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春よ来い

作者: ハシモト

エピローグ

「春はあまり好きじゃないんですよ。別れの季節ですから。」

内海先生は最後のホームルームでそう言った。

窓の外では、風に乗せられた桜の花びらがひらひらと舞っている。

高校一年生を終え、二年生になろうとしている私たちにとっては、その言葉は少しだけ照れくさくなるような言葉だった。テレビの中の俳優が言うようなセリフを、六十二歳のおじいさん先生が言ったのだから、みんな少し笑っていた。

でも、私には、少しだけ寂しそうに見えた。気がした。

内海先生ほどの年になると、春に何度も生徒と別れてきたのだろう。それが寂しいのだろうか。それとも、他に何か理由があるのだろうか。

春は出会いの季節でもある。内海先生だって新しいクラスの生徒たちと出会うはずだ。それでも、内海先生は、春を「別れの季節」と言った。

そんな内海先生は、校庭に並ぶ桜の木を見て何を思うのだろうか。


日差しの暖かさに、思わずあくびが出てしまような日だった。

一年間担任したクラスの最後のホームルームを終え、午後には来年度に向けた職員会議がある。

昼食をコンビニで買ったサンドイッチで済ませ、外へ出る。

そこには、抜けるような青空が広がっていた。長い冬を終え、最近は天候が安定している。寒さに耐え忍んだ分、この暖かさは身に染みる。

桜に彩られた校庭も、この季節ではないと見ることができない。この風景を見るために、地域の住民が学校に来ることもある。

季節は春だ。穏やかな日々が続くこの季節を、誰もが待ちわびていただろう。

風に揺られる桜の枝を見ながら歩き、校庭の隅にぽつんとある一つのベンチに座る。

実は、このベンチは、この学校にある桜を、最も綺麗に見ることが出来る場所なのだ。桜の木が植えてある反対側にこのベンチがあるため、全体を一望することができる。

このベンチのことは、私しか知らない。正確に言えばもう一人いるのだが、今は私だけだ。

古く寂れたベンチに座ると、少しだけ軋んだ。このベンチも、あとどれほど保つか分からない。

校庭の反対側にある桜の木を眺める。風が吹き、桜の花びらが散る。やはり、ここから見る景色が一番綺麗だ。

ふと横に目をやると、少し離れたところに、見覚えのない制服を着た少女がいた。彼女もやはり、桜の木を眺めている。

周辺の中学校か高校の生徒だろうか。地域の住民が桜の木を見に来ることはあるが、敷地内に無断で入ることは禁じられている。

本当はここで注意をしなければならないのだが、少し距離もあり、特に問題を起こしそうな子でもないので、やめた。

再び桜に目をやり、ぼんやりとする。春の暖かな風が頬をなぜる。

春は桜が綺麗で、気候が穏やかで暖かい。誰もが好むような季節だと思う。 でも、私はこの季節をあまり好きではなかった。正確に言えば、好きではなくなった。

昔は最も好きな季節だった。桜の花に胸を踊らせ、暖かな風に包まれる。そして、新しい出会いがある。そんな季節が、私は好きだった。

とはいっても、今も別に嫌いなわけではない。桜は綺麗だと思うし、穏やかな気候は過ごしやすい。

ただ、少しだけ寂しいのだ。

出会いの季節が、あるときを境に別れの季節となってしまった。今まであったものが無くなってしまったその寂しさが、この季節にはつきまとう。

このベンチに座ると、その寂しさを特に感じる。しかし、また来てしまった。

ここへ来れば、彼女がまたそこにいるような気がしたのだ。


試験に合格し、長年目指していた教師になった。目指していたと言っても、別になりたかった訳ではない。教師である父親が、私に教師になれと言い続けたので、渋々なったまでだった。

四月から赴任することになった学校に初めて来て、何人かの教師と話したが、正直なところうんざりした。

どこの大学を出たかという話がほとんどで、残りは校長と教頭と生徒への愚痴だった。

教師とはこんな職業だったのだろうか。幼い頃は、父親を見て、教師とは立派な職業だと思っていたが、想像していた教師像は見る影もなかった。

これから毎日、この学校に来なくてはならないことを考えると、憂鬱で仕方がない。

唯一救いがあると言えば、桜の木が綺麗だということだけだった。

校庭には桜の木が並んでおり、その景色は見事なものだった。春はもともと好きな季節ではあったが、この桜を見て、より好きになったと言っても良い。

その桜の木を、校庭の隅にあったベンチに座り、ぼうっと眺めている。何故ここにベンチがあるかは分からないが、ここから校庭の桜の木を一望することができる。その景色のおかげで、今日あったことを少しだけ忘れられる。 ふと目を横にやると、少し離れたところに、一人の女性がいた。その女性もまた、桜を眺めている。

こちらの目線に気がつくと、その女性がこちらに向かって歩いてきた。

「内海先生…ですよね?」

何故かその女性は私の名前を知っていた。黒く長い髪が特徴的で、端正な顔立ちをしていた。

「何故僕の名前を知っているんですか…?」

「私も内海先生と同じ新卒です。というか、さっきも顔を合わせたじゃないですか。」

全く気づくことができなかった。近くにいた二、三人の同期としか話していなかったので、ほとんど初対面みたいなものだ。

「お名前も伺っても…?」

「藤嶋晴子です。藤色の藤に山へんの嶋、「晴れる」に子と書いて晴子です。よろしくお願いしますね。」

「こちらこそ。内海です。よろしくお願いします。」

「ふふ」と、彼女は嬉しそうに笑う。顔立ちには似合わず、彼女には人懐っこさを感じた。

「ここから見える桜、やっぱりすごく綺麗ですよね。思わず見入っちゃいました。」

「そうですね。」

「私、この学校の卒業生なんです。私が知る限り、ここから見える景色が一番きれいです。内海先生に先越されちゃいましたけど。」

彼女はまた「ふふ」と笑った。

「やっぱり、内海先生も好きなんですか?桜。」

「まあ…。そんなところです。」

「私も大好きなんです、というより、この季節が好きです。暖かいし、桜が咲くし、出会いの季節ですし。晴子って名前も、本当は春の子って書くはずだったんですよ。」

「画数の問題で晴れの字になっちゃいましたけど」と嬉しそうに付け加える。 初めて会った彼女は、まさしく春のような人だった。穏やかで暖かく、話しているだけで和むような、そんな女性だった。


しばらくして新学期が始まると、彼女とは毎日顔を合わせた。互いに気が合うところがあり、すぐに親しくなることができた。

「もう春も終わっちゃいましたねえ。」

職員室で明日の授業の準備をしていると、向かいの机に座る彼女が言った。「寂しいですか?やっぱり。」

「桜をもう少し長い間見ていたかったです。まあ、夏も夏で好きなんですけどね。」

「へえ。」

気の抜けた返事が気に入らなかったのか、彼女は少し怒ったような口調になる。

「内海先生ってなんか冷めてますよね。」

「そんなことないですよ。」

「じゃあもっとちゃんと話を聞いてくださいよ。」

「真剣に聞いてますよ。」

「嘘だ」と言って、拗ねたような表情をした彼女を見て少し笑ったあと、再び作業に戻る。

こんな取り留めのない会話が、ストレスだけが積もり積もっていく毎日の中での、唯一の心のよりどころだった。彼女のおかげで、何とか教師としてやっていけることができた。

そして何より、彼女の存在に惹かれ始めていたのだと思う。



幸せな時ほど早く進み、長くは続かないことを、私は彼女と過ごす日々の中で知った。

運命は残酷だとよく言うが、その通りであると思う。

彼女の背中の痛みが、湿布ではどうにもならなくなったとき、癌はすでに全身に転移し始めていた。

出会ってからすでに二年が経っており、二人は恋人どうしになっていた。同棲をし始めた矢先のことだった。

休職し、入院した彼女は、見る見るうちに衰弱していった。薬の副作用で黒く長い髪は抜けてしまい、体も一回り小さくなってしまった。

彼女の明るい性格も、最近は影を潜めている。

鎖骨に転移したガンによる痛みに、彼女はうめき声をあげる。

そんな彼女に、私は握っている手をさすることしかできない。その手は白く、簡単に折れてしまいそうなほど細かった。

「ごめんね。こんなことになっちゃって。」

彼女は寂しそうに笑う。

「謝ることじゃないよ。少しずつ治していこう。」

この言葉にも、どれほど効果があるかは分からない。こんな中途半端なことしか言えない自分に嫌気が差した。

「桜、見られるかな。」

彼女が消え入るような声で呟く。

今は一月。桜が見られるようになるには、あと二ヶ月ほどだ。

「見られるさ。またあのベンチに座って二人で見よう。」

彼女は「ふふ」と笑い、私の手を握った。その力はあまりにも弱く、それが余計に悲しかった。

それでも、彼女の前では、弱音を吐く訳にはいかなかった。彼女もなるべく前を向くように努力している。その努力を、無駄にする訳にはいかなかった。



彼女と過ごした日々も、もう四十年前の話だ。そして、たった二年という短い間だった。

今となっては妻もおり、息子もいるが、彼女のことを忘れたことはない。 彼女は、三月に病院の庭の桜が咲いたのを見たあと、旅立っていった。こうして、春は、出会いの季節から別れの季節となった。彼女が好きな春を迎えられ、桜を見ることができたのが、唯一の救いだったのだと思う。

その後、私は別の高校へと移り、転々としながら、四十年間、教師を務めてきた。

そして、定年退職が間近になったとき、この高校へと戻ってきたのだ。

一年目を終え、二回目の春を迎える。戻ってきた最初の年も、こうして彼女のことを思い出していた。

去年と同じだ。桜は綺麗なのに、見ていたいのに、見れば見るほど寂しさが募っていく。私はこの季節を、一体どのように過ごしていけば良いのだろうか。

「桜、綺麗ですね。」

突然声をかけられ、ふと目をやると、そこには先ほどの少女が立っていた。見慣れない制服を着た少女は、穏やかな笑みを浮かべている。

「そうだね。君も桜を見に来たのかい?」

「はい。ここの桜、好きなんです。」

彼女はそう言って、桜の木を眺める。心からこの季節を喜んでいるような、そんな表情だった。

「近くに行って見ませんか。」

少女は柔らかな表情でそう言った。


少女に連れられ、桜の木の方へ歩いていく。不思議な子だと思いながら、少女の後についていく。一体何が目的なのだろうか。

桜を見上げられる距離まで来たとき、いつも見ている景色とは、また異なる良さがあるように感じた。

「近くで見るのも悪くないと思うんですよね。」

「あ、ああ。」

少女の言葉に、歯切れの悪い相槌を返す。

風が吹くたびに花びらが舞う。少女は何故か、手のひらを上に向けて歩いている。

「知ってますか。こうして手のひらに花びらが降りてきたら、願いが叶うんですよ。」

半分ほど振り返り、少女は楽しそうに言う。

「へえ。初めてきいたなあ。」

「今考えましたからね。」

少女は悪戯な笑みを浮かべ、再び前を向く。信じた訳ではないが、少女に言われた通り、手のひらを上に向けてみる。自然と体が動いていた。

「降りてくるといいですねえ。」

「そうだなあ。」

春の暖かさもあり、このまま寝てしまいたくなるような会話だ。自然とあくびも出る。

大きく開いた口に手を当てようとしたとき、風に乗せられた花びらが一枚、手のひらの上に落ちてきた。

「あ。」

思わず声が出てしまった。その声に少女は振り返る。

「あれ、本当に降りてきましたね。」

少女も少し驚いたように、私の手のひらの上の花びらを見る。そして、私の顔を見て嬉しそうに言った。

「願い事、決めました?」

その言葉に、一瞬だけ彼女の顔が浮かんだ。願いが叶うのならば、春のような彼女にもう一度会いたい。この季節に、桜を見ながら、取り留めのない会話をしたい。またここで出会いたい。

我ながら幼稚だと思い、ため息をつく。こんな簡単に願いが叶うのなら、私はこんなに寂しさを感じていない。

二回目のため息つき、腰に手を当て空を仰いだ瞬間、風が強く吹いた。桜の木の枝はしなり、花びらは一斉に散る。

花びらと共に砂ぼこりが舞う。風が音を立てて顔の横を通り過ぎていく。思わず腕で顔を覆った。

春一番というやつだろうか。一瞬のできごとだったが、一息つき、再び前を向く。

すると、そこには、一人の女性が立っていた。そのかわりに、先ほどまで目の前にいた少女が見つからない。少女はどこへ行き、この女性はどこから現れたのかと不審に思ったが、女性の顔を見て、思わず息を呑んだ。

黒く長い髪が特徴的で、端正な顔立ちをしている。その表情は穏やかで暖かい。

花びらが髪の上に舞い落ちた。

忘れられるはずがない。紛れもなく、彼女だった。

「なんで…。」

もう会えることの無いはずの彼女は、今、私の目の前にいる。何が起きているか分からず、ただ立ち尽くしていた。

「だって、内海先生が春はあまり好きじゃないなんて言うから。」

少しだけ気色ばんで彼女は言う。

彼女は、最初に出会った日と全く同じ服装をしていた。四十年も昔のことなのに、鮮明に思い出せる。今目の前にいるのは、あのベンチで出会ったときの彼女だ。

「少し太りましたね。」

「ふふ」といつもの彼女らしく笑う。目の前の光景が信じられなかった。夢でも見ているのだろうか。それにしては意識がはっきりとしすぎている。確かに私は今、一人の人間と話している。

「どうして…。」

必死に絞り出した声は、少しかすれていた。

「だから、春が好きじゃないなんて言うからです。」

「だって、それはあなたが…。」

少しだけ冷静になり、彼女に言葉を返すが、最後まで続かない。

「でも、私にとっては出会いの季節です。内海先生と出会えた大切な季節なんです。」

少しだけ寂しそうな顔をして、彼女はそう言った。

「だから、私なんかのために春を嫌いにならないで。春が好きなままのあなたで居てください。」

最後は微笑みながら、母親が子供を諭すかのように、優しく言った。

「でも、どうすればいい?この季節がくるたびに、あなたを思い出さずにはいられない。どうしても寂しいんです。」

今まで胸の中に沈んでいた思いが湧き上がる。

情けないとは分かっているが、正直な気持ちを彼女に伝える。この寂しさだけは、いつになっても慣れることは無い。

すると、彼女はまた、「ふふ」と笑いながら言った。

「また来ます、だから、待っていてください。」

その瞬間、再び強い風が吹いた。


目を開けると、私はベンチに座っていた。先ほどまで桜の木の下にいたはずなのに、何故私は今、ベンチに座っているのか。もしかして、本当に夢を見ていたのだろうか。

ふと思い出し、握られていた拳を開くと、そこには一枚の桜の花びらがあった。

そして、少し離れたところに、少女が立ってることに気が付く。

「君は…。」

何が起こったか分からず、ただ少女の方を見る。

「良かったですね。夢が叶って。」

そう言って、 少女はゆっくりと校門へ向かって歩いていく。途中で何か思い出したかのように、少女は振り返った。

「これ、この学校の昔の制服なんですよ。」

少女の言った言葉に、何か返そうとすると、それを遮るかのよう言った。「また、次の春に来ます。」

「ふふ」と笑い、今度は振り向かずに、少女は駆けていった。長い髪が少女の動きとともに跳ねる。私はその後ろ姿を、ただ見送っていた。一体何が起こったのだろうか。あまりの衝撃に、思考がついていかない。

夢か現実かも分からない。私が勝手に作り出した幻想だったのかもしれない。

でも、たとえそうであったとしても、彼女は「また来る」と言った。

私はきっと、その言葉を信じて、来年もこの場所で彼女を待つのだと思う。春のような、いや、むしろ春そのものなのかもしれない。春になって戻ってきた彼女と、またここで出会えるのを、桜を見ながら待ち続けるのだろう。



プロローグ

内海先生は、校庭のベンチに座っていた。ぼんやりと前を見ている。反対側にある桜を見ているのだろうか。その表情はとても穏やかに見えた。

先ほどの寂しそうな表情は見られなかった。心からこの季節を楽しんでいるような、そんな気がした。

ベンチの方へ歩いて行くと、内海先生がこちらに気がついた。

「ん、どうしかた?」

「いえ、ちょっと…。桜を見たんですか?」

「そうだよ。ここからだとよく見えるんだ。」

内海先生は嬉しそうに言った。本当に、内海先生は春が好きではないのだろうか。

「内海先生、春、嫌いなんですか?」

つい気になっていたことを聞いてしまった。内海先生は少し驚き、「ああ」と言って笑う。

「この桜を見ていたら、やっぱり春もいいなって思えたよ。」

予想外の答えが返ってきた。そんなにすぐに変わるものなのだろうか。でも、確かにここから見える景色はとても美しい。

「私も座ってもいいですか。」

「いいよ。私はもう行くから、ゆっくり見てみるといい。」

内海先生はそう言って立ち上がり、校舎の方へ歩いていった。

ゆっくりと腰を下ろす。少し不安定だか、気にするほどではない。

目の前には、桜が横一列に並んでいた。ときどき、風に乗せられて花びらが舞う。

この景色を見て、内海先生は春を好きになれたのだ。

何故かは分からないが、そのことに少しだけ安心した。

目を閉じて深呼吸をする。暖かな日差しが私を包み込む。

「やっぱり春っていいな。」

独り言のように、そう呟いた。


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