6話:黒い天使
ラガンの振り向いた先にはラガンの執務机があった。職員が使っている机のゆうに三倍はあろうその執務机には幾つもの書類の山が積み重なっていた。
「ナタバクエ山脈のようですね」
シスルはすっかり落ち着きを取り戻し、執務机を『ちょっとばかりの』茶目っ気を込めて、大陸の遥か北方に聳え立つ人類でまだ誰も踏破したことがない大山脈に例えた。
ナタバクエ山脈には数々の神話が存在した。『山脈の頂上には黄金に光輝くドラゴンの棲みかがある』といったものや、『神から永遠の命を授かった賢者がひっそりと暮らしている』といった種類の話は幾つでもあった。
その中で一番広く信じられている神話は、『ナタバクエ山脈を越えると神が創った楽園が広がっている』といったものだ。
「ナタバクエ山脈か。うむ、上手いことを言うな」
ラガンは少しだけ笑いながら、その『ナタバクエ山脈』の向こう側から片手でひょいっと、まるで落としたハンカチを拾うかのように一人の女の子をつまみ上げた。
「う、うぅ~。ラガンいきなりなにするんですか~」
黒髪のショートカットでこぼれ落ちそうな程大きくはっきりとした黒い瞳。そして首からすっぽりと被った黒のマントを着た全身黒ずくめの女の子は可愛い声をあげながら空中でバタバタと手足を動かしていた。
「く、黒い天使!?」
シスルは思わず声を出した。ナタバクエ山脈の向こう側から急に連れてこられたというだけでなく、その黒ずくめの女の子はシスルが今までに見た何よりも可愛いく、とてもこの世のものとは思えなかった。そしてつい天使という単語を口にしてしまった。
ラガンはシスルの反対側のソファーにドサッと少女を落とす。
「うぅ~。ひどいです」
少女は涙ぐんだ瞳をラガンに向ける。が、ラガンは全く気にもせず、野太い声で少女に話しかける。
「ほら! ちゃんと自己紹介をしろ。これからお前の面倒を見てくれる受付嬢のシスルだ」
少女は軽く鼻をすすり、ソファーから立ち上がって
「あの…えっと、は、初めまして、シャノン・ランディーニといいます。冒険者になるために来ました。よ、よろしくお願いします」
少し鼻にかかったような可愛らしい声で自己紹介をして頭を下げた。
「えぇと、私はシスル。シスル・マッケンナよ」
想定外の展開を必死に理解しようと頭をフル回転させていたシスルは思わずつられて自己紹介をした。
「うむ」
ラガンは一人で満足そうに頷く。
「あの組合長、私には話の流れがまるで理解出来ていないのですが、もう少し『詳しく』ご説明頂いても宜しいでしょうか?」
一人で納得しているラガンに対し、少し腹を立てているシスルは、口元だけしか笑っていない『笑顔』で問いかけた。
「むむ。そうか? 後は若い者に任せようとしたんだがな……ここにいるシャノンはワシの『知り合い』の倅でのう。どうしても冒険者になりたいとうるさいので、しょうがないから連れてきた」
「…この子が冒険者ですか?」
シスルは改めて少女の頭から足元までじっくりと観察した。
年齢は恐らく14~15歳、下手をするともっと幼いかもしれない。まあ、世の中にはこの位の年齢で冒険者組合に登録する冒険者もいないこともない。
だが目の前の少女は冒険者としては、いや同い年の女の子としても、あまりにも華奢だ。マントから微かに見える手足は透き通るほど白く、身体は抱きつけば折れてしまうのではないかと心配させるくらい細い。
シスルはこんな少女が冒険者になるなんて、まるで自殺をするようなものだと思っていたら、ふと強烈な違和感を感じた。
「……先程、何と仰いましたか?」
「いや、ワシは後は若い者に任せ」
「そこじゃありません! 『倅』と仰いましたよね? 『娘』の間違いではありませんか?」
シスルは無意識に声が大きくなっている。
「うむ。倅と言ったぞ。男のくせに身体の線が細過ぎるから良く女と間違えられておる。まあ、ワシがそのうち、みっちりと鍛えて、誰が見ても立派な男にしてやるから安心しろ」
ラガンは豪快に笑いながら、シャノンの肩をバシバシと叩く。
「イタっ、痛いです」
叩かれる度、シャノンは目を潤ませる。
〈ラガンが直々に鍛える〉…シスルは可愛らしいシャノンの顔の下に筋肉が盛り上がったラガンの身体を脳内で合成したが、…身震いとともに直ぐに脳内のメモリからその合成を削除した
「…しかし、なぜ冒険者希望の方を私に面倒を見ろと?」
シスルは至極真っ当な疑問をラガンに投げ掛けた。
「うむ。本来であればワシが直々に鍛えてしまうのが、冒険者になる一番の近道であるのだが、ワシも立場上色々と忙しいのでのう。そこで、まずは色々な依頼を覚え、尚且、他の冒険者ともふれ合える受付嬢にして、冒険者組合と冒険者の環境になれさせようとしてな」




