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『空童』

第3話【空童】


~1984年 5月~







「…恋しや…恨めしや…」




陽の光の一切届かない暗闇の底で


胸を焦がす程の人恋しさと


想いが満たされぬが故の孤独感


そして


燃え上がる様な怒りの感情が


永遠に消える事無く


どろどろに混ざり合い


心の中で蠢き続けていた




ただ耐え続けて


幾年月が経ったか…







ある時


闇の底に


何かが落ちて来た




久しぶりに触れたそれは


余りにも懐かしい記憶を


呼び戻してくれた




そして


気付く事が出来た




『1人ではない』と




待っていても来ないのであれば


こちらから


招けば良いのだと…







ゴールデンウィークが明けたばかりのある朝…




皆天ミナソラ市の北部に位置する新興住宅地




その一角に所在する『白石家』は普段通りの朝を迎えていた




いつもならばこの家の長女である『愛弓』と


同い年で居候の『劍』が


登校の為に一緒に玄関を出て来るであろう時間…




『天野 霜月』は


通常の通学路を逸れて白石家の門扉に近付いていた




普段は同居人でもある『翳』と登下校を共にしているが


この日は翳が検査の為に午前中は病院に行かねばならず


霜月単身での登校となったのである




20日程前の『仕事』の際


『鬼』から受けた攻撃により翳が右手首に負った怪我は


亀裂骨折で全治1ヶ月と診断された




まだ当分の間は刀を握る事は不可能だろう




奇しくもあの『仕事』の日


『組織』の一員と思われる少女を追跡せんとした時に霜月は


この家の1人娘を数年振りに見掛け


彼女が同じ市内の女子校に通う事を知ったのだった




忘れ得ぬ


忌まわしき過去の記憶が再び胸の内に蘇り


霜月は1人になったこの日の朝


久し振りに『白石家』の様子を窺いに来たのだった




(…?)




門扉の横のレンガの塀に大理石を彫った表札が掲げてあり


それは以前見た時のまま


世帯主である『年男』と妻の『啓子』


そして


娘の『愛弓』の名前が刻まれているのだが


その横にもう1つ別の表札が有った




(東条…劍?)




以前にこの家を訪れた時には


間違いなく無かった名前だった








ガチャリと玄関が開く音に続いて


「行ってらっしゃい」


と言う母親らしき女性の声が聞こえた為


霜月は数歩後退りして表札の付いた塀から離れた




このまま立ち止まっているのも


逆に踵を返すのも不自然に思えた為


通行人を装って門扉の前を素通りする事にした




出て来る人物が父親であれ娘の方であれ


こちらの顔等覚えている筈が無い…




(…!?)




霜月は


予想外の相手がその家から出て来た為


思わず立ち止まってしまった




門扉を開け1人で出て来たのは


20日前に


同じターゲットを奪い合い争ったあの男だったのだ




劍の方も


通りに出た途端にすぐ左手に霜月が立っている事に気付いて


やはり立ち止まった




いつもなら劍は愛弓と一緒に出るのだが


合唱のコンクールが近い愛弓は


部活の朝練の為に早く家を出ていたのだった




20日前の一件以来相変わらず毎朝の様に


劍と霜月等は通学途上で擦れ違っていたが


互いに言葉を交わす事は一度も無かった




彼等の『仕事』は


世間にその存在を知られる事はタブーとされている




それ故に『仕事』のみでの関わりであれば


表向きは他人の振りを貫くのが慣例なのである




愛弓の母親が玄関を閉めて家の中に入ったのを確かめてから


劍は霜月を横目で睨んで


「何の用だ?生憎、横取りできる様な『仕事』のネタは無いぜ」


と言った




「貴様は…この家の何なんだ」


「関係無ぇだろ

てめぇこそ、何の用だ」


「貴様に用が有る訳じゃない」


「…?」




霜月の言葉に劍は違和感を感じ取った




では


何の用なのだ…?




無言のまま劍の前を通り過ぎようとする霜月を


劍は


「ちょっと待て」


と呼び止めた




「『仕事』絡みじゃ無ぇだろうな?」




霜月は振り返ろうともせず


「『仕事』じゃない」


と面倒臭そうに答えた




「じゃあ何だ?

血の繋がりは無いが、この家の人達は、俺にとっては家族みたいなもんだ

下手なちょっかいかけるなら…」


「家族だと…?」




霜月は急に振り返り横目で劍を睨み付けた




「ああ、家族だ

この家の人間に何かしやがったら…タダじゃおかねぇ」




劍も動ずる事無く霜月を睨み返す




霜月は無言のまま前を向いて歩き出し


劍はその後ろ姿を睨み続けた







霜月は歩きながら


自分の中に怒りに似た感情が涌くのを知覚していた




家族だと…?




(笑わせるな)




自分でも気付かない内に


霜月は拳を握っていた…











霜月と劍が白石家の前で束の間の遭遇をしていた頃


『黒羽神社』では宮司である『三島 茜』が


日課である境内の掃き掃除を終えていた




箒等を片付けた後


敷地の奥に建つ蔵の扉を開け


「おはよう」


と真っ暗な蔵の中に声をかける




これも


霜月と翳が居ない平日の朝の


茜の日課のひとつだった




「…?」




いつもなら


茜の声に応えるかの様に木箱の蓋が開く音がするのだが…




「…!」




奥に進んだ茜は


既に木箱の蓋が開いているのを見て


思わずその場に立ちすくんだ…







『私立南天高校』




学校名の『南天ミナソラ』は


現在の『皆天市』の名の元となる


南天村ミナソラムラ』に由来する




元々水はけの悪い湿地帯であったこの地域は沼地が多く


平野部でありながら


古来から余り人が多く住む地域では無いと考えられていた




ところが戦後の宅地化や学校造営の工事に伴い


この『南天村』の所在地であった場所から


いくつかの古代集落の跡が発見され


一頃歴史マニアから注目を浴びた経緯を持つ




これら遺跡は


湿地帯が故に保存状態が極めて悪く


その実態が解明されぬまま埋め立てられてしまったが


一部歴史家から


何らかの神事や祭祀が行われていた場所…


言わば『霊場』だったのではとの見解が発表された




村から町への変更や数回の合併の中で


『南天』は『皆天』と改められ


最終的な合併に伴い新たな市の名前の候補として


中心地であり駅名も存在する旧『矢吹町』の『矢吹』と


この『皆天』が最後まで議論され


最終的に『皆天市』に決定したのだった




霜月と翳が通うこの高校の休み時間…




霜月は


今朝の『東条 劍』なる男との不愉快な遭遇を思い出して


憮然とした表情で窓の外を眺めていた




この日


病院の検査を終えて3限目から出席した翳は


そんな霜月を気にしながらも


仲の良いクラスメート達に声を掛けられ


その輪の中に入って行った




「何を騒いでるんです?」


「ほら翳、ちょっとこれ見てみろよ」




友人の1人


井澤イザワ 螢人ケイト』が指差した机の上には


数枚のスナップ写真が置かれていた








写真を取り囲んで集まっていたのは


『井澤 螢人』を始めとする


佐倉サクラ イツキ


サカキ ハジメ』の男子3人と


このグループでは紅一点の


小船井オブナイ 沙重サエ』の計4人だった




彼等は翳とは所謂『仲良しグループ』であり


校内ではいつも行動を共にしている




「何の写真なんです?」




写真には


薄暗い森の様な場所で螢人等4人が並んで写っていた




枳沼(カラタチヌマ)だよ」




螢人の声に


窓際に居た霜月が反応する様に振り返ったが


それには誰も気付かない




「枳沼って…あの自殺の名所の…ですか?」


「ああ、ゴールデンウィーク中に4人で行ってみたんだよ」




枳沼とは


皆天市郊外に未だに点在する沼の1つである




周辺の地盤が特に弱く宅地等には適さない為


大昔から何の手も加えられぬまま草木が覆い繁り


沼の周りは鬱蒼とした薄暗い森林の様相を呈している




時折バードウォッチング等に訪れる人が有る位で


それ以外の目的は発生し辛い場所の筈だが


近年


1人でこの森に入る所を目撃されたのを最後に


それっきり行方不明になる者が数ヶ月おきに続出している




警察は沼に落ちた可能性も視野に入れて


ダイバーを潜らせたりもしたが


只でさえ水面に陽の光が届かない暗所なのに加え


水が循環する事の無い沼の中は濁りが酷く


視界ゼロの状態である為


成果は何も得られずに終わった




また沼底には無数の沈下物と泥が累積しており


それに足を取られたと見られるダイバーの1人が


帰らぬ人となったのを最後に警察の捜査は打ち切られた




不明者達の多くが近親者に対して


失踪直前に不審な挙動を見せている事から


警察はノイローゼによる家出として


捜索願いを受理するだけの対応に


終始しているのが現状である




巷では


過去の自殺者の霊が


生きている人間を引き寄せているのではないか等の


オカルトな流言飛語も囁かれていた








「どうしてそんな所へ?」




翳の問いにグループのリーダー格である螢人が


「決まってるだろ

学校から自転車で行ける、話題の『心霊スポット』だぜ

行かない手は無いよ」


と得意気に答えた




彼等4人は『オカルト・マニア』であり


その共通の趣味故に仲が良い




「それで…みんなでわざわざ?」




半ば呆れ顔で翳が言うと


インテリ系オタク男子である斎が眼鏡を指で押し上げながら


「僕は馬鹿馬鹿しいって、反対したんだけどね」


と斜に構えて言った




「嘘つけ、お前だって興味津々だったじゃねえか」




螢人が不服そうに言う




「それで…ね、これ…」




唯一の女子である沙重が大人しく控え目な性格そのままに


遠慮がちに写真の1枚を取り翳に差し出した




(…!?)




表情にこそ出さなかったが


翳は心の中でゾクリとした




「なっ!すげえだろ」




螢人が鼻息を荒くして言う




沼と暗い森をバックにセルフタイマーで撮影した物であろう




各々ポーズをとりながら4人が並んで写っている写真の中で


一番右端に立つ始の体の辺りに


白くぼんやりした影の様な物が写り込んでいる




「他のも見てみろよ」




立ち位置を変えて写した別の2枚の写真にも


やはり始にだけ白く細い影が巻き付く様に写っていた




それはあたかも


背後から抱き付く人の腕の様に見えた




「ねぇ、どう思う…?俺…気持ち悪くて…」




話題の中心人物である始が不安そうに翳を見ながら言う




元々気の弱い始は本気で怖がっている様子だった




「どう思うって…」




返答に窮しながら


翳は窓際の霜月を横目で見た




(やっぱり、聞いてる…か)




翳と目が合うと再び窓の外へ目線を移したが


霜月は明らかに翳等5人の会話を気にしていた








「フラッシュの加減かも知れないし、余り気にしない方がいいですよ」




不安で堪らない様子の始を気遣って翳は気休めを言ったが


「そんなの有り得ないよ!

こりゃ絶対心霊写真だって

始が枳沼の霊に取り憑かれたのかも知れないぜ」


と螢人は興奮気味にまくし立てた




「そんなぁ…嫌だよ、俺…」




始が情けない声を出し


沙重が


「そうよ…榊君が可哀想だわ…」


と同情する




窓際の霜月がガタリと椅子を動かして


翳に目配せをしながら廊下に向かって歩き出した




翳は写真を手にしたまま


「ちょっと、トイレ…

この写真、暫く借りていいですか?

もう少し、よく見させて下さい」


と言い残して教室を出た




廊下に出ると


2階への階段の降り口に霜月が立っており


翳と目が合うと下りの階段に歩を進める




翳はその後を追い


2人は踊場の窓の下で落ち合った




「見せてみろ」




霜月は翳から写真を受け取り一瞥すると


「間違いないな」


と呟いた




霜月と翳は


先だっての『矢吹町ゴーストタウン』の事件と並行して


枳沼に絡む失踪事件も


『仕事』に繋がる可能性有りと見て探りを入れていた




ただ


犠牲者の亡骸が出ていない事と事件の発生頻度の低さから


明確な裏付けに至っていなかったのである




霜月も翳も


写真の中の白い影は


それが『鬼』のレベルであるかどうかは別として


明らかに『霊魂』であると判断していた




「けど…始さんが取り憑かれたとなると、早く何とかしないと…」


「好都合だ

榊がこの後どうなるかで、そいつが『鬼』かどうか判断出来る」




霜月の冷静な物言いに翳は思わず霜月の顔を見返した




「それって…!始さんを囮に使うって事ですか?」




休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴るのと同時に


霜月はクルリと翳に背を向けて


「『犠牲者』有っての『仕事』だろう?」


とやはり冷たく言って階段を上り始めた




翳は釈然としない面持ちのままその後に続いた




霜月も翳も


その時全く気付いていなかった




2階と3階の間に位置するその窓の外から


2人を見つめる瞳の有る事に…











昼休み時間




翳は仲良しグループと離れて霜月と昼食を摂っていた




いつもなら霜月はこの時間を1人屋上で過ごすのだが


この日は始の様子を観察する為に


敢えて教室に残ったのである




「霜月さん…さっきの話しの続きですけど…」




翳は事件の確証を得る為の材料に


親友の1人である始を利用する事について


どうしても承服しあぐねていた




『仕事』の対象たる『鬼』であるか否かは別にして


明らかに何らかの『霊魂』に取り憑かれたであろう友人を


何ら救いの手も差し伸べずに傍観するだけなど…




「お前がどう思おうが、相手の正体を見極める千載一遇の好機だ

それにまだ、どうなると決まった訳じゃあるまい?」




確かに


今回の連続失踪事件が『鬼』の仕業であるかどうかも


写真の霊がこの件に関係有るのかどうかも


現段階では何も分からない




「けど…友達の危機をただ見てるだけなんて、僕には…」




翳の言葉に


霜月は僅かに不快な表情を浮かべた




「じゃあお前は、被害者が自分の友達じゃなければ見過ごせると言うのか?」


「…!そっ…そういう訳じゃ…」


「仮に奴が今回の霊に取り殺されるとしても、それが『鬼』でなければ、俺達は力を使う訳にはいかない

結果的に奴が命を落としたって、それは本人の運命だ」


「けど、友達を見殺しには出来ません」


「もしもお前が『鬼』に支配される様な事が有れば、俺は迷わず、お前ごと『鬼』を殺す

…『仕事』に私情を持ち込むな」




霜月はいつもの菓子パンを口に運んで


念を押す様に翳を睨み付けた




「そ…そうですよね…

すみません…」




翳は何も反論出来なかった




確かに自分の言っている事は単なる感情論でしか無い




『仕事』のルールに則れば霜月の言う事が正しい




けど…




(僕も始さんも…『人間』なんだ…)




それは


決して口には出せない思いだった…











茜は神社を空にしたまま


午前中いっぱい付近を歩き回った後


正午過ぎに一度神社に戻った




心辺りの場所は全て探したが見つからない




一体どこへ行ってしまったのか…




敷地内を一通り見回した後


念の為もう一度蔵を覗いてみると


開いていた筈の木箱の蓋が閉じていた




足早に歩み寄って蓋を開ける




「あぁ…」




茜は


深い溜め息と共にその場にへたり込んでしまった…







放課後


霜月と翳は私服に着替える為に黒羽神社に帰った




境内の水撒きをしていた茜は手を止めて


「お帰りなさい」


と言う




午後の傾いた陽の光が当たる桜の木の下で


寝そべっていた黒猫のサンシローが顔を上げ


「ミャァ」と声を出す




「収穫だ」




霜月は言いながら茜に問題の写真を手渡し


続いて翳が


「詳しくはこれを」


とメモを渡す




「確証が得られるまで、とりあえず何日か張り付いてみる」




それだけ言うと2人は自室に入って行った




茜は渡された写真とメモを見て


「翳様のお友達…?」


と1人呟いた







数十分後


霜月と翳は枳沼へ続く森の中に辿り着いていた




写真の事が発覚したばかりで


今日の内に何かが起こると思ってはいなかったが


先ずはもう一度現場を検証しようと考えたのである




その上で翌日からは放課後の始を追跡し


異変が見られるか否かを観察する予定だった




沼のほとり迄進み


周辺を見回す




陽が落ちかけて


森の中は一層暗く感じられた




水際付近は累積した葦等の枯れ草で埋まっていて


迂闊に近付けば足を取られ


そのまま沼底へ沈んでしまいかねない様な場所も有る




自殺の意志も無く霊に導かれていなくても


うっかり命を落とす者だって居るのではないかと思えた




「…!誰か来る」




霜月が気配を感じて振り返った




反射的に2人は近くに立つ木の後ろに身を隠す




森の方から


真っ直ぐに沼へ向かって歩く人影が見えた




「始さん…!?」




虚ろな表情で近付く人影は


榊 始だった…








始の足取りは


まるで何かに手を引かれる様に不確かに揺らぎながら


しかし確実に


沼の水際へとその歩みを進めていた




その表情には生気が無く目線は虚ろに宙を泳ぎ


自らの意志で動いている様にはとても見えなかった




霜月と翳にはその始の体に


白い影が纏い付いているのがはっきりと目視できた




それは写真以上に鮮明に


2本の細い人の腕の形その物に見える




「始さん!」




翳は思わず始に駆け寄り


今にも沼に足を踏み入れようとする始の正面に立ち


まだ包帯が取れない右腕の痛みも厭わず


その両肩を掴んで強く揺さぶった




「始さん、しっかり!」




顔は上向き加減に宙を見る角度のまま始の眼球だけが


見下ろす様に翳の方を向いたと思った瞬間…




「…!」




白い腕の1つが始の体を離れるや否や


翳の胸元に絡み付いた




翳は急速に何かが自分の中に入って来るのを感じ


反射的に意識に防壁を張ろうとしたが間に合わなかった




否…




正確には


自ら防御行動を取るのを止めたのである




霜月の目にも翳がその『何者か』に


取り込まれていくのがはっきりと分かった




「何をしているっ」




霜月は赤い勾玉を刀に変え


同時に自分の『鬼』を発動させ


一気に翳との間合いを詰めて抜刀した




左手に鞘を持ったまま


片手で右からの袈裟に刀身を振り下ろす




刀が当たる直前に取り憑いていた白い影は


翳の体から離れた為霜月は寸止めで翳への直撃を避けた




翳は脱力した様に膝から崩れ落ち


霜月はその体を抱きかかえる様に支えた








『鬼飼い』が体内に宿す『鬼』は


何らかの理由で自らの意志により


宿主たるその個人の支配下にその身を置いている




言ってみれば『鬼』の方から宿主の事を『気に入って』


共存しているのである




故に


宿主が重要な危機に直面すると大抵の場合『鬼』は


宿主を守る為に可能な範囲で防御行動を取ろうとする




病気や怪我を治療する事は不可能だが


例えば宿主が


生命の危険性が伴う様な事故等に直面した場合は


体の周囲に自分の霊力で防御壁を張ったり


他の『霊魂』が干渉しようとすればそれを追い払おうとする




であるにも拘わらず白い腕が取り憑いた時翳の『鬼』は


防御に関する一切のアクションを起こそうとしなかったのである




それは極めて奇異な現象であった







「翳!おい、翳」




霜月の呼び掛けに翳はすぐに反応を示さなかった




取り憑いていた『物』は


間違いなく翳から離れた筈であるにも関わらず


翳の目は焦点が合わぬまま


惚感を漂わせるかの様にその表情は虚ろだった




(いかん…っ)




原因はともかく


宿主たる『鬼飼い』が表層意識を失う時間が長くなれば


内なる『鬼』への抑止力が低下し


逆に意識を支配される危険性が高くなる




「翳!戻って来い、翳!」




霜月は刀を捨てて


翳の両頬を力任せに張った




「…ン…ッ…」




漸く翳に表情が戻り瞳に生気が宿った




「…霜月…さん?」


「呆けるな

どうしたと言うんだ?」


「そっ…それが…

あっ、始さんは?」




翳は慌てて周囲を見回したが


近辺に始の姿は無かった




水音に気付いて視線を沼に向けると


始の体は既に沼の中を進んでいて


更に深く沈みながら


肩が水の下に隠れようとしているところだった




「始さん…!」




立ち上がって追おうとする翳を霜月が止める




「止せ、お前まで戻れなくなるぞ」


「けど…!」




翳が言い終わらない内に


トプンッ…という水音と共に


始の頭部が水面に沈んだ




「始さん!始さぁん!」




霜月に羽交い締めにされたまま叫ぶ翳の声は


何事も無かったかの様に動かない


漆黒の沼の水面に吸い込まれ


虚しく消えていった…











その夜の黒羽神社の晩餐は


翳が1人落ち込みを隠せず


いつになく重苦しい空気に包まれていた




「そうですか…

目の前で翳様のお友達が…」




事情を全て聞き終えた茜が


膝の上のサンシローの背中を撫でながら呟いた




「それにしても、翳様まで取り込まれそうになったというのは…

それ程強い相手なのですか?」


「それなんだ」




茜の言葉に被せる様に霜月が言葉を継いだ




「何故ああも簡単に霊の侵入を許した?」




霜月は翳を射竦める様に睨みながら言った




沼からの帰り道も神社に帰ってからも


霜月と翳は一言も言葉を交わしていなかった




元々霜月から会話を持ち掛ける事は少ない上に


普段は明るい翳がこの日ばかりは俯き加減なまま


押し黙っていた為である




霜月は


今日の翳の体たらくがどうしても納得いかなかった




あの白い腕は今日と同様に


少なくともこれまでの失踪者の何人かを


沼底へ沈めているであろう事は疑いようが無く


その所業は『鬼』であると判断出来た




『ハンター』が対峙した『鬼』に取り憑かれる局面は


職業柄充分に有り得る事だし過去にいくらでも実例が有る




しかし今日の白い腕が


それなりの術者であり『鬼飼い』でもある翳の意識を


取り込める程の霊力を有していたとは到底考えにくかった




翳は瞳の動きに逡巡を表しながら


「すみませんでした…」


と呟く様に言い


「…何て言うか…取り憑かれたと分かった瞬間、僕も僕の中の『鬼』も、防御行動に入ったのは確かなんです

けど…」


と迷う様に言葉を続けた




「あの白い腕が入って来た時の感じが…不快じゃなかったんです

寧ろ、心地良さみたいな…

ん…違うな…

とにかく、今まで感じた事の無い感触で…

自分でも気付かない内に、その感触を…受け入れてしまってたんです」




言葉を選びながら説明する翳を


霜月と茜はただ黙って見つめていた…








「女性…ですね?その『鬼』」




暫しの沈黙の後茜が翳に向かって言うと


翳はコクンと頷いて


「見た訳じゃないですが、多分…

男性的な感じは…しなかったです」


と答えた




「あの沼に関係有ると思われる行方不明者は、確か若い男性が多かった…

そうですね、霜月様?」


「あぁ…全てが奴の仕業かは分からないし、他にも引き込まれた奴は居るかも知れないが…

分かってるだけで、8人中6人は若い男だ

…『今日の』も入れてな」




最後の言葉は翳を横目で気にしながら付け加えた




茜は膝の上のサンシローに目線を落としながら


「昔…江戸時代の事ですから随分昔ですけど、あの沼の辺りを『夜逃げ街道』と呼んでいたそうです」


と語り始めた




「通行手形を持たない人が、お役人の目を逃れて他の土地へ行くのに、歩き難い湿地帯は、逆に盲点だったのでしょうね

夜逃げや罪人、駆け落ちとか…

様々な人が、底無しの沼に沈む危険を承知で、あの場所を抜けようとした事でしょう…」




霜月は茜の話を聞きながら


この日翳と歩いた沼への道程を思い出していた




町や村…


人が住み着く場所は今も昔も大きく変わり有るまい




現在の街の所在地から枳沼を経由して


仮に信州や日本海側に抜けようとすると


恐らくこの日2人が歩いたルートを辿る事になる…




「その、夜逃げとか駆け落ちとかが関係有るのか?」


「さぁ…それは分かりません

けれど、沼地を抜けられずに亡くなった人もきっと多いのでは…と

私の想像です」




再び小さな沈黙が流れ


霜月が話の方向を戻す様に口を開いた




「いずれにしても、あいつを殺るには依頼人が必要だ

明日から、これまでの行方不明者達の身内を当たる

それと…」




翳の方を見て


「翳はこの件から外れろ

俺と茜だけでやる」


と言った




翳は思わず顔を上げ


「何故?」という表情で霜月を見た




「その右腕では刀も持てない上に、お前はまた取り込まれないとも限らん」




冷たく言い放つ霜月に翳は


「お荷物なのは承知してます

けど、やらせて下さい」


と懇願する様に言った




「僕があの霊に取り込まれなければ…

僕が気を許してしまったばっかりに、始さんは…」




翳は下を向き言葉を詰まらせた




その


感情に流されるところが一番問題なのだ…と


霜月は思ったが口には出さなかった…











翌日の南天高校では


昨夕から行方不明になっている始に関する噂が


学校中を駆け巡った




昼休み迄に周知された事実を繋ぎ合わせると


いつもなら帰る方向が同じである友人の斎と


一緒に駅まで歩いて同じ電車に乗って帰る事が多いのだが


昨日は気が付いたら始の姿が見えず


斎は1人で帰宅している




グループの他のメンバーも同様で


始がいつ居なくなったのか誰も気付いていなかった




裏門の近くに居た用務員が終業直後に


駅とは反対方向である裏門から


始らしき男子生徒がフラフラした足取りで


校外へ歩き出るのを目撃している




夕食の時刻を過ぎても帰らないのを心配し


両親が学校関係者や友人達に問い合わせし始めたのは


夜の7時を回ってからだった




それから2時間以上が経過し


両親と教員達は事態を重く見て警察に通報した…







午前中の内に


始と仲の良かった螢人達3人と翳は


個別に校長室に呼ばれ


警察と始の両親立ち会いでの事情聴取を受ける事になった




事実を知りながら翳は知らない振りを通すしかなく


昨夜は心配から


一睡も出来ていないであろう両親を見るのが


翳には辛かった




昼休みに入り


始の行方に関して無責任な噂話で盛り上がる教室の中で


いつもは賑やかな螢人等のグループだけは


逆に暗く沈んでいて


翳は霜月と一緒にそんな螢人達の様子を窺っていた




「どこ行っちゃったのかしら、榊君…」



沙重が半分以上残した弁当の蓋を閉めながら言う




「まさか…枳沼の幽霊に…」




始とは中学時代からの友人である齊が


皆が気になりながら口に出せないでいた事を言葉にすると


「縁起でもない事言うな」


と螢人が打ち消す様に言った




昨夜の内に始が帰らない旨の連絡を全員が受け


その時から各々が


枳沼で撮影した写真の白い影との関連性を


否が応でも意識してしまっていた




霊に惹かれたと迄は思わずとも


少なくとも始は自分にだけ纏い付いた白い影の事を


本気で心配し怖がっていた




もしかしたらその事を気に病んで…と


沼に関わった3人が責任を感じてしまうのは


無理からぬ事だった…








「とにかく…学校を出た後の始がどこに行ったか、俺達で目撃者を探そう」




螢人がリーダー格らしく言うと急に席を立ち


「まずはこのクラスからだ」


と言ってすぐに何人かの生徒に聞き取りを始めた




沙重と齊は螢人があまりに突発的に動いた為


その様子を傍観するしかなかった




螢人は霜月と翳のところにも近寄り


「翳から聞いてると思うけど…昨日、始を見かけなかったかな、天野?」


と霜月に問い掛けた




螢人は


実は元々霜月の事が苦手だった




同じ仲良しグループの翳とは同居していて


いつも一緒に居る事も当然知っているが


霜月はグループの他のメンバーは勿論


それ以外とのクラスメートとも一切関わろうとしない




話し掛けても相槌を返すのみで


まるで会話を避けている様な態度を取る為


いつしか誰も霜月には触れなくなっていた




螢人が翳と仲良くなり始めた頃


霜月が寡黙な理由を翳に訊いた事が有るが


「まぁ、そーゆー人ですから」


の一言で済まされてしまい


以来霜月とは会話を交わした記憶が無い





元々『仕切屋』な性分の螢人にとっては


万事無関心な態度を取る霜月は


一番苦手なタイプと言っても過言ではなかった




そんな相手にすら


一縷の望みに賭ける思いで螢人は話し掛けたのである




「その…お前んちは裏門の方が近いし、どっかで始に似た奴見てないか…教えて欲しいんだ」




いつになく真剣な顔付きで言う螢人に


霜月は顔を向けようともせず


横目でチラリと見たのみですぐに目線を元に戻し


「偽善だな」


と呟いた








「えっ…ギゼ…ン…?」




螢人は霜月の言葉の意味がすぐ理解出来ずに


曖昧に聞き返してしまった




霜月は無表情に視線を逸らしたまま


「偽善だと言ったんだ」


と再度不愉快そうな口調で言った




「霜月さん…っ」




翳はマズいと思って仲裁に入ろうとしたが


螢人には既に霜月の言葉が聞こえてしまっていた




「偽善って…どういう意味だ?」


「物騒な事に巻き込んだ上に、面白がるみたいに騒ぎ立てて…原因を作っておきながら、事が起きれば心配した振りをして自分を正当化しようとする

やってる事が責任逃れにしか見えないから、偽善だと言ったんだ」




翳には螢人の表情が見る見る変わるのが分かった




2人のやり取りは


少し離れた席に座る沙重と齊にも聞こえていて


霜月の冷たい物言いに驚き齊も思わず立ち上がった




次の瞬間螢人は霜月に掴みかかっていた




両手で襟首を掴んで霜月の体を引き上げ


その勢いで机が動いて軋み


霜月が座っていた椅子は大きな音を立てて倒れた




「てめぇ!もう一回言ってみろっ」




螢人の怒声が響き渡り教室内の生徒達が騒然となる




「図星だから腹が立つんだろう

手を離せ、不愉快だ」




霜月は変わらず平然として言った




「てめぇ!」




螢人は霜月を掴んだまま力任せに押し


霜月の体に当たるいくつかの机がぶつかり合い


床と擦れる摩擦音が鳴り響く




「螢人さん、落ち着いて」




翳が螢人を止めようとしたその時…




「ぐっ…」




霜月が急に苦し気な表情を浮かべたかと思うと


螢人に掴まれている首もとの下…


みぞおちの辺りを押さえて呻き声を上げ


ガクリと膝から崩れ落ちた








霜月の異変に驚いた螢人は我に返り


襟首を掴んでいた両手を思わず離した




「霜月さん!」




翳は胸を押さえてうずくまる霜月に駆け寄り顔を覗き込む




沙重と齊も近寄り霜月と翳を心配そうに見下ろした




「す…すまない

つい、カッとなって…」




さすがに冷静さを取り戻した螢人が申し訳無さそうに言うと


「いいえ、いつもの発作です

それに霜月さんも言い過ぎたところ有るし…」


と翳が代わりに答え


苦しむ霜月の腕を肩に担いで立ち上がらせた




「ちょっと…保健室に連れて行きますから」


「手伝うわ、大月君」


「あぁ、俺も」




沙重と螢人が近寄ろうとするのを翳は手で制して


「大丈夫です

慣れてますし、それに…難しい人ですから」


と言って廊下に向かって歩き出した







「また…どこへ行っていたの?

心配するでしょう」




黒羽神社の蔵の中で木箱を覗き込みながら


茜は困り果てたといった表情を浮かべていた




「がっ…こ…」




木箱の中から茜に答える声がした




それは幼い子供の声の様だった




「学校って…霜月様達の?じゃあ、昨日も?」


「がっ…こ…」




茜はフゥ…っと大きく息をついて


「どうして学校に?」


と木箱の中に話しかけると


「サクヤも、行きたい

がっこ…

がっこ…人間、いっぱい居る…」


と箱の中身が返事をした




「あなたは学校に通える訳無いでしょう?

それに…1人で出歩いては危ないのよ」


「サクヤは大丈夫

ソーゲツは倒れたよ」


「えっ?霜月様が?」


「人間とケンカして、カザシに連れて行かれたの

でも、サクヤは大丈夫…」


「いつもの発作…?

霜月様…大丈夫かしら…」


「うん、サクヤは大丈夫」




茜は困惑した顔をして木箱の中の『それ』を見下ろした…











5限目の授業が終わると


翳は足早に保健室へ向かった




「失礼しまぁす」




声を掛けながら入室すると


机に向かっていた若い女性保健医が


クルリと椅子を回してこちらを向く




「あぁ…お友達、気が付いてるわよ」




保健医に促されてベッドに近寄ると


霜月は横たわったまま顔だけを翳に向けた




「どうですか?」


「いつもの事だ

どうという事は無い」




2人のやり取りを余所に保健医は聴診器を首に掛けて


「ちょっと診てみるわね」


と言いながら霜月の上半身のシーツを捲って


手際良く上着のボタンを外し始めた




聴診器を胸の何ヶ所かに当て


首筋に指を添えて脈を取ると


「…一応、大丈夫みたいね」


と言い


「前の先生から聞いてはいたけど、よく有るの?こういう事」


と訊いた




昨年度まで居た保健医が他校へ移動になり


この保健医はひと月程前に南天高校に来たばかりだった




始業式の時


まだ大学を出て間もないが非常に優秀な女性だと紹介されていた




名前は確か『桐生』といったか…




質問された霜月本人が


「たまに」


としか言わない為


「時々苦しくなるんです

生まれつきだから、病気じゃなくて…少し横になったら好くなるんですけど」


と翳が代わりに説明した




「そう…仲良しなのね

服、戻していいわよ」




霜月が体を起こして上着を直すのを見ながら


「そんな体で…小さい時から何か武道でもしていたの?」


と保健医が唐突な質問を投げた




霜月はボタンを閉める手が止まり


翳はあからさまにどうして分かるんだ?という顔をする




「服を着てるとスリムにしか見えないけど…最近鍛えた筋肉とは違うから…

それに、体質も有るでしょうけど…先に筋肉が発達したから、あまり背が伸びなかったのね」




保健医は淡々と喋ると翳の方を向いて


「君も同じ口かしら?」


と言った




「いやぁ…僕はただのチビですよ

けど、どうして『武道』なんです?」




翳が自分から話を逸らす様に訊き返すと


少しだけ口元に笑みを浮かべて


「他のスポーツとは発達する筋肉の場所が違うもの…

綺麗な拳をしているから空手とかじゃないわね…?」


と言う




(何だ、この女…)




言っている事は全て当たっている




胸板を見た位でそこまで分かる物なのか…




(変わった奴…)




霜月は不必要と思えるまでに詳しい保健医に


本能的な違和感を感じていた…











その後の週末と日曜を含む4日間


霜月と翳は依頼人を探す為に


枳沼に絡む失踪者の家族や身内を訊ね歩いた




訊ねると言っても彼等自身が直接家族等と接触する事は


『仕事』の秘匿性から行えない為


それぞれの所在地の特定と近隣の店舗や住人への聞き込みによって


その家族構成や


現在の様子等を探る形を取らざるを得なかった




この霜月と翳の『依頼人探し』は相当の距離を歩きながらも


極めて僅かな手掛かりから特定出来る家は少なく


また


漸く探し当てても既に引っ越している家等も有り


成果は決して芳しい物ではなかった




彼等にとって最も身近な失踪者である始の家族に関しては


さすがに依頼人の候補から外す構えだった




霜月としては


自分達とクラスメートというあまりにも近過ぎる関係が故に


万が一の発覚を懸念しての判断だった




依頼人と『ハンター』は


限りなく『他人』である事が望ましいのである




翳もそれは良く理解していたし


何より


事件発生時すぐ近くに居ながら


『自分が見殺しにしたも同然』という気分の翳にとって


始の両親と接点を持つのは


気持ち的に辛いというのが本音だった




当然の事ながら始はその後も帰宅する事は無く


失踪当日に枳沼付近で


始らしき学生を見掛けたと言う証言者も現れた為


南天高校と始の家の有る町では


更に様々な噂が飛び交う様になっていた




それは


霜月等にとってはあまり好ましい状況ではなかった




発生頻度の低さと事件性の低さから


枳沼の失踪事件は比較的ローカルでマイナーな事件と言えた




それが故に恐らく『組織』は


今の所この事件には着目していないと思えるが


これ以上騒ぎが大きくなれば


同じ市内に住むあの『東条 劍』なる男のチームが


『仕事』に繋がる可能性に感付いてしまうかも知れない…




日暮れが迫り


4日目の依頼人探しを終えた霜月と翳は


互いに無言のまま


重い足取りで黒羽神社への帰路を歩いていた




歩きながら翳は


校長室で一度だけ会った始の両親の顔を思い浮かべていた








始には確か兄弟が無かった




両親にとって始はある程度年数が経って


やっと産まれた一粒種だったのではないか…




両親は2人とも


高校生の親というにはとても高齢に見えた




いつだったかの雑談の中で


小学校の頃や中学時代


自分の母親だけお婆さんみたいだから


授業参観の日が恥ずかしくて憂鬱だったと


照れ笑い混じりに話していたのを覚えている




あの夫婦は


帰らぬ息子をどんな思いで待ち続けているのだろう…







「霜月さん…」




翳が急に立ち止まって声をかけた




「…何だ?」


「僕…ちょっと寄り道して行きます」


「…?」




霜月が行き先を尋ねる間も無く翳は駆け出していた



「茜さんに遅くなるって伝えて下さぁい」




言いながら


翳は矢吹町駅の方に向かって走って行った







各駅停車に乗って3つ目の駅




そこから北西方向に10分程歩くと


古い市営の団地が建ち並ぶ一角に出る




すっかり陽は落ちており


点在する街灯の灯りと微かな記憶を頼りに


翳は一棟の建物を選んで


一階の集合ポストに


『203号室 榊』のネームを見付ける事が出来た




以前に一度だけ


グループのメンバー達と遊んだ後翳はこの場所で


始の帰宅を見送った事が有った




始の家に来たからと言って


訪問する訳にもいかず何が出来る訳でも無かったが


何かしなければという焦燥感に駆られる様な気持ちで


翳はここへ来てしまった




一度建物から離れて2階の該当部を見上げると


室内には明かりが有り


人影が動くのが見えた




(…?)




暫く経って


室内の明かりが次々に消えるのが分かった




就寝には早過ぎる時間だが…と思っていると


すぐに扉の開閉音が聞こえ


階段を人が降りて来る気配がした為


翳は植え込みの陰に身を隠した




程なくして一階に3人の人物が降りて来た




(…齊…さん?)




始の両親と共に紙袋を下げて降りて来たのは


グループのメンバーの1人である佐倉 齊だった








始の両親と齊の3人は建物から表の通りへ出ると


齊が持っていた重そうな紙袋を1つずつ分け合い始めた




「では僕は、昼間の続きで東町の方まで足を延ばします」


「すみませんねぇ…毎日こんな事手伝ってもらって…

あんまり無理しないでね、齊君」


「はい、始とは子供の頃からの親友ですから

そちらもどうか、お気を付けて」




齊は両親に会釈をすると背中を向け


通りを早足に歩き始めた




両親はそれを暫く見送った後


「さぁ、私達も」


「うん、そうだな」


と声を掛け合い


齊とは反対方向に歩き始めた




気になった翳は両親の後をつける事にした




両親は何か話しながら幾つかの角を曲がり


数百メートル進んだ所で立ち止まって周囲を見渡した後


一番手前の民家の前で進み玄関をノックした




住人がドアを開けて顔を出すと両親は何か会話しながら


紙袋から紙を取り出して住人に手渡し


2人して何度も頭を下げてその家を離れた




そのまま今度は隣の商店を訪ね


やはり同様に何度もと頭を下げて袋から取り出した紙を渡す




明らかに何かを頼み込んで回っている様子だった




商店を出た所で父親の方が


前方から歩いて来たカップルとぶつかりそうになり


やはりペコペコ頭を下げて


何か説明をしながら紙を手渡し


今度は向かいの家のインターフォンを鳴らす




紙を受け取ったカップルが談笑しながら


翳が身を潜めている付近に近付いて来た




「へっ、行方不明だってよ」




男の方が渡された紙を見ながら言うのが聞こえた




「えーっ何、何ぃ?

事件か何かぁ?」




女の方が男の腕に絡み付きながら紙面を覗き込む




「家出だろ?あんな貧乏くせぇ親だから嫌んなって家出すんだよ

こんなもんいくら撒いても意味無ぇっつぅの!」




男はケラケラと下品に笑いながら


紙をクチャクチャに丸めると後ろに放り投げ


それが翳の足元に


落ちて転がる…




翳はそれを拾い上げて丁寧に開いた




思った通りそれは


始の顔写真と発見時の連絡先を記した


情報を求める為のチラシだった








男がクシャクシャにして捨てたそのチラシは


『探しています』


『見かけた方はご一報下さい』等


手書きで書かれた文字を簡易印刷した紙面に


始の写真が糊で貼り付けられている


いかにも手作りの急造品だった




しかしその分


この文字を懸命に考えながら書き


一枚一枚写真を糊付けしたであろう両親の思いが


切ないまでに伝わる様に思えた




翳はそのチラシを丁寧に折りたたんでポケットにしまい


再度始の両親を目で追った




相変わらず2人は目に付く限りの家と言わず店と言わず


通りすがりの通行人にも声を掛け


頭を何度も下げながらチラシを手渡し続けている




齊もこの作業を日中から手伝っていたのだろうと知れた




普段はキザで


人に対して常に斜に構えるタイプの齊が


目の前で今始の両親がしているのと同じに重い紙袋を持って


人に頭を下げて歩いている姿は想像するのが難しい事だった




始と齊は同じ町に家が有り


小学校からの友人だと聞いていた




きっと両親とも以前からの知り合いなのだろう




「毎日」と言っていたが


3人はこの作業を何日前から行っているのか…




しかし翳は


それをただ離れた場所で見ているしか無かった




両親はその後1時間以上それを続け


小さな公園に差し掛かった時に


さすがに疲れたらしくベンチに座り込んだ




「あぁ…運動不足だなぁ…

お前、大丈夫かい?」


「私は平気よ

お父さんこそ、明日も仕事なのに、無理しないで下さいね」


「なぁに、大事な始の為だ

暫く仕事を休んでも良いと思ってる位だよ」


「本当…どこへ行ってしまったのかしら…

もう帰って来ないんじゃないかって…」


「何を言うんだ

始は気真面目で良い子じゃないか

きっと帰って来るよ

齊君もそう言ってくれたじゃないか」


「そう…そうですよねぇ…」




母親がたまりかねた様に言葉を詰まらせ


父親がその肩をそっと抱いた




この夫婦も齊も


始が無事に帰る事を頑なに信じて


いつ終わるとも知れない懸命な努力を続けている




しかし


それを傍観するしか無い翳は知っている




始が


決して無事に帰る日が来ない事を…








始の帰宅をどんなに強く望んでも


何千枚のチラシを撒いてみても


その努力が報われる事は…無い




その事を誰よりも知っていながら


目の前に居る両親に知らせる術を知らない翳の耳に


始の父親に肩を抱かれている母親の


嗚咽を漏らす声が聞こえてきた




「でも…でもね…世間の人は…始が沼に引き込まれたって…

帰らないままじゃ…生きてるか死んでるかも分からないんじゃ…

弔ってあげる事すら出来ないじゃないですか…」




泣き声で言う母親の肩を


父親は辛そうな顔でポンポンと優しく叩いた




「明日は、拝み屋さんにでも頼んでみよう」


「拝み屋さん…?」


「会社の伊藤さんが、今朝電話をくれてね

どうしても見付からないなら、祈祷してもらえ…って言ってくれたんだ

『藁にも縋る』と言うやつだよ

一度、見てもらおう…な」


「えぇ…えぇ…始が帰ってくれるなら何でもいいわ…」




父親が


「さぁ」と声を掛け


2人はベンチから腰を上げた




手作りのチラシ配りを再開するのだろう…







「黒羽神社の祈祷は、良く当たりますよ」




背後から突然声が聞こえて


始の両親は驚いて振り返ったが


そこには誰も居ない




キョロキョロと周囲を見回していると


暗い空から四つ折りにした紙片が


2人の前にパサリと落ちた




それは


クシャクシャに折り目の付いた


2人が配っていた始のチラシだった




父親が拾い上げて見てみると


裏側に誰かの手書きで


『黒羽神社へ』


と書いてあった…











「依頼人が現れただと?」




学校が終わり


翳と共に依頼人探しに向かう前に一旦黒羽神社へ帰った霜月は


茜から枳沼の失踪事件に絡む依頼人がこの日


神社に訪れた事を知らされた




「誰なんだ…?」




霜月は即座に反応して茜に訊いたが


翳の方は黙ったままだった




「榊様と仰るご夫婦…お友達のご両親ですね?」




この日の朝


霜月と翳が学校に出掛けた直後に神社の電話が鳴った




行方不明になっている息子を


探して欲しいという相談だった




昼前には両親が揃って


息子の写真と氏名や生年月日等を記した紙片を持参して来訪し


茜はその応対をしたのだった




茜は神社の宮司であり巫女でもある為


表稼業としての祈祷や祓いといった類の依頼も有りはするし


そこから『ハンター』の『仕事』に発展する事も有り得るが


二駅も離れた町から


それも幾つかの選択肢を飛ばして


黒羽神社を選ぶというのは通常考え難かった




「何故、当宮を?」


という茜の質問に対し実直そうな父親は


「神様の導きだと思う」


と大真面目に答えたのだった




昨晩依頼人探しの後


翳のみ帰りが遅かったのと関係有ろう事は


茜には容易に想像出来た




そしてそれは霜月も同じだった




昨晩の寄り道の目的が何であったのか翳は何も言わないし


霜月も訊こうとはしなかったが


大方始の家の様子でも見に行っているのだろうと想像していた




(仕掛けたな…)




霜月は思ったが言葉には出さなかった








「依頼人とは言っても…報酬は、ご両親が息子さんと会えた場合の、成功報酬のみとなります

生きた状態か、亡骸かを問わず…ですけど」




茜は霜月と翳にそう説明した




始の両親の頼み応じて


茜は『表』の作法に準じた祈祷を行ったが


結果的には何も見る事は出来なかった




それは術者としての技量の問題ではなく


茜自身が既に始の現実を『知っている』からに他ならなかった




茜は


巫女として虚偽の祈祷を行う事に迷いは有りながらも


両親をここへ誘導した翳の意図と


何より安否が分からないまま悲壮な日々を送る事になる


この老夫婦の気持ちを思ん図った上で


沼の『鬼』に囚われているであろう始の魂と肉体を解放し


少しでも早く現実を知らせてやるべきだと考えたのだった




「ご子息様の魂は今、とても暗い場所にいらっしゃいます」




茜が実際には見えていない現実を両親に告げると


2人は『魂』という言い方に動揺を隠せない様子だった




「それは始が…息子がもう生きていないという事なんですか?」


「魂と肉体が一緒に在るか否かは分かりません

ただ…数日内に事実は判明する事でしょう」


「何故そんな事が分かるんでしょうか…」


「大まかな方向が見えています

そちら様にそのお気持ちがお有りなら…ご子息様との対面迄をお世話させて頂きます」


「ほ…本当ですか?」


「但し…少々難しい祈祷になります故、納めて頂く金額が嵩みます事と…

ご子息様の安否の保証は致しかねます事…

この2点をご了承頂かねばなりませんが…」




両親は少しだけ顔を見合わせてから茜に向き直り


頭を床に付けて土下座をする様な格好で


「どうか…どうかお願い致します」


と言ったのだった




お人好しなまでに茜の言葉を疑わない両親に


茜は報酬額を明示した上で


この日の分も含めて費用の支払いに関しては


対象者である息子の現実が


茜の予言通り明らかになった時点で良いと告げた…







「報酬など先でも後でも構わん

『鬼』を殺れば済む事だろう」




霜月が受諾の意志を言葉にし翳はそれに対して


「ありがとうございます」


と頭を下げた




「お前に礼を言われる筋合いじゃない

『仕事』の大義名分が出来れば、経緯など、どうでも良い事だ」




茜には霜月のその言葉は


翳の先走りとも言える今回の行動に対しての許諾を示す


霜月なりのフォローの言葉に聞こえた




「…で、いつ殺る?」




その夜の内に枳沼へ向かう事に


3人とも異論は無かった…











枳沼の暗い水面は始が引き込まれたあの日と同じく


微かな波紋も水音も無く


その沼底に幾人もの人が沈んでいる事や


そこに『鬼』が存在している事も全く感じさせぬまま


始が引き込まれる場面を実際に目撃した霜月と翳ですら


記憶の確かさを疑ってしまう程の深い静寂の中に在った




そんな中




「…居ます…」




茜だけは森の中を進む途中で


既に何かの存在を感知していた




今回の『鬼』の性質を考慮して


霜月と翳は沼に近付き過ぎない様に距離を取り


茜1人がゆっくりと水際に進む




水際から5メートル程手前で茜が歩みを止め


「捕まえました

同化に入ります」


と言った




数秒と置かずに


茜の周囲にオーラの様な光の揺らめきが立ち上り始め


霜月と翳は数メートル後方からその姿を見守る




「…い…しい……だん…まぁ…」




茜の口から明らかに茜自身の物とは違う声が漏れ始めた




同化が始まったのだ




「恋し…トノガタ…サ…

ワカ…旦那さ…違う…」




言葉として発せられる単語が耳慣れず


アクセントにも微妙な違和感を感じる




『殿方』…『若旦那』…?




(『年代物』か…)




その『霊魂』が肉体を失う迄の時期


つまり生きた人間として現世で生活していた時期が


明らかに現代とは異なる時代である場合


大まかな区別を付ける為の呼称として


『年代物』等と呼ぶ場合が有る




「茜、転送しろ」




霜月は後方から茜に指示を出す




茜を取り巻くオーラの流れが変わり


霜月と翳の意識の中に見慣れないビジョンが流れ込んで来た…











その『女』が生まれた家は


多分小さな農家だったと思うが


はっきり覚えていない




九つになるかならないかで奉公に出て


幾つかの店を転々とした後


海産物を扱うその問屋で働く様になったのは


多分『女』が十五の時…




『旦那様』と『おかみさん』には


毎日叱られてばかりいて


そこで働く人達の中には


自分と同じ年頃の若い娘は居なかったから


お姉さん方にも色々意地悪されたけれど


四つ年上の『若旦那』だけは


いつも優しくしてくれた




何かに付けて仕事の合間に声を掛けては


ご用を言い付ける振りをして


商いの話や


町で流行っている遊びの話をいっぱいしてくれた




甘いお菓子も食べさせてくれて


『女』が「美味しい」と言うと


『若旦那』はとても喜んでくれた…







「夜になったら母屋においで

誰にも内緒だよ」




『旦那様』と『おかみさん』は


商いの用事で遠くへ出掛けていて


母屋には『若旦那』以外に誰も居なかった




『若旦那』はお酒を飲んでいて


飲めと勧められて


『女』は


生まれて初めてお酒を口にした




気が付くと『若旦那』は隣に座っていて


手を握っていて…




「なぁ、俺の事好きか?」




親切にしてくれる『若旦那』を


嫌いな訳がないから


「好きです」


と答えた







暗がりの中で『若旦那』の


「好きだ、好きだ」


と言う声と


感じた事の無い痛み…




それが


『情を交わす』という


夫婦にならないとしてはいけない事だと知って


とんでもない事をしてしまったと気付いたが


『若旦那』は優しく頭を撫でながら


「大丈夫だ、俺が一生大事にするから…」


そう言って抱き締めてくれた…








それから…


『若旦那』とは


人目を忍んで逢瀬を繰り返す様になった




『旦那様』と『おかみさん』が出掛けた夜は勿論


仕事のご用の合間に


出会い茶屋の様な所に行きもした




その度に『若旦那』は


優しく抱き締めながら


「好きだ、お前が一番大事だ」


と耳元で囁いてくれた




『女』は次第に


愛される悦びを覚えていった




『若旦那』に愛され


自分自身も『若旦那』が求めるままに愛し返す…




道ならぬ恋とは知りながら


『女』は『幸せ』という感情を


生まれて初めて知る事が出来た




しかし


2人の想いが強くなり


回数を重ねるに連れて


だんだん周りが


2人の様子がおかしい事に気付き始めた




『旦那様』と『おかみさん』に呼ばれ


『女』は


「下女の分際で、色目を使いおって!」


と罵られ


きつく折檻された




『若旦那』も叱られた




けれど


2人とも


最後迄本当の事は言わなかった




言えば


引き離されてしまうから




それだけは


絶対に嫌だ…




2人の絆はより強くなり


今迄以上に用心して


気持ちを抑えながら少しずつ逢瀬を続けた




人目を憚る恋でも


『女』は『若旦那』に愛されていれば


それで幸せだった







「2人で家を出よう」




蜩が鳴く夕暮れ時


古寺のお堂の陰で


『若旦那』が耳元で言った




「遠い町で、誰の目も気にせずに、夫婦になろう」




『若旦那』は真剣な眼差しでそう言った




嬉しかった




嬉しくて


涙が出た







「今夜、逃げよう

町外れの枳沼は知ってるな

あそこから、『夜逃げ街道』を抜けりゃ、絶対捕まらねえ

こっそり荷物をまとめておいておくれ」




まとめる荷物なんていくらも有りはしないけれど


何も要りはしない




『若旦那』さえ傍に居てくれれば…




ずっと


愛し合えれば…




永遠に…








枳沼の森の脇に建つ小さな祠




それが


『夜逃げ街道』への道標なんだと


『若旦那』は教えてくれた




夕闇が迫る人気の無い小径を


『女』は小走りに沼の方へと急いだ




沼地に近付くに連れて道は無くなり


ぬかるみに何度も草履を取られそうになりながら


勘だけを頼りに草の分け目を進み続けた




乱れ髪が汗ばんだうなじに纏付き


藪蚊が顔の周りを何匹も飛ぶが


優しい『若旦那』との新しい旅立ちの為だと思えば


どれも全然苦にならなかった




陽が落ちてしまう前に何とか祠を見付けられて


近くの木の根元にしゃがんで


『若旦那』を待つ




『旦那様』や『おかみさん』に見付かって


出られなくなってはいないだろうか…




色白で


少し気の弱い所がある『若旦那』は


あの沼地を無事に抜けて来れるだろうか…




辺りが急速に暗くなり


ひとりで居る事が不安になり始めた頃


『女』の名を呼ぶ声が聞こえた




跳ねる様に立ち上がって声の方を見ると


旅装束の『若旦那』の姿が目に飛び込んで来た




思わず駆け寄ってその胸に顔を埋めると


『若旦那』は荷物を手放して


優しく抱き締めてくれた




「誰にも見つからなかったかい?」




耳元で


愛しい『若旦那』の声がする




あぁ…


これからは毎日毎夜


人目を憚る事無く


こうして『若旦那』の優しさに甘えられる…




「さぁ、急ごう

沼地を抜けて、今夜の内に出来るだけ遠くへ逃げよう」




本当はもう少し


抱き締めていて欲しいと思ったけれど


言う通りにしなくちゃいけない




大丈夫…


明日からは


毎日好きなだけ一緒に居られるから


今は一時の辛抱…




そう自分に言い聞かせながら


『若旦那』の胸から顔を離し


もう一度その優しい眼差しを


見つめ返した








提灯に火を点けて


手荷物を手分けして持ち合って


一緒に顔を上げた時…




…?




提灯の明かりに照らされたその光景を見た瞬間


あまりにも唐突過ぎて


それがどういう事なのかすぐに理解が出来なかった




目の前に…


『旦那様』が立っていた




その後ろには提灯を持った番頭さんと


お店で働く男の人達も居た




『若旦那』も驚いて呆然としている…




「そんな格好で、どこへ行く気だ?」




腕組みをしながら『旦那様』が低い声で


とても怖い顔をしながら言う




『若旦那』は何か言おうとしているのか


口をぱくぱく動かしているけれど


声にならずに頬が引きつっていた




「朝からそわそわ落ち着かねえと思ったら…端女ごときに惚けおって!

おめぇみてぇな半人前が、家飛び出して女一人養っていけるとでも思ってんのか!?」




『若旦那』は何度も口を動かすけれど


やっぱり声が出ない




「たった一人の跡取り息子がこんな事して、家はどうなる?

ここまで何不自由無く育ててやった恩も忘れて、三代続いた店を、お前一人で潰すつもりか?」




『若旦那』は


口を動かす事すらやめてしまった




二人の時は


「店なんか関係無ぇ」


「お前と居られるなら家も親も捨てる」


そう


力強く言ってくれたのに




お願い


黙らないで




二人の時と同じ様に


「お前が一番大事だ」って


「必ず幸せにしてやる」って


そう言って…




「それに…お腹痛めて産んでくれた母さんが、どんなに悲しむか…おめぇ、考えた事有んのか?」




関係無い…


ね?


そうでしょう…?




「おめぇは生真面目過ぎんだよ

女に慣れてねぇから、のぼせ上がってるだけなんだ

なぁ、頭ぁ冷やせ」




そんな事無い




二人の想いは本物の気持ちだ




「女が欲しけりゃ、いくらでも当てがってやる

商いやってりゃ女なんぞ、金でこれから先、どうにでもなるんだぞ

一生その女だけで満足か?よく考えろ」




ひどい


ひどい


『若旦那』はそんな人じゃない




そうよね?


お願い


何か言って




「家の商いしか知らねぇ世間知らずのおめぇが、他の仕事が務まるもんか

今すぐ引き返しゃあ、今日の事ぁ不問にしてやる

なぁ、帰って来い」




『若旦那』の体が


ゆらりと揺れた




「…父ちゃん…悪かった…許してくれるんか…」




え…?




『若旦那』は


目に涙を浮かべながら


『旦那様』に向かって歩き始めた…








『若旦那』は


もたれ掛かる様に『旦那様』に歩み寄って


うなだれたまま番頭さんに手を引かれて


元来た方に向かって


こちらを見ようともせずに


横を通り過ぎて行く…





嘘だ…!!




「待てぇ!お前は帰っちゃいけねぇ!」




振り返って後を追おうとするのを


『旦那様』が止める




「息子をたぶらかしやがって

この淫売がっ!

二度と会わせるわけにゃいかねぇ!」




二度と…


会えない…?


どうして?


あんなに愛し合っていたのに…




「手切れ金やるから、どこへでも失せろ…」




お金なんか要らない


欲しいのは…




「…と言いてぇところだが、一度ならず情を交わした仲だ

赤子が出来てねぇとも限らねえ

後でガキィ連れて来られて、店の暖簾取られちゃかなわねぇからな」




何を言っているの…?


お店の暖簾なんか


欲しく…ない




「…悪いがこのまま逃がす訳にゃいかねえ

…おい」


「へいっ」




『旦那様』に指図されて


後ろに居た三人の男の人達が前に出て近付いて来る




手に紐を持って




怖い


逃げなければ…




駆け出すけれど


草やぬかるみに足を取られて上手く走れない




すぐに追い付かれて


襟を捕まれて


倒されてしまう




痛い


痛い…!




強い力で押さえ付けられて


手と足を


紐で縛られる




「重石付けて、沼へ放り込んじまえ!」




嫌だ




「旦那ぁ、このまま捨てちまうなぁ勿体ねぇですぜ」


「それもそうだな

どれ…息子をどうやって虜にしたか確かめてやるか」




嫌だ!!!




口に汗臭い手拭いを押し込まれて


叫ぶ事も


『若旦那』の名を呼ぶ事も出来ない…








手も足も縛られたまま…


手拭いを口に押し込まれたまま…


足を掴まれて


ずるずると沼の縁まで引き摺られていく




男達は


はだけた着物に石を詰めて


三人掛かりで持ち上げると


「せぇのっ」


と声を合わせて


まるで物を捨てるみたいに簡単に


放り投げる




落ちて行く刹那


横向きの『旦那様』と男達の姿が見えた




それが


最後に見えた物…




愛しい『若旦那』の姿はおろか


暗い闇の底に沈んでからは


もう


何も見る事が出来ない…







どうして…


どうして行ってしまったの…?




あんなに酷い目に遭った事を


知っているの?




あんなに誓い合った言葉は


嘘だったの…?




ううん


そんな事無い




きっと


その内に家を飛び出して


迎えに来てくれる




ここ…


ここに居る




早く


助けに来て…







信じているのに


どうして来てくれないの…?




やっぱり


裏切りだったの…?




許せない…




憎い…




恨めしい…








憎いなんて嘘




信じて待ってる




きっと


来てくれる




そして


優しく抱き締めてくれる




恋しい…




『若旦那』の笑顔…




『若旦那』の匂い…




肌の温もり…







恋しい…




恨めしい…







『若旦那』…?




違う…


誰?




けれど


この肌の手触りは


『若旦那』と同じ


若い男の人…




体から


その人『その物』が


離れようとするのが分かる




駄目


行かないで




もう二度と


逃がさない




ずっとここで


愛し合うの…







せっかく


せっかく代わりを見付けたのに


体はどんどん崩れて


骨になってしまう




繋ぎ止めていたその人『その物』も


どんどん弱くなって


消えてしまった




寂しい…




そう…


待っていても


『若旦那』は来てくれない




この闇の外には


他にも優しい男の人が


いっぱい居る…







手を伸ばすと


どこまでも伸びる気がした




何も見えないけれど


手で触れる事は出来た




見付けた…




『若旦那』と同じ


優しい男の人の肌




大丈夫


怖がらなくていい




抱き締めてあげる




そして


誰よりも


深く愛してあげる…














『女』の記憶を共有し終えた霜月は翳に向かって


「お前が捕まった理由は、こいつの情の深さだな?」


と訊ね


翳はそれにコクリと頷くだけだった




『女』は愛した男を悦ばせたいと欲し


また悦ばせる術を知っていた




それが男の本能を刺激しその恍惚感に取り憑かれ


男達は沼へと誘われてしまったのだろう




故に


男である翳とその意識下に在る翳の『鬼』が


『女』に触れられた際に防御行動を忘れてしまったのも


無理からぬ事だった




この『女』の魂は沼の底から出られないまま


狂おしいまでの情愛と激しい怨念に苛まれながら


恐らく百数十年を暗闇の中で過ごした




そして


自殺者なのか遺棄された死体かは分からないが


偶然この沼底に若い男の肉体が沈んで来た為に


この『女』の霊魂は男を外から誘い込む事を思い付いてしまったのである




やがて男の肉体は腐敗し


霊界へ昇る事が出来ない魂は力を失い


『女』は別の愛し合う対象を求めて


次々と若い男を暗い沼底に引きずり込んできたのだった




最初の男さえ沈まなければ


或いは『女』は


永遠に外へ目を向ける事は無かったかも知れない




そして


『女』が生前に愛した男の気弱そうな線の細さと顔付きは


霜月と翳が知る始のイメージと余りにも良く似ていた




記憶の中の


始を見初めて迎え入れた時の『女』の歓喜は凄まじい物だった




始の肉体と魂はこの『女』に捕らえられ


今も沼の底から出られないで居る…




「霜月さん…」


「説明する迄もない

こいつは充分に『鬼』だ」




魂を昇天させるには


余りに長く現世に留まり過ぎている




そして


その愛欲を満たさんが為に余りにも多くの人命を奪い


魂の存在をも滅ぼしてきた




その罪の重さは


封印等の生易しい措置では償えない




魂の『絶対死』を与えられるべき『鬼』だと判断出来る




「ありがとうございます

これで始さんの魂も解放されます」


「勘違いするな

いずれにせよ殺らねばならない相手だ

榊の事は関係ない」




霜月は冷たく答え


「お前の右手は使い物にならん

俺1人で殺る

ここで見ていろ」


と付け加えた








『女』の『鬼』と同化している茜は


男を愛でる時の


愛欲に満ちた虚ろな表情を浮かべていた




霜月はズボンのポケットから赤い勾玉を取り出し


茜の右前方に歩を進め


自分の『鬼』を出現させると同時に


勾玉の『擬具』の術を解いて日本刀に変えた




男の本能に干渉する相手である以上


一度取り憑かれれば霜月とて我を失いかねない




相手がこちらに気付く前に


実体化した瞬間を狙って止めを刺すのが賢明だろう




「茜、実体化させろ」




霜月の指示に茜はゆっくりと両手を前に上げ


実体化に入ろうとする




その時…




「お…んなぁ…っ」




茜の顔が


虚ろな表情から怒りに満ちた形相に一変し


『鬼』の言葉を吐いた




(何だ…?)




茜の異変に霜月は抜刀したまま身構える




「女ぁ…あの…人…奪いに…来たぁ…か…」




『鬼』が同化中の茜の存在に気付いた…?




どうやらそれを


愛しい男を奪い取る『恋敵』だと認識したらしい




「酷…い…酷い…お前のせい…」




前に差し出していた茜の両手が内側に曲がったかと思うと


茜自身の首を掴んで絞め始めた




(いかん…)




同化したまま『鬼』に体の自由を奪われている




「茜さん!」




背後に居た翳も事態の深刻さに気付いて駆け寄り


勾玉を刀に変えて左手で握った




(どうする…?)




翳の刀で斬りつければ茜の体ごと傷付ける事になる




霜月の刀は特殊な呪法により人の体は斬れない為


茜を傷付ける事無く体内の『鬼』を滅する事は可能だが


完全に同化している状態な為


やり方をひとつ間違えば茜自身の『霊魂』をも殺しかねない




(チィッ…)




『女』の異常な迄の嫉妬心




それが霜月の算段を狂わせてしまった…







自らの手で自分を絞首しながら


茜はガクリと膝を付いた





いずれにしてもこのままでは茜は死んでしまう




仕損じる事を怖れている場合ではない




霜月は意を決し


刀の柄を握り直して一気に茜との間合いを詰めた




打ち込みに入る瞬間


『鬼』に憑かれた茜が顔を横に向けて霜月を見た




それが霜月の迷いを生む




『女』の『鬼』は攻撃意志を持って向かって来る霜月に


自分を陵辱した男達のイメージを重ねて恐怖した




「いやぁぁぁ!」




絶叫と共に


霜月に向かって茜の体から白い手が目にも止まらぬ速さで飛び出し


強い拒絶反応そのままに霜月を突き飛ばした




胸部にその直撃を受けた霜月は弾き飛ばされ


数メートル後方の地面を転がった




(ぐっ…)




胸に受けたダメージが引き金となり


霜月の発作が始まってしまった





「霜月さん!」




翳が駆け寄り霜月を抱き起こす




「…茜ごと…斬れ…翳…」




胸を押さえながら呻く様に霜月が言う




呼吸すら満足に出来ない今の霜月には


自分の『鬼』を操り相手に止めを刺す事は不可能であろうし


かと言ってこのまま手を拱いていれば


『女』の『鬼』は茜を絶命させた後


茜の肉体を我が物とするか


再び沼底に逃げ込んでしまうかするに違い無い




『女』の『鬼』を殺るには茜に取り憑いている今


茜の体もろとも斬り捨てる以外に…無い




「で…でも…」




満足に刀を握れない右腕で


『鬼』を殺るのに充分な霊力を刀身に載せられるかどうか…




『鬼』に止めを刺す事が出来ずに


茜だけを斬り殺す結果になりはしないか…




何よりも


何年も親代わりに面倒を見てくれた茜を


果たして斬れるのか…




(駄目だ、出来ない…)




茜の体が


更に苦し気に仰け反る




「…見殺しに…するのか…翳…」




見殺し…?




霜月の言葉に


翳の中で何かが弾けた




そう…


僕は


始さんに続いて


茜さんまで見殺しにしようとしている…




『鬼』を倒す事が出来れば


少なくとも始さんの魂は解放出来る…




偽善…




霜月さんが教室で螢人さんに言った言葉




茜さんを斬れない自分は


まさに偽善者ではないか…




翳は立ち上がって茜に近付き


鞘を左手に掴み


痛む右手を柄に添えた




「茜さん、ごめんなさい」




翳は


腰を落として居合いの構えに入った








翳が茜に向けて刀を抜こうとしたその時




「だめぇ!」




甲高い悲鳴にも似た声がした




同時に


何か小さな物がうずくまる霜月の脇を走り抜け


抜刀しようとする翳と茜の間に滑り込んだ




(…!?)




霜月と翳は


その小さな物の場違いさに一瞬我が目を疑った




それは


黄色の着物を着た長い黄金色の髪の『少女』だった




「アカネを殺したらだめぇ!」




少女は翳に向かって言うと茜の方に向き直り


右腕を素早く伸ばして掌を茜の体に当てた




ズギャァン…!!!




破裂音と共にその接触部分が閃光を発する




霜月と翳は見た




閃光に弾き飛ばされる様に


茜の体から白い『女』の形をした霊体が飛び出すのを




茜は崩れ落ちる様に倒れ激しく咳き込む




「茜さん!大丈夫ですか!?」




翳が茜の肩を抱き起こして宙に飛んだ霊体を目で追う




それはまさしく


『鬼』と化した『女』の『霊魂』だった




「アカネをイジメるの、許さない…」




金髪の『少女』は『鬼』を見上げて右手を上げた




『鬼』は恐怖の形相を浮かべ


急速に葦の被い茂る地表に体を落下させ


地面にダイブするかの様に姿を消した




「しまった…!」




翳は止めを刺すチャンスを逃した事を悔やんだ




地中に潜った『女』の『鬼』は


沼底に帰り二度とその姿を現すまい




「逃がさない…もん」




金髪の『少女』は何も動かない地面を見つめ


何かを目で追う様に顔を動かしていた




「見っけ!」




『少女』は地面に向けて指を開いた右手を伸ばすと


次に指を曲げて何かを掴むかの様な動きを見せた




その体勢のまま右腕を上に上げてゆく




「なっ…!?」




翳は信じられない光景に思わず声を発した




『少女』の右腕の動きに合わせて


沼の水際辺りの地面から『女』の『鬼』が姿を現したのである




『鬼』は首の辺りを白い手で押さえて


もがき苦しみながら全身を現し更に宙に浮いた




あたかも


見えない手に首を掴まれ持ち上げられる様に…




「霊体を…掴むだと?」




霜月は胸の苦しさに耐えながらその光景を見ていた




「アカネをイジメるの、許さない!」




『少女』の右手の指が


何かを握り潰す様に閉じる




同時に『女』の『鬼』の首が弾け飛ぶ様に潰れ


頭と体が空中で分離した




「若…旦那ぁ…」




『女』の断末魔の悲鳴と共に


その頭と体は霧散し消えていく




「サクヤ…どうして…?」




漸く声が出せる様になった茜が『少女』に向かって言う




「サクヤ…?茜さんの知り合い…?」




翳が改めて金髪の『少女』の方を見ると『少女』は


『鬼』が霧散した辺りの空を指差して


「アカネ、ほら、子供」


と言った為全員がその方向を見た




『鬼』が消えた空中に


とても小さな霊体が浮いていた




「子供…?

あの『女』の人…身籠もっていたのか…」




翳が言い終わらない内に


その小さな霊体はゆらゆらと空を漂いながら


森の奥へと消えて行った…








「何なんだ、そいつは?」




霜月が茜に歩み寄りながら訊いた




「霜月様…大丈夫なのですか?」




まだ胸の辺りを押さえている霜月を茜は気遣って言う




「あぁ…もう治まった

それより…」


「ソーゲツ危なかったね

でもサクヤは大丈夫」




茜の傍らで


大人の半分程の背丈しかない『少女』は霜月を見上げて言う




「霜月さんの名前を知ってるんですか?」




翳の言葉に


「カザシも知ってるよ

サンシローとは仲良しぃ!」


とサクヤは答える




「何者だ…?何故俺達の事を知っている?」




怪訝な面持ちの霜月に茜は


「いつかは、分かってしまうと思っていましたが…まさかこんな形になるとは…」


と独り言の様に言ってから


「この娘の名はサクヤ

あなた達と同じ、黒羽神社の住人です」


と言った




「黒羽神社の?」


「どういう事だ?」


「今ここで、全てを説明するのは難しい事ですから、詳しい事は追々…

ただ、このサクヤは、あなた方よりずっと前から、黒羽神社に住んでいました」




茜はサクヤの頭に手を乗せ


サクヤは甘える様に茜に寄りかかった




「ずっと前からって…神社の一体どこに?」




翳が不思議がるのも無理は無かった




何しろ2人は


5年以上黒羽神社で生活している




こんな年端も往かない少女が暮らしていたなら


気付かない訳が無い




「蔵だよ、蔵の中の木の箱がサクヤのお家なの」




サクヤは意味無く自慢気に言う




「蔵…?木の箱って…」




翳に理解出来る筈が無かった




「それも説明は追々…

取り敢えず、『仕事』は完了しました

遅くなる前に帰りましょう」


「帰ろ、帰ろ

みんな一緒だね」




茜の手を握ってサクヤという少女は1人はしゃいでいた




(そいつは…)




茜に手を引かれて歩くサクヤの後ろ姿を霜月は凝視する




(『人』じゃないだろう…)




霜月は思ったが口には出さなかった











翌日の皆天市とその周辺地域は


枳沼に関わる話題で騒然となった




早朝未明


匿名の通報を受けて沼をパトロールした警官が


沼に浮かぶ始の遺体を発見したのである




始の遺体には損傷や腐敗は認められず


ほぼ生前のままの状態であったが


体中に無数の水草の様な蔦が絡み付いており


遺体と共に引き上げられたその蔦の先には


更に何体もの人骨が絡み付いていた




警察ではポンプ車による水の汲み上げを行い


その日の内に少なくとも10体以上の人骨を回収したと発表した




残留していた衣類等が公表され


後日何人かの身元は明らかになったが


その中に


着物の女性が居たという報道は最後まで流れる事は無かった…







あの夜以来


黒羽神社の中の生活風景は少し変化した




茜と霜月と翳と


黒猫のサンシロー


それにサクヤが日常生活に加わった為である




とはいえ


相変わらずサクヤは蔵の中の木箱の中で過ごす事が多く


気が向いた時にだけ霜月らの前に姿を現す程度だった




あれから茜はサクヤについて語ろうとせず


霜月と翳も訊ねるきっかけが見つからないまま


いつの間にかその存在を黙認する様になっていたが


最初は暗がりで気付かなかった翳にも


サクヤが如何に奇異な存在であるかがすぐに分かった




霜月が感じた通り


サクヤは明らかに『人』では無かった




顔や手等


露出している体の部分の質感が人肌ではなく


恐らく木の様な


硬質な材質だと一目で分かるのだ




強いて言えば


非常に精巧に造られた『からくり人形』…




それが人の言葉を喋り


自らの意志で動いているのである




一度だけ霜月が茜に


「奴は、『ハンター』なのか?」


と訊いたのに対し


「いいえ…少なくとも、本人にその自覚は有りません

それに、あの娘は『鬼飼い』でもありませんし」


と茜が答える場面が有ったが


サクヤについてそれ以上の会話は無かった







やがて警察による検死と現場検証が終わり


始の通夜と葬儀の日取りが決まった











始の葬儀を翌日に控えた夕刻


霜月と翳が学校から帰ると神社には茜の姿が無く


居間でサンシローと遊んでいたサクヤが


「茜が手紙書いたよ」


と言った




居間の机の上に


「日暮れ迄には戻ります

お友達のお悔やみを用意しておきました」


と書かれたメモと一緒に


霜月用と翳用それぞれの香典封筒が置かれていた




「珍しいですね、こんな時間に出掛けるなんて」




翳の言葉に霜月は答える事無く


「榊の通夜は今夜だったな

出るのか?」


と訊いた




「えぇ、告別式と両方出るつもりです」


「じゃあ、香典は代わりに持って行ってくれ」


「え?霜月さんは行かないんですか?」


「俺は別に仲が良かった訳じゃない

まぁ…よろしく伝えておいてくれ」




襖を開けて自分の部屋に向かおうとする霜月に


「ねえ、ねえ、どうしてソーゲツは友達が居ないの?」


とサクヤが話し掛ける




廊下に出ながらフンッ…と鼻を鳴らすだけの霜月に


「ねえ、ねえ、どうして?」


と更に訊く




「うるさい」




霜月はピシャリと襖を閉め


サクヤは次に翳を見上げた




「ソーゲツ、いつも怒ってるね」




翳は苦笑いするしか無かった







一方茜は始の家を訪ね


両親と面談していた




突然の茜の訪問に両親は驚きを隠せなかったが


予言通り始の所在が明らかになった事に対して


感謝する気持ちを露わにしながら茜を招き入れた




家の中には布団が敷かれ


白い布を被せられた始の遺体が横たわっていた




「力及ばず…この様な形になり、残念です

心よりお悔やみ申し上げます」




頭を下げる茜に両親は謙遜しながら


「滅相も無い…巫女様のお陰で、ちゃんと弔ってやる事が出来ます

それだけでも…なぁ、お前」


「そうですとも

こうして息子も家に帰って来れましたし…

巫女様のお陰です

感謝しております」


と2人揃って深々と頭を下げた




「葬儀は…明日ですか?」


「はい…後二時間もすれば、葬儀屋さんが息子を通夜の会場へ運びに来ます」


「そうですか…」




茜は何かを確認する様に部屋の周囲を見渡した後


始が横たわる布団に目を遣った








茜は『コネクター』としての能力で


すぐ近くに確かに『それ』が来ている事を感じ取っていた




『ハンター』としての仕事は『鬼』を消した事で完了していたが


両親から受けた茜にとっての表の『仕事』は


まだ終わっていない…




茜は部屋の一角に顔を向けたまま


独り頷く様な仕草を見せた後


両親に向き直って口を開いた




「ご子息が…お別れの挨拶をされたがっています」


「ええっ…始が?」


「始が…始が居るんですか?」




思いもよらぬ茜の言葉に両親は表情を一変させる




「宗教上の形式的な葬儀はともかくとして…

人が集い、弔いが行われ、皆が別れを告げる事によって、魂は現世での役目の終わりを自覚して、天界へ昇るのです

ご子息様の魂が、現世に在る今なら、私を介してお話しをして頂く事は可能です

『口寄せ』…というのをご存知ですか?」


「ですが…家には、そういった儀式に使う様な道具は何も…」


「道具は必要有りません

あれも…葬儀と同じく、雰囲気を高める為の『演出』みたいな物ですから…」


「始と、話しが出来るんですか?」


「はい…本来、私共の様な巫女にとっては、当たり前のお役目ですから」


「是非…是非お願いします!」




両親は2人して茜に深々と頭を下げた




「…承りました」




茜は目を閉じて


スゥッ…と鼻から息を吸い込む




数秒間の静寂の後


茜の体から蜃気楼の様な


淡い揺らめきが立ちのぼり始めた…








「父…さん…母さん…」




茜の口から


先刻迄とは明らかに違う声が漏れ始めた




両親は顔を見合わせてから茜に向き直り


恐る恐る口を開いた




「始…?始なのか?」




茜がコクリと頷く




「始…!どうして…?」


「ごめんなさい…僕…死んだんだ…ね

さっき…気付いた

親不孝…しちゃったね」




両親の目から涙が溢れ出した




「あんまり長くは…この人の体借りられないみたいだから…

ねぇ、父さん」


「うん…うん、何だ?」


「十歳の誕生日に買ってくれた…飛行機のプラモデル…」


「ああ、覚えてるぞ」


「買って貰った事より…父さんが…一緒に造ってくれたのが嬉しくて…今も…机の下に…箱に入れて宝物にしてるんだ」


「…始…!」


「何にも残せないけど…僕の宝物…形見にして…くれないかな」


「ああ、ああ…大事にするよ、始…」


「ありがとう…」




茜は次に母親に顔を向けた




「…母さん…」


「何だい?」


「高校…受験の時…毛糸の御守り袋…編んでくれたよね」


「うん、そうだね、覚えているよ」


「僕の…もう一つの宝物…なんだ

恥ずかしくて…言えなかったけど」


「…始…そうなのかい…?」


「あれ…僕の棺に…一緒に入れて貰えないかな

机の…一番上の引き出しにしまってあるんだ

ずっと…持っていたくって…」




母親は泣き崩れてしまい返事をする事が出来なかった




「学校のみんなにも…本当はお礼が言いたかったけど…代わりに言っておいて貰えるかな…

それと…齊に…気が弱い僕を…子供の頃から色々かばってくれて…親友で居てくれてありがとう…って伝えて欲しいんだ」


「分かった、必ず伝えるぞ、始」




始である茜はニコリと微笑んだ




「もう…ここ迄みたいだ

今迄…こんな僕を育ててくれてありがとう

先に…死んでしまってごめんなさい

お願いだから…僕の事でいつまでも悲しまないで…

次に生まれ変わっても…父さんと母さんの子に生まれたい…

本当に…ありがとう…さよなら…」




茜の体から揺らめきが消えていく




そして茜は


茜に戻った




両親は涙を拭おうともせず


暫く2人で


声を上げて泣き続けた…








始の両親はひとしきり泣き合った後涙を拭って座り直し


「ありがとうございます

ありがとうございます」


と2人で何度も茜に頭を下げた




茜は始の魂が自分から離れる時に


始が茜に向けて感謝の言葉を発したのを聞いていた




「…良いご子息様だったのですね…」




大丈夫…


この少年は自分の死を極めて健全に受け入れている




きっと


最も綺麗な状態で天界へ昇り


再び新たな命として現世に再生する事だろう




どうかそこが


彼にとって幸せな場所であります様に…




そうして


茜の『仕事』は終わった




茜は両親に別れを告げ


始の家を後にした…







茜が神社に戻ると


廊下の向こうからサクヤがパタパタと駆け寄って来た




「アカネ、ただいまぁ」


「『おかえり』でしょう?

言葉の遣い方が違うわよ」




履き物を揃え


廊下を進んで炊事場を覗くと


翳が手拭いで手を拭いているところだった




「あ、茜さんお帰りなさい

ご飯だけ炊いておきましたから」


「すみません…

すぐに着替えて、夕食の準備しますね

翳様はゆっくりなさって

今夜はお友達のお通夜でしょう」




男の子なのにエプロンが良く似合うな…


と茜はいつも思う




サンシローが廊下から覗き込んで


茜を見上げて「ミャア」と鳴く




「ただいま、サンシロー

お腹空いたわね」




自室へ向かう茜にサクヤとサンシローが後を追う様に続く




「アカネ、『ツヤ』って何?『コツベツシキ』って何?」




サクヤの質問に茜は微笑みながら


「『コクベツシキ』よ」


と間違いを指摘した




「どちらも亡くなった人の魂にお別れを告げたり、安らかにお空へ帰れる様にお祈りしたりする儀式ね」


「『タマシイ』?

この前サクヤがやっつけたやつぅ?

タマシイ嫌い

茜をイジメる悪いやつだもん」




茜は屈んで目線をサクヤの高さに合わせて


「悪い魂ばかりではないのよ

それに、初めから悪い魂も居ない…

生きている時の悲しい理由が有って…あの様な事をしてしまうの」


と諭す様にゆっくりと言った




この『人』ではない少女には


ひとつひとつ正しい事を時間をかけて理解させてやらなければならない




魂…




血が通わない造り物の体に宿るサクヤの魂は


本人すら自覚しない強大な力を持ちながら


余りにも無垢なのである




知識の与え方ひとつで


どんな色にも染まってしまう危うさを孕んでいる




少なくとも


彼女を『造った』者達の手にそれを委ねれば


サクヤの強大な力は悪しき目的に利用されてしまうに違いない




その前に


サクヤ自身が物事を正しく判断出来る様に


その『心』を育ててやらなければならない




だが


痛覚も触覚も持たず


苦しみや温もりを理解し得ないサクヤに


『人間らしさ』を教えるのはとても難しいという事も


茜の中の現実だった…











始の葬儀が終わって数日が経ち


事件の1つの中心であった南天高校も


次第に日常の落ち着きを取り戻し始めたある日の夕刻…




霜月は1人で学校からの帰り道を歩いていた




翳はクラスメートの螢人等と連れ立って


始の家に線香をあげる為に学校から直接向かっていた




もとより霜月にはそれに付き合う気はさらさら無く


授業が終わると当たり前の様に独りで教室を出たのだった




そもそも…


何度も香を焚いたり手を合わせたりされて


当の『霊魂』は果たして有り難かる物なのか…


と霜月は思う




それこそ故人に対して


生前にもっと良くしてやるんだったとか


嫌な思いをさせてしまったんじゃないかという様な


残った側の人間の後悔の気持ちを


自分の中で正当化しようとする代償行動ではないのか…




そんな事を思いながら人通りの無い路地を歩く内に


前方から


学ランを着た男が歩いて来るのに気付いた




(また…独りの時に限って…)




その相手は下校中の劍だった




微妙な距離感での擦れ違い様劍が立ち止まり


前方を向いたまま


「大した騒ぎだったな」


と声を掛け


霜月も立ち止まり


「何の話しだ」


とやはり前を向いたまま返す




「沼から上がった死体…同じ学校の生徒だろう

…『鬼』絡みじゃねぇのか?」


「さぁな

何れにしろ、もう終わった話しだ」


「フンッ…そうみてぇだな」




一度も目を合わす事無く劍は歩き出し


霜月も歩き始めた




夕暮れの迫る舗道には


彼等2人の姿しか無かった…







第3話











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