最初の街-3
カレンは宿を出て街中を歩く。その歩行速度はあまり早くない。やがて彼女は、ある建物の前で足を止めた。
それは古ぼけた社だった。入ると、中には誰もいないようだ。がらんとして静かである。奥に何か見える。黒い四角柱の形状だ。モノリス、と形容すればいいんだろうか。よく見れば、僅かに宙に浮いている。
「これは交神石と呼ばれるもので、触れると高位存在とコンタクトを取る事が出来ます」
俺がその物体に驚いていると、カレンが説明してくれた。俺はゴクリと唾を飲み込む。この交神石という物体、凄まじい。何か肌に異質な雰囲気が染み込んでくるようだ。大きな神社や寺なんかは独特の雰囲気があると思うけど、アレをもっと濃密にしたような、人を惹きつける神聖さがある。
そして交神石の色もまた恐ろしかった。真黒である。混じり気のない、見た事もないような恐るべき黒。俺は誘蛾灯に群がる蛾のように、その黒に引き込まれた。吸い込まれるように交神石に手を伸ばした俺だったが、すんでのところでカレンに咎められた。
「それに触れてしまえば、後戻りは出来ません。炎命者になれば、これからの人生に安寧はないでしょう」
カレンの言葉は意外にも厳しかった。が、不安や心配といった要素も感じ取れた。それだけ炎命者というものが過酷なのだろう。しかし彼女の俺に考え直させるような発言は、逆に俺を燃え上がらせた。
「安寧はない。平穏な生活は出来ない。そうこなくっちゃ!」
俺は笑った。穏やかな人生なんて、もう前世で経験してる。そりゃあ一から十まで経験したわけじゃない。だがそれよりもずっと、一味も二味も変わった人生を送りたいと思っていた。どこか心の奥底で普通の人生というものに引っかかっていた。きっと性に合っていないのだろう。
迷う事なく交神石に触れた俺の意識は、みるみると薄れゆき、瞼は鉛のように重くなっていく。それは眠りにつくような感覚だった。
まどろみの中で目を開けた俺の前に現れたのは、一面真っ白の空間だった。上も下も左も右も真っ白。境目などなく均一に白いので、地に足が着いていないような感覚だ。頭がおかしくなりそうな所である。
そんな空間に俺が面食らっていると、何か上の方から光を感じた。見上げてみると、見た事もないくらいに美しい、女性のようである。綺麗な着物を着ており、(風はないのに)羽衣が滑らかに揺れてなびいている。 手には、黄金と黒の調和が鮮やかな扇子を持っている。
それはまさに、舞い降りてきた。重力に逆らうようにゆったりと。彼女(?)は赤々とした目で俺をじろじろと見ると、くくくく、と笑いながら口を開いた。
『ようこそ、少年。よくぞ来てくれた。歓迎しよう』
「……あんたが、高位存在……」
『そうとも。少年、お前さんは炎命者とかいうものになる為、ワシと契約しに来たんじゃろう?』
彼女(という括りでいいのかは分からないが)の問いに、俺は力強く頷いた。
『よろしい。素直な子は好きじゃぞ?』
彼女はまたくくく、と笑いながら高らかに叫んだ。
『誇れい、少年よ!お前さんは今日から、有象無象を遥かに超えた究極の存在と成るのだ!』
刹那、凄まじいほどの閃光が辺りを染めた。閃光、と言うよりは後光と言うべきか?とにかく、どこか神秘的で暖かな光だった。しかし、いくら神々しい光だとしても、眩しいのは眩しい。俺は反射的に目を瞑った。
すると、腕が、足が、焼けるように熱くなった。腹の奥がじわりと染み込むように熱を帯びる。今の俺は、えもいえぬ万能感があった。筋肉がついて、重い荷物も軽々と持てるようになった時、それを何倍何十倍にもしたような、力と自信が漲っている状態である。
目を開ける。とにかく、いい気分だ。小踊りの一つでもしたいような。前世で俺が憎んでいた人間(俺を腫れ物のように扱ってきた奴)など、今の俺には蟻に等しいちっぽけな小物だと思う。炎命者というのはこんなにも凄いのか、と思った時、ある単語が脳内に浮かんできた。
「そうだ、代償……」
炎命者になったのだ。見返りとして俺の何かを差し出さなければならない。覚悟は出来ているが、いざ代償を払うとなると、やはり少し緊張する。緊迫から来る喉のヒリつきを抑えようと、ごくりと唾を飲み込むと、彼女はからからと笑った。
『よい、よい。ワシは今すこぶる機嫌が良い。少年よ、お前さんは幸運じゃ。高位存在が無償で力を貸す等、本来あり得ん事じゃからのう。しかしワシは貸そう。なんといっても、ワシはその辺の有象無象とはわけが違うからのう』
そう言って、扇子で俺を差した。なんて素敵な神サマなのかと驚いた。現金な男だと自分でも思う。俺は思わず、神社にお参りする時より明らかに自然な動きで、感謝の言葉と共に頭を下げた。
『おう、おう。殊勝ではないか。だが覚えておけよ少年。ワシは代償など要求せん。今は、な。しかしいずれお前さんは、ワシに土下座してでも代償を払わせてくれ、と泣き叫ぶじゃろう』
「そんな事……」
『ああ、心配せんでも他の炎命者並の力は貸してやるとも。しかし少年。お前さんはそこで満足するような男かのう……?』
そう言って彼女は、にやりと不穏に少し口角を上げた。
『ま、ワシの戯言など気にせず、お前さんの好きに生きるが良い。ワシに出来るのは見守る事と、少しばかり力を貸してやるくらいじゃ』
高揚感に浸っていた俺が、なるべく明るく丁寧に返事をしようとすると、そのぎこちなさに、彼女は堪えきれぬとぷっと吹き出した。
『遠慮はいらん。ワシとお前さんはこれより相棒の間柄。慣れん敬語など使うもんでもない』
「そ、そういうもんかね……」
『おうともさ。ワシに限っては、な』
扇子を広げ、ぱたぱたと優雅に仰いでいる。
「それじゃさ、名前」
『ん?』
「相棒なんだろ?名前、聞いとかなきゃって。俺はトキト。あんたは?」
『特に決まった名など無いが……そうじゃな、ラティアとでも呼んでくれ。まあお前さんが死ぬまでの間、よろしくな、トキト君?』
そう言って彼女、ラティアは口元を扇子で隠し、目を細くした。笑っているのだろうか。とにかく、上機嫌のようだった。
『では少年。懸命に頑張りたまえよ』
ラティアはぱちん、と指を鳴らした。その時俺は瞬きをした。
その瞬きほどの間で、辺りの風景はがらりと変わった。一面真っ白な空間から、目の前に交神石が浮遊している社へと。隣には心配そうにこちらを見ているカレンの姿が見える。どうやら戻ってきたようだ。
「……どうでしたか?」
「……ああ。大丈夫だよ、見事成功。俺も今日から炎命者だ」
俺が機嫌よく笑いかけると、カレンもにこやかに笑い返してくれて、ひとまず安心しました、と息をついた。
「それで、なんだけどさ。カレン達は仇魔ってやつを倒すために旅をしているんだろ?」
「ええ、そうですね」
「頼む。俺もその旅に加えてくれ」
俺は頭を下げた。人に素直に、心から頭を下げるなんて、前世では数えるほどしかない。カレンはいきなり頭を下げられたからか、あたふた慌てていた。
「えっ、と……もちろん私としては歓迎します。他の方もそうでしょう。しかし、良いのですか?」
「何がだ?」
「いつ死ぬとも分からない旅ですよ?」
「承知の上だ」
俺の言葉に嘘はない。俺は心の奥底から、そうしたいと思っていた。何度自分に問い直しても、俺は炎命者になりたいようである。ならば迷う必要もない。
「旅に同行出来るかは、他の方にも話さなければいけませんが……もちろん私からも口添え致しますから、心配いりませんよ。では改めてトキトさん、炎命者としてよろしくお願いしますね」
明朗な口調である。カレンが手を差し出したのが見えた。顔を上げると日輪のような輝かしい微笑みを見せている。気持ちが熱を持った俺は、カレンの手を取り柔らかく握った。
カレンもしかと握り返してくれたようだったが、想像通りそこまでの力は感じなかった。弱々しいなと思ったが、女子の事はよく知らないので、こんなものなのかもしれない。