音楽街-1
そうやって、泥のように深く眠った俺が目を覚ましたのは、何か音によってだった。寝ぼけ眼で辺りを見ると、安いホテルの部屋のような所に俺は居た。部屋にはもう一つベッドがあり、そこで誰か寝ているようだった。おそらくカレンだろう。疲れているだろうから、起こさないようにそっと窓を開けた。
すると聞こえてきたのは、何とも騒々しい音の波だった。楽器だったり、歌だったりと、とにかくまとまりの無い音の大合唱が聞こえてくる。思っていたより音量が大きかったので、カレンを起こしてはいけないと、俺は慌てて窓を閉めた。防音仕様でも施しているのか、窓を閉めると、騒々しい音達はほとんど聞こえなくなった。
予想外な音の大きさに驚いてしまったが、おかげで目がばっちり覚めた。それと同時に、俺はわくわくした。今回の街は、結構活気がありそうだ。とりあえず街中の様子でも見てこようかな、と宿を後にする事にし、カレンに向けて書き置きを残しておく。
この世界の文字は見た事もないようなものだったが、不思議と読めたし、書けた。何故かは知らないし、別に積極的に知りたいとは思わない。使えるものは使う。それだけだ。
宿を飛び出し街に出てみると、そこはまるで祭りやテーマパークのパレードのような、賑やかで楽しげな様子だった。街の景観も、中世ヨーロッパの街並みみたいに美しく整っている。どの人も皆楽しそうだ。
ある人は、コンガのようなものを叩いたり、ある人はフルートのようなものを吹いたり。またある人は、ミュージカルのような芝居掛かった様子で、身振り手振りを交えながら歌って踊っている。全体として音楽の調和がとれているかどうかは……何とも言えないが、街の誰もが、楽器を演奏したり歌を歌ったりする事そのものを、心の底から楽しんでいるようだった。
そんな風にぼけーっと街の人達の様子を見ていると、バイオリンのような弦楽器を弾いていた女性が、あなたも音楽、如何ですか?と話しかけてきた。如何ですかと言われても。演奏するより聴く方が好きなんです、と俺が返すと、女性はそれならばと、ある場所を紹介してくれた。
そこは、バーのような、雑多な音が響く街中とは打って変わって、静かで広い店だった。中央には楽器の置いてあるステージがあった。どうやらあそこで、一日に何度か様々なジャンルの、音楽の演奏が行われているらしい。また、驚いたのは、別に何かドリンクだとか軽食だとかを店で注文しなくても、店に居てもいいし、演奏を聴いてもいい事だ。今現在無一文の俺にとってはありがたい話である。
どうも他の客の話を盗み聞きすると、ステージでもうすぐ演奏が始まるそうなので、俺は空いている席に座って、今か今かと楽しみに待つ事にした。
しかし何も頼まずに店内に居るのは、冷やかしのようで申し訳ない。
そう思っていたのだが、店のマスターのような、キチッとした格好をしており、片目に黒の眼帯をつけた人から、貴方音楽は好きですか、と聞かれたので頷くと、それは何より。この街は音楽好きしか居ない。お客人も音楽が好きなら、どうぞこの店にお好きなだけ居て下さい。ここの音楽はタダだ。演奏する側も、音楽が好きってだけで無報酬で演奏する。だから音楽を聴くだけなら、お金なんて要りませんよと言ってくれた。
ただ、喉が渇いたら注文して下さいね、高い金は取りませんから、と申し訳程度に付け加えたのは、商売上手の為せる技だろう。金があるなら、躊躇うこと無く、この店の美味しそうなサンドイッチだの、ジュースだのを頼んでいたと思う。舌を刺激するような匂いが、カウンターから漂っている。
とにかく、良い街だと思った。街中はとても賑やかではあるが、こういった静かで落ち着いた場所もある。何というか、活気と調和に満ちている。初めの街の、希望も何も無いような、薄暗い雰囲気と、何故こうも違うのだろうか。
気になったので、先程のマスターらしい人(店内に、店員らしき人はこの人しかいないので、おそらくそうだろう)に、辿々しい敬語で、何故この街はこんなに活気に溢れているのでしょうか。前居た街と全然違うので驚きました、と聞くと、彼は少し笑って言った。
「それはお客人、街同士の交流が殆ど無いからでしょうね」
「殆ど無いのですか」
「仇魔が居りますから。お客人、旅をしておられるのですか」
「ええ、一応」
「おそらく、これから行く街行く街、なにせ他との交流が無いものですから、どれもそれぞれ独自の文化があるでしょうね。この街もそうです。何より音楽を優先するし、皆音楽が一番好きです」
マスターはとても親切だった。ビタ一文払っていない俺のような奴にも、実に丁寧に教えてくれた。俺が感謝の言葉を述べると、いえいえ、一緒に音楽を楽しみましょうね、と彼は笑った。成る程、独特である。音楽があれば他への関心事はかなり薄い、といった様子だ。そんなおおらかな人柄というのは、俺にはとても好ましかった。
ふと、前の席に座っている人物に、何か異質な空気を感じた。オーラというか、並の人間とは違う存在感。周囲の温度が急激に冷えていくかの如く、ぴりぴりと肌を刺すような雰囲気。それは以前、炎命者であるカレンなんかに感じたような、そんな異質だった。
その人物が、何のきまぐれか、くるりとこちらを向いた。俺は思わずゾッとした。その人物は、炎のような赤々とした髪の少女だったのだが、氷のように冷ややかで、なおかつ深淵のように底の底まで黒々とした目は、常人のそれでは無い。
何を考えているのかまるで分からないその瞳は、目を見ればその人が分かる、といった吹けば飛ぶような脆い虚偽を、真っ向から否定するかのようなものであり、じいっと見つめ合っていると、何処までも吸い込まれていくような、不思議な引力を持つ、ブラックホールを想起させるような目だった。
彼女の表情も印象的だった。世にはポーカーフェイスというものがある。どんな窮地に陥ったとしても表情を崩さない、というものであるが、しかしその大半は似非である。注意深く観察すれば、汗だとか、落ち着きのない手の動きだとか、目線が泳いでいるだとか、どんなに小さくとも何かしら感情と合致した様子を見つける事が出来るのだが、彼女にはそういったものが全くない。
純粋なまでの無表情である。まるで顔にお面を貼り付けているかのようで、そこに感情を見出す事が全く出来なかった。ただ冷たい目で、じいっと俺を見ている。そこに、俺に対する関心なんかは無い。ただ、見ているだけだ。多分、圧迫面接なんかよりずっと恐ろしい。相手が何を目的としているのかがまるで分からない。人間、未知というものには、どうしたって警戒してしまう。
俺が目を逸らそうにも、彼女の視線を依然として感じる。俺の何がそんなに気になるんだ、勘弁してくれと参っていると、幸運な事にそろそろステージで演奏が始まるらしく、何人かが壇上に上がり、楽器のチューニングなんかをし始めた。それもあってか、彼女は俺を見続けるのを止めてくれたようだ。
彼女の容姿は凄いもの(滅茶苦茶整ってる)だったが、流石に何の感情も込められていない視線を、ずうっと向けられるというのは、精神に良くなかった。此方が覗いてもいないのに、深淵に覗かれているみたいな……
機械みたいで、機械でもない。生きているもの、と認識出来るのに、彼女にはそう、生命の躍動というか、そういったものを感じなかった。彼女に見られると、俺は蛇に睨まれた蛙になってしまう。
まあ、そうだ、初めのうちは恐ろしい、背筋が凍るなどと思ってしまっていたが、もうそれはない。慣れた。慣れればただの感情表現の無い美少女だ。恐れる事はない。
ただ俺の心に現れた、彼女に対する苦手意識は、しばらく無くならないだろうな、とは薄々感じていた。そう、俺は彼女の、あの全てを塗りつぶすような目が、得意になれなかった。今は、ひとまず。