1.聖女は激怒する
「……今、なんと仰いましたか? 婚約を破棄したい、と?」
私――ニーア・ヴァレンはめまいがした。心臓が嫌な音を立てて、鼓動が早くなる。
アステリア王国の宮殿の奥。
私を呼び出したのは、婚約者のマーレ第一王子。
そこそこ格好良いのは認めるが、あまり気乗りのしない結婚相手だった。
孤児だった私にはとんでもない力があった――聖女、魔獣を払う神の使いとしての力だ。
でも実際はアステリア王国にこき使われていたと言ってもいい。戦場で長い間暮らしていた私にとって、お坊っちゃんのマーレは子どもっぽい婚約者に過ぎなかった。
とはいえ他ならないアステリア国王の懇願もあって、この婚約を受け入れたのは事実だ。
渋々とはいえ、私がアステリア王国の平民出身であることを考えれば、王子との婚約は十分な夢物語だったろう。
……さきほどまでは。
そんな都合のよいことなど、やはりなかったのだ。
「まぁ、そういうことだな。やはり平民出を第一王妃にするのは反対が多い。まずは、このセレス公爵令嬢との結婚をとり行う。安心してくれ、そなたとの結婚はちゃんと後でとり行うから」
その説明で納得できる人間がいると思って?
いるわけないでしょうが、馬鹿ですか。
別の人間と先に挙式してから結婚してあげるよ、なんて。だんだんと怒りが高まってくるのを感じる。
こめかみを押さえる私には気にも留めず、マーレの隣にいた金髪の令嬢がしずしずと頭を下げてくる。その美しさはまず、宮殿で見かける女性の中でも抜きん出ている。年齢は二十には届いてないくらいか。
私は今年、二十七歳になる。心がささくれだつのを自覚しないわけにはいかなかった。世間的にはとっくに子供がいる年齢なのだ。
二十三歳になるマーレとセレスは、傍目にはきっとお似合いだろう。
「殿下は私と結婚したくないのですか? そうであれば、身を引きますが」
普段よりも数段低い声で応じる。
国を盛り立てるためにマーレと結婚してくれ。一年前のゼルアーノ国王の台詞が脳裏に浮かぶ。最もゼルアーノはその後、病で倒れてしまったのだが。
以来、ゼルアーノは政治の表舞台には出てきていない。
私への風当たりが急速に強くなったのも、ゼルアーノがいなくなったからだ。
マーレはなんでもないかのように軽く肩をすくめて、
「そうは言っておらぬ。何人かの大臣からそなたの年齢が心配だと言われてな。父君が強く推すから婚約したのではあるが――ええと、そなたは今年で二十九歳だったか?」
「二十七です、殿下」
「まぁ……そう違いはございませんわ」
セレスがくすくすと微笑み、マーレもそれを咎めることはなかった。
言うに事欠いてその言い草か。いよいよ怒りでどうにかなってしまいそうだった。それとともに魔力も高まり、溢れ出しそうになる。
この年齢まで結婚できなかったのは、聖女の仕事が忙しすぎたからだ。瘴気の浄化だの魔獣討伐だので、やっと落ち着いたのがここ最近のこと。
気が付けば二十七歳になっていたのは、不可抗力だ。好きでそうなったんじゃない。
聖女としての功績があってマーレの婚約者になった……けど、本当に結婚なんてどうでも良かった。
どこか田舎に引っ込んで隠居生活でも構わなかったのだ。
むしろそうすべきだったのかもしれないと、私はいまさらに思った。
宮廷でも成り上がり者と陰口を叩かれ、軽んじられている。
満足に出歩くこともできず、飼い殺し状態だ。
……籠の鳥とは、まさに私のこと。
私は自嘲した。運命の愛ではなくても、それなりに誠実な結婚生活くらいは出来ると思ったのだけれど。
少なくても愛し合える素振りくらいは……。
しかし、マーレは婚約者の年齢さえも覚えていないのだ。父である国王から押し付けられたとしか思っていない。
……無理。
こんな人生がずっとずっと続くだろうかと思うと、怒りが増してくる。何のために生きてきたのだろうか、頑張っていたのだろうか。
元々、貴族的なやり取りは私には不向きだ。魔獣討伐の折、歴戦の騎士から「暴走聖女」「最前線聖女」と呼ばれたほど。
正直、周囲からは「王妃や貴族なんて大丈夫?」と心配されたりもしたのだが。
あまり気にもしなかったのを私は大いに悔やんでいた。
そしてマーレはセレスの腰に手を回すと、やれやれと言わんばかりに、
「全く、不機嫌そうにするな。これは大臣からの要望でもあるのだ――それに悪い話ばかりじゃないぞ。セレスの実家が金を出してくれるから、そなたとの式は盛大なモノになる予定だ! どうだ、嬉しいだろう?」
「結構です!」
ふざけるな、ツッコミ所が多すぎるわ!
私はついにぶち切れた。髪の毛が逆立ち、今にも魔力が暴発しかけているのがわかる。
マーレとセレスがぎょっとして後ずさりする。聖女の魔力は桁外れだ。もし暴発すればどれほどの被害になるか。
少なくても二人は大怪我するだろう。それがわからないほどマーレも馬鹿じゃない。
「待て、何をそんなに怒っているのだ……?」
おそるおそると言った感じでマーレが言ってくる。
ああ――この瞬間になっても、私が何に怒っているのかわからないのだ。
もういい!
目の前の二人とは決して分かりあえない。
「セレスが何か無礼をしたのなら、私が代わりに謝ろう。だから、とにかく落ち着け。魔力を抑えて、力を抜くんだ」
……もう、うんざり。
左手の婚約指輪を外した私は、それを右手できつく握り締める。
魔力が炸裂しかけ、婚約指輪と右腕が熱くなる。
それは抑えきれない怒りが凝縮されていくような――そんな感覚だった。
何に怒っているか理解できなくても、私の力が恐ろしいのだろう。マーレの顔色が目に見えて青くなっていくのがなんだか面白い。
「おい、冗談だろう? 謝るから、心から謝るから……魔力を集中させるのをやめるんだ」
あまりに薄っぺらい謝罪。
もう聞きたくない!
この婚約指輪を投げ返してやりたい!
衝動と血と魔力が体を駆け巡る。怒りのままに私は思いっ切り右腕を振りかぶり、婚約指輪を床に叩きつける。
魔力を込めて――それは光と爆発を巻き起こした。
……あ、やってしまった。
まぁいいか。
「ごふっぁ!!」
マーレとセレなんとかが吹っ飛ぶのを見ながら、私はすっきりとした。
直撃はしていない。魔力に当てられた程度なので、大ケガはしてないだろう。
うん、ぴくぴく動いているし、大丈夫。
「こんな結婚なんて、こちらから願い下げです!」
そこまで言い切って、なんだか体に力が入らないのを自覚する。
ありったけの魔力を放ったせいだ。何度も経験している。
魔力喪失――体内の魔力が底をつくと陥る状態だ。頭痛、吐き気、気絶……命に別状はないが、不調に見舞われる。
私はたまらずそのまま、ぱたりと床に倒れる。
そのまま意識が暗転していくのを感じるのだけれど――なんだろう?
日本……? んん……?
私は不思議に思った。
脳裏に浮かんでは流れ込んでくる、この大量の記憶と風景はなんだろう?
あれ、この記憶って……まさか前世?
止めどもなく記憶が溢れていく中、私の意識は途切れるのだった。
♢
「……ここは……ああ、倒れたんだった……」
意識を取り戻した私は、ぱちくりと目を開けた。
どうやら宮殿の一室で寝かされていたらしい。
……頭は思いのほかすっきりとしている。体にも痛みはない。
婚約指輪を投げ返したせいか、非常に清々しい気分。溜飲も少しは下がっていた。
とはいえ、これからどうしよう?
アステリア王国史に残る大事件だ。自分はあんまり悪くないとは思うけど。
はぁ、まぁやってしまったものは仕方ない。
前向きにいくしかない。
あんな相手と結婚しなくても良くなったと考えよう。
ものすごい速度で私は思考を切り替える。
これも記憶が目覚めた影響かな。
前世は普通のインドア系OLだったしなぁ……。
と、考え込みそうになって私は気付いた。ベッドの側に人がいる。
「お目覚めですか、聖女様――ご気分はいかがですか? お体に問題はありませんか?」
目を向けた先には、銀髪の貴公子が立っていた。
淡い光を放つがごとき銀髪。陶磁器もかくやというほど白く美しい肌。吸い込まれそうなほど綺麗な深い海色の瞳――いつまでも見ていられそうな。
私はこれほど整った美形の青年は他に知らない。
時間があればじっくりと鑑賞したいくらいだ。
貴公子の装いは純白の衣、七色の小さな首飾り。この世界で特別な権力を持つ、六星教会の高位聖職者の証をまとっていた。
はて、以前にどこかで会ったような。
……思い出した。けれどきちっと最後に話をしたのは十年前。記憶とは大分異なっているけれど。
昔も美形だったけれど、今はますます磨きがかかっている。
「もしや…………お久しぶりです。……フォルト様? ええ、体は本当に全然問題ないのですが……」
正解だったらしい。
私の答えにフォルトはにこりと甘く微笑んだ。
まぶしすぎる笑顔だ……。
この世界で最も大きい国である、エンブレイス帝国の第二皇子にして六星教会の枢機卿。
フォルト・エヴァーホーデン・エンブレイス。確か年齢は同じくらいだったと思う。
アストリア王国に来ているとは知らなかったけれど、治療魔法の達人でもあったはずだ。
……治療を他国の人間にやらせるのか……。まぁ、いいけどさ。
「それならば良かった、この国を滅ぼさないで済みますね」
ぽつりと声音を変えず言い放つフォルト。
……うん? なんかとても不穏当な台詞だったような。
ま、まぁいいや……流しておこう。
首を傾げる間もなく、フォルトは優雅にお辞儀をする。神々しくさえある所作だ。
まさに絵になる男だ。
いつまでも見ていられそう。
「お迎えに参りました、聖女様――このような国など、あなたに相応しくありません」
「……ふぁっ!?」
どうして、そうなる!?
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