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人魚を拾うにあたって、俺が一人暮らしであるということと同時に、もう一つラッキーだったことがある。
それは、俺が夏休みだったということだ。それに今のところ実家へ帰る予定もない。
俺は脱衣場の壁に背中を預け、人魚を観察する。
人魚は水の中にとぷんと沈んだり、顔を上げたりしていて、時々ちらりと俺を見る。そして目が合うと、透き通るような白い頬をバラ色に染めて顔をそらし、水の中に逃げ込む。
シーンと静まったアパートに、人魚の立てる水音だけが聞こえていた。
人魚はまだ幼さを残したような可愛らしい顔をしている。人魚の年齢ってのがわからないが、意外に俺より年上だったりするんだろうか?
髪は光の反射で緑っぽくも見える黒髪。ゆらゆらと揺れながら、尻が隠れるんじゃないか? ってくらいに長い。まあ下半身は魚なんで、どこが尻なのかはよくわからないんだけどな。
小麦色のマーメイド、なんてフレーズがあるけど、本物の人魚はぜんっぜん小麦色じゃなかった。むしろ白い。白くてつるんとしていてシミひとつ無くて
――ムラッとする。
いやいやいやいや、いかんいかんいかんいかん。
あれだな、上半身裸なのがいけないんだな。
「なあ、上、なんか着ないか?」
そう言って俺が立ち上がると。人魚はびくうっと飛び上がり、風呂の縁につかまって俺を凝視している。
「何もしないって。ちょっと待ってろよ?」
とにかく、Tシャツでも持ってこよう。そう思って人魚に背中を向ける。すると背後でバシャンと、派手な水音がした。
驚いたことに、人魚が風呂桶の中から飛び出していた。そして、洗い場を這ってこちらへやってくる。
人魚は細い両手を使って床を這い、少しずつ俺の方へと近づいてきた。
そして、脱衣場へ鱗に覆われた腰を乗り上げ、俺の足を掴んだ。
「◇ΕΦ◯ΩΒ✕□△……◯□?」
何か言いながらこちらを見上げる表情は、なぜだか今にも泣き出しそうだ。
あれ? これって懐かれたのか? もしかして、置いて行かれそうで慌てて風呂から出てきたのか?
「いや、どこも行かねえよ? 服取ってくるだけだから」
そう言ってやるが、言葉が通じているとは思えない。
うるうると大きな瞳で、じいっと見上げる人魚。
『置いて行かないで、一人にしないで』
そんな言葉が聞こえたような気がした。
かわいいな。素直にそう思った。
思わず俺は人魚の頭に手を伸ばし、くしゃくしゃと撫でてやる。すると人魚が気持ちよさげに目を細めて、少しだけ笑ったような顔になる。
なついてくれるのはうれしい。微笑んだふっくらした頬が可愛い。
けれど。
陸に打ち上げられた人魚。
頼りにできる人もいなくて、こんな、得体の知れない俺にも頼っちまうんだ。
そう思ったら、胸の奥がチクチクと痛んだ。
俺はしゃがみこんで人魚と目を合わせる。
「いいか? どこにも行かない。すぐ戻ってくる。服……(自分の着ているTシャツをつまんで見せる)コレを取ってくる」
言葉は通じないかもしれないが、ゆっくり言い聞かせるように話しかけた。
俺の気持ちが通じたのだろうか? 人魚は神妙な顔でうなずくと、おとなしくなった。
リビング(というほどのものではない)へ行き、備え付けのクローゼットからタンクトップを引っ張り出して振り返ると、なんと人魚がキッチンの床を這っていた。
ずるずると重たい尻尾を引きずって、二つの白い腕で体を支えている。
うお! 床の上は水浸しだ。
俺と目が合うと「あー」とか「うー」みたいな音を立てて一生懸命に話しかけてくる。
あんまりかわいいもんだから、また、ブハッと吹き出してしまった。
すると人魚が「うんうん」唸って怒っている。
「ごめんごめん」
俺は腕立てでもするみたいな格好でこちらを見上げる人魚のそばへ行くと、人魚の前に座った。
「かわいいな」
「っあ……い……?」
「! おま……! しゃべれんじゃん!? かわいいだよ。か・わ・い・い!」
「っあ、いい?」
「そうそう」
タンクトップを頭の上からズボッとかぶせると「△□ΑΔ◇Π!」人魚は一瞬訳の分からない言葉で抗議してきたが、自分が服を着せてもらったのだとわかったのだろうか? すぐにおとなしくなり、着せられた服を引っ張ってみたりしている。
「ふく。ふ・く」
今着せたタンクトップを指差しながらそう教える。次に自分の着ているTシャツとステテコを引っ張りながらまた「ふく」と言った。
「フック!」
「ちげーよ。船長じゃねえよ。フク」
「?」
人魚もわかってきたらしく、俺の服を指差し「フク?」と、首を傾げる。
「そうそうそう! すごいじゃん。お前、かしこいな。フクだよフク」
盛大に褒めると、人魚の顔に笑顔らしい表情がのぼる。ふっくらとしたほっぺたがきゅうっと収縮して、口元からは白い歯がみえた。
実は、クの発音は苦手らしく、かなりはっきりしないのだが、そこは一生懸命さを買おう。
「フク、フク!」
お互いの服を引っ張り合いながら、何度も何度も繰り返した。
どうやら、この人魚はけっこう頭がいいらしい。
自分が着せられたものが「フク」というものだということもすぐに理解してくれた。
しかし、一番最初に覚えた単語が「服」というのは微妙だ。
ここはやはり、お互いの名前を覚えたいところだ。
「たくみ……たくみ……」
俺はゆっくりと間隔を空けながら自分の名を連呼した。
俺の口元をじいっと見つめる人魚の顔は、恐ろしいほど間近にある。
もう、唇を突き出して、ちょっと前のめりになったら、キスができそうな距離だ。
いや、まじで近い!
しかも、目を皿のようにして、少し寄り目になりながら俺の口の動きを見る人魚は、凶悪なほどに可愛らしい。これ、もうちょっと離れてもらえないだろうか? と、つい顔をそらしそうになった時、人魚が指を伸ばし、俺の唇に触れた。
「……っ!?」
俺の口の動きを確かめようとしたのかもしれない。俺の顔を凝視する人魚の表情は、真剣そのものだ。
「た、た?」
真似して発音し始める。
「た、く、み! ほら、言ってみな? 俺の名前だ。たくみ」
「たーみ。たうみ」
「そうそう、たくみ」
「たうみ!」
俺は、自分自身を指差し「たくみ」とゆっくりと言うと、つぎに目の前の人魚を指差した。
「なあ、あんたの名前は?」
人魚は先ず俺の指の動きを真似た。
俺を指差して「たうみ」自分を指差してちょっと首を傾げる。そして
「りゅり」
と言った。
「るり?」
「りゅり」
「る……りゅ? りゅり?」
俺が発音すると、人魚の形相が崩れた。弾けるような笑顔になって「たうみ、たうみ」と連呼するので、俺も人魚の名を、何度も呼んだ。ただ、人魚はどうやっても「たくみ」にならず「たうみ」となってしまう。俺は俺で「りゅり」と言うのは非常に発音しづらい。
そこで結局、人魚は俺を「たうみ」と呼ぶことになった。俺は、何度も遣り取りをした結果「りり」と呼ぶことで許してもらえた。……ような気がする。