屍が踊る街-4
程なくして、遠くから荒々しい獣の雄叫びが、街中に響いた。こちらに向かってくる、地を高速で駆ける無数の足音は、まるで地鳴りのようだ。どうも仇魔は複数いるようである。
テミシェリィは二度、三度、深い呼吸を行って、炎命者としての力を解放した。すると、みるみる彼女の足は、タランチュラのような、毛むくじゃらの八足に変わり……
いや、まさに蜘蛛そのものだ。不気味にうごめくその足は、そういったのが嫌いな人にとって、キツいものがあるだろう。俺は大丈夫だが。
美しい彼女の人間姿と比べ、端的に言えば、醜い見た目をした蜘蛛の足は、美醜の対比からか、かえって彼女本来の美しさを際立たせるものとなっていた。まあ、蜘蛛が醜い、というのはあくまで俺の見方だ。人によっては今の彼女の方がより綺麗と思うかもしれない。
炎命者としての、テミシェリィの蜘蛛の足は、また大きかった。彼女は全長2mほどに巨大化し、手を握っていた俺は上にぐいんと引っ張られ、背の低い子供が、無理につり革を掴んだように、足をピンと張る辛い態勢を強いられてしまった。テミシェリィも、そんな俺の姿に慌てて、申し訳ありませんわ、と謝る。まあ、全然良いんだけどな、と俺は苦笑する。
仇魔の咆哮がすぐそばで聞こえる。かなり遠くで聞こえたと思っていたら、あっという間だ。相当速い。今の俺は、炎命者としての力を使っていない、普通の人間だから、それからはまさに一瞬の出来事に感じた。
まず、二度ほど瞬きをした瞬間。金網に何かが衝突したような音が響いたかと思った直後、俺の足元に、刃物のようなもので斬り刻まれたと見える、黒い毛並みの犬のような仇魔が、バラバラになって転がっていた。馬鹿でかく鋭い牙が、顎からはみ出ている。やたらに筋肉質で、鋼のような身体をしていた。
俺にはまるで見えなかったが、仇魔の死体から推測するに、網目状に張られた見えない糸に仇魔が突っ込み、細切れに切断されたという所だろうか。
仇魔は、バラバラにはなっているが、かなりの大きさが想像出来、およそ5、6mはあるだろう。大型犬というようなレベルでは無さそうだ。
果たして俺の予想通りに、仇魔は巨大であった。かっ、と開かれた鋭い目つきで、腹が減っているのか、口からヨダレがとめどない。
俺の眼前に居る、同胞が無残に殺されたからか、立ち止まって少し様子を伺っていた仇魔は、一呼吸置いて俺たちに飛びかかってきた。危機感を抱いた俺は、反射的に炎命者としての力を解放する。
と同時に、馬鹿め、と心の中で仇魔を嘲笑った。お前の仲間が死んだのが見えなかったのか、お前も、何処にあるかも分からない、テミシェリィの糸に斬り刻まれて死ぬだろうに、そんな事も分からないのか、と。我ながら浅はかな思いなしである。
仇魔は、同胞がバラバラになった瞬間から、糸の位置を推測したのか、何も無いように見える空間で、その強靭な牙を誇る顎を閉じた。ぶちん、と糸が切れる音がした。まずい、突破された。大丈夫なのか、テミシェリィ。
そんな目で彼女を見たが、全く動揺している様子はない。彼女は落ち着き払った真っ直ぐな瞳で、俺を見ていた。結構な窮地なのだ。俺ではなく、敵を見て欲しい。俺はそう思い、仇魔が迫ってきている方向を示した。
しかしテミシェリィは、一瞥をくれる事もなく、ただ静かに、穏やかに笑うだけだった。仇魔が迫ってきているが、そんなもの意に介さない。素早い挙動で襲いかかる仇魔。ゆったりとした様子のテミシェリィ。その対比は、両者の力の差を示しているようだった。
仇魔はその大口を開け、俺たちを食い荒らさんとしている。が、それが実行される事は無かった。仇魔の身体は、人形師の指示を待つ、糸で吊るされたマリオネットのように、口を開けたまま、空中にだらんと浮かんでいる。
炎命者の力を使っている俺には、仇魔の四肢を絡め取っている無色の糸が、かすかに見えた。それは、相当に凝視しなければいけないほどに、絶妙に隠され、景色と同化した透明の糸だった。
瞬間、ひゅおん、と鋭く空気が裂ける音がした。音の正体は、(全く見えなかったが)テミシェリィの力からして、おそらく糸だったと思う。それを横薙ぎにしたのか、一瞬で仇魔は横に真っ二つにされていた。
瞬く間に二体の仇魔が屍と化したが、もう一体、仇魔は残っている。そいつは他の奴らと比べて、圧倒的にデカい。その体高、10、いや15mはある。爛々と目を光らせ、のそりと地面を震えさせながら歩く姿は、まさに仇魔の親玉、といった様子だった。
その巨体はゆっくり息を吸うと、鼓膜が破れんばかりの大音声をあげた。その咆哮の衝撃に、頬が切れて血が流れ、街に張り巡らされたテミシェリィの糸が、ぶちぶちと切れていく。
それは当然、かつてテミシェリィと共に暮らしていた、町の人達を支える糸も切れる事になる。辺りに居た、人の姿を保っていた白骨は、その支えを失い、一斉に地面に叩きつけられ、骨は四方八方にぶちまけられた。
そこに転がっているのが、誰のどの骨なのか、俺にはさっぱり分からなくなってしまうほどに、無残なものである。
テミシェリィはその様子を見て、怒りに震えるかのように、かっと目を開き、仇魔の方を睨んだ。
仇魔は喉奥から低く響く唸り声をあげ、その前足で思い切り大地を叩いた。俺たちの立っている足場が、縦にズレる。そうなれば必然、バランスを崩した俺たちに、仇魔が向かってきた。
またひゅおおん、と空気が切れる音がした。テミシェリィの見えない攻撃が放たれたのだろうが、しかし野生の勘か、仇魔は音と同時に飛び上がり、テミシェリィは攻撃を外した、と眉をひそめた。
続けざまに、仇魔は咆哮と共に大口を開けた。粘ついた唾液が飛来し、俺たちが怯んだ所を、顔ほどあるその牙で噛み付いてくる。それに対し、テミシェリィは、俺の手を握っていた右手をやんわりと解き、仇魔へと向けた。
「控えなさい!」
テミシェリィの怒気を含んだ叫びと共に、巨体の仇魔の動きがびたりと止まった。糸が身体に食い込んでいるのか、仇魔の赤黒いどろどろした血が飛ぶ。
彼女はそのまま、くるりと天に向けて指を立てた。直後、太陽の光きらめいて、仇魔の首が飛んだ。仇魔は血飛沫あげて宙を舞う。もはやその瞳には生の色を感じない。
「……終わったのか?」
「ええ、もう辺りに仇魔の気配はありませんわ」
仇魔の亡骸が、荒涼とした街に、かつての街の住民の白骨と共に、力なく転がっている。テミシェリィは、終わったのか、とホッと一息ついた。
「やったな、大した被害もなく終わって何よりだ。ああ、そうそう、力を抜く時はちょっと俺から離れて……」
そうテミシェリィに忠告しようとした時、彼女は青ざめた顔で、俺の胸に口から血をぶちまけた。そうして俺の服は、すっかり赤で汚れてしまった。
「も、申し訳ありませんわ……」
息が荒く、額に良くない汗が滲んでおり、顔色がすこぶる悪い彼女が俺に謝ってきたので、気にすることは無いよ、と俺は苦笑いしていた。さてさて、これからどうすっかな。彼女から離れないと、炎命者の力を使っている俺も彼女に血を吐いてしまうかも。
しかし、彼女は俺の手を握っている。その力は弱々しいく、疲弊からか震える手で、どうか離れてくれるなと言わんばかりに、懸命に握っている。炎命者としての力を解放した姿である、蜘蛛のような八足も、元の彼女のすらりとした人間の足に戻っていた。
「彼女が落ち着くまで、少し待とうか」
アーシエは優しく言った。テミシェリィの様子は、乗り物酔いで今にも吐きそうな人のようで、口からは薄っすらと血が流れ、目は虚ろだった。おそらく炎命者の力を使った反動に慣れていないのだろう。いや、何度体験しても慣れるものじゃないかも。
とにかく、気分が優れない様子の彼女が落ち着くのに、結構な時間を要した。その間皆は和やかに談笑したりしていたのだが、俺は会話に入れず、ずっとテミシェリィの背中をさすっていた。
「ご迷惑をお掛けしました……」
「いやいや、気にしなくていいって」
時間が経ち、ようやく回復した様子の彼女は、しきりに頭を下げるのだが、正直あの時間は苦でも何でも無かった。むしろテミシェリィの柔らかな背中を触れたのは役得……いや、良くないよねこういう考え。せっかく彼女が俺を信頼してくれていたようなので、それを無視してはいけない。
俺が炎命者としての力を抜くと、大して血を吐かなかった。仇魔と戦っていないからだろう。テミシェリィは、気分の悪さを和らげようと、何度か吸って吐いての深呼吸をした後、寂しそうにこう言った。
「もう、行ってしまわれるのでしょうか?」
その問いに俺は言葉に詰まり、ミカノ達の方を向くと、ミカノは首を縦に頷いた。私達は、そのつもりよ、と彼女は加えた。どうも俺次第、という事らしい。テミシェリィを見ると、前とは少し顔つきが変わっている気がした。
「……そうだな。テミシェリィはどうするんだ?」
聞くと、テミシェリィは少し笑った。すると、街の地面に転がっている、家屋に使われていたと見える瓦礫が持ち上がって、どんどんと積み重ねられていき、やがて、亀裂が入ってはいるが、立派に家の形となった。彼女の力である糸で支えられているのだろうか。
「この街を復興してみますわ。……そう、皆と、一緒に」
そう言ってテミシェリィが後ろを振り返ると、そこには彼女の糸によって二足で立っている、街の人骨達があった。かしゃかしゃ。白骨の動く音がする。まるで生きているようだ。
「そうか。テミシェリィが決めた道なんだ。俺は賛成するけど、大丈夫なのか?」
「……皆を弔うかは、とにかくかつての街の姿を取り戻してからにしますわ。これだけは、一人で決めたいんですの」
「それは何よりだが……どうも寂しいもんだ」
「わたくしも、確かに寂しいですけれど、やはりこの街を捨てるなんて事、出来そうもありませんから。どうか無事と、幸福を。わたくし、皆と共にこの街から、何度だって祈りますわ」
「お互いにな」
「ええ、お互いに」
テミシェリィは、満面の笑みを浮かべた。それはまるで太陽のよう明るく、芸術品のように高貴で、とても、魅力的だった。ここで彼女とお別れか、と思うと、惜しくて切なくて仕方なくなって、いっそこの街に止まってしまおうか、と思ってしまうほどに。
「トキトさん」
太陽の熱い日差しで、頭が火照り、脳が上手く働いていないと見える俺に、後ろからカレンの柔らかな声がした。
「行きましょう」
瑞々しく、それでいて儚い声であった。俺の身体と心を引っ張るような引力というか、魔力を秘めているような魅力的な声。少し考え、俺は皆の待つ馬車に向かって歩き出した。まだまだ旅は続いてもらわなければ困る。次はどんな街に着くのだろうか、と胸を弾ませよう。
「またな、テミシェリィ」
俺の言葉を受け、どこか驚いたような表情を浮かべたテミシェリィは、少し真剣な顔になってこう言った。
「きっと、きっとですよ。わたくし、待っていますから」
「そ、そんなに深く考えなくても……。生きてりゃ、また会えるもんさ」
「ええ、でも何だかトキトさん、危ういんですもの」
会ってそんなに経ってない彼女に言われるとは、そんなにかな、と俺は頬をかいた。
そんな俺の様子をじいっと見ていたテミシェリィは、不意にぐいと顔を近づける。急に彼女の綺麗な顔が迫ってきて慌てる俺の頰に、彼女はそっとキスをした。
「わたくしに戦う勇気を授けてくれた、これはお礼ですわ。お返しは、また会った時に」
頬を抑えて惚けている俺に、彼女は目を細め、悪戯っぽい笑みを浮かべて、頰を紅潮させると、俺に背を向けて走っていった。
「えええええ!トキト、ええっ、ええええええ!?」
一部始終を見ていたリリィが、今のはどうした事かと、叫びながら俺の所へすっとんできた。
「……なんか……アレだな。生きてて、良かったなあ……」
俺はぼうっと呟き、頰をさすった。柔らかな感触が、思考を奪っている。骨抜き?恋?その時の俺は、とにかく不思議な状態だった。
「まったく、それぐらいで……いくら何でも大袈裟じゃない?」
ミカノが呆れたように言った。カレンとアーシエは苦笑いしているし、ユイは興味無さそうに出発の準備をしている。
「いいや、ちっとも大袈裟じゃないね」
しかし、皆の反応なんてどうでもいい事だ。いやあ、生きてて良かった。俺がそんな夢見心地で、テミシェリィの背中に、何度も手を振っていると、早く行くわよ、とミカノに急かされた。そんなあ、もう少し浸らせてくれよ、と俺は切なくなったが、仕方なく馬車に乗り込んだ。
馬車が街を出発してしばらくした後、遠くに小さく見えるテミシェリィ達の街は、どこか賑やかだった。