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俺、大学生の一人暮らしで本当によかったと思う。
家族なんていたらどう説明すんだよコレ。
落とし物を拾ったわけだから、本当は警察に届けなきゃならないんだろうけど、どう考えたって、落とし主が見つかるとは思えない。だから俺は、この人魚をネコババすることに決めたのだ。
むうっとする空気の中、人魚を駐車場から俺の部屋まで運ぶのは大変な作業だった。お姫様抱っこする王子様とか、あいつらすげえな。毎日鍛えてんだろうな。
この人魚、顔立ちは子どもっぽいのだが、けっこう重い。下半身……というか尻尾? がけっこう長くて、むっちりなんだ。
夏だからさ、もう汗べっとべとだしさ。
とにかく人魚を風呂場へと連れ込む。……もう一度言っておくが、変なことをしようとしてるわけじゃない。
呼吸してるところを見ると、陸でも大丈夫なんじゃないかと思うのだが、やっぱり基本は水中だよな?
というわけで、風呂の窓を開け、水栓を全開にして浴槽に水を貯める。
その水音に反応して、人魚が身動いだ。
「あ、目。覚めた?」
はじめはぼんやりと、次第に大きく見開かれた目が、俺を見ている。もう、凝視している。
ああー、女の子にそんなに見つめられたことは無いかも知れんな。
「◯✕◇ΠΦΩ△□ΒYΕΔ!!!」
突然人魚は、意味不明な言葉を叫んで大暴れした。
そのあまりの勢いに、俺は慌てて風呂場から逃げ出す。
この人魚、すごく可愛い顔をしているのだが、凶暴でないとは言い切れないぞ。っても、もう家に連れてきちまったわけで……。
台所の一部となっているような脱衣場で、風呂場の戸を押さえながら、ドッキンドッキンと心臓を脈打たせて、俺はそうっと中の様子を伺った。
ドドドドドドドド
と、水の出る音。
人魚はおとなしくなったらしく、叫び声は聞こえない。
薄く、風呂場の戸を開けて浴室内をのぞく。
「あれ? いない?」
人魚がいたはずの洗い場には何もない。
ふっと視線を感じて目を上げると、バスタブの中から顔の上半分だけを出して、こちらを見ている人魚がいた。
俺と目が合うと、とぷっとバスタブに潜ってしまう。
やっぱり水の中がいいんだな。
ああー。風呂の水が溢れてる。止めないと。
そう思ってバスタブに近づくと、人魚はバスタブの隅で震え上がっている。
俺は両手を開いて軽くバンザイするみたいな格好をした。
危害を加えるつもりはないんだと、伝えようと思ったのだ。
「何もしないって、な? 蛇口の……水止めるだけだって……」
出来得る限りの優しい声で、どっかの中年オヤジみたいなセリフを言う。
人魚はとっぷりと水中に身を沈め、揺れる水面越しに、こちらを見ていた。
なあ、物語の中の人魚って、なんで最初っから言葉が通じるんだ?
まずは俺が味方だってことを伝えなくちゃいけない。
どうしたらいいのか考えた末に「餌付けだ!」と、思いついた。
早速台所に食べ物を探しに行く。(といっても振り向けばもう台所だ)
うちにあるべ物といえば、パンにレトルトのご飯にカレー、野菜が少しとハムに卵。それからリンゴとバナナにカップ麺。
人魚が食べそうなものがわからなかったが、とりあえず、パンとリンゴを持っていった。
「ほら、腹減ってないか?」
そう言って、バスタブに向けてパンとリンゴを差し出すも、人魚は目から上だけを水面からのぞかせて、じっと黙っている。
「毒なんか、入ってないぜ?」
そう言って、自分自身が食べてみせた。
パンは、濡れたら不味くなりそうなので、リンゴをかじってみせる。シャクッと小気味いい音が浴室内に響いて、甘酸っぱい匂いが広がった。
かじったリンゴを、人魚の方へ差し出す。
じっ。
人魚の目がリンゴに釘付け。笑う。これは、脈があるかもしれない。
ゆっくりと目の前でリンゴをもう一口かじってみせる。
リンゴが動くたびに、人魚の目も一緒に動くのが、めちゃくちゃかわいいじゃん!! これ萌える。
「ほら、美味いよ?」
そう言って、腕をめいいっぱい伸ばして人魚に向かってりんごを差し出した。
……………………ぐぅぅぅきゅるるるぅぅぅぅぅぅ……………………
思わず俺の動きが止まる。人魚が、リンゴではなく俺の顔をみていた。まるっと五秒くらいは見つめ合っていたかもしれない。
何今の? もしかして、人魚の腹の音?
「ブハッ!」
思わず吹き出した。
大笑いしたら、風呂の中から水がバシャバシャと大量に飛んでくる。どうやら人魚は笑われたことに腹を立てたらしい。俺は慌ててリンゴを放り出し、風呂場から退散する。
「ごめんごめん。お腹へってたんだよな。ほんと、そのリンゴ美味いよ。この時期だから輸入もんだけど。リンゴってさ、体にいいんだぜ?」
母ちゃんが、料理めんどうなときはリンゴ食っとけって言ってたもんな。
俺はそう声をかけてから、濡れちまった服を着替える。今の時期は楽でいい。Tシャツに下はステテコでいいや。
着替えてから浴室をのぞくと、空っぽの洗い場に、リンゴの芯だけが転がっていた。
よしよし。
どうやら人魚は、りんごを食べるようだ。
あれだけ盛大に腹の虫が鳴いてたんだから、一個くらいじゃ足りないかもしれないだろ?
風呂場を覗いた俺の手には、次なるリンゴが握られている!
作戦を遂行すべく浴室内に一歩踏み込む。洗い場で腰を下ろしりんごを持った手を、めいいっぱい伸ばした。
浴槽内でこちらを見ていた人魚が少しだけビクッとしたが、騒いだり逃げたりすることはなく、じっと俺の方を見ている。
「うまかったろ? もう一つ、いらねえ?」
ほら、というように腕を動かす。
さっきまで、目から上だけを覗かせていた人魚だが、今は人魚の首までが水の上に出ていた。次に肩。丸みを帯びた胸。あー、いかんいかん、つい目が!
「Θ△✕Λδ◇◯Ε……」
人魚がなにかしゃべるのだが、俺にはわからない。
「どーぞ」
静かな声で、そう返してやった。
すると人魚の腕が恐る恐るという感じで、俺の腕の先のリンゴへと伸びてくる。
人魚がまったく怖くないといえば嘘にる。
未知との遭遇。俺は人魚のなんたるかなんてこれっぽっちも知らない。でも、俺のほうが怖がってるなんて、おくびにも出さずに、俺は腕をピンと伸ばし続けた。
ついに人魚は浴槽から身を乗り出して、りんごに手を伸ばす。
束の間。俺の手と、人魚の手が、りんごをはさんで繋がった。
人魚はりんごを掴み取ると、素早く浴槽の中にもどっていく。それでも水中にすっかり潜ってしまわずに、その目は俺から離れない。
じっと、俺を見つめたまま「しゃり」と、リンゴを食んだ。
シャリシャリシャリシャリ……。
あんがい、口、小さいんだな。小さい口でシャリシャリ食うのが小動物みたいだななんて、ふと口元が緩む。
その俺の表情の変化を見ていた人魚の顔にぱあっと赤みがさす。
「□μΕΦ◯δ」
「ごめんな、わからない。それ、食っちゃっていいよ? まだあるし。なんか食いづらかったよな。今度は皮剥いてやるな」
なるべくびっくりさせないように、静かな声で語りかけると、人魚は赤い顔をしたまま、またりんごを食べ始めた。
そうして芯だけになると、身を乗り出して、俺の目の前にそれを置いた。