声を聞かせて
アスターとヘザーの視点が交互に続いています。
僕には10歳以前の記憶が無い。
お爺様からは両親が目の前で死んだショックで記憶を失ったのだと聞かされた。
飾られた両親の穏やかな笑みを浮かべた姿絵を見ても実際の両親の顔や声も思い出せない。
そして記憶と共に僕は声を失った。
失語症というらしい。
両親がどんな死に様をすれば記憶と声を失う程のショックを受けるのだろうか?
考えてみた所で分からない。
頭の中には常に靄がかかったようにぼんやりとした場所があり、そこを覗こうとすると酷く頭が痛んだ。
勝手に涙が出てのたうち回る程の頭痛。
心が思い出す事を拒絶している証だと医師に告げられた。
「無理に思い出そうとする必要はありません。無理に思い出そうとすればする程心には固い鍵が掛けられてしまいます。思い出すべきタイミングで記憶は蘇る。その位の気持ちで根気よく待ちましょう」
医師はそう言った。
僕は何も記憶を蘇らせたい訳ではない。
記憶はその一端を担っているから思い出せる物ならば思い出そうとしているだけだ。
僕が取り戻したいのは声。
せめて君と言葉を交わせるようになりたいと願っているのだ。
僕には婚約者がいる。
僕は伯爵家の一人息子で行く行くは伯爵家を継ぐ存在であるアスター・マカリスター。
両親が死んだ事で隠居していたお爺様が現在は伯爵家を動かしているが、僕が成人したら正式に継ぐ事が決められている。
そして僕の婚約者は子爵家令嬢のヘザー・ランボルト。
ランボルト家の次女であるヘザーは少々貴族らしからぬ、元気で明るい性格をしている。
声が出ない事も承知の上で僕に同情する訳でもなく「そんなの仕方がない事よ」と笑い飛ばしてくれた。
僕は腫れ物のような扱いをされるばかりだったので、ヘザーのその言葉と態度がすっかり気に入り婚約に漕ぎ着けた。
しかし婚約してみてヘザーがただ元気で明るいだけの子ではないと分かった。
基本的にお人好しと言える程に優しいのだ。
僕の事で泣いている姿を見た事もあった。
「記憶と声を失う程にショックな事があったなんて…どれ程辛かったんだろう…」
自分の為に泣いてくれる他人がいる事が何だかこそばゆくて嬉しかった。
彼女が「アスの声ってどんな感じかな?きっとあれだけ綺麗なんだから、その声もきっと綺麗に違いないわよね?いつか聞けたらいいなぁ」と呟いているのを聞いた時に僕は初めて声を取り戻したいと思った。
その為には自分の記憶と向き合える程に強くならなければならないとも思った。
*
私の婚約者であるアスはとても綺麗な人だ。
女の私から見ても完全に私の方が負けていて、隣に立ち並ぶのが申し訳なく感じる事が多々ある。
アスには幼少期の記憶がなく、声も失う程の辛い経験をされている。
ご両親が目の前で亡くなられたのだとか。
馬車を襲撃されたとも崖から馬車が転落したとも囁かれているが私は詳しくは知らないし、アスにとって記憶を失くしたくなる程辛い物ならば知らなくていいと思っている。
アスには今を、そして未来を見て生きて欲しい。
アスの周りにはアスを気にかけ、慈しみ、愛している人達が溢れている。
過去に囚われず、今ある幸せの中で生きて欲しい。
その中で記憶が蘇り、アスが苦しむのならば傍にいようと思う。
苦しみも誰かと分け合えたらそれは少しでも軽くなれるはずだから。
私がしてあげられる事なんて微々たる物で、もしかしたら何の手助けにも慰めにもならないかもしれない。
だけど手を握り、抱き締めて、寄り添って行く事は出来る。
そしていつか、私がヨボヨボのおばあさんになった時でも構わないから「ヘザー」と名を呼んで欲しい。
きっともうそれだけで私の人生はこの上なく満たされる。
アスはあれだけ美しく繊細な方なのだから、その声もきっと綺麗で澄み渡った物に違いない。
もしもガラガラの声だって構わない。
恋しい人に名を呼ばれる、それは私にとって奇跡のような出来事だと思うのだ。
そんな夢のような幸せを祈りながら、アスの心が穏やかでいられるように願わずにいられない。
私は貴族らしからぬ女だと馬鹿にされる程アスには相応しくない女だ。
そんな私を選んでくれたアスには感謝と共に恋心を募らせて不思議ではない。
アスはいつもふんわりと微笑み、綺麗な指でペンを握りサラサラと美しい文字を書く。
声が出ないから筆談で気持ちを伝えてくれる。
『君が婚約者で良かった』
そう書かれた小さな紙は私の宝物だ。
それが例え本心ではなくても、この一言があれば私は何時だって笑っていられる。
それ程にアスをお慕いしている。
アスに声が戻ったら私なんてお役御免かもしれないが、今共にいられる幸せがあればきっとその先も生きていける気がする。
どうかアスの行く末が幸せな物で満ち溢れますように。
毎晩私はそうお祈りをしてから眠りにつく。
*
この所妙な頭痛が繰り返し起きる。
特に新しく入ってきた厩番の男を見るとズキッと痛みが走る。
その男の事がどうにも気になり調べてみる事にした。
元は侯爵家の厩番をしていたその男は5年前に侯爵家を辞めてから色々な職業を転々としていた。
だがその暮らしぶりはたかが厩番の身では到底出来ないような派手な物で、どうやら定期的に大金をくれる金蔓がいるようだった。
5年前と言えば僕が記憶を失くした10歳の頃だ。
男が働いていた侯爵家と我が家は直接的な関わりも親交も無かったがどうにも気にかかる。
調査対象を侯爵家に広げるにあたり、僕はお爺様に伺いを立てた。
我が家よりも格上の侯爵家を調べるとなれば僕一人の力では無理が生じる。
万が一調べている事が発覚してしまうとお爺様にまで迷惑を掛けてしまう。
僕の話を聞いたお爺様は「お前が調べる必要はない。それは私が調べよう。お前はくれぐれも危険な事はするな」と仰った。
侯爵家の事はお爺様に任せるとして、僕は厩番の男の言動に目を光らせた。
男はイアン・バッシュという名で、元は男爵家の息子であったが素行の悪さから絶縁されていた。
仕事が終わると酒場に行き、酒場で一番高い酒を浴びるように飲み、女を買い帰宅する。
「あの男の家からは毎晩獣のような声がして五月蝿くてたまったもんじゃないよ!」
そう言われる程に毎晩女を連れ込んでいるようだった。
「酔っ払って口を滑らせたんだがな、あいつには高貴なパトロンがいるって話だぜ。俺様には金の成る木があるんだよ!って大声で話してたのを聞いた事がある」
やはり何かしらの金をくれる相手がいる事も間違いがなさそうだった。
だがどれだけ目を光らせていてもその肝心の相手と接触する場を掴めない。
用心深いのか、それとも僕の見落としなのかなかなか尻尾が掴めない。
焦りは禁物だと思いながらも少々焦ってしまう。
こういう時こそ冷静にと自分に言い聞かせる。
こんな時ヘザーの明るい笑顔を思い浮かべると胸の中が温かい物で満たされる。
張り詰めた物が解けていく。
焦る必要は無い。
時間ならまだまだたっぷりあるのだから。
*
突然アスから呼び出された。
『一緒に町に行こう』
いつもとは様相の違う文字を少し不思議に思いながらも、町へのお誘いが嬉しくてきちんとその手紙を確かめなかった事を後程後悔した。
待ち合わせの場所に着くとそこにはアスの家で見掛けた事のある厩番の男性がいて「アスター様にお嬢様をお連れするように頼まれました」と言われてノコノコ着いて行ってしまった。
大通りから一本入った小道には人がおらず、不審に思って厩番の男性に聞こうと思ったら口と鼻をツーンとする刺激臭のする布で塞がれ、暫く抵抗してみたが次第に意識が遠退いて行った。
気が付くと見知らぬ小屋の中で口を塞がれ手足を縛られた状態で転がされていた。
「うー!うぅー!!うーっっ!!」
小さな窓の向こうから人の声が聞こえたので塞がれた口で必死に叫んでみたが全く届かない。
私を連れて来た男も今はいないようでどれだけ騒いでみても誰も来なかった。
『怖い。誰か!アス!助けて!』
心の中で必死に叫んだ。
暫くの間恐怖で震えていたが、何をしても誰も来ない事で少し落ち着きを取り戻す事が出来、周囲を観察してみた。
自分がいる部屋には小さな窓が一つと扉が一つだけあり、あとは部屋の中に乱雑に積まれた木箱や樽があるだけ。
『あ!あの木箱から釘が飛び出てる!』
それを発見し、私は芋虫のように這いながら木箱に近付くと腕のロープを釘に押し当ててガリガリと動かした。
時々腕に痛みが走ったが気にしてはいられない。
いつあの男が戻って来るのか分からないから急がなければいけない。
何度も何度も釘でロープを傷付けていたら腕の拘束が解かれた。
ロープが上手い事切れてくれたのだ。
手首や手のひらには沢山の傷が出来ていたがどうでもよかった。
急いで足のロープを解くと木箱を動かした。
窓は小さいながら私位ならば何とか抜けられる大きさだったので、ガタガタと大きな音が出たが構わず窓枠から窓を外して外に出た。
そこは見知らぬ場所だったが少し離れた辺りからはやはり人の声や馬車の音がしていたので音の方を目指して歩いた。
人通りに出た時はホッとして足から力が抜けそうになった。
でもこんな所で腰を抜かしている訳にはいかないと自分を奮い立たせて足を進めた。
軍服を着た警邏隊の姿を見つけ、彼らに駆け寄って助けを求めた。
私の姿を見た彼らは事態をすぐに把握してくれ、2人がアスと私の家に連絡に行き、残る3人は私が縛られて閉じ込められていた小屋へと向かった。
私は急いで迎えに来たアスに抱き締められ、やっと緊張の糸が解け気を失った。
*
ヘザーが誘拐されたという一報はすぐに届いた。
厩番の男も今朝から姿が見えない。
嫌な予感しかしなかった。
僕は必死にヘザーを探したが見つからなかった。
イアンの家は既にもぬけの殻でその足取りも掴めないでいた。
もしもヘザーの身に何かあったら…。
そう思うと不安と恐怖でおかしくなりそうだった。
そんな時警邏隊の一人からヘザーを保護したと早馬で知らせが届いた。
僕は急いでヘザーの元へ駆け付けた。
あちこちドレスが破れ、手には無数の傷を付けたヘザーが僕を見ると安心したように笑った。
『ヘザー!良かった!』
駆け寄り抱き締めると彼女の体が小さく震えていた。
安心させるようにそっと背中をさすっていると僕の腕の中で彼女は気を失ってしまった。
心配だったがヘザーを医師に任せ、僕は警邏隊達が向かったという小屋へと向かった。
警邏隊の男は茂みの中に身を隠していた。
小屋を覗いて見たが誰もいなかった為に2人が小屋の中に潜み、1人が外で犯人が現れるのを待ち伏せしていた。
僕も茂みに身を隠しイアンが訪れるのを待った。
夕闇が迫る頃、酒を飲んだのか千鳥足のイアンが鼻歌を歌いながら姿を見せた。
小屋の扉を開いた瞬間、イアンは男達に捕まった。
抵抗していたが何分酔っ払っていた為にまともに動けず、呆気なく捕まった。
捕まったイアンは警邏隊の尋問を受けあっさりと白状し始めた。
「ここで全部吐いたら罪は随分と軽くなると思うんだがな?それとも何か?お前は全ての罪を被って死ぬ事を望むのか?」
こう言われて死を恐れたイアンはベラベラと洗いざらい話したらしい。
イアンに指示を出したのはビスチェ侯爵だった。
こそこそと嗅ぎ回っている事に気が付いたビスチェ侯爵が僕に脅しをかける意味でヘザーの誘拐を指示したのだ。
そして両親の死の真相もイアンは白状した。
話を聞いているうちに頭が痛み始め、僕は意識を失った。
記憶が怒涛の勢いで溢れ出したのだ。
10歳のあの日、僕は両親と共にお爺様の家へと向かう途中だった。
すると突然馬車が止まり、御者の男が「車輪が少し壊れました。修理しますので少々中でお待ちください」と声を掛けてきた。
今ならば分かる。
あの声はイアンだ。
「焦る事はない。しっかり直してくれ」
と父は御者に声を掛けた。
母は父の隣で「大丈夫よ、すぐに直るわ」と微笑みながら僕を見ていた。
僕は扉とは反対側の窓から外を眺めていたのだが、突然馬車が走り出し、体が浮くような感覚がし、次の瞬間上下も分からなくなるような衝撃が走った。
母の悲鳴と父の怒声に近い叫び声がしたのを最後に僕は気を失った。
目が覚めた時、僕は全身の痛みに声も上げられずにいた。
目の前には首をおかしな方向に曲げて横たわる母の姿があった。
父はまだ息があり、馬車の扉をこじ開けようと、頭から流れる血もそのままに、青白い顔で格闘していた。
歪んだ扉はなかなか開かず、父の腕からは徐々に力が抜けて行くのが目に見えて分かった。
すると突然扉が開き、男が顔を覗かせた。
御者をしていた男だと分かると父はホッとしたような表情を浮かべたのだが、次の瞬間父の体からは血飛沫が飛んだ。
グラリと倒れた父は僕に覆い被さった。
「アスター…決し…動かず声も、立てるな…お前は、生き、ろ」
小さな声がハッキリと耳に届いた。
その後何度かズブズブと嫌な音が聞こえ、そして音がしなくなった。
僕は父の言い付け通り父の体の下で決して動かず声も上げず耐えた。
その後気を失い、気付いた時にはベッドの上で、頭や手足に包帯を巻かれていた。
そして記憶と声を失っていた。
両親が殺された原因は侯爵の人身売買の情報を掴んでしまったからだった。
我が領土で運営している孤児院から定期的にビスチェ侯爵家へと孤児達が数名ずつ養子に出されている事に気が付いた父がその子供達のその後の暮らしぶりを知りたいと調べた所、侯爵家はおろか他の何処にもその姿が確認出来ず、それを不審に思って更に調べた結果、子供達が他国の貴族に売られている事実を突き止めたのだ。
その事実を突き付け、改心して貰おうと思っていたようだが、侯爵は僕らを殺す事を選択したのだ。
実行役のイアンは口止め料として年に2回十分すぎる程の金を貰う事で暇を出されたが、後暗い事がある場合は呼び出されその手を悪に染めていた。
イアンの証言はすぐに皇帝の耳に入り、皇帝の命により侯爵家に徹底的な調査が入り、程なく侯爵は人身売買の罪で投獄された。
我が国では人身売買は死罪が免れない大罪であり、実行犯はおろかそれに少しでも加担した者は全員死罪となる。
それに加えて侯爵もイアンも僕の両親を殺した指示役と実行犯としての罪も加わり、毒杯を賜るのではなく公開処刑になる事が決定した。
『お父様、お母様…ビスチェとイアンは裁かれました』
心の中で両親に報告した。
ふわりと温かい風が頬を撫で、それがまるで母の手のようで涙が溢れた。
*
アスに記憶が戻ったそうだ。
でも相変わらず声は戻っていない。
記憶が戻って辛い思いをしていないか心配していたのだが、アスの表情は晴れやかだった。
「アス?無理していない?」
そう問いかけるとアスは今までに見たどんな笑顔よりも柔らかい笑顔を見せた。
『僕にはヘザーがいるから大丈夫』
その一文に涙が零れた。
私の涙をアスが細い指で拭いながらアスの口がゆっくりと動いた。
「…ヘ…ザー…」
少しカサついた、それでも耳に心地の良い低音の声が聞こえてアスを見ると、アスは形の良い唇を更に動かした。
「…ヘザー」
「アス…声が…喋られるようになったのね」
とめどなく流れる涙でアスの顔がよく見えない。
「一番、に、君の、な、まえを、呼びたかった、んだ…」
たどたどしいがハッキリと声が聞こえる。
抱き締められてアスの胸の中で沢山泣いた。
「ヘザー…ヘザー…」
耳元でアスの私の名を呼ぶ声が聞こえた。
声を取り戻したアスは程なくして普通に喋れるようになり、そこからこちらが恥ずかしくなるような甘い言葉を沢山口にするようになった。
「僕の愛しいヘザー」
会うと必ず最初にそう言い私を抱き締める。
「昨日のヘザーも可愛かったけど、今日のヘザーはもっと可愛い」
そんな事を言ったかと思えば次には
「赤く染まった頬が食べたくなる程に可愛い」
と甘い言葉を重ね掛けしてくるから私の心臓はドキドキしっぱなしでいつか止まってしまうのではないかとすら思う。
「ヘザーにはずっと僕の隣にいてもらう予定だから、こんな僕にも慣れてもらわなくちゃ」
いつまでも恥ずかしがる私にアスは眩しい笑顔でそう言う。
「僕が成人したら結婚しよう」
「私でいいの?」
「うん、君がいい。君じゃなきゃ駄目だ」
アスの良く通る綺麗な声でそう言われ自分の頬を思わず叩いた。
「夢じゃないよね?」
「アハハ…夢じゃないよ?夢になんてさせない」
「…よろしくお願いします」
「はぁ、今すぐお嫁さんにしたい!」
アスにギュッと抱き締められ、私は幸せすぎて本当に夢じゃないのかと自分の手のひらをそっと抓った。
「ヘザー?本当に夢じゃないからね?愛してるよ」
優しい風が吹き花の香りを運んでくれる。
その風がまるで2人を祝福してくれているように感じて目頭が熱くなった。