夢現-1
俺たちの旅において、眠っている時間というのは、かなりを占める。炎命者としての力を使うというのは、相当に体力を使う事だからだ。
この日においても、そうだった。馬車内は暖かく、明かりのための小さな火が、催眠術の振り子のように、ゆらゆらと揺れている。微かに外から聞こえてくる風の音が、優しく眠気を誘う。誰かの小さな寝息が聞こえる。
いつ仇魔が襲ってくるのか分からない上、こんなに穏やかな日はそうそうないので、出来れば今、眠っておきたい。
うつらうつらと、俺の首が揺れ、意識が遠のいていった時、荷台の外に居る、ラーハの手綱を握っていたアーシエが、少しだけ幌をめくり、声を潜めて、なあトキト、そろそろ変わってくれないか、と言ってきた。
他の仲間達はだいたい寝てしまっているし、わざわざアーシエの頼みを断る理由も無いか、と快諾し、今度は俺が馬車の手綱を握る事になった。
馬車内から見えるのは、少し汚れた白の幌だけだったが、馬車を走らせる御者になると、鮮やかな外の景色を見る事が出来る。
七色の花畑が、木々の間から落ちる光を弾いて、きらきらと輝いている。所々、仇魔が到来したと見える、荒れた跡も見受けられたが、それでも、この生命力溢れる、春只中のような光景は、疲弊した身体の気怠さを落としてくれる。
辺りを見渡しても、仇魔の気配は無く、こんなにのどかな時間は久方ぶりだったので、手綱を握りながら、俺は眠気眼を擦った。アクビを、一つ。木々の花びらが、風に吹かれて宙を舞い、鼻の穴に入ったので、俺は大きなクシャミをしてしまった。
した後、しまったと思った。今ので、馬車内で寝ている皆を起こしたかもしれない。ラーハは利口な馬なので、少々ほっておいても、あちらこちらにうろつかかず、しっかり真っ直ぐ走ってくれるので、ちょっぴり手綱を離して幌をめくり、大丈夫かな、と覗き込んでみた。
そこにあったのは、異様極まる、ヘドロと形容するしかないような物体だった。黒紫の、ネバついた、固形の如き液体に浸された、皆の身体からは、焼け焦げる音と臭いと煙が上がり、ドロドロと、仲間達の身体は溶けていく。ヘドロの表面には、頭髪や目玉が浮かんでおり、助けて、痛い、という悲痛な声が聞こえてくる。
「……どうなって……!皆!大丈夫か!!」
俺が皆に近付こうと、ヘドロに接触すると、俺の足も溶け始めた。凄まじい高熱に、歯を食いしばりながら進もうとしたが、足が言う事を聞かない。どうした事かと思うと、成る程……!溶けた足が再生していない。だから、どうしたんだ!仲間の危機なんだ……!足を動かさずにどうするというか、と懸命に進む。
最初は膝くらいの高さだったヘドロも、足が溶けていき、もはや俺の腰の上まで届くようになっていた。それでも必死に前へ進もうとするが、ままならない。目の前に、カレンが俯けになって浮かんでいる。ああ、あともう少しだ……!もはや俺の頭の中は、激痛と、目の前のカレンを助ける事しか無かった。それ以外を考える余裕が無かった。
俺は、カレンに手を伸ばす。しかし、それはカケラも届かなかった。無情に溶けていく俺の身体は、ついに腕すらヘドロに浸かり、そして無くなっていく。身体のほとんどが、溶けて、消えた。どうしようもなく、意識が遠のいていく。痛い。苦しい。辛い。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、こんなのは嫌だ……!どうして、こんな……
「……………ッはあーッ!!はあっ!はあっ……!はっ……」
跳ねるように飛び起きた俺の目に映ったのは、目をパチクリさせているミカノだった。
「ど、どうしたのよアンタ……汗びっしょりだけど」
そう心配された俺は、取り乱した荒い息を整える。
……さっきのは、夢だったのか……酷い夢だ。悪夢にも程がある。しかし、妙に現実感のある夢だった。感じた痛みも、現実のそれと遜色なかった。……うう、頭が激しく痛む。
「……本当に大丈夫ですか?何だか顔色が悪いんですが……」
「ああ、大丈夫だ……ただ、何か暖かい飲み物が欲しいかな」
あんな悪夢を見るなんて、余程疲れているのだろう。甘味料が不足して入れられなくとも、この馬車のホットコーヒーや紅茶は、中々美味しい。少し安っぽい、インスタントのような味だが、それがまた良かったりする。それを飲めば、疲弊した身体に優しい温もりが染み渡り、疲労も取れるというものだ。
「はい、どーぞ!コーヒーだけど良い?」
元気良く、リリィがコップを手渡してくれた。コップから湯気が立ち上る様子を見て、俺は思わず息を吐く。嫌な夢を見た後は、美味いコーヒーを飲んで安心しよう。そう思って、俺はカップの中を覗き込んだ。
そこには、幾つもの人の目玉が、ぷかりと浮かんでいた。俺が反射的にカップから手を離すと、落ちたカップは割れ、床にコーヒーと目玉が散らばった。
「おい、どういう事だっ!?」
慌てて俺が顔を上げると、仲間達の眼球は、無かった。ただぽっかりと、えぐり取られたような、黒い穴が開いていた。
「だ、大丈夫か!?」
その時の俺は、異常事態に、頭が上手く働いていなかった。ただ仲間の異様に慌て、警戒の一つもせずに、ノコノコと近付いた。
瞬間、俺の腹に、普段調理器具として使われているナイフが、深く突き刺さった。俺は思わずうめき声を上げる。また、治癒出来ない。いつものように、激痛がすぐ引かない。炎命者としての力が、使えない。
俺にナイフを突き刺したリリィの、狂気じみた笑い声が、馬車内にいつまでも響き渡っていた。吐き気のするような痛みが脳内を駆け巡る中、俺の意識は、ゆっくりと消えていった。
「……うおおおっ!!……はあっ!はあっ!はあっ……」
「……どうかした?」
反吐が出るほどの悪い記憶から逃避するように、勢いよく跳ね起きた俺を、ユイがじっと見つめていた。
……また、夢だったのか。……待て、今回も、そうなのか?俺は今、どっちにいるんだ?現実なのか?夢なのか?俺はまた、夢を見ているのか?目の前にいるユイは、現実のユイなのか……?
あの夢は、あまりにも、痛みや苦痛のような感覚が鮮明だった。夢と現実との境目が、どんどんと薄れていくのを感じる。もはや何が虚構で、何が現実であるのかが、今の俺には区別がつかなかった。