Cafe Shelly 優しさって、なに?
「なつ、また外泊してっ。せめてどこにいるかくらい連絡ちょうだいっ」
日曜日の朝、私は大きな声で怒鳴り散らした。相手は高校一年生の娘のなつ。
「うるさいなー。ほっといてよ。別に悪いことはしてないわよ」
私に顔も向けずに二階の自分の部屋へと駆け上がっていく娘。
「ちょっと待ちなさい。まだ話は終わってないわよ」
口では強気で言ったものの、私はそれ以上のことはしなかった。なつは夏休みを過ぎてから素行が悪くなった。あのときにちょっと甘やかしたのがいけなかったんだ。夏休みに入ってすぐ、友達のさやかちゃんのところに泊まりに行きたいとせがまれた。学校では外泊は禁止されている。しかし友達も何人か一緒だし、直に先方のお母さんとも話をして、まぁいいだろうということになり仲良し五人で泊まることになった。
これが間違いの始まり。この日、二十四時間営業のファミレスで遅くまで友達同士で語り合ったらしい。幸いさやかちゃんの家の近くでもあり、さやかちゃんのお母さんがちょっと大目に見てしまった。その後、深夜のファミレス通いが始まった。我が家にも門限がある。けれど、それを平気で破るようになってしまったのだ。母親として頭が痛い。
なつは夏休みの終わりから外泊を二回もやっている。外泊、といっても明け方までファミレスに居座って友達と話し込んでいるだけのようなのだが。しかし年頃の娘である。変な道にひきこまれないかと心配で仕方がない。幸い、新学期が始まってから学校を休んだりということはない。週末になるとこんな感じの生活になってしまうのだ。
「ねぇ、あなたからもなつにちゃんと言ってあげてくださいよ」
今日は土曜なので夫は家にいる。けれど、ゴルフの約束があるということで出かける準備でバタバタしている。
「家庭のことはおまえに任せているだろう。おまえがきちんとしつけないからこうなるんだ」
「あなた、子供のことはいつも私にまかせっぱなしじゃない。お休みの日はゴルフか家でゴロゴロするだけで。少しは家のことも見て下さい」
私は半分切れかかった口調。けれど夫は「うるさい」の一言を残して家を出て行った。気が付けば夫が育児に参加したという記憶はあまりない。一家でどこかへ行くのも子供が小学生の頃まで。中学生になってなつが父親を避け始めてからは、夫から離れていった気がする。さらになつの父親ぎらい、いや私のことも嫌うようになったのは高校進学問題のときだった。
高校を決めようとしたとき、なつは友達が行く私立の高校を希望していた。そこに行けないレベルではなかったが、何かになりたいからそこに行く、という気持ちではなかった。またその高校だと通学時間がかかるため、本人にも負担になると考えた。そのため猛反対。同じレベルで公立高校があるので、半ば強引にそこを受けさせた。地元の高校だから中学の友達の多くはその高校へ進むということもあったからだ。
なつはあきらめ半分でその高校を受験し合格。そして今に至る。だがこのあたりから親の言うことを聞かなくなってきた。ひとりっ子で甘やかしたのがいけなかったのだろうか。いや、甘やかしたとはあまり思っていない。しつけるべきところはしつけてきたつもりだ。他から見れば多少厳しいと思えるところもあった。他の子どもがゲームを欲しがっても、我が家では買ってあげることはなかった。手伝いも小さい頃からやらせ、自分の仕事に責任を持たせたつもりだ。決められたことをやらなかったら、それなりの罰則も与えていた。だが中三の時に受験勉強を控えていたから、そのときから大目に見たところはあるが。そのせいで、今は決められた手伝いをさぼることが多くなった。
「ふぅ、やっぱり甘やかしたのがいけないのかしら。それとも厳しくしすぎたのがいけないのかしら。もう、いったいどうしたらいいのよ」
気がついたら毎日のようにこんな独り言を言っている私がいた。そんなとき、一通のメールが。
「美紀子~、元気してる?今度またどっかでランチしない?」
高校からの同級生の慶子からの誘いのメール。彼女は雑誌の編集の仕事をしている、バリバリのキャリアウーマン。と同時に私と同じ母親でもある。彼女の方が先に子どもを産んでおり、今は高校三年生の娘と中学二年生の息子を持っている。先輩ママとしても頼りになる存在。慶子からは時々こうやってランチの誘いが来る。私はパートで働いてはいるが、週四日で平日に一日休みがあるので、そこに合わせて彼女とランチに行くことがある。私の唯一の息抜きと言ってもいいだろう。そのほとんどはお互いの仕事や家庭のグチの言い合いで終わるのだが。
「うん、行く。来週の火曜日が休みだから、ここはどう?」
早速メールの返信。その返事は速攻で返ってきた。
「じゃぁ、火曜日の十一時にいつものところでね」
いつもならメールはここで終わるのだが、私の指は勝手に次の文章を打っていた。
「ウチの子が無断外泊するようになったの。どうすればいい?」
我が家の恥をさらすような気がして誰にも相談することができなかった。けれどなぜかこのときはこれを聴いてもらいたくて仕方なかった。しばらくして慶子からの返事。
「オーケー、わかった。だったらちょっと連れて行きたいところがあるから。ランチの後にそこに一緒に行こう」
連れて行きたいところとはどこなのだろう? このときはひょっとしたらそういった相談を受ける先生やカウンセラーのところとばかり思っていた。だったら逆に気が重いな。けれど慶子のことだから、変なところには連れて行かないだろう。ちょっとモヤモヤした気持ちを引きずりながら、翌週の火曜日を迎えた。
「おまたせ。今日はイタリアンのお店に行こう」
待ち合わせの時間、ちょっと遅れてきた慶子。これはいつものことである。けれどさすがは雑誌の編集者。毎回掘り出し物のお店を紹介してくれて一緒に食べ歩きをしている。今回のお店も開店してからそんなに経っていないところで、味も雰囲気も私好みだった。ランチの時に子どもの話を切り出そうとしたけれど
「今はお料理を楽しみましょうよ。その話はこの後でね」
と軽くかわされてしまった。
「んー、おいしかった。特にあのパスタは絶品ね。でもデザートの出来はもう一歩ってところかしら」
ランチも終わって、慶子と一緒に街を歩きながらお店の評価。でも私の気持ちはそれどころではない。早く子どもの話を切り出したくてウズウズしていた。
「で、これからどこに連れて行ってくれるの?」
「うふふ、気になる? でもナイショ」
結局慶子のあとをついていくしかなかった。
「あれ、この通りは…」
ふと曲がった路地。目の前にはいつもとはちょっと違った光景が。まず目についたのはカラフルな道路。パステルカラーのタイルが敷き詰められていて、明るさを感じた。さらに道の両端にはブロックで作られた花壇が並んでいる。道幅は車が一台通る程度。そしてその通りにはちょっとおしゃれなつくりのお店が並んでいる。確か前に通ったことがあったはずなのだが、あのときはこんなに心がはずむ通りだったとは気づかなかった。
「ここよ」
慶子が立ち止まったところには喫茶店のメニューが黒板に書かれているものが置いてあった。
「CafeShelly…カフェ・シェリー?」
「そう、カフェ・シェリー。ここに行くわよ」
慶子は軽やかな足取りで階段を駆け上がっていった。
カラン、コロン、カラン
ドアを開けると心地よいカウベルの音。
「いらっしゃいませ」
そして同時に若い女性のかわいらしい声。
「マイちゃん、こんにちは」
「あ、慶子さん、いらっしゃい」
どうやら慶子はこのお店では顔なじみらしい。
「今日は私の友達を連れてきたの。よかったらマスターと話をさせたくて」
「じゃぁカウンターの方がいいですね。こちらへどうぞ」
私たちはマイちゃんと呼ばれた女性に案内されてカウンター席へ。カウンター席は四人掛け。カウンターの隅には色とりどりの二色のボトルが並んでいる。たしかこれ、オーラソーマとかいうやつだ。店内はそれほど広くない。三人掛けの丸テーブルと、窓際には半円に近い木のテーブルとイスが四つ。入り口の近くにはクッキーが置いてある。
「いらっしゃいませ」
そしてカウンターには中年の男性。この人がここのマスターかな。にこやかで人の良さそうな方だ。
「慶子さん、今日はお友達を連れてきてくれたんですね。ありがとうございます。初めまして、この店のマスターをやっています」
声は低くて落ち着きがある。
「マスター、友達の美紀子。私と同じく、悩める母親なのよ。よかったら彼女の話、聴いてあげてくれないかな」
「えぇ、もちろんいいですよ。美紀子さん、でしたね。ご家庭で何かおありなのですか?」
私はちょっとためらっている。いくら慶子の紹介でも、喫茶店のマスターに自分の家のことをペラペラと話す気持ちにはなれない。そんな私の様子を察したのか、慶子がこう言ってくれた。
「美紀子、マスターはね元高校の先生だったんだよ。しかも、スクールカウンセラーの担当でね。ほら、駅の裏に学園高校があるでしょ。あそこの」
「うそっ!?」
私はびっくりした。学園高校は私の姪っ子が行っていたところ。卒業してもうかなり経つが、当時友達との関係でうつになりかけたところを救ってくれたのがそのスクールカウンセラーの先生ということを聞いていた。生徒にも人気だったと聞く。その先生が今私の目の前にいるとは。
「私もね、この前長女のことで相談にのってもらったの。もう高校三年生でしょ。なのに進路が決まらなくて。そしたらマスターからのアドバイスで少しずつだけど進路が見えてきたの。あのときはホントありがとうございました」
「いえいえ、あの程度でお役に立てたのなら」
マスターはなかなか謙虚な人のようだ。照れ笑いしながらも、慶子の言葉で嬉しそうな顔をしている。その様子を見て、私もなんだか安心した。この人なら何でも話ができそうだ。
「あ、そういえばご注文を聞いていなかったですね」
「もちろん、シェリー・ブレンドを二つね」
「かしこまりました」
あれ、私はまだ決めていないのに。
「ねぇ慶子、私まだ何を頼むか決めていないわよ」
「大丈夫。このお店に来たら一度はシェリー・ブレンドを飲まなきゃ。きっと驚くはずよ」
驚くってどういう事だろう。マスターがコーヒーを入れている間、ウェイトレスのマイさんが話しかけてきてくれた。
「お子さんっておいくつなんですか?」
「あ、今高校一年生になります。今、ちょっと反抗期で…」
「わぁ、私にもそういう時期があったなぁ。お母さんになぜだか反抗したくて。それでもお母さんには寄り添っていたくて。確か私は中学三年生の頃だったな」
マイさんはまだまだ若いから、ほんのちょっと昔のことなのだろう。
「そのときって、母親に対してどんな態度をとっていました?」
「そうですねー、あまり口をきかなかった記憶がありますよ。お母さんが何か言ってきても無視したり。今思えばどうしてだろうって感じですけどね」
「その理由って何かありました?」
「特になかった気がするなー」
特に理由がない。本当にそうなのだろうか。私の場合、やはり高校受験が響いていると思う。自分の意志とは違うところに行かされたという思いがあるんじゃないかな。それに甘やかしたことも理由の一つのような気がする。我慢というのをしつけなかったんじゃないかしら。そんなことを考えていたら、目の前にコーヒーが運ばれてきた。
「お待たせしました、シェリー・ブレンドです」
「美紀子、飲んでみてよ」
慶子は笑いながら私にコーヒーを飲むのを勧めてくれた。私は慶子の笑いが不思議ではあったが、とにかくこれを飲んでみた。ゆっくりと口にコーヒーを注ぎ入れる。舌の上にコーヒー独特の苦みが…えっ、何これ? 頭の中に一瞬絵が広がった。そこには笑いながら話しかけてくる娘のなつの姿。さらには夫の姿もそこにある。もちろん夫も笑っている。いわゆる一家団らんの姿。その姿がほんの一瞬の間に浮かんで消えた。
「美紀子、美紀子っ」
慶子の声でふと我に返った。
「美紀子、ね、どんな味がした?」
「え、味?」
そう言われても、味は思い出せない。それよりも一瞬浮かんだあの光景が印象強かった。そのことを正直に慶子やマスターに話をした。すると意外な返事が返ってきた。
「ってことは、慶子はそういう団らんのある家庭を望んでいるんだ」
「え、まぁそうだけど。でもどうしてコーヒーを飲んだらその場面が思い浮かんだのかしら?」
「ふふふ、それがシェリー・ブレンドのすごいところなのよ。ね、マスター」
「えぇ、このシェリー・ブレンドはその人が今欲しいと思っているものの味を引き出してくれるのです。まれに美紀子さんみたいに味ではなく映像として頭に思い浮かぶ方もいるみたいですが」
「このコーヒーが…?」
私はシェリー・ブレンドの入った白いカップをじっと見つめた。
「ということは、やはり今娘さんの反抗期のことでお悩みなんですね」
マスターの言葉にこっくりとうなずいた。
「最近、外泊をするようになって。それに対して叱っても、娘は何食わぬ顔でいるんです。幸い悪いことはしていないみたいですけど。どう対処したらいいのかわからなくて…」
「なるほど、娘さんが外泊ですか。確かにあまりよろしくない事態ですね。一つ質問してもよろしいでしょうか?」
「はい、なんでしょうか?」
「美紀子さんは娘さんにどのように育って欲しいと思っているのですか?」
「どのように、ですか…」
私は一瞬言葉を出すことをためらった。娘をどのように育てたいのか。勉強はもっとできて欲しい。生活もきちんとして欲しい。できれば親ともっと会話をして欲しい。そんなことが頭に渦巻いていた。けれどそれが素直に言葉にできない。
私が黙っていたら、マスターがこう言ってきた。
「美紀子さん、今思っていることをズバリ言い当てましょうか。娘さんにはもっと勉強ができて、もっときちんとした生活をしてもらって、もっとまわりとコミュニケーションを取って欲しい。違いますか?」
「え、どうしてそれが?」
まさかマスターは人の心を読むことができる?
「いえ、簡単なことですよ。私が高校でスクールカウンセラーをしていた頃、相談相手は子どもたちだけでなく親の方も相手にしていましたから。そのときに多くの親が今言った三つのことを口にしていました。だから美紀子さんもそうなのかと思って」
「ってことは、私が今抱えている悩みについても今までいろいろとアドバイスをしてきたっていうことですか?」
「はい。しかし相手に与える言葉はその時によって違いますけど。コミュニケーションは方程式のようにきちんとした答えはありません。人によって異なります。けれど、共通したことというのもあるんですよ」
「共通したもの? それって何ですか」
「一言で言えば、優しさの履き違いかな」
優しさの履き違い。いまいち意味がわからない。キョトンとしている私にマスターが解説を加えようとしたとき、カウベルの音と共に店の扉が開いた。
「マスター、ちーっす」
入ってきたのは今風の若者。ニット帽をかぶり腰パンというのか、ちょっとずり下げたズボンを履いている。
「おぉ、渉くん。ちょうどいいところに来た。彼は渉くんといって、去年高校を卒業したばかりなんだよ。今はコンビニでアルバイトをしているんだったよね」
「えぇ、そうっすけど。なんかオレに用っすか?」
コンビニでアルバイト、つまりは高校を出てフリーターになったということか。いくらマスターの知り合いでも、あまりお近づきになりたいとは思わない。
「今ね、こちらのお二人に優しさの履き違いのことをお話ししようと思っていたんだ。渉くん、あの話をしてもらってもいいかな?」
「あの話ってウチの親のことっすか?」
「そう、去年のあの話だよ」
「まぁいいっすけど」
渉と呼ばれた青年は、三人掛けのところのイスに後ろ向きに座ってこちらを向いている。
「ウチの親、オレに対しての愛情ってやつを間違ってたんっすよ」
「間違ってたって、どういうこと?」
私はそこが知りたくて質問をした。
「ウチ、オレが中学の頃まで結構厳しかったんっすよね。特に勉強が」
「こいつ、こう見えても西校なんですよ」
西校といえばこの辺でもレベルの高い学校だ。なつの学力ではとうてい行けそうにない学校だった。
「あはは、でもオレは高校に行ったら落ちこぼれちゃってね。周りについていけずに、危うく落第するところだったっすよ」
「それで、愛情が間違えてたってどういうこと?」
「その話でしたね。オレ、小学校から中学校にかけての夏休みの宿題って、五教科以外やったことないんすよ。絵とか自由研究とか、すべて親がやってくれたんっすよね」
さすがにこの言葉には目を丸くした。
「ウチの親、とにかく学力アップに集中させようとして、それ以外のことはやらなくていいって。だから夏休みとかは夏期集中講座に行かされてましたね」
「それでどうなったの?」
「いやぁ、そのころは楽でいいと思いましたよ。でもね、そのツケが高校で出たんっすよ」
「ツケって?」
「オレ、勉強以外何もできない人間になっちまって。まずはそこでオチこぼれたんっすよ。周りのヤツら、勉強以外のこともできるんっすよね」
「つまり、渉くんは自分がこうなったのは親のせいだと言いたいの?」
私はちょっと怒ったような口調でそう言った。親ならば子どもに期待をかけるのは当然のこと。勉強を頑張って欲しい。だからそれ以外のことを排除して、できる限りそうなれるような環境をつくってあげる。これが親としての義務ではないだろうか。そう思ったから、私はこの渉くんの言葉が少し許せなかった。だが渉くんは私の口調を受け流すかのように、笑いながらこう言った。
「あはは、オレも最初はそう思ったっすよ。だから思いっきり反抗しましたね。オレの進む道はオレが決めるんだって、暴れ回りましたよ。そして登校拒否。まぁお決まりのコースかな。けれどウチの親はそのときのオレの気持ちなんかわかってくれず、とにかく学校に行けとしか言わないんっすよね」
それはそうだろう。学校に行くのは子どもの勤めではないか。それを自分の感情だけで拒否するなんて。
「でもね、このマスターに出会ってからようやく理解できたんですよ。これが優しさの履き違いだって事が。オレも親も、ほんのちょっとしたズレがあっただけなんですよ。マスターからその話を聞いてそれが理解できたとき、泣いたっすよ、オレ」
一見すると今風の男の子で、泣くなんてことが無いように見える渉くん。しかしその渉くんが泣くとは。マスターは一体どんな話をしたのだろうか?
「ねぇ、マスターは渉くんにどんな話をしたの?」
慶子も同じ気持ちだったようだ。
「えっとっすね、えー、すんません、オレからはうまく説明できないっす」
「じゃぁ私が代わりに」
そう言ってマスターが口を開いてくれた。
「結論から言えば、渉くんの親も渉くんへの愛情がいっぱいだったってことなんですよ。お二人も子どもが赤ちゃんの頃は、とにかく愛情いっぱいに育てていたでしょう。だからこそ泣いたときにはすぐに飛んでいって、おしめを替えたりおっぱいを与えたり。赤ちゃんが望むことを察して、それをやってあげてたはずです」
そう言われて、なつが赤ちゃんの頃を思い出していた。マスターの言われた通り、とにかくなつが望むことを考えてあげて、そしてそれを十分に与えてあげていた。
「そして子どもが小学生になり、中学生になり。子どもの将来のことを思いながら、きっとこの道を歩む方がいいと思い、それを与えてあげていた。それが子どものためだから。今もそう思っているはずです」
この言葉には大きくうなずいた。
「では子どもはどう思っているのでしょうね?」
この一言に一瞬ドキリとした。
「そこなんっすよ。オレ、気がついたら西校に行って、さらにいい大学に行くことしか頭に無かったっすから。将来何になりたいとか、どうしようなんて事考えたことないんっすよね。というか、そんなことを家の中で話したことないんっすよ。だからかな、オレが登校拒否したときにウチの親がやたらと学校に行くことにこだわったのは。親もいい学校に行くことしか頭に無かったんですよね。でもあとでわかったんッスよ」
「何がなの?」
「それがウチの親の精一杯の愛情表現だったって事。いい大学に行くことで、オレの進路の選択肢の幅を広げたかったみたいです。だからオレの先の将来のことまで考えてくれてたんっすよ。マスターからそう言われて、初めて気づきました。そしてつい感激したんっすよ」
なるほど、親の心子知らずというがまさにその例なんだな。渉くんの話はさらに続いた。
「でももうオレも心がボロボロで。そんなときにマイさんがオレの両親を説得してくれたんっす」
「説得ってほどじゃないけどね。渉くんは今心がオーバーヒートを起こしている。だからクールダウンの期間が必要だって」
心がオーバーヒート、そしてクールダウン。そんなこと考えもしなかった。ひょっとしてなつは今、心がオーバーヒートしているのだろうか。でも渉くんみたいに勉強を強要したことはないし。単なる子どものわがままじゃないのかしら。その思いを見透かされたように、マスターが言葉を続けた。
「心のオーバーヒートっていろんな原因があるんですよね。勉強のこと、友達のこと、家庭のこと。しかも思春期の脳って実はまだ完成されていないんですよ。その時期にいろいろな問題が降ってくると、完成されていない機械に高度な処理をやらせるのと同じでうまくできない状態になります。そのもどかしさも手伝って、すべてを放棄したくなるんですよ。しかし大人はそれがわからない。だから優しさを取り間違えてしまうんです」
「優しさを取り間違えるって、どういうことですか?」
「渉くんの例みたいに、親が代わりにそれをやってあげるとか。また『お前の将来のためだから』と言ってそれを強要してしまうとか。本当に必要なのは、今休ませることなんです。かといってほったらかしにしてはいけません。これも優しさの取り間違え。大事なのはケアであって、何もしないことではないんです」
私はここで深く考えてみた。今まで私がなつに対してやってきたのは、本当の優しさだったのだろうか。ひょっとして、なつのためという大義名分の元、自分の思い通りにさせようとしたのではないか。その反動が反抗的な態度となって現れているのでは。その思いにさらに追い打ちをかけるように渉くんの言葉が私に響いた。
「それともう一つ、オレが反抗的な態度を取ったときにオヤジの態度なんっすよ。オフクロに対してお前が悪いとか、ちゃんとしつけないからだ、とか言って。オヤジはオフクロに命令しかしないんっすよね。そんな家庭の雰囲気が居づらくて自分の部屋に引きこもったんっすよ」
これは我が家のことを言われているような気がした。夫はそこまで口では言わないが明らかに態度で出ている。家庭に不満があるとすぐにどこかへ出かけてしまう。なつもそんな家庭にはいたくないだろう。
「でも、オヤジもマスターと話をして心を入れ替えたみたいで、オフクロのことを大事にしてくれてますよ。今じゃ家族でご飯を食べるのが当たり前になってきましたよ」
「渉くんの言うように、まずは家族を作ること。これが大事だと私は思うんですよね」
マスターはそう言ってにこりと笑った。家族を作る。我が家に一番かけているのはこれじゃないか。夫と私、ケンカをしているわけではないが妙にギスギスしているのも確かだ。そんな空気の中でくつろげ、なんて言われても無理な話。だからなつは家を飛び出そうとしているのではないだろうか。私の口からは自然とそのことが出ていた。
「娘さんの気持ちもわかるっすよ。口にしていなくても雰囲気とかわかりますからね。オレもやっぱリビングとかにはいたくなかったっすよ。だから引きこもったんです」
「つまり、まずはいたくなるような家庭をつくるってことが大事なのね」
「あ~、それこの前マスターに言われたばっかだったな」
今までじっと話を聞いていた慶子が突然口を開いた。
「子ども進路が決まらなかったって言ったけど、ホントは決まらなかったんじゃなくて決めてたことを口にしなかっただけなのよ。つまり親と話したくなかったんだ。それをズバリマスターに指摘されてね。だから話しやすい雰囲気を作ることが大事だって。そのためにはまずは夫と仲良くすること。だから思い切ってそうしてみたの。夫にも理解してもらって、恋人気分でベタベタしてね。そしたら効果てきめん! びっくりするくらい変わったわよ」
「変わったって、どんなふうに?」
「あのね、最初はうちの子もそんなのやめてよーとか言ってたんだけど。今じゃハイハイって適当にあしらうようになったわ」
「それじゃ逆効果じゃないの?」
「それが違うのよ。半分あきれ顔だけど、笑いながら話してくるの。そしてね、私や夫にいろいろと聞いてくるようになったの。だんだんと、たわいもないことで話しかけてくるようになって。今じゃ、たまには口を閉じてよってくらいよくしゃべるわよ」
今の私からみれば夢のような世界だ。
「あ、それわかるっすよ。オレも今じゃオフクロやオヤジにいろいろと話かけてますからね。前よりもしゃべりやすい雰囲気はありますよ」
なるほど、当事者が言うのだから間違いない。
「ってことは、我が家もそうすればなつは話しかけてくれるようになるのかしら」
「まずは旦那さんに話してみてよ。ね、そうしよ」
慶子に言われてみたものの、正直自信がない。うちの夫は子育てには我関せずだから。その表情を読みとったのか、マスターからこんな提案が。
「じゃぁ美紀子さんの旦那さんを一度ここに連れてきてくださいよ。私がうまく話をしてみますよ」
「え、ホントですか」
私の顔はパッと明るくなった。マスターの力を借りられるなんて、とてもありがたい。
「美紀子、もう冷めちゃってるけどシェリー・ブレンド飲んでごらんよ」
慶子の言うとおり、シェリー・ブレンドを一口。すると先ほどとは違う感覚を覚えた。
「あれ、今度はなんだろう。飲んだときに光が見えてきた感じ。なんていうのかな…希望が湧いてきた感じがする」
「それがシェリー・ブレンドの魔法なのよ。さ、その勢いでまずは旦那さんをカフェ・シェリーに連れてこよう!」
その手段として、おもしろいコーヒーがあるから今度一緒に行こう、と誘ってみることになった。夫はそこまでコーヒー好きではないが、こういったおもしろそうな話には割と乗ってくるタイプだ。
この後、さらに渉くんの体験談で盛り上がったカフェ・シェリー。なんだか家に帰るのが楽しみになってきた。
そしてその日の夜。なつはあいかわらず学校から帰ってきてすぐに自分の部屋へ。夫はこの日も遅くに帰宅。夫の食事の準備をしながら、早速シェリー・ブレンドの話題にふれてみた。
「そんなコーヒーがあるのか? まさかね」
「まずは飲んでみてよ。こういうのは体験しないとわからないものよ」
この誘いにまんまと乗ってくれた夫。計画通りだわ。結局、今度の日曜日に一緒にカフェ・シェリーへ行くことになった。なつはどうせ友達のところに行くのはわかっている。ここでとやかく言っても仕方ない。
そうして日曜日がやってきた。
「ほう、こんな通りがあったんだね」
改めて感心する夫。
「ここの二階よ」
私はちょっと駆け足で階段を上がる。夫は仕事の疲れもあるのか、ゆっくりとあがってくる。
カラン、コロン、カラン
「いらっしゃいませ」
カウベルの音とともにマイさんの気持ちのいい声。日曜日の午後ということもあってか、店の中は思ったより人が多い。幸い、カウンターの二席だけが空いていた。
「マスター、マイさん、こんにちは。今日は夫を連れてきたの」
当の夫はやっと入り口にたどり着いていた。私はマスターにちょっと目配せ。マスターも理解したようで軽くうなづいた。
「マイさん、シェリー・ブレンドを二つおねがいします」
「かしこまりました」
さぁて、ここからマスターはどうやって夫に話をしてくれるのだろうか。そう思った矢先、マイさんが手招き。そしてそっとささやいた。
「マスターがね、男同士の方が話がしやすいからって。美紀子さんは私からクッキーの作り方を習うってことで席を外してくれませんか」
私はマイさんの言うとおり、クッキーの作り方を習うということにして席を外した。注文したシェリー・ブレンドは夫とは別々に飲むことになったが。後で感想を聞くことにしよう。
マイさんとの会話はとても楽しかった。クッキー作りもちょっとしたテクニックを教えてくれて、これなら我が家でもできるなと感心。今度つくってみよう。マイさんと会話しながらも夫の方が気になる。たまにちらっとのぞき見すると、マスターと笑顔で話をしている。普段家ではなかなか口を開かない夫なのに。よほどマスターの会話術がいいのだろう。
そうして二時間ほど経っただろうか。クッキーもたくさんできて、店中に甘い香りが広がっている。おかげでお客さんが何人かすぐにこのクッキーを買ってくれた。私が手伝ったものがこうやって売れていくのはうれしいものだ。
「じゃ、そろそろ帰りますね。
マスター、今日はいろいろとありがとうございました」
夫は上機嫌。私も一緒に店を出ようと会計を済ませようとしたとき、マスターからそっと耳打ちされた。
「最後の一手は美紀子さんにお任せしますからね」
え、それどういう意味? そこを聞こうとしたが、夫がいくぞと催促。肝心なところを聞きそびれた。
「でな、マスターってとてもよくオレの話を聞いてくれるんだよ。特に部下のことで悩んでいたことがすっきりしたよ。やっぱり課内の雰囲気作りってのが大事なんだな。最近オレも部下にガミガミ怒りすぎてたところがあってね…」
カフェ・シェリーからの帰り道、夫は今までにない姿を私に見せた。とにかくしゃべることしゃべること。家ではあれだけ無口だったのに。けれどようやくわかった。今まで夫が無口だったのは、会社で起きていることを家庭内に持ち込まないようにしていたからだ。おそらく口を開けば部下への愚痴になってしまう。しかしマスターと話をしたことで、それがすっきりしたのだろう。そして驚いたことに、夫の口からは雰囲気作りをしなければという言葉が頻繁に出てきたところだ。
このとき気づいた。マスターの一言。最後の一手は私に任せるという言葉だ。夫は今、会社のことを話しているが、これをそのまま家庭の話に切り替えるようにすればいい。そうするのは私の役目、そう言いたかったのだろう。
「ねぇあなた、会社での雰囲気作りって具体的にどうやるつもりなの?」
「そうだなぁ。まずはあいさつからだな」
夫は家の中ではちゃんとあいさつをしていない。
「それと、ちゃんと部下の話を聞いてやらなきゃいかん。あいつらの意志も尊重しないとな」
夫は今まで家の中でも命令口調が多かった。有無を言わさず自分の思い通りに事を進めようとする癖がある。
「そしてオレが何でもやってしまうというのも直さないとな」
これも夫の悪い癖。そういえばナツが小学生の頃、夏休みの宿題の工作がうまくできないからといって夫が途中から全部完成させてしまったことがある。あれはどう見ても子どもの作品じゃなかったな。
「あなた、それとてもいいことよね。だったらそれを家庭でもやってみない?」
思い切って家庭のことに振ってみた。いつもの夫ならここで怒り出すか無視してどこかへ消えてしまうところ。だが今回は違った。
「そうだな。マスターからもちょっとだけ言われたよ。元高校教師だからということでマスターにナツのことを相談したんだけど。優しさをはき違えているってね。オレなりにナツをしつけてきたつもりだったけれど、やり方が間違っていたんだよな。でもどうすればいいのか、その答えは教えてくれなかったなぁ」
「今言ったことをすればいいのよ。そして家庭内の雰囲気をもっと明るくするの。ナツは家庭での居場所がないのよ」
夫は少し考え込んでいた。
「う~ん、具体的にどうすればいいんだよ。あいさつとかはわかるけれど。話を聞くにしても、今はなつは何も話しかけてこないだろう」
チャンス。ここで私は慶子がとった方法を伝えてみた。そう、夫婦ベタベタ作戦だ。
「えぇっ、そんなことでうまくいくのかよ」
「ものは試しよ。それに私からもぜひお願い。昔に戻って、もっとあなたと仲良くしたいの」
私自身びっくりした。最後の言葉は口から先に出てしまったものだ。けれど、それが本音なんだなと改めて感じた。
早速この日から作戦実行。夫にはなるべくリビングにいてもらうようにして、私がそこに寄り添う。まずは夫婦の会話から。最初はちょっとぎこちなかったが、今日のカフェ・シェリーでの話をはじめるとそこで盛り上がった。
がちゃり
玄関のドアが開く音。どうやらなつが帰ってきたようだ。ただいまの声もない。いつもなら「ただいま、は?」と強制するところだが、今日はそれはなし。
「あら、なつ、お帰り。あ、おいしいクッキーあるけど食べる? お母さんがプロから教えてもらって作ったものなのよ」
「いらない」
その一言で立ち去ろうとするなつ。だが夫は笑顔で私に向けて会話を続ける。そのときであった。黙って自分の部屋に行こうとしたなつが、くるっと向きを変えた。
「やっぱり一枚もらおうっと」
そう言ってテーブルの上に置いてあったクッキーを一枚手に取り、パクリと口に入れた。そのまま立ち去るのかと思いきや
「ん、おいしいっ。これ、お母さんがつくったの?」
目を丸くしてそう尋ねてきた。
「もう一枚もらうね」
今度はにこりとした表情で、もう一枚のクッキーを手にとって部屋へと去っていった。
「あなたっ」
私は夫の肩にすがりより、思わず涙を浮かべた。夫は何も言わずにぎゅっと抱きしめてくれた。なつが、あれだけ私たちに反抗的な態度をとっていたなつが。一瞬だったけれど昔の笑顔で私たちの前に現れてくれた。たったそれだけだったけれど、今の私にとってはとてつもなくうれしいこと。周りから見れば大したことではないだろうが、今の私にとってはとてつもなく大きな出来事なのだ。
「美紀子、よかったな」
夫も私の気持ちをわかってくれたようだ。この日の夕食、久々に家族三人が同じ時間に顔を合わせた。以前なら気まずい雰囲気が漂っていたのだが、今日はなぜだかいい感じ。特に会話はなかったが、なつもテレビを見ながらにこにこしていた。
そして翌週、私はパートが休みの日をねらってカフェ・シェリーへと足を運んだ。もちろん、なつの変化を報告に行くためだ。
「こんにちは」
「あ、美紀子さんいらっしゃい。今日はお一人なんですか?」
「あ、マイさん。先日はクッキーありがとうございました。おかげでね、なつに変化が見られたのよ」
お店は数名の客がいたが、幸いにもカウンター席が空いていたのでそこに陣取った。
「美紀子さんいらっしゃい。娘さんに変化があったんですか?」
「えぇ、これもマスターとマイさんのおかげよ」
私はそこから日曜日に起きたことを話した。夫と店を出てからの会話、家で行ったこと、そしてなつの態度。あとから気がついたのだが、マスターもマイさんも自分の仕事をしながらきちんと私の話を聞いてくれていた。本当は忙しくてそれどころじゃなかっただろうけれど。
「よかったですね」
「えぇ、まだ始まったばかりだけど、これから少しずつなつの気持ちをくんであげられるようにしようと思っているの。また悩んだときにはここに来てもいいかしら?」
「えぇ、遠慮なく。ぜひコーヒーも楽しんでくださいね」
「あ、ごめんなさい。まだ注文してなかったわね」
私は思わず赤面してしまった。そうして注文したのはもちろんシェリー・ブレンド。
「はい、美紀子さん、どうぞ」
「わぁ、ありがとう」
マイさんの特性クッキー付きで運ばれてきたシェリー・ブレンド。これを飲む前に、あらためてマスターとマイさんにお礼を言った。
「今回、私は子どもに対しての態度を見直すことができました。今までなつのためにって思っていたこと。これが実はそうじゃなかったってことがわかったの。子どもが帰りたくなる家。それをつくることが親の役目なんだって気づきました。本当にありがとうございます」
「いえいえ、美紀子さんが本当にやりたかったことに気づいた。ただそれだけのことですよ。さ、冷めないウチに召し上がれ」
「はい、いただきます」
マスターの言葉には本当に勇気づけられる。二人が見守る中、私はシェリー・ブレンドに口を付けた。そして目を閉じ、その味わいを心から楽しんだ。
「お味はいかがですか?」
「はい、なんだか明るい光が差し込むような感じがします。柔らかで居心地のいい、未来の我が家を見ているような。そんな感じ」
よし、未来は見えた。そんな家庭になることを目指して楽しくやるぞ!
私の子育ての第二章の始まり。それを感じた午後の出来事だった。
<優しさって、なに? 完>