初陣-1
馬車から顔を出し、外を見る。俺はてっきり、仇魔がたむろする拠点というのは、瘴気なんて言葉があるもんだから、何というか禍々しいオーラが視覚化して滲み出ているもんだと思っていたが、周囲にそれらしきものはない。一体全体何処にあるのかと目をこらすが、しかし見当たらない。
「仇魔の拠点、何処にあるか分かるのか?」
「いいえ、ちっとも。まあ、私の力を使えばすぐに見つけられるんだけど、こんな所で使ってられないわよね」
「じゃあどうやって……」
「すぐに分かるって」
リリィがそう言い終わった瞬間、辺りは急に暗幕が降りたような暗闇に包まれ、何かずしりと肩を重石で押さえつけられているような感覚がした。重力の違う見知らぬ星に来たのではないかと思うくらいに、これまでとまるっきり様相が変わった。
「来たわね……!トキト!ここがお待ちかねの、奴らの拠点よ!」
手綱を強く握りしめ、ミカノが声を張り上げた。そう、俺たちは今、仇魔の拠点へと入ったのだろう。
「侵入した事に気付かれたのは間違いない!早くしないとワラワラ敵が来るぞー!急げ急げー!」
どこか楽しげに、リリィは俺を急かす。外からは、けたたましい非常サイレンのような喚き声、鳴き声が聞こえてくるのに、二人とも随分余裕があるように思える。
俺も、こんな場所でモタモタしていられないくらいは良く分かる。高揚していく気持ちを抑えながら素早く馬車から飛び出すと、馬車の外は強い風が吹いていた。熱く、強い風だ。まさに肌がひりつくくらいに熱く、台風のように強い。
遠くから鳥のような、低くガラガラに枯れた、鳴き声の合唱が聞こえてくる。仇魔だろうか。こちらに向かってくるようだ。凄い早さだ。俺はゴクリと唾を飲み込む。
仇魔が来る。それはまるで死が迫ってくるような感覚。猛獣の御住まうオリにぶち込まれたような恐ろしさ。脳みそが痺れる。手が震える。
しかし、俺は笑った。何故かは分からない。ただこんな絶望的な状況を、望ましいとすら思っている。何故かは分からない。ただ俺は、ゆっくり笑って、全身に力を込めた。
『笑っているかよ、少年。こんな状況でよくもまあ…』
頭の中でラティアの声が鳴り響く。それは不思議な感覚で、新鮮だった。鼓膜を介さない声など、経験がないものだから。
『いや、それで良い。それが良い』
ラティアの姿が頭に浮かぶ。多分この声の様子だと、歓喜に身を任せ、くすくすと笑っているのだろう。彼女とのコミュニケーション、どうやってとるんだろうか。分からないので一先ず、神社で願い事をする時のように、どうか俺に力を貸してくれ、と念じてみた。
『わざわざそんな事せんでも、ワシはお前さんの事なら何でも分かる。そうさ、力を貸そう。それもとびきりをな!』
ラティアが弾むような声でそう言った瞬間だった。力が、流れこんで来たのだろうか。手足の指先といった末端まで、煮湯を流し込まれたように熱くなった。
すると先程まで真っ暗闇で、一寸先も見えなかった周囲が、太陽が天高く昇る正午のように明るくなり、ハッキリとその様子が見えるようになった。 炎命者というのは視力や聴力等には頼らないとはラティアの談だ。
オーラのような、淡い光が俺を包んでいる。筋肉も、今までとは比べものにならないほどに、美しく膨張している。力がみなぎっている、というやつだろうか。
そして驚く。遠くない距離から、翼の生えた仇魔が襲ってきているではないか。いやしかし、猛然と苛烈に襲ってきているようには見えない。口を開き、鋭い牙を見せてはいるが、その動きは実にゆったりとしていて、鈍重だ。
『見えるか、少年?これが力あるものの世界。奴が遅くなったのではない。お前さんが速くなったのじゃ。それも、ほんの少しだけ。ワシの力はお前さんの力。上手く使いこなせよ』
さも楽しそうな声のラティア。いや、俺もそうだ。初めは、震えた。なんだこの凄まじい力は、恐ろしいと思った。
しかし次の瞬間には、震えは、恐怖というより喜びから来るものに変わっていた。知らずのうちに、笑っていた。非力な自分が、神にでもなった気分だった。いや、今まさに、神のような力を行使している。それが堪らなかった。
『せっかく強大な力を手に入れたのに、心から喜ばんのな。歓喜してはいるが、お前さんの心の奥底は実に静かじゃ。気味が悪いくらいに平静ではないか』
ラティアの言葉に、俺は困惑した。俺は今喜んでいる。それもすこぶる。しかしどうだ、その実はまるで氷が張り詰めたように落ち着いているという。なんだか矛盾しているように感じ、戸惑った。
『いやいや、気にするな。お前さんは可愛い奴よ、という事じゃ。慢心せず冷静で、しかし素直に喜ぶ事も出来る。そうでなくてはな。
……さあ、早く目の前の敵を殺めたらどうじゃ?今のお前さんは炎命者。これから先、数多の仇魔を殺すのじゃ。これが、最初。初めが肝心、殺すならしっかりとな』
恐ろしい事をアッサリと言うもんだ。しかし、確かに。炎命者になり、カレン達の旅に同行したという事は、人類に敵対する仇魔を倒し、殺すという事だ。生半可な気持ちで炎命者になったわけではないと自負している。当然、それくらいの覚悟は出来ている。そう、この程度の覚悟は……
ノロノロと、まるで止まっているような速度で此方に接近してくる仇魔に、歩いて近づき、そしてまるで邪魔な虫をはらうように、裏拳を一発。それだけだった。
俺の拳には、何かベトリとしたもの(仇魔の血だろう)が付着し、殴られた仇魔は、地面に力無く倒れている。その仇魔には、生命を感じなかった。仇魔は、俺の軽く振るった裏拳一撃で、前に見たような猛獣のような力強さを感じる事なく、あっさりと絶命した。
殺した。仇魔を、殺した。本来取り乱して然るべき事だろう。良心の呵責に苦しむべきだろう。だが俺は、自分でも驚くほどに平然としていた。蚊取り線香で死んだ蚊を見たような、当たり前の事柄を見る時の、平静とした気持ちだった。