な命を育てるという母性に似た喜び
そして
皇 曠という男性への思慕…
そう
茜は己が曠への感情を
この時には明確に恋心だと自覚していた
仕事と母性と恋
茜はこの研究所で
3つの生まれて初めての生き甲斐を一度に手に入れたのだった
川田と山辺達による眼球や鼓膜の作動チェックは急ピッチで進められ
その作業にも茜は可能な限り立ち会った
人形の頭部にはそれら人工の感覚器官を取り付ける小さな穴と
脳に当たる黒い球体を収納する為の空洞が有り
球体にはそれぞの器官を繋ぐ為の端子の差込口が設置されていた
「機械の動力源は、霊自体が発する電気エネルギーなんです
上手く作動すれば、究極の永久自家発電ですね」
山辺は茜に自慢気に説明した
レンズが取り入れた光は電気信号に変換されて球体に伝わり
中の霊体はそれを画像として認識する
「これ迄に何体かの試作機を使って、霊がどんな信号を色や形として認識するかを実験したんです
霊に映像の電気信号を送って、どう見えているかを『コネクター』の人にシンクロして繰り返し見て貰うんです
そのパターンをプログラミングして、データをICチップにした物があの黒い球体に入ってるんですよ」
音声を知覚する仕組みも同様のシステムだと山辺は言った
「但し、喋るのだけは逆なんです
声帯を付けても霊の方が声を発しようとしなければ作動はしませんし、言語は組み上げた後でイチから教えないといけません
知性も同じですね
霊が生前の記憶をある程度残していれば楽なんですが…」
山辺の説明を聞きながら茜は
子供に言葉を教える様な物なのかな…と思った
「顔は…?この子の性別はどうなるのでしょう?」
次々に組み上げられていく子供の大きさの擬体を見て
茜は川田と山辺に訊ねた
「性別…ですか?」
「男か女かなんて、考えた事も無かったわ
必要無いのではなくて?」
2人は意外だという顔で茜に答えた
球体の部屋で茜は曠に同じ事を訊いた
「君はどっちだと思うんだい?」
度重なるシンクロを続けている茜にも
明確な自我を持たない霊の集合体の個性は掴めていなかった
「どちらとも言えないのですが…個人的な希望を言えば、女の子が良いです」
茜は既に球体の霊を自分の子供の様に思い始めていた
今迄結婚や子育てなど夢見た事は一度も無かったが
自分が育てるなら女の子がいい…と漠然と思ったのである
男の子はやんちゃで粗暴なイメージが有るから…
「君がそう言うなら、そうしよう
女の子だと思って接したらいいよ
工房にも少女の顔と衣類を用意する様に指示しよう」
茜は曠が賛成してくれた事が心から嬉しかった
「名前も付けなければね
ある程度の個性を自覚させる意味でも、名前は必要だから」
曠の言葉に茜は胸が躍った
名前…
あの子の名前を一緒に考えてあげられる…
「あまり難しい名前は止した方がいいね
どうするかな…希望は有るかい?」
茜は静かに首を横に振りながら
「皇様に決めて頂けるなら…」
と言った
曠は暫く思案を巡らせた後
「『サクヤ』…というのはどうかな
カタカナで『サクヤ』
女の子らしいだろう?」
と言った
サクヤ…
茜はその音の響きが直ぐに気に入った
「でも、何故その名前を?」
「うん…ずっと昔に近所に住んでいた子でね、妹の様に思っていたんだけど、その子がサクヤという名前だったんだ
…安直かな?」
茜は今度は強く首を横に振った
安直じゃない
思い出の人物の名を付けてくれたなら
きっと大切に思ってくれるに違い無い
初恋の人の名じゃなくて良かった…
「『サクヤ』…良い名です
今日からは、その名を呼んで語り掛けます」
茜は上気して頬が赤らむのを自覚した
そんな茜に曠は優しい笑顔を向けながら
「じゃあ、『サクヤ』で決定だ
皆にも周知させよう
…君が産みの親で僕は名付けの親だね」
と言った
茜は飛び上がらんばかりの嬉しさに更に頬を赤らめた
斯くして『人造ハンター』の実験体は『サクヤ』と命名され
その日の内に所内全体に正式発表されたのだった
▼
更に数日が経過し
ついにサクヤのハード部分
つまり擬体と人工の感覚器官が全てのチェック項目をクリアして完成した
茜の監修の元
女性スタッフ達の手によって顔の部分には少女らしいメイクが施され
黄金色の長い髪を付けた事でサクヤの擬体はより人らしい姿となった
茜が毎日行う語り掛けにより球体の霊力も完全に安定し
いよいよ球体を頭部へ収納し
感覚器官との接続を行う日を迎えたのである
球体の部屋にキャスター付きのベッドに寝かされた擬体が運び込まれ
安全の為ガラスの向こう側への搬入以降の作業は
全て茜1人が行う事になった
茜が擬体が乗ったベッドを運び入れ球体に歩み寄る様を
川田と山辺を含むスタッフ達が固唾を飲んで見守る
「目と耳と声を得るのよ
怖がらなくて良いわ」
茜は声に出して球体に語り掛けた後静かに両手で抱き上げ
擬体が横たわるベッド迄運ぶと開いたままの頭部にはめ込んだ
そして川田に教えられた手順に従って各感覚器官の端子を繋ぐ
10秒程遅れてノートサイズの携帯パネルをチェックしていた川田が
「眼球良し」
と声を発する
霊が発する電気を各部品が
想定通りに動力に転嫁したかどうかを確認しているのである
「鼓膜良し、声帯良し…オールクリア
成功です」
川田の声が珍しく弾んでいた
霊が発する電気をエネルギーに転嫁するシステムの開発等
長い人類史の中で実行した科学者は1人も居まい
それを成功させた事は
技術者としては興奮に値するのであろう
山辺も拳を握って
「やった…」
と呟き
他のスタッフ達も大きくどよめいた
「上出来だよ、川田君
ノーベル賞物だ」
曠は川田に右手を差し出し
「ありがとうございます」
と川田は頬を紅潮させながら握り返す
「ですが、山辺君の知識と…三島さんが霊体をあそこまでコントロールしてくれたお陰です」
「そうだね
本当に良いスタッフに恵まれたよ」
曠はパネル板のマイクに近付くと
「茜君、成功だ
頭部を組み上げて構わないよ」
と指示を出し
茜はコクリと頷いて各部品を然るべき部位にはめ込んでいった
(これは、目よ
これは、耳…今は分からないけど、一緒に使い方を練習しましょう…)
茜はサクヤに語り掛けながら丁寧に全ての感覚器官をセットし
最後に頭部を閉じた
瞼を閉じて横たわるサクヤは
茜には天使の様に清らかな子供の寝顔に見えたのだった
▼
擬体の可動条件は全て整ったが
次の段階として実際に人工の体を動かし
言語や物事を解し得る知性を教え込むという大きな課題をクリアしなければならない
その教育係は当然の流れで茜が務める事になり
山辺がオペレーターを兼ねてサポートに付いた
川田は『人造ハンター』に関連する別のプロジェクトの開発チームに廻り
茜達とは別行動になった
茜は擬体の外観と
それが動くイメージをサクヤの霊体に伝えようと考え
時間の許す限りサクヤとの心の対話を続けたが
複数の霊の融合体であるサクヤは
現世での知識や記憶の全てを失っている為
茜の具体性を伴う語り掛けにはまるで無反応だった
山辺はその間
各部に取り付けられたセンサーの反応を見逃すまいと計器盤を睨み続ける
「川田さんの造った感覚器官は完璧なんです
大丈夫、上手くいきますよ」
山辺は事有る毎に茜に励ましの言葉を掛け
交代で休憩を取りながら茜も根気良くコネクトを続けた
曠は1日1度は様子を伺いに訪れ茜はその度に胸を躍らせたが
それ迄の様に2人きりで仕事を行う時間が無くなった為
茜は一抹の寂しさを禁じ得なかった
そんなある日の正午過ぎ
別のスタッフがヘルプに入り茜と山辺に
「僕が見てるから、お昼ゆっくりして来て下さい」
と声を掛けてくれた為
茜と山辺は初めて一緒に昼食を食べる事になった
部屋を出て食堂に向かう途中で
「飽きませんか?いつも食堂だと」
と山辺が言う
「確かに…ですが、他に食べる所は有りませんし…」
「下に降りませんか?」
「下に…?」
居住区の中心に位置する共用スペースのショップへ向かい
缶詰めや出来合いの惣菜とおにぎりを購入し中庭へ出た
昼間は研究所で過ごしてばかりだった茜は
明るい時間に中庭を訪れるのは初めてだったが
その景観の良さに思わず溜め息を洩らした
光ファイバーを経由して引き込まれている太陽光は天井からふんだんに降り注ぎ
晴天の屋外と変わらない程の眩しさだった
地面には大小様々な草木が植えられ
所々に花が咲き蝶も飛びベンチも設置されていて
さながら小さな公園の様相を呈している
何より茜にとっては久し振りに土と緑の匂いを嗅いだ気がして
それだけで気持ちが洗われる思いだった
「地下とは思えないですわね」
「でしょう?毎日壁に囲まれた電灯の下じゃ息が詰まる気がして、時々来るんですよ」
基本的に外出を制限される仕事故に
こういった設備は思いの外重要なのだろう…
と茜は思った
ベンチに並んで腰掛け
購入した食材を思い思いに頬張る
「こんな物でも、美味しく感じませんか?」
「えぇ、本当に」
茜が微笑むと山辺は照れくさそうに頭を掻く
「…直ぐに、三島さんにも外出許可が下りますよ
そうしたら少しは美味しい物食べに出れますね」
「私は別に…今の所施設の設備です
自動車を運転出来る訳でも有りませんし」
茜はライザを伴って一度だけ外へ出た時の事を思い出していた
長い地下通路を出て暫くは鬱蒼とした山林の景色で
とても徒歩で出掛けられるとは思えない
「そっ、そういう事なら、僕車有りますから、いつでも言って下さい!
近くで美味しいお店知ってますから…ド、ド、ドライブって…嫌いですか?」
「…山辺さんと私が2人共出てしまうと、サクヤを見る人が居なくなりますし…
それに私は、今のままで不自由は有りませんから、お気持ちだけ有り難く頂きます」
堰を切った様に頬を赤くしながら早口で言った山辺を
茜はやんわりと去なした
山辺が茜に対して特別な感情を抱いているらしい事は
この数日の言動から経験の少ない茜も薄々感づいていた
悪い人では無いけれど
茜は山辺をそういう対象で見る事が出来ない
だが仕事のパートナーである以上険悪にもなりたくない
朴念仁のポーズを貫いて
山辺の気持ちに気付いていない振りをした方が賢明だろう
「はぁ…そ、そうですよね…」
山辺は残念さを露わにしながら
再び頭をポリポリと掻いた
「山辺さんは、どんな経緯でこちらへ?」
話の方向性を変えようと茜が山辺に訊く
「僕、出身は島根で両親もそこに住んでるんです
…一応医者を志して東京の医大に進学したんですが、子供の頃から神経や脳の情報伝達の仕組みや、神経その物の…神経だけじゃなく血管もですけど、何て言うか、造形美に惹かれてしまって、そっち方面ばかり追いかける様になったんですよ」
「造形美…?」
「はい、どこ迄も細くなりながら幾重にも枝分かれして色彩も豊かで…そして機械より速やかで正確に情報を伝達する…その機能性を考えると、様式美とも言えるですが…」
半ば恍惚感に浸る様な表情で語る山辺を見ながら
確かに人体のメカニズムについて知る事が
この人は好きで堪らないのだろうな…と分かる
川田との仕事中の会話を聞いていても
その拘りには職務を越えたフェチズムを感る時が有る
人間の皮膚の中身を見て
美しさを感じるというセンスは茜にはとても理解出来ない
「…で、大学の単位そっちのけでその分野の論文を書きまくっていたら、たまたま所長の目に止まったみたいで…」
「スカウトされたのですね」
「えぇ…どの道大学は卒業出来そうに無かったし、規制だらけの医療業界にも魅力を感じられなくて、こっちの方が面白いかな…と
両親は僕がちゃんと卒業して、東京の大学病院に勤めてると未だに信じてますけど」
山辺は苦笑いしながら言った
「僕は三島さんの様な能力者ではありませんから、最初は霊魂だとか『鬼』だとか言われても全然信じられなかったですよ」
そうなのだろうな…と茜は思いながら
茜の頭の中にはある疑問が浮かんだ
「山辺様も私も、スカウトに応じてここに居る訳ですけど…
もし応じていなかったら、どうなっていたのでしょう?」
『組織』が声をかけた人間の全てが従うとは限らない
これ程迄に秘匿性の高い『ハンター』の実態を教えた上で
それでも『組織』に属さない人間に対してどう秘密を守らせるのだろうか
「でしょ!?不思議ですよね!
それに関してこんな噂が有るんですよ」
山辺は我得たりという顔をした
「噂…?」
「えぇ、職員の間では公然の秘密みたいになってるんですが、どうも皇所長は特殊な能力の持ち主で、人の記憶を消す事が出来るらしいんです」
と言った
「記憶を消す…?」
余りに意外な山辺の言葉に茜は思わず聞き返した
「えぇ…所長があの若さで今の職位を得たのも、その能力を高く買われたからだと言われていて…
現に必ず所長自らスカウトに出向くんですが、それは、相手が断った時点で『組織』についての記憶を消す為だって…」
本当に人の記憶を消す事が出来るならば
スカウトに失敗したとしても秘密の保持は可能だろうし
職員であった者が『組織』を辞める際にも有効だろう
しかし
此方が望む記憶だけを都合良く消すなんて本当に出来るのだろうか
「まぁ…あくまでも噂ですし、事実かどうかは分かりませんよ」
「人体の専門家としてはどうなのですか?
人の力で部分的に人の記憶を消すというのは…」
「催眠術とか暗示の類なら有り得なくは無いんですが…
例えばですね、人体の記憶媒体は脳なんですが、肉体を失って霊魂になっても生前の記憶は残りますよね?
それって、医学では説明がつかないんです
脳以外にも記憶を司る、別のシステムが存在するって事になる訳で…」
「霊魂その物にも記憶がメモリーされるという事ですか?」
「そう考えないと辻褄が合わないんです
…であれば、皇所長も三島さんの様なある種の霊能力者だとしたら、人の魂に働きかけて記憶を操作出来るのかも知れませんね」
茜は曠が自分と同じ霊能者だという実感が湧かなかった
ライザにしても『コネクター』のサチにしても
会った瞬間に同類の『匂い』の様な物を感じたが
曠の纏う気配はそれとは違う
但し普通の人とも明らかに違う気配
…何かしら…
茜が感じる曠のオーラは限り無く深く掴みどころが無いと思えるのだった
▼
茜と山辺は昼食を終えて研究室に戻るとサクヤへのコネクトを再開した
この時茜にはある思惑が有った
先刻の山辺との会話の中で茜は1つの閃きを得たのである
ガラスの部屋に入ってサクヤに近付くと茜は目を閉じて精神集中に入った
間も無く茜の体の周囲から淡い色合いのオーラが立ち上り始める
「三島さん…?…何を…」
異変に気付いてマイクを通じて山辺が問い掛けるが茜は答えず
やがてオーラの光度が強くなり茜の上体が弓なりに反る
「まさか…同化?
駄目です!経験も無いのに…」
山辺の声がまるで聞こえていないかの様に茜は両手を前方に差し出すと
急にオーラの流れが変わり茜の眼前に別の影が浮かび上がり始める
「実体化だって!?
駄目だ!三島さん!」
そう
茜はサクヤを実体化させて球体から出そうとしていた
同化も実体化も勿論未経験であったが
一度だけ間近で見たサチによるその一連の作業を頭の中でシュミレーションし
茜は実践してみようと考えたのである
通常の霊魂すら実体化させた事の無い茜が
混合体で定まった形が無く
しかも強大な霊力を持つサクヤでそれを試すのは確かに無謀な事だった
しかし茜は
サクヤを起動させるにはこの方法しか無いと考えていたのである
「さぁ…出て来なさい…
出て『自分の姿』を見るのです」
知性を持たないサクヤには理解出来よう筈が無い事を承知で
茜は言葉で語り掛け
それはマイクを通じて山辺にも聞こえていた
やがて
霊視能力が皆無の山辺の目にも
巨大な霊体がハッキリと実体化していくのが目視出来た
「凄い…こんな物が…」
…あの小さな球体に凝縮されていた…?
明確な形を持たない黒い煙の塊の様なサクヤの霊体は
同じ室内に居る茜の体をも飲み込んでしまいかねない程に巨大で
四方に放つ霊圧で茜の髪と着物が風に吹かれる様に後方に靡いた
「見える筈です
触れる筈よ
さぁ、思い出して」
茜は再び言葉を発した
魂にも記憶は残る…
茜は
霊の集合体であるサクヤの記憶を呼び戻そうとしていたのである
完全に気圧されてしまった山辺は声を出す事も出来ずに
立ち尽くしたままその様子を傍観するしか無かった
巨大な霊体から
幾多の放電による煌めきと触手の様な帯が蠢いている
「私はここです
目の前に居る…触ってごらん」
茜がサクヤに呼び掛けると
やがて何本かの触手の様な帯が茜に向かって伸びてその体に触れた
「分かりますか…?
ずっと一緒に居たのよ
これが、私…」
茜に触れる触手の数は次々に増え
茜の体を被い尽くす様に巻き付いていく
「これが私の手、これが指です
分かるわね?」
茜は自分の腕と指を動かしながら体の向きを変え
台の上のサクヤの擬体に近寄る
「そしてこれが…」
茜は擬体の手に自分の手を添えて
「あなたの手、あなたの指よ」
と言った
触手は遠慮がちに恐る恐る冷たい擬体に触れ
そして少しずつ茜から離れて擬体の腕に絡み付いていく
「これが顔…目…耳…」
語り掛けながら順番に自分の手で触手を導き
それに連れて触手はそれぞれの部位に触れて更に絡み付いていった
「これはあなた自身…あなたの体なのです
この瞳で私を見て、この口で私にその声を聞かせて
そしていっぱいお話しましょう
思い出すのです
体を持つ『人』であった時の記憶を…」
球体の中に押し込められた霊魂に
イメージをただ送り続ける事に限界を感じていた茜は
霊魂を出して外側から自分と擬体に触れさせる事により
人の体の記憶を甦らせる事を思い付いたのである
山辺が言う様に霊魂にも記憶をメモリーする力が有るならば
見て
触れさせれば思い出させられるのではないか
それは賭けだった
やがて巨大なサクヤの霊魂は
その触手の全てを擬体に絡ませていった
▼
どの位の時間が経過したのか…
サクヤの霊体は擬体を包み込んだまま緩やかに蠢き続け
そして…
「そう…分かるのね?
これがあなたの体だと分かるのね…?」
茜は擬体を見つめながら言うとそのまま少しだけ両腕を広げた
「では、お戻りなさい
あなたの体の中へ…」
サクヤの霊体を球体に戻す作業…
言わば実体化の逆パターンを茜は行った
巨大な霊体と無数の触手は次第にその色を薄くし
やがて完全にその姿を消していく
茜は球体の入った擬体の頭部を閉じて
その顔を見つめながら微笑みを浮かべた
次の瞬間
茜は膝からガクリと崩れ落ちて床に座り込んだ
慣れない高難易度の霊術を長時間行った事による疲労と
サクヤの強い霊力に間近で触れ続けた為に相当の体力を消耗したのである
「三島さん!」
山辺は叫ぶとカードキーを使ってガラス室に飛び込んだ
サクヤは霊力が強く完全に制御が出来ていない為
ガラスの内側には茜以外入ってはならない事になっていたが
そんな事を気にしている場合では無かった
山辺は両手をついてうずくまる茜に駆け寄ると肩に手を乗せて
「しっかり!大丈夫ですか!?
直ぐに医務室へ行きましょう」
と声を掛けるが茜は顔を上げて
「大丈夫です…心配要りません
それより、サクヤが…サクヤが自分の体を理解してくれました」
と言いながら立ち上がった
「は…はい…」
「私はここでサクヤを見ています
計器の確認をお願いします」
「しっ…しかし…」
「お願いします
今、目覚めるかも知れないのです」
茜に強く促されて
山辺はガラス室を出て各センサーのチェックに入り
茜はサクヤの顔を覗き込んだ
▼
「聴覚反応出ました!
聞こえている様です」
十数分が経過した時スピーカーから山辺の興奮した声が響いた
「視覚は?見えるのですか?」
茜はガラスの向こうの山辺を振り返って言いながら
今の自分の声もサクヤはその『耳』で聞いたのだろうかと心の片隅で思う
「眼底に動きが見られます
瞼、開きます!」
山辺の声は上擦っていた
茜は改めてサクヤの顔を覗き込む
サクヤの瞼がゆっくりと開き
やがて眼球の中のレンズが動き始め
焦点を合わせる様な揺らめきを見せる
そして間違い無くその人工の瞳は
茜の顔に視線を合わせた
茜はその瞳に優しく微笑み掛ける
「気分はいかが?
見えているのね?」
茜は高鳴る胸を押さえながらサクヤに語り掛けた
「私は茜、ずっとあなたの心に呼び掛けていた者です
分かりますか?」
サクヤは暫く茜の顔を見つめ
やがて口に当たる部分を動かし始めた
「…ア…カネ…」
サクヤが喋った
作り物の声帯から発せられたその声は
少女らしい清らかな高音域の響きを伴って確かに茜の耳に届いた
「そう…茜よ
そしてあなたはサクヤ
もう言葉が分かるのね
偉いわよ、サクヤ」
実際にどれ程の言語を思い出しているのかは分からない
しかし敢えて茜は人の子に話し掛けるつもりで言葉にした
「サク…ヤ」
サクヤは再び言葉を発した
間違い無い
サクヤは茜の言葉を聞き
そして理解している
「しゃ…喋った…」
スピーカーから
山辺の呟きが聞こえた…
【天祐(前編)】完