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なんとか意思の疎通もできそうだと、ほっとした。気が緩んだせいだろうか、俺はふいに尿意を覚える。考えてみれば、ずっとトイレに行ってない。
「りり、トイレ行ってくる」
急にいなくなると、またりりが心配するかもしれないと思い、声をかけた。
トイレに行こうと立ち上がりながら、頭の片隅には、ふっと疑問が湧く。
「人魚ってトイレに行くのだろうか?」
おおおお、忘れていたよ。生き物を飼うにあたって、考えなきゃいけない基本的なことだ。
何はさておき、餌とトイレだ。
しかしだ。人魚を拾ったりする小説とか漫画なんかを読んだことはあるけど、トイレについての話なんて、記憶にはない。
だいたい本の中の人魚って、ただただきれいだったり、ちょっと怖かったり。あんまり生活感ってものがなかったように思う。
アンデルセンの人魚にしたって、すんなり人間の生活に馴染みすぎだ。王子様についてあれこれ思い悩むより先に、もっと基本的なところでびっくりしたり、わからなかったりすることがあったはずじゃないのか?
「トイレトイレー!」
なんて言って、トイレに駆け込む人魚は見たことない。
まさか人魚って、排泄しないのか?
いやいやいやいや。どう考えてもおかしいだろう? 生きている以上、食べもするし排泄だってするはずだ。その証拠に、りりはさっきりんごを食べた。
「なあ、りり……りりって……えーっと……」
「?」
いや、今はそれどころではなかった。俺の尿意は、いよいよもって我慢の限界を迎えようとしていた。
まあ、りりのトイレについては、おいおい解決しよう。まだ会話もできないのに、トイレってどうするんだ? なんて質問は難しすぎる。しかも相手は女の子なのだ。会話ができたとしても、なかなかに聞きづらい質問だぞ。
そう、一度や二度の粗相なら、怒らないで始末してやろう。ふ、仕方ねえな。俺飼い主だしな。
俺はそんな決意を固めつつ、そそくさとトイレへ向かった。
向かうったって、風呂場の隣なんで、もう、二、三歩歩けばトイレの中なのだが。
で、トイレへ入り、後ろ手に扉を閉めようとした。
……が、戸が閉まらない。
「はい?」
ゆっくり後ろを振り返ると、すぐそこにりりがいた。俺の真後ろで、じいいいっと俺を見上げている、尻尾があるために立つことの出来ないりりは、トイレのドアにすがるようにしていた。りりの体がトイレのドアのストッパーになっているのだ。
「りり、俺、トイレなんだけど?」
「?」
まるで、家を出ていこうとする男と追いすがる女、みたいな構図である。だけど内心、「待って!!」と叫んでいるのは確実に俺の方だ。
「り……りり? だから俺、トイレしたいんだけど……。ちょっと、どいてもらえません?」
きょとん?
ああ、キョトンという単語がこれ程似合う表情に俺は出会ったことがあるだろうか?
――いやない!
「といれ! おしっこ!」
俺はステテコの上からその部分に手を添えて、便器に向かって放尿する真似をしてみせた。
りりは俺のジェスチャーを見、俺の顔へ視線を移し、その後また俺の股間へ視線を戻し、再び俺の顔を見る。
「違う違う。見てろって言ってるわけじゃない! いいか? といれ、おしっこ!」
「といれ、おしっくぉ!」
てめええ、なんでそれはすぐ覚えんだよ!
おれは自分の股間から便器に向かって手で放物線を描いてみせたが、りりは興味深げにじっと俺を見たまま扉を閉めようとはしない。
背中を冷や汗が流れていった。
ちっくしょー。
いいか見てろりり! これがトイレというものだ。海の底にはないかもしれないからな、目の玉ひん剥いて、よっく見ておけ!
俺はやけっぱちになって大切な一物を引っ張り出した。
りり、凝視。凝視してるよ。俺のナニを。
出てこようとしていたションベンも、思わず恥ずかしがって引っ込むのではないかと思われるくらいじっくりと俺のナニに目が釘付けです。
それでも我慢に我慢を重ねた俺はついにこらえきれずに……。
「はうううーーーーーー! きゃあーーーーーー!」
りりが叫んで……消えた。
うるさい。叫びたいのはこっちだ。
発見。叫び声というのは、人魚も人間も、そう変わらないらしい。
それから、俺のその瞬間をしっかり観察したりりは、トイレというものをマスターした。
りりの粗相の後始末をするという覚悟は、俺のこの捨て身の(?)お手本によって、回避された。まあ、よかったといえばよかったのかもしれない……。
その後しばらくは、俺と目が合うとりりは顔を真っ赤にして、目をそらしていた。
はずかしい。
どうやらこの感情は、人間も人魚も共通に持ち合わせているらしいということが判明したのだった。
………………つか、俺の方こそこっ恥ずかしいわ!