最強の敵-1
野菜や肉を、出し惜しみせずにじっくり煮込み、丁寧に調味料を加え、美しく盛り付けられた食事を、しばらくして目を覚ました、カレンとリリィと共に頂いた。舌の上で溶けるように柔らかい肉は、身体の隅々まで力を与えてくれるものだ。
そんな食事の場は、賑やかでは無かった。今この時を噛みしめるかのように、箸を、スプーンを、会話もほとんど無しに、粛々と進める。
食べ終わると、魔神主柱の事は触れず、当たり障りのない世間話に努める。また死ぬ時に走馬灯を見るとしたら、今日この日が一番色濃く現れるだろう。それほどに、良い一日だったと思う。過酷な戦いを控えた状況での、安息なひと時というのは、それだけ印象深い。
それから深い森を抜け、何日経ったのだろうか。とにかく、長い旅路に思えた。俺たちの馬、ラーハは大人しい。下手くそがやっても暴れる事は無いらしく、俺も馬車の手綱を握ったりしたが、まさに快適。何の問題もなく歩を進めるラーハに、うきうきと心を弾ませるはずだったのだが、これがまた驚くほどに退屈だった。
なんせ周りに何も無い。街も、あるいは岩や木々などの自然も、あるいは仇魔すらも。全く見かけないのだ。あるのは荒涼とした、がらんどうな風景だけ。旅を楽しむどころではない。
それに日々を重ねるにつれて、気分が悪くなってくる。目覚めるたびに瞼が重く、吐き気もするし、睡眠時間もどんどん少なくなっていく。酸欠なのか、頭が痛くて仕方ない。寝たいのに、勝手に目が覚めて、勝手に眠気が酷くなる。滑稽である。
リリィとミカノ曰く、どんどんと魔神主柱が居る空間に近づいているらしい。ああ、この悪寒。身体の内部を締め上げるような力の波動。魔神主柱という奴は、どれだけ強いのだろうか。胸が高鳴るどころではない。ただ姿の見えない敵に怯え、生命の危機を感じている俺が居た。
情けないとは思わなかった。それだけの相手だ。そうこなくては。ふつふつと、心の奥底から闘志が湧いてくる。やってやるぞ、と飯を食おうとしたが、吐き気がして中々喉を通らない。皆も非常に顔色が悪い。
前もこんな感じだったのかと聞くと、前とは比べものにならないとの事。実に先行き不安である。だが、たとえどんなに不安視しても、やがて戦いの時はやって来る。それも、ひどく突然に。
その時の俺は、夢うつつだった。この後に待ち受けるであろう戦いに備え、呑気に休息をとっていた。カップに入れたホットチョコレートを、ぼうっとかき混ぜて、具合が悪い中何とか飲み終わると、腹が少し膨れたからか、なんだか眠くなってきた。あくびをして、瞬きを一つ、二つ。
刹那、何の前触れも無く、周りにいた仲間が姿を消した。身の毛もよだつような出来事に、目を見開いて立ち上がり、警戒態勢を最大限にして、馬車から飛び出し、姿の消えた皆の名を叫ぶ。
「アーシエ!リリィ!ミカノ!ユイ!カレン!何処だ!」
頰に冷や汗が伝う。辺りの異様な雰囲気に呑まれ、まともに息も出来ないため、呼吸を整えようとしても、空気がまるで身体に入ってこない。そんな、荒い呼吸を繰り返す俺の背後から、聴きなれない声がした。
「居ないよ」
俺は後ろに飛び、声の主から大きく距離を取った。そいつは、男とも女ともはっきり分からない、中性的な見た目をした奴だった。まるで人間と区別がつかないような姿をした奴だった。
透き通るような美しい肌、全てを見透かすような知的な瞳、緩やかに脳を癒して犯すように響く声、細いようでしっかりとした身体つき。清らかな川の流れのような髪。
その全てが芸術品のように、目もくらむほど美麗に整っていたが、俺はそんな美しさが、むしろ怖くて、不気味で、仕方なかった。見た目こそ素晴らしかったが、そいつの本質は、途方も無く、まるで測れるものではない。ただそいつからは、漠然と、死の香りがした。
どこまでも大きく、ぼんやりと、しかし確実に、恐ろしい力を持っている、という事は相対すれば誰にでも分かるような、相対した時点で、並の生物は生きる事を諦めるような、そんな雰囲気を、そいつは持っていた。常に喉元と心臓に刃を押し当てられている気分だ。俺は死ぬのか、といった考えが、脳内で稲妻のように走り続けている。
「そうなると、君も居ない事になるのかな?」
そいつは、一見人の良さそうな笑みを浮かべる。意味深な言葉を受け、周囲を流し目で見ると、馬車の姿が無い事に、俺は声を発さずに驚いた。いや、それだけでは無く、辺りの風景そのものも変わっている。
ただ彼方に地平線が広がるだけだった荒野から、初めてラティアと会った時と似て非なる、上下左右手前奥、空間全てが灰色の場所へと。
「お前……!皆を何処にやった!」
そう聞いた俺の手は、恐ろしさから来る底冷えで震えていた。
「別に死んでないよ。まだ。後で殺すかもしれないけどね」
『空間移動、あるいは空間創造……。お前さんの仲間を、何処かの空間に閉じ込め、お前さんもこの空間に連れてきたか。しかし、どちらにせよ……』
ラティアの声が聞こえた。ああ、分かってるよ。どちらにせよ、比類無き強敵って事だろう。そうだ、そんな敵と、戦うと決めたじゃないか。自分に嘘を付いて、どうするんだ……!
「構えろ化け物……!お前は敵だ……!」
俺が、今にも倒れて、気を失ってしまいそうな身体を必死で繋ぎ止め、そいつに向かって気を吐くと、そいつは無表情で首を傾げた。
「……おかしいな、こんな人間の理想像みたいな姿の僕に、戦う気が起きるのかい?」
「お前は尋常じゃない力を持ってるよ……分かるとも、お前が、魔神主柱って事は……。なら、俺の敵だ……!たとえお前がどんなに美しかろうと、素敵だろうと、魅力的だろうと!……敵なら倒す。それだけだ……!」
そいつ、魔神主柱は、俺の言葉に笑った後、静かに、無表情でこう呟いた。
「魔神主柱。知らないなそれ。僕の事かい?……まあ、君がやる気なのは分かったよ。
……そして、命知らずだって事もね」
瞬間、先刻までとは次元が違うほどの殺気が乱れ飛ぶ。肌が焼けるように熱い。最早、今自分が生きているのか死んでいるのかすら分からないほどに、鮮明な死の情景が、俺の脳裏を離れない。自分というものが宙ぶらりんの状態だった。
ああ、だが。生死なんてどうでもいいさ。俺は今ここに居て。この魔神主柱と相対していて。そしてこれから勝つんだ。それだけがあれば良い。
俺は笑った。精一杯虚勢を張って、笑わないと狂いそうだった。いや、元から狂っているのかもしれない。対して魔神主柱は無表情だった。怒っているのか、悲しんでいるのか、推し量ることすら出来ない表情で、言った。
「面倒事は嫌いなんだ。だから、わざわざ人に攻撃されないような姿にしてるのさ。そんな僕相手に、足掻いて、手間をかけさせようって言うんだ。……勝てないって絶望しながら、精々無様に、無駄に生きてご覧」
「ああ、無様に、お前より長く生きてみせるさ」
「素敵な挑発ありがとう。下らないから死んでもいいよ」
魔神主柱は、一歩だけ、前に足を踏み出した。すると、魔神主柱の足元の、灰色の空間は、まるで理外の重量に耐えられないかの如く、ヒビが割れたように歪んだ。
魔神主柱の圧というか、殺気によって、もう俺は肌の感覚が無い。奴は、身長だけで言えば人間大だが、その存在の大きさは、あらゆる建造物よりも巨大で、終わりが無いように思える。とにかく、絶望的なまでに強い事、いや全貌が不明瞭すぎて、最早強いのかすら分からないほどだ。だが、俺は勝つ。勝つと決めた。
『そうとも、勝つぞ少年』
ラティアの声が響く。ひとまず今回の勝算については、戦いが終わってから考えるとしよう。