夢現-2
今俺が見ているのは、夢なのだろうか。……いや夢は、夢でも悪夢の類だ。これまでの経験から、俺は目の前にいる、ユイという仲間を警戒してしまっていた。どうしたのかと近付いてくるユイから、じりじりと距離を取る。
「……トキト?」
「ああ、いや……すまない。少し疲れててな。ちょっとだけ、一人で考え事でもさせてくれ」
ハッキリ言って、今の状況は異常だと思う。夢から覚めたら、また夢だった、というのは、今まで経験した事が無いし、夢の中でこれほど明晰に思考出来ているのも、また記憶に無い。もしかすると、この一連の夢は、仇魔の仕業なのではないか、という疑念が頭をよぎった。確証は無いが。
そんな事を、俺が額に手を当て、うんうん考えていると、不意にセレインが俺の腕を掴んできた。
「ど、どうかしたのか……?」
セレインの無表情に、俺は冷や汗をかいた。嫌な予感を、肌で感じていた。
セレインの、俺の腕を握る力が、どんどんと増していく。ぎりぎりと、腕が、骨が、きしむ音がする。凄まじい力だ。顔が歪むほどの痛みに、なんとか抵抗しようとしたが、炎命者としての力が使えない俺が、常軌を逸した力のセレインを、振りほどけるはずも無かった。
嫌な音と共に骨が砕ける。俺の腕がセレインの女性的な手に握り潰されて、くっきりと手の跡が残され、ひしゃけていた。俺は、激痛響く腕を抑えながら、呻いた。また炎命者としての力が働かず、痛みが回復しない。セレインが、悶絶している俺の腹部を蹴り上げた。その衝撃に、吐瀉をしてしまう。
悪夢は、まるで致死毒のように俺の精神を蝕む。抵抗する気力、仇魔を倒すための作戦を練る気力が、だんだんと薄れていく。これが仇魔の狙いだとすれば、成る程、実に効果的だ……!
セレインが、拳を振り上げる。とても躱せる速度じゃない。防御しようにも、腕が上がらない。あれを食らえば、さぞ痛いだろう。……参ったな。
「……ッ!?…………成る程、良し」
……俺が悪夢から目覚めるのはついに三度目だ。今回は夢か現実、一体どちらだろうか。……いや、もし今までの悪夢が、仇魔の仕業によるものだったら、ここでそれを解くメリットは何処にある?奴は何故、あんなにも繰り返し悪夢を見せたんだ?俺の精神を、壊すためじゃないのか?俺はまだ、挫けちゃいない。それは仇魔だって、分かっているはずだ。
幌をめくった。何処までも、美しい花畑と、青々とした木々が見える。木々の香り、そよぐ風。あらゆる全てが、現実の出来事だと錯覚させるに十分だ。だが、これもきっと、夢の中の蜃気楼。意味は無い。
炎命者としての力が使えない。これが現実の出来事なら、あのラティアが、たかだか仇魔如きの妨害を受けるとは思えない。ならば、夢だろう。
仮に俺の予想が頓珍漢で外れていたとしても、仲間達に、奇行を心配されるくらいだ。ならば存分にやる。今回の夢で仇魔を確実に仕留めてやる……!
此度の仇魔は、恐らく夢を操るだとか、そんな奴だ。こいつを何とかするために、パッと思い浮かんだ方法は、ざっと二つ。
一つは、仇魔の本体を探して倒す事。人を幻惑する術を使ってくる敵は、本体を倒せば幻惑から脱出可能なのが、お約束だ。それにすがる。
もう一つの解決方法は、おそらく、現実の俺は今寝ているはずだ。周りに、仲間達も居るに違いない。その仲間達に、任せてしまう事。これだけの悪夢を見ているんだ。現実の俺は、呻いたりしているのかもしれない。仲間達が、そんな俺の異常に気付き、何とかしてくれる可能性にすがる。ただこの選択肢は、仲間達も、今の俺のように、悪夢に苦しんでいる可能性があるので、取るべきではないだろう。
なら、決まりだ。仇魔を探して、仕留める。今の所は、それしか考え付かなかった。
まず仇魔の居場所だが……そもそも、奴の本体はどっちにあるんだ?夢の中か?それとも現実か?現実だったのなら、もう仲間達に任せるしかない。俺が今すべきなのは、仇魔の本体は夢の中に、という憶測だけで組み立てた、脆い推論にしがみ付いて、こんな悪夢を見せている仇魔を、必死こいて探し出す事だ。
そう決意して、俺が馬車を出るために幌をめくると、カルロがそれを遮るためか、服を掴もうとしてきた。
「悪いな、少し外すぞ!」
すんでの所でそれを躱して、馬車の荷台から飛び降り、辺りを見渡す。仇魔に攻撃を受けている、と仮定してみたが、それは憶測による物。敵が何処にいるのか、そもそも本当に居るのかどうかは、分からない。
とにかく、俺は走った。それで都合よく解決法が見つかるとも思えないが、それでも何かせずにはいられなかった。
懸命に新緑の中を駆けていると、背後から黒いヘドロの波が、緑の大地を染め上げながら押し寄せてくる。なんという速さだろうか。炎命者としての力が使えない、一般人程度の速度しか出せない俺は、瞬く間に追いつかれそうになる。
それでも必死で走る俺だったが、突如、透明な壁のようなものにぶつかった。急な異変に困惑している俺に、混濁とした汚泥がどんどんと迫ってくる。慌てて透明な壁を叩くが、全く手応えが無い。
逃げ場が、無くなった。迫るヘドロが、地面に生えた若葉を溶かしていく様を見て、俺は死ぬのか、と思った。
刹那、俺の脳裏に、ある考えが浮かんだ。
-何故、俺はこんな窮地に追い込まれているんだ?
……そもそもここは、俺の夢の中のハズじゃないか。なんで自分の夢の中で、仇魔に好き放題されて、泣きべそかかなきゃいけないんだ?ここは、俺の場所だろう。
夢の中なら、どんな不可能だって思いのままさ。現実でやりたくても出来ない事だって、夢の中なら叶う。そうだ、本来なら此処は、俺が願う事の、何もかもが叶う場所だろうに……!
自分の夢を、仇魔に支配されている。蹂躙されている。これほど不愉快な話があるかと思うと、ふつふつと気力が溢れてくる。
俺は、意を決して目をかっ開き、迫り来る汚泥の方へと振り返って、虚空を掴んだ。それは丁度、炎命者としての力を解放し、神具を使う時のように。
「俺の夢を!仇魔如きに好き放題されてたまるものかっ!俺の夢は、俺のものだ!」
そう叫んで、何かを虚空から引き抜いた俺の手には、今まで使える気配が無かった、神具クリストラがあった。神具は、眩く光を放ち、まるでモーセが紅海を割ったという伝説のように、黒ずんだ汚泥を、真っ二つに浄化する。神具の聖なる輝きを浴びて、ヘドロが消えた後に見える地面から、再び若葉が生え出した。
「さあ頼むぞ神具よ!地の果てまで仇魔を追い詰め、仕留めてみせろ!」
俺は槍状の神具、クリストラを肩に担ぎ、真上に向かって力一杯放り投げた。上空天高く上がったクリストラは、暫く静止し、びいんと獲物に狙いを定めると、目にも止まらぬ速さで、一直線に飛んで行った。
クリストラが着弾したのは、少し前に俺が居た、ラーハが牽引している馬車だった。荷台の幌や木が飛散するものの、そこに人の姿は無い。俺が走って向かうと、そこには、足と鼻が短く、顔は凹んで潰れた、象のような仇魔が倒れていた。そいつは、ただぴくぴくと痙攣しているだけ。最早虫の息である。
「……良い夢見れたかい」
そう言って光輝く槍を、伏した仇魔の腹に突き刺した。仇魔は瞬間、びくんと跳ねると、最早微かにすら動かなくなった。
ぱきん、と乾いた音が空から聞こえてきた。見上げると、青々とした空はみるみると色を失っていき、亀裂が入って崩れていく。仇魔に支配されていた悪夢から解放されるのだ。
俺は、ふう、と一仕事終えた後の、清々しい心地で息を吐き、腰を下ろして座り込んで目を閉じる。夢の中で眠る、というのもおかしな話だが……しかし俺は、夢の中で眠りについた。
意識は薄れ、しかし覚醒していく。……何を言っているのやら、と思うかもしれないが、夢で眠って、意識が薄れて、という事は、現実に戻るという事であって。そういう意味では、今は目を覚ましている最中なのである。複雑な話だが。
身体がふわりと浮いた後、ずしんと沈んだような、言わば地に足が着いた感覚がしたので、俺はゆっくりと目を開けた。
「おはようございますトキトさん。……少しうなされていたみたいですけど、大丈夫ですか?」
目を覚ますと、カレンが心配そうに尋ねてきた。
「ああー……カレン、今俺が居るのは……現実だよな?」
「え、ええ、そうですが……」
「そうか。……なら良いや。そうだ、紅茶でも入れてくれないか。悪い夢を見たんでな」
そう言うと、カレンは柔らかに微笑み、小さなカップを取り出した。彼女の優しい笑顔に、思わず安堵したが、しかし本当に今は現実なのだろうか。
『それは、ワシが保証しよう。もうお前さんは、仇魔の悪夢から目を覚ましたよ』
寝起きで重たい頭の中で、ラティアの声が鳴り響いた。しかし、分かっていたなら助けてくれても良かったのに。いや、助ける必要も無かったのか。
『お前さんが絶体絶命の窮地になれば、助けたとも。しかしな、あの仇魔は人の夢に入り込み、悪夢を見せて、持ち主の精神を崩壊させ、やがては完全に自らの物に支配するのじゃが……ふふ、そこはお前さんの精神が強靭だったのかのう。何度も悪夢を見せられても、随分と余裕があったのでな。お前さんに任せて、静観させてもらったよ』
何だ、そうだったのか。でも結構危なかったと思うけどなあ。
『早い段階で、これは仇魔の仕業と気付いたのが功を奏したのう。早期発見が健康の源ということじゃな』
ははは、という高らかな笑い声が、次第に遠ざかっていく。
「トキトさん、出来ましたよ」
消えゆくラティアの声をぼうっと聞いていると、カレンが湯気の立ったカップを差し出してくれたので、俺はありがとう、と心から言葉にして受け取った。
「いいなー、カレンちゃんに入れてもらえるなんてよう」
ぶつくさとカルロが不満気に呟くと、カルロさんも如何ですか、とカレンに気を遣われて、彼はぶんぶんと手を振って取り乱した。そんな、気を遣わなくても、いややっぱり頂いちゃおうかな、いやいやこういうのは自分で入れるのが出来る男なのでは、と慌ただしい。
仲間達の寝息が響く中、そんな馬車内の様子を見ながら、俺は紅茶を口にした。俺がこれまで慣れ親しんでいたような、スッキリとした紅茶の風味では無く、渋味の強い味だったが、不思議な事に、疲れた身体には何でも美味く感じるものだ。しかし、夢と現実の境が曖昧な状態から解放され、今自分は現実を生きているのだ、と実感すると、いつもの空気の味すら、新鮮に思えた。