『拮抗』
第2話【拮抗】
〜1984年4月〜
▼
『ハンター』…
その『職種』の歴史は古く
源流は
室町時代とも
平安時代まで遡るとも言われるが定かではない
その『仕事』の真なる目的は
【現世に害を成す『鬼』となった『霊魂』を『消す』事】
…である
一般的に知られる
退魔師や除霊師が行う様な
『退ける』
『封印する』
『成仏させる』
ではなく
あくまで
『消す』なのである
現世では
生命体の身体機能が停止した時を以て
それを『死』と捉えるが
『霊魂』その物が死なない限り『本当の死』ではない
『霊魂』は
その肉体が滅んだ後も存在し続け
何らかの段階を経た上で
再び別の肉体を得て
新たな生命体として現世に蘇る事が出来る
肉体を失った『霊魂』は
多くの場合
天界や冥界といった
魂の在るべき場所に一度は帰る事になるが
現世への未練や
生前の『業』の強さに引かれたり
又
自分が死んだ事に気付かない場合等
現世に止まり続ける場合が有る
時々人目に触れたり
写真等に写り込む程度で
殆どその存在に気付かれる事が無い様な
『浮遊霊』レベルも居れば
『怨み』や『怒り』や『欲』が強く
そのエネルギーの大きさ故に
現世に悪影響を及ぼす力を持つ
『悪霊』や『怨霊』になる者も居る
通常レベルの『悪霊』等であれば
表稼業と言うべき
『霊媒師』や『陰陽師』の手により
『封印』なり『浄化』なりを行い
現世への復活時期の延期や
改めて昇天させる等の処置を行う事になる…
ここまでが
一般的に知られる『退魔』や『除霊』である
『悪霊』や『怨霊』の更に上…
その霊力の強さから
『封印』が不可能であったり
また
その罪の重さ故に
『浄化』に値しない『霊魂』も存在する
これを
『鬼』と呼ぶ
『ハンター』の『仕事』は
『鬼』と化してしまった『霊魂』を
『消す』事
つまり
二度と復活の機会の無い
魂の『絶対死』を与える事…
なのである
『ハンター』と呼ばれるその業界には
それを取り纏める『組織』が存在する
その活動範囲は国内全域に及び
海外にもネットワークを持つと言われるが
多くの部分は謎に包まれ
『組織』に属する一員ですら
その実態を知る者は極めて少ない
劍達の様な実働の『チーム』は
各エリアを管轄する『支部』の傘下に入り
総本山と言うべき『本部』が
『組織』全体を管理している
劍にしても舞姫にしても
偶発的にその能力を見出され
スカウトの様な形でこの『仕事』に関わる事になった為
彼等には正確な名称すら明らかにされぬまま
暫定的に
『組織』と呼んでいるのだった
通常
『本部』なり『支部』なりが
霊媒師や
便利屋等にカモフラージュした窓口で依頼を受け
その報酬と共に
実働チームに『仕事』を委託するが
依頼人不在の場合は
『本部』が代わりに報酬を支払うケースも有る
一方で
『組織』に属さず
フリーで『仕事』を行う『ハンター』も存在する
それらは『はぐれ』
又は『もぐら』
或いは『しのび』等と呼ばれ
『組織』を通さず
独自で『仕事』を受け
自己の判断でそれを実行する
また
『組織』の『仕事』を
『組織』の正規チームより早く実行する事により
その報酬を
代わりに得る事が出来るという暗黙のルールが在る為
『はぐれ』と正規チームとの『仕事』の奪い合いも
現場では時折発生する
但し
『はぐれ』であれ正規のチームであれ
ある意味に於いては
生命を奪う事より重い
『魂の処刑』の行為者である以上
無闇に『霊魂』を消す事は絶対に許されない
依頼人の在る『仕事』であっても
対象が通常レベルの『悪霊』『怨霊』であれば
表稼業の除霊師等にその処理を譲らねばならないのである
『鬼』の定義を正しく知り
不文律の戒律に則った『仕事』を行う事を
『ハンター』全員が義務付けられている
それに背いた場合
…仮にそれが過失であったとしても…
歴史上のどんな刑罰よりも重いペナルティを
例外無く課せられるのである
▼
「『はぐれハンター』か…!」
『組織の犬』という霜月の言い回しに対して
劍は直感的に叫びながら
心の内には
(本当にそうなのか…?)
という疑問が在った
『フリーのハンター』という存在を
知識として知ってはいたが
実際に遭遇するのは初めてだった事と
組織から逸脱した『はぐれ』と言えば
それなりの年配者や武骨な大人達をイメージしていた為
毎朝の様に擦れ違っていた身近な相手であり
しかも同い年とも思えない位の
…実際には同じ学年なのだが…
『2人のチビ』だと知った時に
あまりにもイメージとかけ離れていると感じたのだった
そして
そのチームの『コネクター』であろう
白い着物の女性…
既に『鬼』との同化が始まっていて
先刻迄の舞姫と同様に涙と涎を流しながら
狂気の表情を浮かべているにも関わらず
淡いオーラを纏い直立するその姿は
神々しさに似た美しさを有していた
「茜、転送しろ」
霜月の言葉が
劍の耳にも届き
劍は改めて
彼等が『商売敵』なのだと認識し直した
茜は
転送へ移行する動作を取りながら
「あの方達にも、お見せしますね」
と一瞬だけ表情を戻して言った
『ハンター』は
対象が『鬼』であるか否かの判断をする際に
より客観性を持たせる意味で
その場に居合わす『ハンター』全員が
その情報を共有しなければならないという
不文律のルールが有るのである
(余計な事を…)
霜月は思いながら
「好きにしろ」
とだけ言った
霜月と翳
そして劍達3人の頭の中に
自我とは違う意識が流れ込み始めた
『霊魂』の記憶の『転送』が
始まったのである…
▼
不安
寂しさ
そして
耐え難いまでの空腹感…
絶望的とも言える感覚を
その場に居る全員が
同時に共有していた
記憶の『ビジョン』の転送は
映画を見る様に
順を追って鮮明な映像が流れる訳では決してない
『霊魂』は
生命体としての死を迎えて肉体から離れると
人であった時に得た後天的知識の
大半を失う
故に
社会的常識やモラル等はその殆どが失われ
怒りや怨恨等の
『負の感情』だけが残留し易い為
『霊魂』となった後の行動原理として強く働いてしまう
それが
死に至った要因と直結していれば尚の事である
『魂の共鳴現象』を利用するこの記憶の『転送』は
『霊魂』の体験その物を共有する事に他ならない
故に
それが仮に
数年分に及ぶ記憶であったとしても
転送を受ける側がそれを共有し
自分の頭の中で理解し終える迄には
数秒とかからない
この時
『コネクター』である茜を介して
霜月や劍等5人が得た『霊魂』の記憶は
そこに居る全員の胸に
鉛の様に重くのしかかる物だった
そして
通常はあくまで人として暮らしている彼等にとって
本当に裁かれるべき罪人はこの世に生き続けていて
自分達が
その魂を処刑すべく追っていた対象は
不幸な被害者であるとしか思えなかったのだった
だが彼等には
人を裁く権限は
無い
代わりに
現世での被害者たる『霊魂』が
消すべき対象
つまり『鬼』であるのか否かを判断を下し
『絶対死』…
則ち
魂の処刑を実行せねばならない
霜月と劍
2人の結論は同じだった
「消さねばならない…」
4人の被害者を殺害したのは
間違いなくこの『霊魂』だった
その目的は
生前から引きずり続けた
耐え難い空腹感を満たす為の
『人喰い』である
人の味を覚え
肉体という感覚器官を持たない魂は
満たされる事の無い空腹感によって
永遠に人を喰らい続ける事になる
何より
この『霊魂』には
人として得たモラルや
社会的通念が完全に欠落していた
…と言うより
始めから持っていなかった
その筈である
その『霊魂』は
物心ついたばかりの
余りにも幼い
年端もゆかぬ『少女』だった…
▼
『少女』は
暗い部屋の中で
膝を抱えて
襖の隙間から漏れる
明かりを見つめていた
襖の向こうからは
知らないオジサンと
ママの笑い声
「お腹…空いた…」
何百回呟いたか分からない独り言を
唇が乾き切った口から漏らし
『少女』は
フラリと立ち上がると
遠慮がちに
襖を開けた
ゴミや
空の酒瓶が散乱した部屋
胡座をかいてコップ酒を飲むオジサンと
その肩に手を掛け
寄り添う様にもたれかかるママ…
オジサンが
鷲掴みにしたナッツを口に放り込み
ボリボリとそれを噛み砕く音が
『少女』の耳に痛く響く
「ママ…お腹空いた…」
『少女』は
少しだけ大きな声で言った
「まだ寝てなかったのかい!?
いつまでも起きてるからお腹空くんだよ!」
怖い顔で
怒鳴る
「うっとおしいガキだなぁ
気が削がれらぁ!」
オジサンも怒鳴り
ママが
「ごめんよぉ、あんたぁ…」
と
抱き付く
「邪魔だから出てお行き
腹減ってをなら外で物乞いでもおし!」
モノ…ゴイ…?
『少女』には
その言葉の意味が分からない
ただ
出て行けと命令された事だけは理解出来た
ゴミに躓きそうになりながら
2人の横を通り過ぎて
玄関に向かう
「もーちょっとマシなツマミは無ぇのか?」
「お金無くて…けど、もう少ししたら立ち退き料が入るんだよ
そしたら2人でさぁ…」
外へ出て
重い引き戸を閉めると
2人の会話は聞こえなくなった
数歩進んで
電柱の所でしゃがみ込む
夕焼け空が
気持ち悪い位に赤い
目の前の路地を
知らない母子が
手を繋ながら通り過ぎる
「晩ご飯は何が良い?」
「お肉ぅ、お肉が食べたい」
「じゃあハンバーグにする?」
「ソーセージ!」
「パパも好きだもんね
じゃあソーセージいっぱい買わなきゃ」
「わーい、ママ大好きぃ」
ハンバーグ…?
ソーセージ…?
お…肉…
「お腹…空いた…」
地面にダラリと下ろした手が
雑草に触れる
『少女』はそれを毟って口に運び
力無く食べ始めた…
▼
何日位
その部屋で寝ていたのか…
何日位
ここで母親の帰りを待っていたのか…
襖の隙間に
明かりは無い
『少女』は動こうとしたが
針金の様に痩せてしまった足は
もう
立つ事すら出来なかった
這いながら移動して
震える手で襖を開けると
やはりママは居ない
散乱したゴミと
テーブルの上には
蠅が集っている
「マ…マ…」
どこへ出掛けたんだろう…
どんなに遅くなったって
必ずママは帰って来た
だから
襖を閉めて
部屋に戻ってないと
また叱られる
だけど…
動けない
ママは
どうしてすぐに怒鳴るんだろう
あのオジサンは誰だろう
他の子達のママは
どうしていつも
優しく笑ってるんだろう…
ううん
ママは本当は優しいんだ
固くて嫌いな『たくあん』を
いつも小さく刻んでくれたし
お地蔵さんのお祭りで
言い付け通りに
お菓子を3つ貰って来た時も
ちゃんと誉めてくれた
オジサンが家に来る様になって
ママは
急に怒りっぽくなって
『たくあん』も
『おちゃづけ』も
作ってくれなくなっちゃったんだ
『はんばーぐ』って
どんな漬け物なのかな
たくあんより柔らかいのかな
おりこうさんに待ってれば
ちゃんと言い付けを守ってれば
ママはきっと誉めてくれる
きっとまた
毎日『たくあん』を刻んでくれる…
だから
おりこうさんに待たなきゃ
けど…
お腹空いた…な…
「マ…マ…」
呼ぼうとしても
声が出ない
それが悲しくて
心細くて
泣きたいのに
泣き声も
涙も
出なかった
暗い部屋
床にうつ伏せに倒れたまま
『少女』は
干からびていった…
▼
ガタリと
玄関の開く音がした
(ママ…?)
しかし
入って来たのはママではなかった
急に外の光と風が入って
埃が散り
数十匹の蠅が舞い飛ぶ
「酷い臭いだな…!」
『ねくたい』をつけた
太って頭のはげたオジサンが言う
「えぇ…かなり日が経ってますんで…」
『へるめっと』を被った
もう1人のオジサンが言った
「ここの住人は?」
「母親が居た筈なんですが…退去料を受け取ってすぐ、居なくなりまして…」
「ガキの死体ほったらかしでか」
2人のオジサンは
『少女』に気付かず
床に転がっている
人の形をした
ウジ虫がいっぱい付いた『物』を見て
難しい話をしていた
「警察に届けますか?」
「馬鹿を言え
立ち退き絡みで子供が死んだなんて知れてみろ
地元商店街の反対派共が黙っとらんぞ」
「そりゃ…そうですね」
「ガキ1人のせいで建設計画を中止させる訳にはいかん
床下にでも埋めてしまえ
どうせこの辺りは駐車場予定地だ
掘り起こされる心配は有るまい」
待っていなければいけないのに…
襖の部屋に居なければ
叱られてしまうのに…
知らない人達がいっぱい入って来て
家の中の物を持ち出してしまう
そして
家が
青いシートで囲まれたかと思ったら
大きな『すこっぷ』の付いた車や
『だんぷかー』が来て
家を
壊してしまった
家は
あっという間に無くなって
空き地になった
『少女』は
物凄くお腹が空いていた事を
思い出した
(食べ…なきゃ…)
何か食べて
ママの帰りを
おりこうさんに待たなければ…
積まれた瓦礫の山から
動く黒い物が出てきた
一匹の
ゴキブリだった
(欲しい)
思った瞬間には
もう手が伸びていて
口の中に入れて
ボリボリと噛んだ
固いけど
『たくあん』より
固くない
(足り…ない…)
何日か経って
ネズミを見つけた
近付いても
全然気付かないから
簡単に捕まえられた
(これが…お肉…)
美味しいとか
温かいとかは
何も感じられなかったけれど
柔らかくて
噛むと赤い汁がいっぱい出て
固い所も
ボリボリ噛む感触が
何だか嬉しい
それでも
空腹感は
少しも変わらなかった
(もっと…食べなきゃ…)
『少女』は
青いシートの外に出た
辺りは真っ暗で
路地の向こうから
男の人が
鼻歌を歌いながら
フラフラ歩いて来た
(お肉…?)
半袖のシャツから出ている腕が
『少女』を刺激した
近付いても
気付かない
ネズミと同じだ…
『少女』は
衝動的に口を開いた
口の両端が
バリバリと裂けて
いつもより
大きく開く事が出来た
良かった
これなら
いっぱい食べられそうだ
食べて
ここで
ママを待たなきゃ…
▼
『魂の共鳴』を行うという事は
実体験と同様の記憶を得る事とイコールである
『少女』が
満たされる事の無い空腹感に突き動かされ
計4人もの人間を次々に喰い殺した場面も
『ハンター』たる彼等全員が
実体験と同様の記憶として共有していた
霜月は
自分が立っているビルの上から
右下に位置する空き地を見下ろした
そこは
記憶の中の
家が有った場所…
則ち
『少女』の死体が埋められている場所である
ここで『少女』は
自分を見捨てた母親を
永遠の空腹感の中で
待ち続けていたのだ
(勝手に産んでおいて…)
だが
母親なんて
所詮そんな物だ…
霜月は
すぐに視線を茜に戻し
ポケットの中で『勾玉』を握り締めた
劍も
霜月と同様に
目の前の家の跡地を見たが
次の瞬間には
別の事に強い憤りを覚えていた
それは恐らく
純由と舞姫も同じだったに違いない
『少女』の死体を埋める様に指示した
ワイシャツにネクタイ姿の男…
それは
彼等全員にとって見覚えの有る顔だった
マーケットタウン建設に絡む
再開発事業推進派の急先鋒であり
建設反対派の地元業者達との話し合いの場で
再開発の必要性と
『健全で明るい街造り』の理想について
この男が熱弁している場面が
様々なニュース番組で報道されているのを知っていた
この男は
皆天市議会議員の重鎮である
一緒に居たヘルメットと作業服の男は
恐らく施工を委託された建設業者に違いない
つまり…
「奴らが『依頼人』かよ…!」
純由が吐き捨てる様に言った
死体が発見された時
すぐに正しく弔ってやっていれば
彼女は『鬼』にならずに済んだかも知れない
少なくともあの時点では
『少女』は人を喰ってはいなかった
(くそったれ…!)
嫌な『仕事』になるという
劍の予感は的中した
だが
『仕事』を放棄する事は
許されない
既に
人喰いの『鬼』と化した『少女』を
彼等は消さねばならないのである
『依頼人』の
望み通りに…
「…どうします?この子」
気乗りがしないといった表情で
翳が霜月に言う
「分かりきった事を訊くな
理由はどうあれ、こいつは既に人喰いの『鬼』だ」
霜月はポケットから
赤い色の『勾玉』を取り出しながら言い放った
「そうなんですけどね…可哀想だなぁ」
「『鬼』になったのはこいつの弱さだ
もっと辛い過去が有ったって、人として生き延びてる者も居る」
「…?」
普段は『仕事』にはドライな霜月が
いつになく口数が多い事に
翳は微かな違和感を感じた
まるで
自分に言い聞かせている様に聞こえたのは
気のせいだろうか…
「殺るぞ
茜、『実体化』だ」
『実体化』とは
『コネクター』の役割の最新段階であり
『同化』した『霊魂』を自分から切り離し
目に見える『形』として出現させる事を指す
『霊魂』は物質としての肉体を持たない為
正しくは『実体化』ではない
言わば
霊媒術や魔術に於ける
『召還』等と同じテクニックである
茜の表情が真顔に戻り
「…では、『実体化』に入ります
強い『鬼』ですから、動き始める前に早めに止めを」
と言うと
両手を広げ
円を描く様に動かし始めた
霜月は
赤い『勾玉』を握った右手を
体の前に突き出して念を込める
握った指の隙間から
細長い棒状の光が漏れると
急速にそれは『形』になり
黒い鞘の日本刀になった
翳も同じく
紐で首から下げていた水色の『勾玉』を外し
瞬時に白鞘の日本刀に変えた
刀剣や武具を隠しながら携行する為に
武器その物に特殊な霊力を付加し
通常は別の道具に変化させておく
『擬倶』の術である
茜の前に
『少女』の
今の姿が次第に現れ始めた
それは
大人の身長の倍は有ろうかという大きさだった
人を襲い
喰らう事で
己のイメージが拡大し
肥大化した姿に他ならなかった
「これは…
物理攻撃されると手強いですよ」
言いながら翳は
刀を左の腰に当て
『居合い』の型を取る
霜月は抜刀し
片手持ちのまま刀身をダラリと右下に下げた
『無形』の型である
「せめて、苦しみを感じる間も与えずに消してやる…」
横に居る翳にも聞こえない声で
霜月は呟いた…
「ちょっとぉ!『実体化』させる気よ」
ビルの上を見上げながら舞姫が叫んだ
劍達3人が
この路地で何かを発見したらしいと分かった時に
霜月は
この建物の上からの『横取り』を思い付いたのである
彼等がこちらの『実体化』に気付いたところで
ここまで上がって来る迄に
『仕事』は充分片付けられる
(ゆっくり見物でもしてろ)
霜月は
再度劍達を見下ろした
ところが…
「させるかよっ!」
劍が叫びなら
霜月達の立つビルの
反対側の建物に向かって跳ねたかと思うと
その壁を蹴って斜め上にジャンプし
更に隣の建物の壁をを蹴って
一気に駆け上がったのである
「舞姫!」
跳び上がりながら呼び掛ける劍の声に
舞姫は素速く反応する
カーデガンの内側に両手を差し入れ
次に抜いた時には
各指の間にいくつもの手裏剣が挟まれていた
「当たると痛いわよぉ!」
舞姫は
先に右手の
間髪を入れず左手の手裏剣を
ビルの上にめがけて投げる
それらは真っ直ぐに
霜月と翳に向かって飛んだ
「何!?」
2人はとっさに
刀と体さばきでそれらをかわす
「あの女、この距離で…!」
偶然とは思えなかった
舞姫の投げた手裏剣は
止まっていれば
その全てが2人の体のどこかに当たる正確さで
しかも
致命傷となる急所を
完全に外す様に飛んできたのだ
「ただの『コネクター』じゃないのか…」
「霜月さん!上!」
翳の声に
霜月は上を見上げた
『実体化』してゆく『鬼』の上空
手にナイフを握った劍が
空中に浮いていた
いや
建物等を蹴りながら霜月達の高さ迄駆け上がり
そこから更に
人間離れした跳躍力で上空にジャンプしたのだ
空中の劍は
ナイフを逆手に握り直し
その刃先を眼下の『鬼』に向けた
「出て来い、殺らせてやる」
劍は
自分の『内なる者』に
語りかけた
劍の言葉に呼応し
その『内なる者』がオーラとなって出現した
限りなく黒に近い紫色のそれは
急速に人の形を形成してゆく
ナイフを構えたまま
劍は『鬼』の頭頂部を目掛けて
真っ直ぐに降下して行った
「…!?」
劍の視界に突如として霜月が現れ
刀を横凪ぎに振るった
その斬撃を受け止める劍のナイフと
霜月の刀がぶつかり合う音が
火花が散らんばかりに響き渡る
両者は空中で弾き合う様に離れ
劍は民家の屋根に
霜月は電柱の上にそれぞれ着地した
両者の
常人離れした身体能力の成せる業だった
「邪魔すんじゃねえ、『はぐれ』!」
あの高さでの迎撃を受けた事に驚きながら劍が叫ぶ
「それはこっちのセリフだ」
言い返す霜月の体にも
赤い人の形のオーラが浮き出ていた
「貴様も…?『鬼飼い』か…!」
「一緒にするな
レベルはこちらが上手だ」
「ぬかせ!」
劍は屋根を蹴り
霜月に向かって跳んだ
『鬼飼い』…即ち
『超A級ハンター』同士の
激突だった
『鬼』は
一般的な『悪霊』や『怨霊』の数倍の霊力を持つ
それに人が対抗するには
修行等で体得出来る能力だけでは自ずと限界が有る
通常の霊媒師や除霊師と『ハンター』の違いは
『鬼』と対等に渡り合う為に
鍛え抜かれた自分の霊力に加え
他の『霊魂』の力を利用し
更に刀剣類等の
武具の攻撃力をも付加する所に有る
多くの『ハンター』は
周辺に漂う浮遊霊等を集めてその力を借り
現地調達的に霊力を高める方法を取るが
稀に
特定の『鬼』を自分の中に取り込み
常に融合し続ける事によって
その強大な霊力を
コンスタントに発揮出来る『ハンター』が存在する
それが『鬼飼い』である
但し
意図して『鬼』が手懐けられる物ではなく
『鬼』と融合すれば大半の場合は
『鬼』の霊力に負けて体を乗っ取られるか
肉体を破壊されてしまう事になる
現存する殆どの『鬼飼い』が
自分の意志に関係無く偶発的に『鬼』と融合し
その能力を得たという経緯を持つ
劍も
そんな『鬼飼い』の1人だった…
劍は
霜月にナイフを斬りつけながら
「まだだ、殺るのはこいつじゃない」
と自分の宿す『鬼』に対し宥める様に言った
その劍の攻撃を
後方にジャンプしてかわしながら
霜月も同様に自分の『鬼』を体内に戻した
霜月と劍は互いに
自分のチームが先に『鬼』を仕留める為には
相手方の『鬼飼い』の動きを
まず封じるべきだと考えたのだった
霜月は別の建物の屋上に着地し
劍もそれを追って霜月の数メートル手前に着地した
霜月は姿勢を立て直すと
右手の刀をダラリと下げて
『無形』の型から
ゆっくりと劍との間合いを詰め始めた
(このチビっ…)
劍は
本気で斬り込む構えの霜月に疑念を抱いていた
手にしている刀は明らかに模造刀等ではなく
『鬼』を仕留める為の道具…真剣の筈だ
それを生身の人間に向けるのに
峰打ち狙いの逆刃に持ち換える気配すら無く
また
先刻の空中での打ち込みも
ナイフによる防御が間に合わなければ
胸の下辺りで
胴体が真っ二つになっていたであろう程の勢いだった
(…正気かよ…!)
『ハンター』は
『鬼』となった魂を消す事は許されていても
それが仮に任務遂行の為であったとしても
人を殺める権限は当然無い…
劍の見立て通り
霜月の持つ刀は紛れも無く真剣である
しかし霜月は手加減するつもりも
かと言って
劍を斬り殺すつもりも毛頭無かった
実は霜月の刀には『擬倶』の術以外に
もう1つ
別の呪法が施されていた
その効力により霜月の刀は
絶対に『人が斬れない』のである
その為
渾身の一撃も生身の人に対しては打撃にしかならない
逆手に握ったナイフを正面に構え
防御の姿勢を取る劍に
霜月はジリジリと近付き
打ち込みの射程圏内に入れた
霜月は一気に劍との間合いを詰め
その脇腹を目掛けて『逆袈裟』を一旋した
幼少期から剣術の英才教育を受けている霜月は
齢十七にして
既にその剣技は師範並みの『達人』である
どんなに常人離れした反射神経の持ち主であったとしても
この間合いからの打ち込みをかわす事は絶対に不可能…
「…!?」
霜月の刀が
信じられない事に何の衝撃も無く空を斬った
霜月には
劍が突然消えた様にしか見えなかった
次の瞬間
ほぼ真下から劍の蹴りが飛んで来た
霜月は紙一重でそれをかわし
思わず後方に跳んで距離を取る
(馬鹿な…)
自分にミスは無かった
絶対に避ける事等有り得ない筈の一撃を
劍は目にも止まらぬ速さで屈んでかわし
同時に左足を軸に体を高速で旋回させながら
霜月の顎を狙って回し蹴りを繰り出していたのである
(化け物かっ…)
霜月は心の中で舌打ちをした
しかしそれは
劍にとっても同じ気持ちだった
あの状態からの反撃は
絶対に予測し得ないタイミングであり
しかも先刻劍が放った蹴りは
霜月の目線に対し完全な死角を突きながら
正確にその顎を捕らえていた筈だった
(下に目でも付いてやがんのか…!)
それは
卓越した剣術者故の
『気配』の察知であったかも知れなかった
(一筋縄ではいかない…)
両者は互いに
相手の技量に対する評価を
大幅に上方修正した
その時…
「霜月さぁん!」
翳の叫び声が2人の耳に届いた
「早くしないとヤバいですよぉ!」
翳と茜の前で
『少女』の『鬼』が
その『実体化』した姿を
はっきりと現し始めていた…
『鬼』はその目鼻立ちや
耳元まで裂けた口が識別出来る程に『実体化』が進み
更に大きく見えた
『鬼』になって
霊力の強度が増すと共に
その姿を肥大化させる『霊魂』は少なくないが
これ程の巨大さは珍しい
『人を喰う』
『物を壊す』といった
物理干渉が可能なタイプはただでさえ霊力が強い為
自らの意志で動き始めれば苦戦を強いられるのは必至であり
完全な『実体化』をしてしまう前に
速やかに消すべき相手に違い無かった
その為翳は
劍の足止めに手間取っている霜月に
思わず声を掛けたのだった
『組織』の正規チームとは言え
絶対数自体が希少な『鬼飼い』が
1つのチームに2人居るとは考え難い
その為霜月は
空中の劍が『鬼』のオーラを纏っているのを見た時に
致命傷にならない程度のダメージを与えて
『鬼飼い』の動きを封じた上で
翳と2人で確実に止めを刺そうと考えたのだ
それは劍も同じだった
『鬼飼い』は1チームにせいぜい1人
『もう1人のチビ』は
純由と同じ『一般ハンター』だろうと高をくくっていた
ところが…
「翳、殺れ」
霜月の言葉に
翳が再度『居合い』の型に入ると
その背中から
水色の『鬼』が出現したのである
「何だって!?」
劍と
地上から見上げる純由が同時に叫んだ
たまたま現場で遭遇した『はぐれ』チームの中に
『鬼飼い』が居ただけでも彼等には意外だった
ところが『鬼飼い』が2人も居るというのは
確率的に考えられない事だったのだ
「駄目、動きます!」
茜が叫んだ
通常より明らかに『実体化』が早い
「これ、一撃じゃ難しいですよぉ…
茜さん、下がって!」
翳は
完全に『実体化』した『鬼』に向かって
居合いの型から渾身の打ち込みをかけた…
『少女』は
眠りから目覚める様な感覚の中で
周囲の景色に違和感を覚えた
家の有った場所で
おとなしくママを待っていた筈だったのに
ここは
どこ…?
漠然とした意識で
誰かに無理矢理ここへ『連れて来られた』らしい…
という事だけは理解出来た
そしてそれが
下の方で蠢く『何物か』の仕業だとすぐに分かった
その理解は
『少女』を恐怖させた
ママを待ち続ける事を邪魔する『物』…
そして
その後ろの方から
強い力を持った別の『物』が真っ直ぐに近付くのに気付いて
恐怖心は更に大きくなった
(怖…い…)
その不安な感情はずっと以前に経験した事の有る
傷んだ食べ物をうっかり食べてしまった日の
苦しい記憶を呼び覚ますと同時に
その時の
猛烈な嘔吐感までをも蘇らせる物だった
(怖いっっっっ…)
『少女』は恐怖の余り
胃液と共に逆流する
汚物を吐き出した嘔吐の記憶そのままに
自分に向かって来る『物』に
込み上げてきた胃液を一気に吐きかけた
翳は
『鬼』の口に当たる部分から大量の液体が溢れ出し
それが明らかに自分に向けて降り注ぐのに気付いて
慌ててサイドステップで回避した
液体は
翳が居た場所に雪崩れ落ち
液体が触れたコンクリートの床面は
揮発する音と異臭を伴う煙を上げながら溶け始めた
(洒落になんないなぁ…)
ある程度の物理攻撃は覚悟していたが
この様な『飛び道具』まで有ろうとは…
一撃どころか
こちらが無傷で仕留められるかどうかすら
怪しくなってきた
(霜月さんとの連携が出来れば…)
しかし
それは望むべくも無さそうだった
チィンッ…キンッ…!
翳の耳には
霜月の刀と
劍のナイフがぶつかり合う音が
間断無く聞こえていた…
劍は霜月の動きに警戒しながら
『もう1人のチビ』が
『鬼』への打ち込みに失敗したのを目の端で捉え
その隙に『鬼』への攻撃を加えようと走り出した
霜月はその動きを阻止せんと背後から刀を振り下ろし
劍は上体を捻りながらナイフで弾いて防御する
その激突音が止まない内に
霜月は瞬時に手首を返して『横凪ぎ』を一旋し
再度劍はナイフで受け止める
ならばと霜月は半身を引き
顔を目掛けて『突き』を見舞うが
それも劍はナイフの刃で滑らせ角度を変え
切っ先の直撃を避けると同時に
突進する霜月の鼻を狙って肘打ちを見舞おうとした
霜月は体を捻ってそれを避け
2人の体が擦れ違い
交錯する
この間
3秒
卓越した剣術と
桁違いの身体能力の攻防だった
一方翳は
持ち前の速さで『鬼』を攪乱する戦法に出た
フットワークを駆使して縦横無尽に動き
『鬼』の集中力を殺ぎながら徐々にその距離を縮め
間合いに入った所で伸び上がる様に抜刀した
『鬼』はそれを避けようと動いたが
翳の疾風の如き一旋はその右腕を斬り落とした
『鬼』が
阿鼻叫喚とも言える悲鳴を上げる
霊体を斬る感触は
肉体等の物質を斬る様な重さは無いが
何の抵抗感も無いという訳ではない
『ハンター』が武器を使用する際には
その武器に『霊魂』を纏わせる為
霊体同士が干渉し反発し合う
微かな重さ…ゼリーを潰す様な…を伴う
斬られた『鬼』の腕の断面はその一部が霧散し
形を失っていった
「苦しめたくないんだ
動かないで」
翳は『鬼』に向かって言うと
とどめを刺す為に
再度刀を構えた…
翳が
『鬼』への2度目の打ち込みに入ろうとしたその時
たった今斬り落とした『鬼』の腕が突然跳ね上がり
翳に向かって飛んだ
それは紛れも無く
『跳んだ』ではなく
『飛んだ』のだ
『鬼』本体に神経を集中させていた翳は
完全に不意を突かれた形となり
その巨大な手に刀を持つ右腕を掴まれたまま
後方へ引きずられてしまった
『鬼』の腕は
屋上から階下へ降りる為の
階段へ通ずる建物の壁面に激突し
掴んだ翳の手首ごとコンクリートの壁に深くめり込んだ
「…痛っ…!」
後頭部と背中を強打した痛みと共に
右手首に激痛が走る
恐らく骨に罅位は入っただろう
落とした刀は数メートル前方に転がり
淡い光を発しながら勾玉に形を変え
刀という依り代を失った翳の『鬼』は
翳の体内に戻ってしまった
「茜…さん…逃げてっ…」
翳は茜に言うが
背中に受けたダメージで思う様に声が出せない
(これは…本格的にヤバい…)
茜は『鬼』との距離を取りながら
数軒離れた建物の上で
相変わらず攻防を繰り返す霜月と劍の方を見た
一方
地上から見上げる純由と舞姫からは
角度的に翳の状態は見えなかったが
『鬼』がダメージを負った事と
にもかかわらず次の攻撃が止まってしまった事は分かった
(まさか…殺られちまったのか…?)
『5人目の被害者が出る前に片付ける事』
それが今回の指令の重要事項だった
仮に『ハンター』の1人であったとしても
新たな死者を出す事は
イコール『仕事』の失敗を意味する
白い着物の『コネクター』は大丈夫か…?
霜月と劍の剣戟の音が周囲に響き渡る
「もうっ…劍君ってばチャンバラに夢中だわ
純由君、どうする?」
舞姫に訊かれ
「しゃあねぇな…」
と純由は
ジャンパーの懐に右手を入れた…
懐から抜いた純由の右手には
親指以外の全ての指に
先端近くに重りが付いた
30センチ程の長さの『針』が握られていた
先端の反対側が円形に曲げられている形状で
そこに指を掛けて一度に計4本が保持できる
この『掛け針』が
純由の『仕事』の道具である
「…集まってくれよ…」
純由は左手で印を切り浮遊霊招集の呪文を唱える
『鬼』を飼わない『一般ハンター』である純由は
その場に居る浮遊霊等の霊力を借りなければならない
程なくして
純由の周りに大小幾つかの霊体が漂い始め
右手に突き立てた掛け針に
吸い寄せられる様に集結した
「ちぃっ…こんなもんか」
弱い霊体は基本的に寂しがりが多く
人の集まる場所を好む
無人になって久しいこの街では
集められる数には自ずと限界が有った
「やれんの?」
「知るかっ、効く様に祈ってろ」
純由は頭上の『鬼』に狙いを定め
霊力を纏った掛け針を4本同時に投げた
重りの付いた針は矢の様に『鬼』へ向かい
その後頭部や背中の
人間で言えば急所に当たる位置に全て命中した
『鬼』が体を仰け反らせながら再度悲鳴を上げるのを知って
翳は
相手方のもう1人の『ハンター』
…顔の半分隠れた少年…が
攻撃を仕掛けたのだと分かった
「無謀だなぁ…浮遊霊なんかの力じゃ勝てっこないのに…」
翳の言葉通りに
『鬼』は悶絶しながらも後方を振り返り
眼下に2つの『物』が居る事に気付いて
それらを新たな『敵』だと認識した
その瞬間
『鬼』は先刻迄の敵である翳の事を忘れてしまった為
結果的に
翳は命拾いをする事になったのである…
『鬼』が
その両眼をカッと見開いた様に見えた
次の瞬間
斬られた腕の断面から
血管の束とも
ミミズの群れとも見える無数の触手が生え
純由と舞姫に向かって一気に伸長した
2人はそれらが向かってくる時に
その一本一本の先に
人間と同じ掌と指が付いているのを見た
その無数の触手は純由と舞姫に絡み付き
その体ごと持ち上げた
「…美味し…そう…」
2人の耳に『鬼』の声がはっきりと聞こえ
そして
『鬼』の口がその両端を更にバリバリと裂きながら
大きく開いた
「くっ、喰われる…!」
「やだぁー!美味しくないってばぁ」
2人は懸命にもがくが
触手の力は強く逃れる事は不可能だった
劍は
霜月の足を止める為に
ジャケットの裏に仕込んだ小型の投擲用ナイフを投げ
霜月はそれを刀で払いながら
蹴りを繰り出さんと向かって来る劍に対し
迎撃のカウンターを見舞おうと刀を握り直した
その時…
霜月は急に襲って来た苦しさに足を止め
胸を押さえながら跪いてしまった
(こんな時にっ…)
劍も
相手の異変に気付いて攻撃を止めた
(…?)
自分の胸を押さえながら苦痛に耐える霜月の姿は
明らかに病的な発作に見えた
その状態の相手に攻撃を仕掛けるべきかを劍が躊躇い
2人の間にコンマ何秒かの静止時間が発生した
丁度その時に
『鬼』に捕まった舞姫の悲鳴が聞こえたのである
2人はそれで初めてその方向を見
互いのパートナーの危機を知ったのだった
霜月は
何らかのダメージを受けて身動きの取れない翳を
劍は
今にも『鬼』に喰われそうな純由と舞姫を見て
弾かれる様に同時に駆け出した…
霜月は
ビルの縁を蹴って隣の建物の屋根へ跳び
更に助走を付けて
『鬼』の立つビルの屋上へ一気に移動した
劍は
電柱を足掛かりに跳ねながらビルに近付き
最後に大きくジャンプして
翳が捕まっている建物の上に着地し
『鬼』を見下ろすポジションに立った
『鬼』の数メートル左手に着地した霜月が
刀を振って風切り音を鳴らすと
その肩口に赤い『鬼』のオーラが出現した
劍は
ナイフを順手に持ち直し
「待たせたな
今度こそ、殺らせてやる」
と呟くと
それに呼応して紫色の『鬼』が出現し
ナイフを持つ右手に
オーラを集約させるかの様に移動した
霜月は走り
劍は飛ぶ
『鬼』は
突然出現した2つの強い『気配』に気付き
走って近付く『物』には胃液を吐きかけ
宙を飛ぶ『物』にはそれを掴まんと左手を伸ばした
霜月は
濁流の様に降り注ぐ液体が体に触れようとする瞬間
赤いオーラを纏った刀を気合いもろともに一旋した
液体の流れは
その切っ先の軌跡に沿って真っ二つに割れ
霜月の体の両側に逸れ落ちて床を溶かした
神業の様だが
紛れも無く液体の流れを『斬った』のである
人を殺める事が出来ない代わりに
『鬼』の霊力を纏った霜月の剣には
人体以外に斬れぬ物は一切無かった
再度の助走からジャンプした霜月は
『鬼』の頭部を目掛けて
真っ直ぐに刀を振り下ろした
劍は
『鬼』の上空からオーラを纏った右腕を振り被り
自分に向けて伸ばされる腕を目掛けてナイフを投げた
ナイフは紫色の残像を残しながら
一直線に『鬼』の掌を貫き
その腕にめり込んで行く
劍のナイフが
『鬼』の腕を突き抜けて心臓部分に達するのと
霜月の刀が
『鬼』の頭を真っ二つに割るのとは
全く同時だった
2つの急所に
強大な霊力の乗った攻撃を同時に受けた『少女』の『鬼』は
断末魔の叫び声と共にその体を霧散させていき
翳を掴んでいた右腕も
純由達を捕らえていた触手も
同様に実体を消していった
「マァ…マァ…」
『鬼』が完全に消え去る刹那
そこに居る者全員が
消え入る様に微かな
『少女』の泣き声を聞いた気がした…
劍が
コンクリートの床に刺さったナイフを拾い上げると
紫色のオーラは一旦腕に絡みついた後
吸い込まれる様に劍の体内に戻っていった
クルリとナイフを回してから
ジャケットの中のホルスターに収め
『鬼』が消えた辺りに立つ霜月の方を見た
霜月も
刀を鞘に納刀してから劍の方に顔を向けた
その背後に
茜と
負傷した右手を抑えた翳が立つ
「油断しました…すみません」
翳が申し訳無さそうに霜月に言った
「あー、居た居た!」
階段を使って
純由と舞姫も屋上に上がって来た
2人は劍に駆け寄り
「すまねぇ、マジでヤバかった」
「食べられちゃうかと思ったァ…」
と口々に言った後
やはり霜月ら3人の方を見た
純由と目が合った瞬間
翳はニコリと笑顔になり
「さっきはありがとうございました
あなたが向こうの気を逸らしてくれたお陰で、命拾いしちゃいましたぁ」
とペコリと頭を下げた
純由は
「フンッ」とそっぽを向いてから
「とりあえず、全員無事って訳か…
けどよぉ、同時にとどめ刺しちまって…ギャラとかはどうなるんだ?」
純由が霜月らに対しても聞こえよがしに
少し大きめの声で劍に訊いた
「折半ね」
突然凛とした声がして
両チームの全員が同じ方を振り返った
純由等が先程上がって来た階段の扉の前に
桐生 光流が立っていた
「光流…?
いつから居たんだよ?」
純由の問いに
「最初からよ」
と答えながら光流は霜月と翳を見て
「見事な尾行術だったわね
どこで訓練を受けたのかしら?」
と訊いた
2人とも答えない代わりに
「あーっ、純由君尾けられたわねぇ!」
と舞姫が叫び
純由が
「どーして俺なんだよ?」
と膨れた為
翳は思わず吹き出してしまった
光流は
一番年齢が上に見える茜に近付いた…
「はじめまして
『東日本第7支部』の桐生といいます
…どこかで、お会いした事有ったかしら?」
光流は
茜に名刺を差し出しながら言った
名刺には
『万・怪奇現象研究所(お客様相談室)』と記載されていて
『支部』の表向きの屋号であろうと知れた
「三島 茜と申します
さあ…他人の空似でしょうか?」
茜は
名刺を両手で受け取りながら伏し目がちに答えた
「それにしても驚いたわ
こんな狭い街に、凄腕のご同業が居たなんて
それも見たところ、彼等と同じ学生で、しかも…」
光流は霜月と翳に目線を移し
「…『鬼飼い』が2人も居るなんて」
と言った
茜は名刺を懐にしまいながら
「先程…折半と仰いましたけど…」
と話を変え
「報酬は戴けると、判断させて頂いてよろしいのですね?」
と言葉を継いだ
「ええ、勿論
『ハンター』の報酬規定に従って、お支払いするわ」
光流は劍達3人を見て
「君達の取り分は、既に支払い済みの30のみ
残りの成功報酬30は、こちらの『はぐれ』の皆さんにお支払いする事になるわ
異存は無いわね?」
と言った
(異存だらけだよ)
劍は納得いかなかったが言葉には出さなかった
「よぉ…1つ訊いていいか?」
純由が
不機嫌そうな面持ちで光流に話し掛けた
「今回の依頼人の1人が…『皆天市そのもの』って言ってたよな
そいつぁ、テレビに良く出てる、頭の禿げたオッサンじゃねえのか?」
純由の言葉に
全員が
『少女』の記憶の中の死体遺棄を指示した男を思い出した
光流は
フッ…っと息を吐いてから
「君達が彼女の何を見たかは知らないけど、あれは既に、完全に『鬼』と化していた事は間違いないわ
過去にどんないきさつが有ろうが、依頼人がそれにどう関与していようが…それは『仕事』を完遂した君達が、関知すべき事じゃなくてよ」
と冷たく言い切った
その通り…
光流の言う事は正論だった…
『仕事』の性質上
その任務を果たした直後は
ただでさえ嫌な気分にさせられる事が多いが
この時は特に
関わった両チームの全員が
何らかのやり切れなさを感じていたに違いなかった
純由の筋違いな質問は
全員の気分を代弁した様な物だったが
そんな空気をまるで無視するかの様に
光流はビジネスライクに言葉を続けた
「三島…茜さんでしたね
報酬の支払い方法はどうすればよろしいかしら?」
「そちらのご都合にお任せしますが…
私どもは、故有って『組織』から身を隠している立場ですので…」
「…でしょうね、了解しました
『本部』から直接ではなく、私個人を経由する形でお渡しします
後日、名刺の所にお越し頂くか、連絡頂けるかしら?」
「ご配慮ありがとうございます
そうさせて頂きます
では、私どもはこれで…」
茜は光流に頭を下げ
続いて劍達3人にも会釈をしてから
階下への降り口に向かって歩き出し
霜月と翳もそれに続いた
霜月は踵を返す時に劍の方をチラリと見た
劍も霜月を見ていた
暗い階段を下りて
霜月等3人は黒羽神社への帰路に向かって歩き出した
「それにしても、あの人…霜月さんの打ち込みを全部防いだんですよねぇ
凄いよなぁ」
翳が
傷めた右手首を気にしながら言うと霜月は
「多少すばしっこいだけだ
凄いものか」
と不機嫌そうな声で言った
(ふぅん…)
霜月が
こうしてあからさまに感情を表す事は珍しい
『鬼』のビジョンを見た後も少し変だったけど
今の苛立ちはそれとはまた別な理由なんだろうな…
と翳は思う
ただ自分の剣技が通用しなかった事への悔しさだけとは
思えなかった…
「あの子…何の為に生まれてきたんだろーな…」
霜月等3人が立ち去った後純由が呟いた
幼いが故に
自分の生い立ちの異常さに気付く事も
大人達と
自分自身の犯した罪を理解する事も無いまま
耐え難い空腹感と絶望的な寂しさしか知らず
彼女の魂は
二度と転生の叶わない永遠の死を迎えてしまった
もう
その亡骸に向かって手を合わせてみても
綺麗な花を添えてみても
『少女』の魂が救われる事は
永遠に
無い…
「凶悪な『鬼』による、5人目の犠牲者を出さずに済んだ
それが今回の『仕事』の全てよ
要らない感傷は禁物ね、乾君」
光流の言う通りだ
生きている人間の善悪の判断なんて
この『仕事』には関係が無い…
そう思うから劍は
純由の言葉にも
光流の言葉にも
何も口を挟まなかった
「それにしても、あのオカッパの男の子…
東条君の反応速度に付いて来れるなんて、ただ者じゃないわね」
光流の言葉に
劍は背中を向け
「ただの泥棒猫だ
気に入らねえ」
と吐き捨てる様に言ってから
「『仕事』は終わりだ
引き上げるぜ」
と階段に向かって歩き出した
純由と舞姫は無言のままその後に続いた
3人の背中を見送りながら光流は
「気に入らない…か
同族嫌悪ってやつかな、東條君?」
と独り言の様に呟いた
▼
十数分後
劍は白石家の前に辿り着いた
時間は既に9時近かく
リビングと二階の愛弓の部屋に明かりが有った
劍はジャンプして塀の上に乗る
中庭の小屋の中で寝ていた飼い犬のジョルジュアンヌが
気配に気付いて身を乗り出し
劍の方を見上げる
劍は口元に指を立てて
「シィッ…」
と合図すると
ジョルジュは大人しく小屋に戻っていった
塀の上から再度ジャンプして
自分の部屋のベランダの柵を越える
出た時のまま
窓の鍵は開いていた
劍の部屋に明かりが点いた数分後
入り口のドアがノックされ
愛弓が顔を覗かせた
「あー、劍君
いつの間に帰ってたの?」
「さっき…」
「どこ行ってたの?また純由君ち?」
「うん…まぁ」
「ご飯は?」
「まだ…」
「もうっ…お腹空いたでしょう?
待ってて、おかず温めなおすから…」
「あ、愛弓…」
階段を下りようとする愛弓を劍は呼び止めた
愛弓は
キョトンとして劍を振り返る
劍は
愛弓の澄んだ瞳を見つめて
「いや…何でもないんだ
…その…ありがとう、愛弓」
と言った
「どうしたの?変な劍君」
愛弓は
ニコリと微笑みを見せると階段を駆け下りて行った
『仕事』を終えて
帰った場所に愛弓が居てくれる事が
劍にとっては
何物にも代え難い安堵だった
帰るべき家を劍に与えてくれたのも
誰かを愛し守りたいという
最も人間らしい感情を取り戻させてくれたのも
全て愛弓だった
だから劍は
愛弓の存在その物に感謝の念を抱くのである
「ありがとう」は
劍にとって
「愛してる」より重い言葉だった…
▼
数日後の夕刻
矢吹町駅北側のゴーストタウンの一角には
小さな人だかりが出来ていた
そこは
霜月と劍達がその魂を消した
『少女』の家が有った場所だった
数台のパトカーと
テレビや新聞等のマスコミと
近隣から集まった野次馬が加わり
長く人々から見離されていた筈のその場所は
急に脚光を浴びた様に騒然としていた
その野次馬の中に
制服姿の霜月と
負傷した右腕を包帯で肩から下げた翳の姿が在った
テレビカメラの前でマイクを握った女性レポーターが
声高に喋っているのが2人の耳にも聞こえてきた
「…こちらが問題の現場です
一昨日未明、警察とマスコミ数社に、匿名の通報が入ったのをきっかけに警察が調べた所、住宅跡地の地中から、子供の腐乱死体が発見されました」
「…死体は、同所に母親と居住していた『少女』の物と見られ、警察では昨日の内に母親の身柄を拘束し、殺人と、死体遺棄の疑いで取り調べを続けています」
「…母親は、衰弱した『少女』を放置した事は認めながらも、死体遺棄については否定しており、警察は、工事関係者からも事情を聞く方針です」
「…死因は栄養失調による衰弱死と見られ、死後かなりの日数が経った後に埋められた事が分かっており、住民立ち退き後の、同所への出入り人物についても、捜査を進める方針との事です」
「…また、この場所は、連続猟奇事件の第一発生現場に面しており…」
そこまで聞くと霜月は
人だかりに背を向けて無言のまま歩き出した
「霜月さん…?」
翳が
霜月の背中に向かって話し掛けた
「ン…」
「通報したの…霜月さんですよね?」
「…」
「珍しいですよねぇ…霜月さんがそういう事するの」
霜月は
否定も肯定もしなかった
風が吹き
どこからか
遅咲きの桜の花びらが飛んで来て
霜月の頬に止まり再び飛んで行く…
翳には
その花びらが高く舞った後
空に吸い込まれて
消える様に見えた…
第2話
-完-