3.聖女は領地に降り立つ
婚約破棄の翌日。
転移魔法を使い、私は自分の領地に早くも降り立っていた。
「よっと……到着っ!」
転移の魔法陣から姿を現して初めに気が付いたのは、潮の香りだ。
静かな林道にいるのだが海が近いらしい。ごくわずかに潮騒も聞こえてくる。
「うーん、アステリアには海がなかったからなぁ……数年振りの海だ!」
身体をぐーっと伸ばしながら、私はひとりごちる。
ここまで素早くアステリアを出ることができたのは、フォルトのおかげであった。確かに彼の手際には文句の一つもない――むしろ、良すぎるくらいだった。
婚約指輪を投げたことも、王子を吹っ飛ばしたことも、全部お咎めはなし。
即座に出国したいという私の希望も叶えられた。
一体、どういう風に言ったんだろ……? 聞いても教えてくれなかったし
フォルトはニーアの要望を微笑みながら聞き、実行してくれた。
そして大した私物もなかったし、勢い任せに転移魔法でここに来たのだ。
「後でちゃんとお礼をしなくちゃ……」
そのフォルトも今、魔法陣を通って私の隣に現れた。目を丸くしてニーアを見つめている。
「普通の魔術師なら到底不可能ですが、さすがは聖女様ですね。こうも長距離で転移魔法を使われるとは……」
「えーと……やっぱり転移って難しいんでしょうか」
「転移魔法は距離に応じて魔力消費が大きくなりますので。他の魔術師ですと魔力が全然足りないでしょうね」
「そうよー、ニーア以外がやったら倒れちゃうわ!」
後ろからがばっと抱き着いてきたのは、アステリア王国の宮廷魔術師長だったシエラ・マーティンである。
金髪の淑女であるシエラは十年以上付き合いのある親友だ。
いくつもの戦場を共に駆け回り、宮殿でも唯一の味方であった。
シエラにだけは出国を伝えたところ、きっぱりその場でついてくる! と彼女は即断したのだ。奔放で豪快な彼女らしいと言えば彼女らしいのだが。
「……本当に良かったの、シエラ。私について来て」
「気にしないでよ。ちょうど良い機会だったし――そろそろ一緒に脱出しようか誘おうと思っていたところだったんだから」
シエラは尖った耳をぴくぴくと動かす。シエラはアステリア王国でも由緒ある侯爵家の令嬢である――庶子でありハーフエルフであることを別にすれば。
シエラは詳しく話してくれないが、アステリア王国では決して良くは思われない出自だ。
様々な人種をまとめているエンブレイス帝国と違い、アステリア王国では人間至上主義の風潮が強い。
シエラも相当の風当たりを受けてきたのだ。
「でも――今のニーアは目が断然、いきいきとしてるわ。肌もつやつやだし。あなたの方こそ、未練はないのね?」
「うん、あんな王子や貴族とはもう付き合いたくない」
「良く言ったわ。そうよ、ずっと我慢させられてきたんだもの。もう良い様に使われる必要なんてないんだから」
シエラが離れると、フォルトが道の先に歩いていく。
転移魔法を使うときは事故を防ぐため、街や村から少し離れた所に出るようにする。とはいえそれほど離れてはいないはずだった。現在位置から街まではすぐに着く。
「この林を少し行けば、目的の街はすぐでしょう」
荷物も魔法具によって圧縮できていた。大したものはなかったので、ほんの数時間で終わったが。
ニーアは右手にある琥珀色の指輪を眺めた。装備者の魔力に応じて亜空間を展開する魔法具だ。
(早い話がアイテムボックスよねー……これも私が作ったんだっけ)
魔法道具についても私は世界中に知られていると思う。古代文明から見つけた魔法具を解析して、改良品を作る技術は世界一とも言われたことがある。
「ヴァレンストの住人は皆、心より聖女様の帰還を喜ぶでしょう」
「その名前なんですが……うう、なんだか恥ずかしい……」
「いいじゃない、ニーア・ヴァレンの領地だからヴァレンスト。他の人の名前を付けるわけにはいかないんだし」
「それはそうなんだけど、ねぇ……?」
ジョージ・ワシントンの名前からワシントンDCが決められたように。
地名に偉人の名前が付けられることはある。その辺りはあまり変わらないらしい。
「そろそろ到着しますよ、聖女様。どうかお気に召すとよろしいのですが……!」
「テンション高いですね。まぁ、私もすごく楽しみですけれど!」
なにせ今から思えば軟禁に近い状態だったのだ。
あまり平民の娘に好き勝手させたくない貴族達のしわざだが、息が詰まるほど窮屈であった。
食べる物も決められず、旅行もできず。晩餐会のような晴れ舞台にもめったに呼ばれなかった。
そこから一気に解放された!
心を弾ませながら、浮かれてしまうのも仕方ない。
◇
フォルトを追い越してニーアが林道を駆け出す――その背を見ながら、シエラがぽつりと呟いた。
「……アステリア王国はどうなっちゃうのかなぁ。まー、もうあんまり関係はないんだけど」
「ふむ……とても大変なことになるでしょうね」
「そのあたり、詳しく聞かせてもらえないかしら?」
小さくシエラにだけ聞こえるように、すまし顔のフォルトが応じる。
「聖女様とシエラ導師がいなくなれば、戦力的にも魔法具関係の独占でもアステリア王国の優位はなくなります。なにせ輸出の大半が聖女様とシエラ導師が作られた魔法具とポーション類のはず。他国が何もしなくても報いを受けるでしょうね」
「私も同じ見解だけど――どこかの国には、おいしい話よね」
「否定はしませんが、しかしこれだけは信じて頂きたい。結果的に帝国の利になろうとも、私は聖女様を第一に考えておりますゆえ」
凛とした気配と言葉は疑いを寄せ付けない。
目を細めたフォルトに、シエラがにこっと笑いかける。
まるで今のはちょっとした悪戯とでも言うように。
「ま、ニーアはあなたを信じているみたいだし! 彼女が大事なのは私も同じよ。それなら、仲良くできそうね!」
♢
ヴァレンストのメイン通り。
白く整えられた道の両側には、赤レンガの建物が並んでいる。
人通りは少ないが、街並みには機能的で清潔感がある。
私は横浜の赤レンガ倉庫みたいだと思った。
「ずいぶん綺麗な街ですね。アステリア王国の首都より洗練されている気がします」
「ほとんど何も残っていなかったので、思い切ってお金を使って整備しました。もちろん、住民の情熱があってのものですが」
三人は今、メイン通りに面しているテラスにいる。
ばたばたしていたのもあり、ニーアはかなりの空腹を感じていた。
屋敷に滞在の用意をさせている間に昼食を食べようということになったのだ。
「とてもいい雰囲気の街ですね」
「身に余る光栄です」
ヴァレンストの側には海がある。やはり食べ物は海産物がメインらしい。
シエラも海は久しぶりなのでうきうきしている。
「この辺りだとマグロとか? あれ、おいしいのよねー」
「ええ、今切らせていますが……」
「…………ごくり」
内心でニーアは踊り出したい気分だった。
ああ、マグロ! もう五年くらいは食べていない。食べたい。お腹いっぱい。
アステリアでは新鮮な魚介類はめったに食べられなかったのだ。
「でも……なぁ……」
「どうしたのよ、ニーア? 魚は大好きだったでしょう」
「そう……。うーんと、ちょっと物足りないなぁって」
ニーアの記憶では、この世界のどこにも「米」がないのだ。
日本人であると重大な問題である。もちろん寿司もあり得ない。
そうではなくても、魚とセットでご飯が食べたい気分なのである。
「何が足りないのでしょう? 出来る限り用意いたしますよ」
「うーん……こう、白い食べ物なんですけど。深いお皿に、小さな粒が山盛りに……」
何と説明していいものか迷って、ニーアはお椀にお米が盛ってあるのを精一杯イメージできるように手を動かした。
こんもり、温かいお米を考えながら。
……いつか、おいしい白米をたくさん食べたいなと思いながら。