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 熱帯夜が続いた。

 俺ですらこの蒸し暑さにぐったりとしていた。

 りりはクーラーを嫌ったので、家ではもっぱら扇風機で暑さを凌ぐのだけれど、それでもどうしようもない時は、浴槽に水を貯める。

 水中で目を閉じるりりは、本当に生きているのだろうか? と、俺を時々不安にさせる。


「だいじょうぶか?」


 俺が水の中に手を差し入れて髪をなでてやると、りりはゆっくりと瞼を上げて、水の中から俺を見上げる。真っ白な瞼には長くて黒いまつげがびっしりと生えていて、その下から、光の加減でダークグリーンにも見える瞳が姿を現す。

 りりはぷかりと水中から顔を出し、猫がするみたいに俺の手に頭を擦り付け「だいじょうぶ!」と言った。



 そんなある日のことだった。

 りりが家に来てから二週間ほどだったと思う。りりは、あいかわらず「カキクケコ」は苦手だったけれど、以前よりかくだんに日本語もうまくなっていた。

 その日俺は大学にちょっと顔を出す用事があって、後ろ髪を引かれる思いで家を出た。大学へ行って用事を済ませて帰るとなると、半日がかりになるだろう。

 誰か来ても絶対に出ないこと。風呂の水を出しっぱなしにしないことなどを、りりに言い含めて、アパートを出た。


 大学でばったり友人に会ったり、図書館で本を選んだりしていたら、思った以上に遅くなってしう。

 りりは一人で寂しい思いをしていないだろうか? ちゃんと風呂に水をためて、暑さをしのいでいるだろうか? おいてきたサンドイッチを食べただろうか?

 早く家に帰りたい。気ばかりが焦った。

 そのせいだろうか、今まで考えてもみなかった事が頭をよぎっていった。


『今は俺が夏休みだからいいけど、学校が始まったら、りりはあの狭い部屋に独りぼっちになってしまうんだ。いや、夏休みだとか、そんなことだけじゃなくて、りりはあの部屋から外に出ることは出来ないんだ。このさきずっと? 俺はあの部屋にいつまでいるのだろう? 俺がりりを飼うだなんて、本当に可能なのか』


 小さなぼろいアパート。六畳のフローリングと六畳の和室。バスタブだって小さけりゃ、台所もトイレも極小。俺に拾われてからと言うもの、りりはずっとあの部屋から外へ出ていない。

 自分から外へ行きたいと言ったことはない。ただ時折、小さなベランダから外に顔を出して、夜の空気に目を細めている。彼女は戻りたいのではないだろうか?

 彼女を所有していいのは、俺ではなくて、あのでっかい海の青ではないのか?

 アスファルトから立ち上る蜃気楼みたいに、そんな考えが後から後から湧いてくる。


 刻々と暗色を深めていく夕暮れの中、俺はなんだか一人ぽつんと取り残されてしまったような気持ちになる。

 早くりりに会いたい。そして「だいじょうぶだよ」と笑って欲しい。そんな都合のいい考えが浮かんでは消える。


 電車を降り、駅前のスーパーで、りりの好きなそうめんを買った。

 栄養のバランスは、いいんだろうか? それすら俺にはわからない。


「ただいまー」


 部屋の鍵を開けて、中に入ると、むうっとした熱気が、俺を包む。

 いつもなら「おぁえりー!」と言う声がして、床を這うようにしながら現れるりりの気配がない。


「りり?」


 玄関からすぐの浴槽をのぞく。バスタブの蓋は空いているが、その中にりりの姿はなかった。返事もない。


「りり!?」


 少し大きな声で呼びかけながら、リビングへ入る。

 そこには、俺の使っているタオルケットを体に巻き付け、床の上に体を丸めたりりが転がっていた。

 りりの目がうっすらと開く。暗い緑色の目がちらりと覗いたが、すぐにりりは瞳を閉じてしまった。

 ほんのりと頬が赤みを帯びているようにみえる。


「りり? どうした? 具合悪いのか? 暑かったら風呂んなか入ってろって……」

 

 声をかけながら床に転がるりりを抱え起こす。りりは細い腕をすりりと俺の首に巻きつけてきた。


「お、えり」


 声にいつもの力がない。

 りりの体が熱い。熱を持っているような気がする。


「ちょっと待ってろ、今風呂連れて行ってやるから……」


 立ち上がろうとしたのに、りりは大きく頭を振った。


「いや、ここでたうみといっしょにいる」

「……っ!」


 りりの言葉に俺の心がきしんだ。

 俺はりりを抱きかかえたまま、床に投げ出されたスーパーの袋を手で探る。

 スポーツ飲料の入ったペットボトルを探り当てると、それのりりの口元へ運んでやった。


「ほら、少し飲みな、そばにいるから」


 そう言ってギュッと腕に力を込めると、りりはようやく落ち着いて、俺の手から青いセロファンの張り付いたペットボトルを受け取った。


「そうめん買ってきたけど、食べられそうか?」


 りりはふるふると、首を振る。


「あい、おおり。たうみのあいおおり、食べたい。青いやつ」

「わかった、かき氷な? 作ってやるよ、だからその間、風呂ん中入ってな? 水、出しっぱなしにしてていいからさ」

「うん」


 人魚のことなんて、俺は全然知らなかった。

 具合が悪い時、何をしてやったらいいのか、何を食べさせたらいいのか?

 俺がしようとしていることは、もしかしたらりりの状態をもっと悪い方へ向かわせてしまうような行為ではないのか?

 そう思っても、何かをしないではいられなかった。


 ぬるくなった風呂の水を抜いて、新しい水を貯め、かき氷を作る。

 そんなことが、りりのためになるのか?


「たうみ……」


 ときどき俺を呼ぶりりのそばに駆け寄り、ここにいるよと、彼女を抱きしめながら、俺は途方にくれていた。

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